サプライズ


[25]


 複雑な想いを抱えながら一階のロビーに行くと、大橋は大きな窓の前に立っていた。その姿を認めた藍田は、不快さに眉をひそめる。
 大橋は、これから昼食に出かけるらしい女性社員数人に囲まれていた。どこにいても、女が放っておかない男だ。
 このまま黙って立ち去ってしまおうかと思ったが、目ざとい大橋に気づかれ、女性社員に短く言葉をかけてから大股でこちらに歩み寄ってくる。
「そう、呆れた目で見るなよ」
 歩き出してすぐ、開口一番に大橋に言われる。
「……なんのことだ」
「女の子たちに囲まれている俺を、そんな目で見ていただろう。俺は、気さくな上司が売りだから、彼女たちも声をかけてきやすいんだ」
「別にどうでもいい」
 大橋は短く声を洩らして笑うだけだった。藍田がなんと答えるか、すべてお見通し、という態度が少しばかり腹が立つが、問い詰めるほどでもない。
「それで、どこに食べに行くんだ。あまり遠くまでは――」
 言葉の途中で携帯電話が鳴る。藍田は軽くため息をついて携帯電話を取り出し、表示された相手の名を確認したところで、もう一度ため息をつく。無意識に大橋の視界から隠すようにして、携帯電話の電源を切っていた。
「――堤か」
 ヒヤリとするような声をかけられ、藍田は驚く。一瞬、誰の声なのかわからなかったが、顔を上げると、大橋が怒ったような顔でこちらを見ていた。だが次の瞬間には、苦笑しながら言われた。
「あいつは相当、お前に対して過保護だな」
「……堤も、あんたにだけは言われたくないと思っているかもな」
「反省しろよ、藍田。お前が仕事以外で、あまりに危なっかしいから、先輩や部下が世話を焼くことになるんだ」
 頼んでないだろう、と普段の藍田なら返すところだが、今はそれよりも気になることがあった。
 ビルを出ると、藍田は隣を歩く大橋の横顔をうかがう。
 いつもと変わらない、能天気そうに見えて、実はかなり食えない男の顔だ。なのに、何かが違って見える。気が立っているというのだろうか。荒々しくはないが、少し険しい印象を受ける。
 藍田は思わず問いかけていた。
「大橋さん、何かあったのか?」
 大橋が大仰に目を見開いてから、藍田を見る。
「どうしてだ」
「……気が立っているように見える。いつもヘラヘラしているあんたらしくない感じだ。宮園さんに厳しいことを言われたのか?」
 こんなことを問いかける自分もまた、らしくない。
 いつからこんなふうにペースを乱されているのだろうかと、もどかしさを感じながら藍田は落ち着きなく髪を撫でる。
「あの人には、いろいろと知らせてもらって感謝しているが、わたしから何か報告したことがまだないんだ。情報の取捨選択が難しいというか、プロジェクトのことで、どこまで管理室が介入したがっているか、判断がつかないというか……」
 言葉を選びながら話す藍田を、大橋がまじまじと見つめてくる。見つめられて気恥ずかしいという年でもないのだが、やはり居心地が悪い。
 もしかしてバカにされているのだろうかと、藍田がきつい眼差しを向けた途端、大橋は我に返ったように表情を和らげた。
 藍田には、大橋の表情の変化の意味がさっぱりわからない。
「……本当に、何かあったのか? 宮園さんに厳しいことでも言われたんじゃないか」
「気にするな。あの人は、単にお前と話したいだけだ。俺が、お前を管理室に行かせたがらないとでも思っているのかもな」
「なぜ?」
 率直な藍田の問いかけに、大橋は微妙に視線をさまよわせた。案外宮園と一緒になって、その場にいない藍田のことを好き勝手に言っているのかもしれない。
「――宮園さんは、こちらが隠したいこともすべて見透かされそうで、少し怖い」
 思わずぽつりと洩らすと、大橋は大きく頷いた。
「まったくだ」
 ここで二人は顔を見合わせる。互いに、『隠したいこと』の一つを共有していることに思い当たったのだ。言葉に出さなくても、大橋の顔を見ればわかるし、おそらく藍田も、表情に出してしまったはずだ。
 気まずい沈黙が二人の間に流れる。
 ふと、涼しい風が吹いて藍田の髪を撫でていく。ここのところすっかり秋めいて、日中でも涼しくなった。
 乱れた髪を押さえていて、何げなく隣を見ると、大橋が歩きながら空を見上げていた。向けられている横顔につい見入りそうになったが、藍田は強引に引き離した視線を足元に落とす。
「ずいぶん空が高くなったと思わないか?」
 大橋の言葉にも、素っ気なく応じる。
「秋だからな」
「情緒がないな、藍田副室長」
「……嫌味のように肩書きをつけるな。大橋部長補佐。――それより、どこまで食べに行くんだ。あまり歩くようなら、わたしは引き返すぞ」
「せっかちな奴だな。安心しろ。少し歩く程度だ」
 そう言った大橋について十分ほど歩き、入ったのはあるビルだった。このビルの地下一階に飲食店が並んでいるのは知っているが、大橋が案内してくれたのは、開店したばかりだという店だ。
 さほど待つことなく案内されたのは個室で、ドキリとした藍田は周囲を見回したが、すかさず大橋に言われた。
「カウンターや座敷もあるが、そこで込み入った話をするか? 俺はかまわんが」
 大橋は、藍田を見ようとしない。その態度から、大橋が話したいのは仕事のことなどではなく、ごく個人的なことなのだと察した。ただ、藍田も話がないわけではない。これまで二人の間にあったことについて、大橋から切り出してくれるなら、ある意味、気が楽なのかもしれない。
 代償として、とてつもない羞恥を味わうことになるだろうが。
 入った個室はそう広くはないので、向き合った大橋との距離が違い。藍田はメニューを広げながら、大橋の視線を避ける。
「ここは、鉄板焼きがメインだ。ランチで、肉か魚のどちらを焼くか選べる」
 テーブルに身を乗り出してきた大橋がメニューを指さしたので、藍田は魚介のランチを頼むことにする。一方の大橋は肉のランチに、単品で海老のチリソースを追加した。
「――俺たちの年齢で独り身だと、食い物の店にだけは詳しくなるな」
 二人きりとなったところで大橋がそんなことを言い、藍田は首を傾げる。
「そうなのか?」
「お前は自炊派か」
「わたしは……ほとんど決まった店で食べているだけだ」
 大橋の自宅の様子を知っているが、確かに自炊をしているようには見えなかった。藍田の部屋はあれよりはきれいだが、やはり自炊はしない。料理ができるできない以前に、仕事で遅くに帰ってくると、食事で手間と時間を取られるのが煩わしい。
 会話がもたず、沈黙が痛い。両隣の個室から、人の声らしきものは微かに聞こえてくるのだが、かえって自分たちの沈黙が際立つようで、なんだか居たたまれなくなるのだ。
 それに、大橋の眼差しも――。
 無遠慮といえるほど、大橋はまっすぐな眼差しを藍田に向けてくる。おかげで藍田は、『同僚』と食事をするだけだというのに、異常な緊張を強いられていた。
「あっ」
 突然思い出したことがあり、藍田は小さく声を洩らす。
「どうした?」
「あんたからの報告書を読んだ。あんな大事なものを、社内メールのボックスに突っ込んでおくのはどうかと思うが」
「いかにも大事そうに抱えて持っていったら、かえって不審がられるかと思ってな」
 報告書とは、東京支社で処理に奔走したトラブルのことだ。大橋からは、今言ったように早々に報告書が送られてきたのだが、藍田はまだ何も報告していない。
 忙しかった、というのは理由にもならない。二人が、互いに処理したトラブルを報告し合うという結論に至った資料倉庫でのやり取りを思い出すと、いまだに藍田は冷静ではいられなくなるのだ。
 同時に、その後の堤とのやり取りすら思い出し、罪悪感に苛まれる。
 その罪悪感が、大橋に対するものか、堤に対するものか、藍田自身、よくわからない。
「藍田?」
 急にぼんやりとした藍田を心配するように、大橋に呼ばれる。我に返った藍田は、大橋の目を見ることができず、視線を伏せたまま手帳を取り出した。
「……あんたが報告書をくれたのに、わたしが何もしないわけにはいかないからな」
「口で言えよ」
「書いたものを渡さないと、あんたの報告書と釣り合いが取れない。それに今はあくまで、一緒に昼食をとっているだけだ。あとで密談していたとか言われるのは嫌だからな」
 くだらないと言われようが、建前を取り繕うのは大事なのだ。今は、どんなことで揚げ足を取られるかわからない。
 手帳のページを破り取り、要点を書き出していく。大橋が手元を覗き込んでいるのを感じたが、作業に集中している間は、少なくとも会話がないことに不自然さを覚えることはなかった。
「走り書きだっていうのに、きれいな字だな」
 ぽつりと大橋が洩らした言葉に、反射的に藍田は顔を上げる。一方の大橋も顔を上げてから、数秒の間を置いて、うろたえたように視線をさまよわせた。
「いやっ……、神経質なお前らしい字だと思ってな」
「悪かったな。神経質で」
 そう答えた藍田の顔は、知らず知らずのうちに熱くなってくる。いい歳をした男同士、どんな会話を交わしているのだという気はするが、間をもたせるには、こんなことでも話していないとやっていられない。
 一応、大橋のそんな気持ちは理解しているつもりだ。
 もっとも、当の大橋からはこんなぼやきが聞こえてきた。
「――……俺たちは、何をしてるんだ……」
「わたしを仲間に入れるな」
「俺はけっこう、お前の観察は得意だぞ」
 いつだったか堤にも言われた言葉に重なり、ドキリとした藍田は持っていたボールペンを座卓の上に落とす。腰を浮かせて身を乗り出した大橋がそのボールペンを取り上げ、差し出してきた。
「お前が緊張していることぐらい、鈍い俺でもさすがにわかる。俺との間がもたないと感じているんだろう」
 藍田のすべてをわかったように言う大橋が気に食わなかった。その大橋が何を考えているか、いまだ藍田は理解できないというのに。
 妙な不公平さを感じながら大橋の手からボールペンを奪い取ると、藍田は乱暴な字で用件を書き留めたメモを大橋に突き出す。苦笑しながら大橋は受け取った。
「落とすなよ。読んで頭に叩き込んだら、シュレッダーにでもかけて処分してくれ。それと、いまさらあんたに念を押し必要もないのだろうが、他言無用だ」
「はいはい」
 気軽な調子で返事をした大橋だが、メモに目を通す表情は真剣だ。そこに注文したものが運ばれてきても、大橋の意識はメモに向いたままだった。
「――最近、東京支社の技術開発部がやけに俺の動向を気にかけているようなんだが、これが何か関係しているのか?」
 伸ばした片手で危なっかしく割り箸を取ろうとしながら、大橋に問われる。空をさまよう手の動きにイライラして、たまらず藍田は割り箸を取り上げ、割って渡してやる。
「事業部の統廃合の件で、東京支社のことをよくわかっているあんたに相談に乗ってもらいたがっているようだ。温情を期待しているんだろう」
「わかっているからこそ、情け容赦ないことができるとは考えないんだろうなあ」
「大橋部長補佐には、わたしと違って人情を解する心があると思われているじゃないか」
「俺は怖い人間だぜ? 保身のためには、なんでも切り捨てる」
 悪ぶったことを言う男の表情はしかし、どこか悪ガキめいており、憎めない。藍田は自分の割り箸を割りながら、ため息交じりに洩らした。
「ウソを言え。そんな人間が、なぜわたしなんかに関わりたがる。しかも、今以上に風当たりが強くなるのが目に見えているのに……プロジェクトを合同にするなんて言い出したりして。世間では、あんたの行動は『バカ』と言うんだ」
「手厳しいな、藍田副室長」
「……忠告だ、大橋部長補佐」
 藍田としては真剣な気持ちで言ったのだが、失礼なことに大橋は、ふっと口元に笑みを浮かべた。その優しい表情を目にして、藍田はドキリとしてしまう。
 自覚がないまま動揺していたらしく、目の前に並んだ料理から注意が逸れる。その拍子に、ランチとして運ばれてきた鉄板に左手の人さし指の先が触れていた。
「熱っ」
 小さく声を洩らした藍田は、思わず自分の指を見る。火傷するほどではなかったらしく、人さし指の先がわずかに赤くなっているぐらいだった。
 いつになく落ち着きをなくしている自分に密かに恥じ入っていると、そんな藍田の心中を知るはずもなく、大橋が声をかけてきた。
「おい、大丈夫か」
「……平気だ」
「お前、見た目によらずけっこうドジっ子だよな」
 初めて耳にした言葉に、顔を上げた藍田は顔をしかめる。
「なんだその、浮ついた言葉は」
「俺の部下が言ってたから、使ってみた」
「九官鳥じゃないんだから、言われた言葉を覚えればいいというもんじゃないだろう」
 九官鳥という単語に反応したのか、大橋は一瞬奇妙な顔をしたが、ハッと我に返った様子で手を突き出してきた。
「あー、なんでもいいから見せてみろ」
「大したことにはなってない。大げさなんだ」
「いいからっ――」
 テーブルに身を乗り出してきた大橋に半ば強引に左手首を掴まれ引き寄せられる。藍田は思わず視線を伏せていた。
「だから……なんでもないと言っているだろう。少しは人の話を聞いたらどうだ」
「わからんぞ。時間が経ってから水ぶくれになるかもしれん」
 だからといって、大橋が見たところでどうにかなるものではない。
 ただ、そんなことは、大橋本人もわかっているのだろう。藍田の手首を掴んだまま大橋は座布団の上に座り直し、おもむろにもう片方の手で指を握ってきた。咄嗟に藍田は手を引こうとしたが、しっかり手首を掴まれているため動けない。
「大橋さんっ……」
「ここまでくると、条件反射付けされた犬だよな。お前と二人きりになったら、触れずにはいられない。俺はいつから、こんなにおかしくなった? 少なくとも、お前と関わる以前は、男の手を握ろうなんて考えたこともなかった」
 カッとした藍田は、掴まれていないほうの手で、大橋の手を押し退けようとしたが、反対にその手まで取られてしまった。大橋は声を洩らして笑う。
「――……鈍いな、お前……」
「うるさいっ」
 右手は解放されたが、鉄板に触れたほうの左手は握られたままだ。座卓を挟んで何をしているのだろうかと思いつつも、大橋の言葉ではないが、やはり条件反射付けされたように、藍田は抗えなくなっていた。
 だから、嫌なのだ――。
 大橋と二人きりになると、男同士でありながらこうして触れられるという異常な状況と行為を、受け入れてしまう。
 食事どころではなかった。藍田は取られた手をじっと見つめる。大橋の熱い手にしっかりと指を握られているせいか、鉄板に触れた指先が疼いていた。
「少し、赤くなっているか……」
「言っただろう。大したことにはなってないと」
 そう言ったきり会話がもたず、両隣からときおり聞こえてくる会話が沈黙に割り込んでくる。そんなに大きな声は出していなかったつもりだが、自分たちの会話も聞かれているのではないかと思うと、藍田は気が気でない。
 何より、店員が個室に入ってくるではないかと心配だった。
 昼間から、スーツ姿の男二人が座卓を挟んで手を取り合っているのだ。どう考えても、ただならぬ関係だと思われるだろう。
「……大橋さん、もういいだろう」
「――堤と何かあったのか?」
 大橋からの攻撃は唐突で、的確だった。激しく動揺した藍田は目を見開き、大橋に視線を向ける。本当は手を引こうとしたのだが、痛いほど指を握られているため、それはできなかった。
「あったんだな」
「あんたには、関係ない……」
 言葉とは裏腹に、藍田は視線を伏せてしまう。まともに大橋の強い眼差しを受け止められなかったのだ。
「何があった? いや……、何を、された?」
 藍田と堤の関係が只事ではないと、大橋は薄々とながら感じている口ぶりだった。
 咄嗟に脳裏を過るのは、堤の部屋の玄関での出来事だ。思わず藍田は、弱音にも似た言葉を洩らしていた。
「……あんたの、せいだ……」
 この言葉の意味を、大橋は瞬く間に理解したようだった。いや、理解以上に、思考が暴走したといえるかもしれない。
 怖い顔つきで、藍田をこう問い詰めてきたのだ。
「――俺がした行為以上のことを、堤にされたのか?」
「な、に、言って……」
 射抜かれそうなほど鋭い視線を向けられ、大橋が本気で知りたがってるのだとわかる。途端に藍田を襲ったのは、逃げ出したくなるような羞恥だった。実際そうしたかったが、骨が折れそうなほどきつく指を握られているため、それができない。
 どんな状況でも冷静なのが藍田の売りだったが、それも大橋の前では跡形もない。まるで初心な少女のように――そんな陳腐な表現が浮かぶほどに、感情の揺れが大きくなる。
「指が……痛いんだ」
 ようやくの思いで絞り出せた言葉は、こんなものだった。大橋は眼差しを緩めないまま、わずかに手の力を緩める。
 指先の疼きが強くなり、その疼きに呼応したように全身が熱くなっていた。
「……放してやるから、言えよ」
「何様だ、あんた。なんの権利があって、わたしにそんなこと言うんだ」
「言えっ」
 鋭く低い一言に、藍田はビクリと体を震わせてから、掴まれている手を見つめる。
 大橋と深入りしたくないために、自らに歯止めをかけようと堤を利用することにしたはずだ。なのに現実は、こうして大橋とまた二人きりになり、手を掴まれていた。
 何かが起こるとわかっていながら、大橋の誘いに乗ったのだ。
 深入りしたくないというのは表面上の理由なのではないかと、藍田は戸惑いながら自分の本心に向き合い始めていた。
 大橋と深入りしたくないと思いながらも、誘われて二人きりとなり、現実にはこんな状況になっている。それに、堤を利用するという悪辣な手段を取りながら、そのくせ堤の腕の中で思い返して浸るのは、大橋から与えられた感触だ。
 堤は、バリアーでも鏡でもなく、実は大橋の身代わりという役割を押し付けられたのかもしれない。押し付けたのは、他でもない、藍田自身だ。
 深入りしたくないという建前で、実は藍田は、自ら大橋に深入りしているのだ。
「藍田」
 叱責するように大橋に呼ばれ、視線を伏せたまま藍田は口を開いた。そうでないと、いつまでも大橋は手を放してくれないだろう。そう感じるだけの意志の強さが、手から伝わってくる。
「……大したことは、されてない……。ふざけて、指先に唇を当てられただけだ」
「どういう状況で、そんなことになるんだ」
「関係ないだろうっ。……堤がふざけていただけで、大したことじゃない――」
 感情的に怒鳴ったはずが、最後は言い訳がましなる。そんな自分に腹立たしさを覚えると、すかさず大橋から凄みを帯びた眼差しを向けられた。
「本当に?」
 藍田は唇を引き結び、顔を背ける。さすがに、指先を舐められ、挙げ句に濡れた指先を自分の唇に押し当てられたとは、口が裂けても言えない。どう言えばいいのかすら、わからない。
 ただ、大橋から呆れた眼差しを向けられるのだけは我慢できそうにないと、断言できる。
 ふいに、掴まれていた手が放される。驚いた藍田が再び大橋を見ると、何事もなかったように大橋は割り箸を手にしているところだった。
「さっさとメシを食おうぜ」
 大橋の態度の切り替えに、さすがの藍田もあ然としてしまう。見つめる藍田の視線の先で、大橋はガツガツとご飯を掻き込み、完全に食事に集中している。
 唐突に置いていかれたような気分になり、藍田はわけがわからないまま、食事を始める。しっかり食べないと、どうせ大橋はこの個室から出してくれないだろう。
 藍田の食事に関しては、大橋は子供に対するように甲斐甲斐しさを発揮するのだ。
 寸前までのやり取りなど忘れたように、食事の合間に二人はぽつぽつと会社のことを話す。もちろん、互いの仕事の内容ではなく、今の社内の空気や、宮園からもたらされる上層部などの動きについてだ。
 二人の間に流れる空気が同僚同士のものに戻っていくことに、内心で安堵する。
 藍田は寄せ豆腐をスプーンで掬ってから、何げなく左手の人さし指の先を見つめていた。さきほどより赤みが強くなってはいるが、少しピリピリとした痛みがある程度で、すでに気にならなくなっている。むしろ気になるのは――。
 スプーンを置いた藍田は、右手の人さし指の先も見つめていた。いまさらながら、指先を舐めてきた堤の舌の感触が思い出される。大橋に告げたせいだ。
「――藍田」
 大橋に呼ばれ、ハッとして顔を上げる。飄々としたいつもの顔で大橋が首を傾げた。
「どうした。やっぱり指が痛いか?」
「いや……。心配されるほど大したことじゃないと思ってたんだ。あんたは……少し過保護だ」
 藍田としては特に深い意味を込めたつもりはないのだが、なぜか大橋は、苦々しい表情を浮かべて物言いたげな様子を見せたあと、結局、黙って食事を再開する。
 なんなのだろうと思いつつも、ここで追及しないのが藍田だ。再びスプーンを手にして、掬った寄せ豆腐を口に運ぶ。
 ランチとしては少々値段は高めだが、パン一つで済ませることもよくある藍田の昼食の金銭感覚は、あまりあてにならない。ただ、大橋が勧めただけあって、美味しかった。
 自分にしてはよく食べたと思いながら割り箸を置いた藍田は、紙ナプキンで口元を拭う。大橋はとっくに食べ終えていたが、藍田が気をつかわないようにという配慮か、お茶を啜りながらメモを眺めており、藍田が一息ついたところで顔を上げた。
 いきなり、何も言わず腰を浮かせた大橋が、藍田の膳を覗き込んでくる。
「……なんだ」
「しっかり食ったか、確認したんだ」
「いい加減にしないと、殴るぞ。あんたはわたしを、なんだと思っているんだ」
「最近、胃の調子は?」
 人の話を聞く気はないらしく、大橋は質問で返してきた。藍田はため息をつくと、律儀に答える。
「かなりよくなった。暑さが和らぐだけで、わたしは体調がいい。仕事が忙しいのは、けっこう平気だしな。ネチネチとした嫌味は……そういえば最近言われないな」
「みんな、藍田副室長の怖さがわかったんだな」
「わたしにしてみれば、どうしてみんな、あんたの怖さがわからないのか、と思うが」
 一瞬、大橋の眼差しが鋭くなる。多くの人間が大橋という男を、人当たりがよくて快活で、飄々としていながら頼り甲斐のある人間だと思っているのだろう。ただ藍田はときおり、大橋からとてつもなく怖い部分を感じることがある。
 人を威圧するとか畏怖させるとか、そういうわかりやすい怖さではない。目的のためには人当たりのよさを簡単にかなぐり捨てられる、そういう覚悟を持っている怖さというべきか。
 大橋は芝居がかった仕草で肩をすくめ、ニヤッと笑う。
「俺は、紳士のつもりだぜ?」
「紳士だから怖くないとは限らないだろう」
 ここでまた大橋から鋭い視線を向けられるのが嫌で、藍田はやや焦りながら伝票を手にして立ち上がる。
「少しのんびりしすぎた。急いで会社に戻らないと……」
 出口の障子に手をかけようとした藍田だったが、同じく立ち上がった大橋の足音が一度だけ大きく響いたと思ったときには背後に気配を感じ、藍田は肩を掴まれて引き戻されていた。
「なっ……」
 驚いて振り返ると、すぐ側に大橋が立っており、真剣な顔をしている。大橋のこの様子だけで、いい加減藍田も察するようになった。
 大橋が、自分に触れてくる前触れだと。
 身構えたときには、強引に右手を取られていた。目を丸くする藍田の前で、大橋は掴んだ藍田の右手の指先をじっと見つめている。まるで、何かを探るように。
 大橋に指を握られた瞬間、藍田の背筋にゾクッと鋭い感覚が駆け抜ける。思わず首をすくめると、低い声で大橋に断言された。
「――堤にキスされた指は、こっちだな」
 瞬間的に藍田の体は熱くなる。隣の個室を意識して、囁くような声で必死に抗議していた。
「変なことを言うなっ。ただ、触れられただけだっ」
「唇で」
「それはっ……」
「お前と堤との間に、何があった? 何をされた? 俺がした行為以上のことを、堤にされたのか?」
 大橋の眼差しの激しさに、圧倒される以上に焼かれてしまいそうだった。呼吸することさえ忘れ、藍田は目の前の男を凝視する。まるで知らない男に見えた。だが、触れてくる体温の高さは確かに大橋のものだ。
「大橋さん、あんた一体……」
「答えろ」
 命令されるような関係ではないと、それだけの言葉が出てこなかった。代わりに藍田の口を突いて出たのは、自分でも意外な言葉だった。
「――……もしかして、わたしを、堤に触れさせたくないのか?」
 完全に虚を突かれたような顔をしてから、大橋は大きく息を吐き出す。その反応の意味を、呆れたためだと理解した藍田は激しくうろたえる。自分がとんでもなく自惚れの強い発言をしたことに気づいたからだ。
 逃げ出したくなるような羞恥に襲われ、実行しようとしたが、できなかった。大橋に今度は左手の指を握られたからだ。
「大橋、さん……」
「そうだと言ったら?」
 理由は聞くなと、すっかり耳慣れた言葉を囁いた大橋に、掴まれた指を引き寄せられる。何をするのかと目を見開く藍田の前で、まだ微かな痛みを発している人さし指に大橋が顔を寄せる。
 さすがに察するものがあり、藍田は鋭い声を発した。
「よせっ……」
 指先に大橋の唇が押し当てられる。柔らかく温かな感触を認識した途端、藍田は息を詰めた。強烈な疼きが全身を駆け抜けたからだ。
 濡れた感触が人さし指に触れ、咄嗟に顔を背ける。大橋が指先に舌を這わせる様子など、まともに見られるはずがない。
「大橋さん、やめろ……」
 藍田は小さな声で必死に訴えるが、大橋を押し退けられなかった。指先から生まれる感触に、抵抗しようという気力はすべて奪われてしまう。
「火傷、というほどのことにはなってないみたいだな」
 指先に唇や舌を這わせる合間に大橋が言う。
「……わかったんなら、放せ。なんで、こんなこと――」
「堤はどんな理由で、お前の指にキスした?」
「そんなことことはされてないっ」
 カッとした藍田は、ムキになって反論したが、すぐに隣の個室と障子の外を気にして、声を潜める。
「変なことを言うなっ」
「変じゃない。俺は気になる。すごく、な」
 大橋が向けてくる真剣な眼差しに、心が屈服させられそうになる。そんな自分に妙な陶酔感を覚えながらも、反発心が勝った。
 キッと大橋を睨みつけると、手を引こうとする。
「放さないと、大声を出すぞ」
 藍田が本気だと察したのか、大橋はあっさりと手を放してくれた。
 いつの間にか足元に落ちた伝票を拾い上げ、急いで個室を出る。先に藍田が支払いを済ませて店を出ると、少し遅れて大橋も出てきた。
 何も言わず二人は視線を交わし合うと、歩き出す。正確には、藍田が歩き始めると、大橋もついてきたのだ。そして、自然に並んで歩いている。
 藍田は、ぎこちない動きで左手をスラックスのポケットに突っ込んだ。そうしないと、指先同士を擦り合わせる仕草を大橋に知られてしまう。
 指先の痛みなど、もうどうでもいい。よりはっきりと残っているのは、指先に這わされた大橋の唇と舌先の感触だ。気持ちが悪いなどとは思わない。ただ、思い返すだけで背筋にゾクゾクするようなくすぐったい感覚が駆け抜ける。
 最近まで、他人と触れ合う行為とは無縁な生活を送っていた藍田にとって、大橋だけでなく、堤からも過剰な接触をされたせいで、感情が飽和状態に近かった。一方で体は、同性から与えられる感触を、まるで砂が水を吸い込むように貪欲に受け入れていくのだ。
 自分が内と外から変えられていきそうで、藍田は怖くなる。
 気づかれないよう、隣を歩く大橋にそっと視線を向けた。店の個室で見せていた激しさなど忘れたように、いつもの飄々としていながら掴みどころのない男の顔がそこにある。
 目が合うと、どうした、と言いたげに大橋の表情がふっと和らぐ。
 大橋は優しい。だが、大橋が持つ優しさと激しさが、やはり藍田は怖いのだ。
「大橋さん」
「なんだ」
「――もう、わたしに関わらないでほしい」
 藍田は静かな口調でそう切り出した。









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