サプライズ


[23]


 藍田は煙草が嫌いだ。
 喫煙する部下もいるので公言したことはないが、それでも態度でわかるらしく、藍田の部下たちは煙草を吸いに行くとき、なんとなくうかがうようにこちらを見る。ただ、そういうふうに気をつかってくれるのはありがたい。
 しかし、一歩自分のオフィスを出てしまうと、かえって藍田のほうが、煙草を吸う人間に気をつかう。自分が嫌煙家だと知られないよう、たとえ側で煙草を吸われようが、表情に出ないよう細心の注意を払っているのだ。
 そんな藍田なので、当然煙草の匂いにも敏感に反応する。自分のスーツに煙草の匂いが移るなど、避けたいことの最たるものだ。
 そのはずなのに――。
 パソコンの電源を切った藍田は、落ち着かない気分でスーツの袖口を鼻先に持っていく。まだ、自分の全身から大橋の煙草の匂いがしているような気がした。
 錯覚なのかもしれないし、本当に染み付いてしまったのかもしれない。
 あんなことをしてしまったのだから。
 藍田は、無意識にてのひらで首筋を撫でていた。
 押し当てられ、這わされた大橋の唇の感触がまだはっきりと残っていた。この感触を思い返すたびに、身震いしたくなるような疼きが背筋を駆け抜け、藍田を苦しめる。
 激怒した藍田が、凄まじい勢いで新機能事業室を飛び出し、オフィス企画部へと突っ込んでいった、という噂はあっという間にあちこちに広まったらしい。
 様子うかがいのように、大した用もないのにオフィスにやってくる社員がいたが、藍田が鋭い視線を向けると、慌てて戻っていった。
 別に動揺していないわけではなく、普段通りでいようと意識すればするほど、藍田の場合は冷ややかさが増してしまうのだ。
 周囲の人間は、どれだけ藍田の機嫌が悪いのかと怯えているようだが、当の藍田自身は、もう怒ってはいない。
 ただ、気持ちが揺れ続けているのだ。耳元で囁かれた大橋の言葉は、それだけの威力は十分にあった。
 大橋の言葉は強烈だった。強烈な甘さを伴い、藍田の胸を貫いたのだ。
 大橋を信じてはいけないという気持ちがある反面、心強く感じてしまう抑えきれない気持ちもある。
 ただはっきりしているのは、やはり大橋は危険な存在だということだ。このまま関わりを持ち続けていれば、否が応でも藍田という人間を変えてしまうだろう。現に今の藍田は、少し前までの藍田ではなくなりつつある。
 結論の出ないことを考え続けながら、それでも表面上は淡々と仕事をこなしていく。
 ちらちらと部下たちが控えめな視線を向けてくる中、堤だけは、まっすぐ藍田を見つめてくる。
 大橋と資料倉庫で何があったのか見透かされそうで、藍田のほうから視線を逸らしていた。堤には、大橋のせいで揺れる気持ちを巧みに受け止めて、そのまま搦め捕られてしまいそうな怖さがある。
 堤もまた、藍田を変えていく原因の一つだといえた。
 小さく身震いしてから、藍田は短く息を吐き出す。とっくに、仕事を続ける気分ではなくなっていた。
 おかげで、いつもより早めに会社を出ることも即決できた。
 あえて堤を視界から除いて、まだ半数以上の部下が残っているオフィスを見回してから、帰り支度を整える。
 部下たちに声をかけてから、慌ただしくホワイトボードの札を裏返してオフィスを出る。足早にエレベーターホールに向かった藍田だが、誘われるように窓に歩み寄って外を見ていた。
 正確には、大橋がいるオフィス企画部がある方向を。
 外はすでに暗いが、向かいに見えるフロアはどこもまだ電気がついていた。ただ、この位置からオフィス企画部はまったく見えない。
 それでも少しの間、その場に佇んで動けなかった。外を見つめながら、今日、自分の身に起こった出来事を無意識になぞっていたのだ。
 ガラスに反射して映る藍田自身の目が、まっすぐこちらを見ていた。自分の目に、恥ずべき行為の記憶を読まれた気がして、慌てて回想を断ち切る。
 反射的に振り返ると、いつの間にか、エレベーターを待っていた社員たちの姿はなくなっていた。
 どれだけ集中していたのかと、急に気恥ずかしさに襲われた藍田は、すぐにボタンを押し、さほど待つことなくやってきたエレベーターに逃げるように乗り込んだ。
 地下駐車場まで降り、自分の車に乗り込む。いつもは帰りに、行きつけの店のどこかで夕食を済ませるのだが、今日は一刻も早く一人になりたかった。
 今日、大橋との間で交わされた会話や行為を、分析する必要がある。そうしないと、大橋に流されて、自分は誤った方向へ進んでいるのではないかと不安になってくるのだ。
 流されるということは、藍田の中に、大橋に心を許している部分があることだ。
 いや、もっと積極的な意味で――求めているのかもしれない。
 ここまで考えると、唐突に藍田はうろたえ、こんな姿を誰かに見られているかもしれないと、落ち着かなくなる。だから、早く一人になる必要があるのだ。
 藍田は姿勢を正すと、ようやく車のエンジンをかける。
 スピードを落として地下駐車場から地上へと出ると、警備員の誘導に従って道路に出ようとする。この瞬間、こちらに向かって駆け寄ってくる人影を視界の隅に捉えていた。
 半ば反射的にブレーキを踏んで目を凝らし、人影が誰なのか確認する。
 藍田は逡巡した挙げ句、ウィンドーを下ろしていた。
「――……どうしたんだ」
 そう問いかけた藍田の声は、自分でもわかるほど硬かった。
 一方、息を弾ませながら駆け寄ってきた堤は、真剣な表情でただ藍田を見つめてくる。
 もう一度問いかけようとしたが、背後からやってくる車に気づく。のんびり話している暇はなく、思わず堤に向けてこう言っていた。
「早く乗れ」
 堤の反応は素早く、あっという間に助手席側に回り込んできて、藍田がロックを外すとすぐに乗り込んできた。会話を交わす間もなく車を出す。
「追いかけて、きたのか……?」
 車の渋滞の列に加わったところで、やっと藍田は口を開く。シートベルトを締めた堤は当然のことように頷いた。
「どうしてだ。用があるなら、オフィスで言えばよかっただろう」
「仕事の用なら、もちろんそうしていました」
「だったら――」
「権利の行使です」
 本気で言っているのかふざけているのか、そう言って堤が口元に笑みを浮かべる。ただ、藍田にはその一言で十分だった。
 堤はやはり、今日、藍田と大橋の姿が見えなくなったわずかな間に何があったのか、薄々感じ取っているのだ。
 いまさらながら、先日堤から示された要求がいかにとんでもなかったか、痛感できる。
 堤は、与えてほしいと言った。藍田が大橋に行った行為を、自分も受ける権利を。大橋が藍田に行った行為を、自分も行える権利を。
 誰も知らない藍田と大橋とのやり取りを、堤は知りたがっているのだ。しかも、言葉ではなく、行動によって。
「……この近くで車を停めてやる。電車通勤だろう――」
「揺れる気持ちを抱えたままで、不安じゃないですか?」
 堤のドキリとするような鋭い発言に、藍田はハンドルを強く握り締める。たったこれだけの言葉で動揺していた。
「何が、言いたい……」
「今日、何があってあなたがオフィスを飛び出したのか、その理由は聞きません。仕事で必要なことなら、あなたは絶対教えてくれるでしょうから。ただ、大橋さんの元に行ったあと、二人とも姿が見えなくなりました。新機能事業室とオフィス企画部はけっこうな騒ぎになったんですよ。藍田さんと大橋さんが、掴み合いのケンカでもしているんじゃないか、と」
 前を見据えたまま藍田は、自分の顔が強張っていくのがわかった。すぐに車道脇に車を停めて堤を降ろすつもりだったが、堤の話に呑まれたようになり、ただ機械的に車を走らせることしかできない。
「――また、大橋さんと何かあったんですね」
「うるさいっ」
 声を荒らげた藍田だが、堤はこんなことでは怯まない。それどころか、きっぱりとした口調で言い切った。
「俺は、藍田さんが変わっていくのを見ているのはかまいません。だけど、あの人の……、大橋さんのせいで変わっていく藍田さんを見るのは、嫌なんです」
 堤の話を聞いてはいけないと心に念じ続けていたが、その言葉を聞いて藍田の気は変わった。堤は聡い。それだけでなく、藍田自身がわかりかねている藍田の心理を、おそらく理解している。
「……お前は、わたしのバリアーになるんだろう。部下あること以上に、そんな責務を果たす必要もないくせに。そのうえどうして、『わたし』の事情に深入りしようとする」
 本当は、『わたしと大橋さん』と言いたかったが、さすがにそれははばかられた。どんどん特殊性を増していく大橋との関係を、堤に知られたくなかったのだ。大橋と抱き合ったことをすでに知られていながらいまさら、とも思うが。
「俺、藍田さんを尊敬しているんです。相手が誰であろうが引かない姿勢とか、冷たそうに見えて、実は部下のフォローがうまいところや、感情をコントロールして、他人に理不尽なことを求めない理性的なところも。そういう、藍田さんの理想的な上司としての姿を記憶に留めて、会社を辞めたかったんです」
「今は違う、か?」
「今は、歯がゆいです。大橋さんに振り回されている藍田さんを見ていると。これまでの藍田さんは、誰かに振り回されることも、気持ちが揺れることもなかったはずです。なのに、大橋さんのエゴイストぶりが、俺が尊敬するあなたを変えていく」
 エゴイストという単語が、藍田の頭の中ではすぐに大橋とは結びつかなかった。ホテルに宿泊したとき、大橋自身が同じようなニュアンスのことを言ってはいたが、あれは自嘲が過ぎたゆえの言葉だと思っている。
 強引ではあるが、同じだけ他人に親身になっている男が大橋だ。それが過ぎてお節介になるのだ。
「……あの人、エゴイストか? 多少強引なところはあると思うが……」
「大橋さんと真正面から向き合っている今の藍田さんには、わからないかもしれません。振り回されている、と言っていいのかもしれませんが。藍田さん、人間関係には耐性がなさそうに見えるし。とにかく俺から見たら、大橋さんはエゴイストですよ。でも悔しいけど、そういうアクの強さを持っている人は――とても魅力的に見えるというのも、わかるんです」
 最後の言葉は、藍田に対するあてつけなのかもしれない。年下の、しかも部下である男にここまで率直に言われ、本来は気を悪くしていいだろう。
 しかし藍田は、不思議な感覚に陥っていた。
 大橋という嵐に巻き込まれて、わけがわからないうちに抱き合い、侵食するように日常に入り込んでくる存在に心を許しかけながら、藍田は大橋のことどころか、実は自分自身の気持ちすら量りかねている。
 正確には、大橋と関わり続ける自分の気持ちが。
 だからこそ堤と話していると、少しだけ客観的になれる。自分の気持ちにも、大橋の存在に対しても。
 反面、今度は堤という存在に惑わされそうになる。
「大橋さんと『何か』あることは、藍田さんの得にはなりません。会社での立場以上に、きっと藍田さん自身にとって。これまでの怜悧なあなたなら、そんなことは簡単に判断ができたでしょうが、すでに大橋さんのペースに巻き込まれている今のあなたは違う」
 否定はできなかった。大橋の両腕の中に閉じ込められると、藍田は強く拒否できない。柔らかく抵抗しながら、それ以上の強さで大橋の抱擁が返ってくることを、心の底では望んでしまう。
 望めば、大橋が応えてくれることを、知ってしまったのだ。
 これは弱さだろうかと、藍田は考える。
 大橋は、自分を弱くする存在なのだろうか――。
「そこのデパートの前で停めてください」
 突然、いつもの少し生意気な口調で堤に言われ、我に返った藍田は眉をひそめる。
「えっ?」
「そこから電車に乗るんで」
 堤が指さした先には、確かにデパートがある。デパートの地下から駅に通じているので、堤はそのことを言っているのだ。
 デパートが近づくにつれ、車の混雑がさらにひどくなってくる。信号待ちで車を停めると、いきなり堤がシートベルトを外そうとする。
「ここでいいです。すぐそこですし」
 足元に置いたブリーフケースを取り上げ、車のドアを開けかけた堤のジャケットの裾を、咄嗟に藍田は掴んでいた。
 自分で自分の行動に驚いたが、振り返った堤は表情すら変えていなかった。もしかすると、賭けに勝ったという満足げな表情をしていたかもしれないが、車のライトに照らされて濃い陰影のついた顔からそれを判断するのは難しい。
 藍田は頭に浮かんだ一つの疑問を、堤にぶつけた。
「――お前は本当は、わたしの何になりたいんだ」
 バリアーになると、かつて堤は藍田に言った。今やそのバリアーの役割は、大橋が負っているといってもいい。それでも堤は藍田に存在を主張し、比例するように、藍田の中で堤の存在感は増していくばかりだ。
 本来藍田は、必要以上に部下と関わりを持ったりしない。これまでなら、いくら駆け寄ってくるところを見かけたからといっても、自分の車に乗せたりはしなかった。
 裾を掴んだ藍田の手を、堤が握ってくる。ひんやりしているというイメージがある堤の手だが、今は十分熱かった。冷静に話しているようで、この男なりに感情の高ぶりがあったのだろうかと思うと、心がざわめくのを感じる。
 痛いほどきつく藍田の手を握りながら、堤は真剣な表情で言った。
「なんにでも」
「なんにでも……?」
「ええ。藍田さんが望むものに、俺はなりますよ。……でも藍田さんは気づいているんじゃないんですか。俺に相応しい役割は何か」
 勘が鋭すぎる部下は持つものじゃないと思いながら、藍田は軽くあごをしゃくる。
「……シートベルトを締めろ。家まで送っていく」
 堤は素直に従い、シートベルトを締め直す。
 デパートの前を通り過ぎて少し走ると、渋滞がやや緩和した。
 静かなエンジン音だけが車中に響く。車を走らせるとき、音楽やラジオを流す習慣がない藍田は、ようやく二人きりの車中に沈黙でいることに息苦しさを感じた。
 余計なことは言わない性質だが、このときだけは口を開かずにはいられなかった。
「さっきのお前の問いかけだが――……」
「俺の役割、ですか」
「お前にはわかっているのか?」
「ずるいですね。俺の口から言わせるんですか」
 冗談めいた堤の言葉に、かえって藍田は覚悟は決まった。
 完全に渋滞から抜け出し、アクセルを踏み込みながら、囁くように告げた。
「――歯止めだ。わたしが、大橋さんに深入りしないための」
 合理的ではないし、理論的でもない。いつもの藍田なら、こんな意見は検討にすら値しないと却下するだろう。だがこれは、仕事に関することではない。
 藍田は、他人と関わることにはとことん不器用で、これまで頓着すらしてこなかった。
いままで、さほど不利益も感じてこなかったのだ。
 それが――三十歳も過ぎて、感情の嵐の中に放り込まれると、何をどうすればいいのかわからない。
「……大橋さんといい、お前といい、どうしてそう、わたしに関わりたがるんだ」
 思わず苦々しい口調で洩らした藍田だが、助手席で堤が小さく噴き出す声を聞いて、慌てて言い繕う。
「自意識過剰だと、自分でも思っているんだから、笑うな」
「違いますよ。むしろ藍田さんの場合、鈍いぐらいだと思います。上司であるあなたに対して、失礼なことを言っていると自覚はありますが、自分自身に対して無頓着すぎるというか。そういうところが――」
 危うい、と洩らした堤の強い視線を、横顔に感じる。どんな表情をしているのか、ちらりとでも確認することはできたが、藍田はただ前を見据え続ける。
 堤と目が合った途端、運転に集中できなくなるのは、たった今、堤に鈍いと言われた藍田にも予期できる。
 急に短く笑い声を洩らした堤が、どういう意味かポツリと呟いた。
「本当に、たまらなくなる……」









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