サプライズ


[26]


 今夜は自棄酒だな、と自嘲気味に唇を歪めてから、大橋はグラスに口をつける。
 いくら飲もうが、酔える気がしなかった。実際、いつもならとっくに訪れるはずの酩酊感が、一向にやってこない。アルコールよりも強烈なものが、大橋の心と体を支配しているせいだった。
 つけたままのテレビから、にぎやかな声が聞こえてくる。一人でいる静けさを紛らわせるためにつけているのだが、かえってこの部屋の空虚な空気が際立っているようで、むしょうに寂しくなってくる。
 そう、どうしようもなく、大橋は寂しかった。
 三十半ばの男が抱えるような感傷かと、客観的に見た自分を笑おうとしても、出るのは重苦しいため息だけだ。
 離婚したとき、自分はこんな感情になっただろうか――。
 確かに寂しかったはずだが、あのときは自分の不甲斐なさに対する、情けないという感情が勝っていた気もする。
 それが今は、同僚から告げられた言葉にこうも落ち込み、感傷的になっていた。
 大橋は一度イスから立ち上がるとキッチンに向かい、空になったグラスに新たな氷を放り込む。テーブルに戻ると、ウィスキーを注いだ。
 なんとなく手持ち無沙汰から、グラスを揺らして氷を鳴らす。そうしながら大橋が思い返すのは、今日の昼間、昼飯をとって会社に戻る途中、藍田から言われた言葉だった。
『――もう、わたしに関わらないでほしい』
 淡々とした口調で切り出してきた藍田の話は、簡潔で明快だった。
『わたしに関わらないでほしい。大橋さんのためじゃない。わたしのためだ』
 驚く大橋を、藍田は一瞥すらせず、ひたすら前を見据えていた。その横顔は無感情というわけではなく、さまざまな想いを抱えた挙げ句に、必死に感情を押し殺しているようにも見え、大橋の胸は詰まった。
 怜悧で、誰よりも冷ややかだったはずの男が、いつの間にか自分の前でこんな顔をするようになったのだ。感慨深さと同時に、その男から決別とも取れる言葉を言われ、ひどくショックだった。
『あんたに振り回されるのは、もうたくさんなんだ。……疲れた。仕事以外で煩わしいものを、わたしに背負わせないでくれ』
 止めを刺されたようだった。思わず足を止めた大橋にかまわず、藍田は歩き続ける。手を伸ばして、藍田の肩に手をかけることすらできなかった。
 グラスを置いた大橋は、自分の両手を見つめる。
 藍田にあんなことを言われても当然か、という思いはあった。理由も告げず――理由を言えばいいというものでもないだろうが――さんざん藍田を傷つけるようなことをした。同性である藍田を抱き締め、それ以上の行為にも及ぼうとしたのだ。
 藍田も行為を受け入れていたというのは勝手な解釈で、藍田はプライドを傷つけられながら、ギリギリのところで耐えていたのかもしれない。
 だとしたら、同僚に対する藍田なりの気遣いといったところか。
 そう考えると、自分の惨めさが増したようで、大橋はさらに落ち込みそうになる。
 そのままテーブルに突っ伏しそうになったところで、インターホンが鳴った。こんな時間に誰だろうかと、まず大橋は思わない。心当たりが一人だけあるからだ。
 一瞬、居留守を使おうかと考えたが、外の通路に面した窓から室内の電気が見えるので、それはできない。
 結局、酒臭い息を吐き出して大橋は立ち上がり、玄関に向かう。
 インターホンで確かめることもなくドアを開けると、思ったとおり、目の前にはスーツ姿の敦子が立っていた。手にはバッグの他に袋があり、ワイン瓶が覗いている。したたか、敦子は酔っているようだ。目が据わっている。
「こんな時間になんか用か」
「差し入れ」
 そう言って敦子が、袋ごとワイン瓶を差し出してきた。反射的に受け取ると、当然のように敦子は玄関に入ってくる。
「おい――」
「一緒に飲もうと思って持ってきたのよ」
 ふらつく足取りの敦子を引きずり出すわけにもいかず、大橋は仕方なく玄関のドアを閉める。軽く身震いしたのは、開けたドアから入り込んできた外の空気が、ひんやりしていたからだ。
 ダイニングに戻ると、敦子はすでにジャケットを脱いでおり、勝手に食器棚からグラスを出しているところだった。呆れている大橋の様子に気づいたのか、悪びれることなく笑いかけてくる。
「寂しい男ねー。一人で飲んでいたなんて」
「……お前が言うな。別れた亭主のところに、酒持って押しかけてくるなんて、俺より寂しいだろ」
 大橋は頭を掻くと、イスに座り直す。敦子は、向かいのイスにぞんざいに置いてある新聞とワイシャツを無造作に床の上に落として、腰掛けた。
「いつ来ても、女っ気のない部屋ね」
「楽しいだろう? 自分は人生を謳歌しているのに、元ダンナは仕事だけの色気のない生活を送っているとわかって」
「あら、心配してるのよー」
 芝居がかった高い声で敦子に言われ、大橋は顔を背ける。
 やはり、この女と別れて正解だったかもしれない。心の中で毒づいた大橋だが、少なくとも、テレビを話し相手にするよりかは健全かもしれない。
「――で、何があったんだ。こんな時間に、ワインの差し入れなんて」
「取引企業のパーティーに呼ばれて、その帰り。若い連中がキャラキャラとはしゃいでいる横で、こっちは営業よ。居心地悪くて仕方なかったのよ。で、ワインが何本も置いてあったから、土産代わりにもらってきたの」
「男と酒を食らいながら、相変わらずキャリアウーマンをしてるんだな」
「わたしを養うのに、お金がかかるのよ」
 思わず大橋は笑ってしまい、テーブルの下で敦子に脛を蹴られた。
 一瞬だけ、結婚していたときの感覚を思い出したが、感じたのは微笑ましさではなく、ほろ苦さだ。大橋の場合、結婚イコール離婚で、結婚当時のことを思い出すと、必然的に離婚のこともセットになって蘇ってしまうのだ。
 別れた妻を部屋に入れて、何をやっているのだという気になる。そうまでしても、抱えた寂しさを紛らわせたいのだろうか、とも。
 しかも、寂しくて仕方なかったはずなのに、こうして話し相手がやってきても、心に空いた穴は埋まらない。
「……お前、一杯飲んだら、タクシー呼んでやるから、帰れよ。俺は、もう少ししたら寝るつもりなんだ。だいたい、別れたダンナとはいえ、夜中に男の部屋に来るなんて、無防備にもほどがあるだろう」
「そんなことを言うってことは、わたしが夜中にこうしてきたら、女として意識するっていうこと?」
 大橋はジロリと敦子を見てから、大げさにため息をついて首を横に振る。
「悪いが、お前のことは全っ然、意識してない。世間一般的な良識からの忠告だ。……冗談でも、生々しい話はするな」
「あら、禁欲的な男になったの?」
 好奇心剥き出しの顔で問われ、大橋は言葉に詰まる。たったそれだけの大橋の反応に、敦子は鋭く反応した。
「違うみたいね」
「さあな」
「禁欲とは、対極にいるってこと?」
 否定はできなかった。この間からずっと、大橋はおかしいままだ。藍田に対してだけ、激しい衝動に駆られ、その衝動に歯止めがかけられない。
 挙げ句が、関わらないでほしいという発言だ。
 これまでの行動を考えたら、そう言われても仕方ない。むしろ、言われるのが遅かったというべきなのかもしれない。
 自分の腕におとなしく収まっていたこともある藍田の中で、どんな感情の変化があったのだろうか――。
 大橋はグラスに残るウィスキーを覗き込みながら、答えが出るはずのないことを漫然と考える。皮肉なことに、こうして考え込む間は、寂しさを紛らわせるのだ。
「――はあ、帰ろうかな」
 ふいに敦子がため息交じりに言葉を洩らし、立ち上がる物音が重なる。大橋が顔を上げると、立ち上がった敦子がジャケットを取り上げていた。
「おい……」
「元ダンナをからかいながら飲もうかと思ったんだけど、そういう状態じゃないみたいだし」
 敦子の指先に顔を指され、大橋は目を丸くする。
「龍平、行き詰まってるでしょう?」
「なっ……」
「多分、仕事のことで行き詰まっているなら、わたしを部屋に入れなかったと思うのよね。あなた、仕事の苦労に関しては絶対表に出さない分、誰にも立ち入らせなかったから。それが、こうして難しい顔をして、しかも夜中にわたしを部屋に入れてくれたということは――」
 顔は笑っていながら、鋭さを含んだ視線を敦子から向けられ、今になって大橋は、やはり敦子を部屋に入れるべきではなかったと後悔していた。結婚生活は長くなかったとはいえ、敦子は大橋を把握しすぎている。
 そんな敦子も、さすがに大橋が同性の同僚とのつき合いで悩んでいるなどと思いもしないだろうが、仕事以外のことで思い煩っていると察してしまうのは、さすがだ。
「三人目の奥さん候補と何かあったの?」
「バカ。そんなんじゃねーよ」
「龍平の場合、仕事か恋愛しかないじゃない。深刻に悩むことって」
 敦子が何げなく口にした『恋愛』という単語が、刃となって心に深々と突き刺さった。
 大橋は目を見開き、数瞬、呼吸を止める。衝撃が静かに胸に広がっていき、わずかに遅れて激しくうろたえていた。
 いままで、考えたこともなかったのだ。藍田と向き合うことで、唐突に自分に起こる変化がなんであるか。変化の原因がなんであるか。
 いや、考えようとしなかった。 ありえないと、心の奥底で大橋自身が否定していたのかもしれない。
 動揺を押し殺すため口元に手をやると、そんな大橋を敦子は冷静な目で見下ろしている。
これ以上追及されるとまずいという意識が働き、大橋は冗談めかして言った。
「……俺はどれだけ、単純な男だと思われてるんだよ」
 他はともかく、藍田に関してだけは、大橋の気持ちは複雑なのだ。
 いまだかつて誰に対しても、ここまで複雑な感情を抱いたことはない。それは、藍田が同性だからなのか、今は身近にいる同僚だからなのか、いままで出会った誰よりも、感情表現が不器用な人間だからなのか、理由はわからない。あるいは、すべてが当てはまっているのかもしれない。
 ここまでまた、藍田から投げつけられた拒絶の言葉が蘇り、胸が苦しくなる。
 藍田を失うことかもしれない、と瞬間的に思った自分に驚いた。失うも何も、手に入れたわけでもないのに。また、そういう対象でもない――はずだ。
「二度目の結婚を失敗してから、初めてのロマンスなんだから、祝福してあげるわよ。だから、正直に言いなさい」
 敦子の声がわずかに強張って聞こえたが、気のせいかもしれない。大橋は、藍田のことに心が囚われるあまり、この状況で迂闊なことを口にしていた。
「別れたとはいっても、やっぱり元ダンナの恋愛事情が気になるか?」
 ぎこちなく浮かべた笑みを、大橋はすぐに消すことになる。見上げた先で敦子が怖い顔をしていたからだ。
「敦子……?」
 我に返ったように敦子はバッグを取り上げ、乱暴に息を吐き出した。
「あー、嫌だ。辛気臭い顔した酔っ払いをからかっても、楽しくない。家で一人でビールでも呷っているほうが、まだマシね」
 勝手に押しかけてきたのはお前だろうと思いつつも、さきほどの自分の発言が受け流されたことに、大橋は内心でほっとする。普段の敦子なら、嫌というほど追及されても仕方のない状況だ。
 これまでにない、微妙に不自然な空気を感じつつも、大橋は立ち上がる。
「ちょっと待てよ。今、タクシーを呼ぶから――」
「あー、いいから。通りに出たら、まだ走ってるし」
 大橋が止める間もなく、軽く手を振って敦子はダイニングを出ていく。あとを追いかけようと思えばできたのだが、向けられた敦子の背がそれを拒んでいるように感じられ、大橋は足を動かすことができなかった。
 玄関のドアが閉まる音を聞いて、身を投げ出すようにしてイスに座り直す。
「……いつにも増して、嵐みたいだな……」
 大橋はぼそりと呟くと、髪に指を差し込む。敦子が去ったあとの、室内の静けさは格別だった。
 ただ、敦子の態度は気にかかるものの、気まぐれなのはいつものことだ。そう納得してしまうと、大橋の頭と心を占めるのは、やはり藍田のことだった。
「参ったな……」
 呻くように言葉を洩らした大橋は、両手で頭を抱えるようにしてテーブルに肘をつく。
 今この瞬間、自分がただ寂しいのではなく、胸を掻き毟りたくなるような切なさの渦中に放り込まれているのだと、ようやく大橋は理解したのだ。
 忌々しいことに一人では、とても手に負えない感情だった。




 仕事が終われば、さっさと外で食事を済ませて自宅に帰る。いや、帰りたい、と思うのが藍田という人間だった。一人の時間を何よりも大事にしているのだ。
 なのに今夜は、妙に人の気配を欲してしまう。そして、その衝動を押し殺せなかった。
 らしくないと自嘲しながら、藍田は手にしたワイングラスを軽く揺らす。
 いつものように残業を終えて会社を出ると、その足で自宅に戻ろうと思った藍田だが、なぜか大橋の顔がちらつき、そんな自分に腹立たしさを覚えながら、いつも使っている店に立ち寄り、食事を済ませた。
 大橋のおかげで、嫌でも食事を気にかけるようになってしまったのだ。食事を気にかけるのは人として当然なので、大橋に腹を立てるのはお門違いなのだろうが。
 その後、一旦帰宅はしたものの、部屋の静けさと乾いた空気に息苦しさを覚え、半ば逃げるように、すぐにまた部屋を出ていた。
 ふらりと出かけて身を落ち着ける場所をほとんど持たない藍田は、行きつけのワインバーでこうして一人、ワインを飲んでいる。
 たとえ一人であったとしても、深夜まで営業している店にはまだ客の姿があり、ときおり陽気な声が上がっている。普段ならそんな声を気にもかけないが、今は、店内にかかっている音楽より耳に心地いい。より明確に感じられる、人の気配だ。
 今日は午後からずっと、胸が痛かった。この胸の痛みがなんであるか、藍田は知っている。罪悪感という痛みだ。
 大橋に対する罪悪感――。
 驚きに目を見開いた大橋の表情が脳裏に蘇るたびに、自分が放った言葉の威力を思い知らされる。
『――もう、わたしに関わらないでほしい』
 率直な気持ちを端的に告げたが、そのときの藍田には、きついことを言ってしまったという意識は実はなかった。自覚したのは、大橋の顔を見てからだ。次第に顔色と表情をなくしていく様を見たとき、藍田の胸の奥に罪悪感が根付いた。
 大橋によって自分が変わっていくのを阻止したい一心だったのだ。だからこそ出た言葉は、予想外に大きな衝撃を、大橋だけでなく藍田にも与えた。
 間違ったことを言っていないと何度も自分自身に確認しながら、それでも苦痛に近い罪悪感が藍田を苛み続ける。
 迷惑なぐらい陽気で、お節介で優しい反面、何を考えているかわからない男と、明日からはもう、プロジェクトを任される以前のような関係に戻るはずだ。ときどき、向かいのオフィスにいる相手と目が合い、次の瞬間には、何事もなかったように視線を逸らす、それだけの関係。
『悪かったな』
 短い一言をぽつりと洩らし、足早に歩いていってしまった大橋の後ろ姿が思い浮かぶ。咄嗟にその背に手を伸ばしかけた自分が、藍田には腹立たしい。
 大橋を引き止めようとしたからか、引き止められなかったからか――。
 ふいに店内が騒々しくなり、考えることに没頭していた藍田は我に返る。視線を向けた先では、楽しそうに飲んでいた女性三人組が立ち上がり、ふざけ合いながら帰り支度を始めていた。
 その女性たちと入れ違うように、新しい客が店内に足を踏み入れる。
 客の顔を見た途端、藍田も席を立ちたくなった。
 よりによって今夜、なぜこの男と顔を合わせなければならないのかと、心の底から思ってしまう。
「――よお、藍田。珍しいな。お前がこんな時間まで夜遊びなんて」
 遊び道具を見つけた子供さながら、目を輝かせた逢坂が大股で歩み寄ってきて、遠慮なく藍田の肩に腕をかけてくる。
 藍田がどれだけの事情を抱え込もうが、逢坂だけは相変わらずだ。そこがまったく救いにならないのが、逢坂の逢坂たる所以だろう。
 応じる気にもなれず、軽く眉をひそめてから顔を背けたが、まるで嫌がらせのように逢坂は回り込んできて、わざわざ顔を覗き込んできた。
「いつにも増して、仏頂面だな」
「……わかっているなら、離れて座れ」
「いや、単なる仏頂面じゃないな。いつになく、悩ましい雰囲気を漂わせている」
 逢坂が適当に言っているのか、本当に何か感じ取っているのか、藍田にはわからない。ただ、ピクリと肩を震わせた時点で、藍田の負けだ。
 当然のように逢坂は隣に腰掛け、さっさと注文を告げた。端麗な横顔を一瞥してから藍田は、そっと息を吐き出す。
 こんな男でも、とりあえず人の気配を身近に感じさせてくれると思えば、追い払えない。
「――……今夜は、八つ当たりするかもしれない」
 ぼそりと藍田が洩らすと、逢坂は楽しそうに表情を綻ばせる。
「お前でも、そんな人間らしい心境になることがあるのか」
「失礼な男だ」
「お前だって、店に入ったぼくの顔を見て、厄介な奴が来た、という顔をしただろう」
「していない」
「してるんだよ。お前の無表情から、感情を読み取るコツがあるんだ」
 教えろと言ったが、意地の悪い友人は案の定、嫌だと即答した。
 本当に、なぜ今夜に限ってこの男と並んで飲まなければならないのだろうかという気になってくる。
「悩み相談なら乗るぞ?」
「口が裂けても言わない」
「言えない、の間違いじゃないのか」
 藍田はワインを飲もうとした動きを止め、じっと前を見据える。迂闊に逢坂を見ると、感情を読み取られそうな危惧を覚えた。
「仕事のことで悩んでいるというわけでもなさそうだな」
「どうしてそう思う」
「お前は、仕事で悩むことがあっても、人前で深刻な顔はしない。自分の内で抱えていても、処理できるだけの能力はあるからな。ただ、人間関係の問題は、お前の処理能力を超えている。大学時代からそうだ。変な女につきまとわれたときも、ゼミ内でいざこざがあったときも、教授から妙に目の敵にされていたときも。会社に入ってからは、新人いじめに遭ってたな」
「……お前に話していないことばかりなのに、なぜ知っている」
 不機嫌な口調で藍田が言うと、逢坂は声を上げて笑い、肩に腕を回してくる。
「で、今度はなんだ? いまさら、お前をいじめる度胸がある奴もいないだろう。なんといっても今は、東和電器内でもかなりの権力者だ。下手にお前の機嫌を損ねたら、部署ごと消されるかもしれないからな」
「わたしは一時的に、限られた権限を与えられただけで、権力者じゃない」
「ぼくなら、気に入らない奴は、どんどん追い込むけどな」
「……お前とわたしを一緒にするな」
 こんな会話でも、交わしていると気が紛れる。
 少なくとも、大橋のことを考えなくていい。藍田はようやく肩から力を抜こうとしたが、次の瞬間、膝の上に置いていた左手を急に逢坂に掴み上げられドキリとする。
「おい――」
「どうかしたのか、この指」
 思わず藍田は口ごもる。逢坂が言っているのは、左手の人さし指の先に巻いた絆創膏だ。
「ちょっと、火傷しただけだ……」
「ほお」
 意味深に声を洩らした逢坂を横目で睨みつけてから、手を払い除ける。何事もなかったようにワインを飲みながら、実は藍田の鼓動は少し速くなっていた。
 絆創膏を巻いた指先が熱い。火傷したと逢坂には言ったが、実際のところはほとんど傷にはなっていない。ただ、指先がピリピリと微かに痛んで気になるため巻いたのだ。
 この指先に、大橋の唇と舌先が這わされた――。
「ああ、元気がないんじゃないんだな」
 カウンターに置かれたワイングラスにさっそく手を伸ばしながら、一人で納得したように逢坂が言う。
「心ここにあらず、というやつだ」
 ニヤリと笑いかけられ、否定する気も起きなかった。
「……わたしにだって、気に病むときだってある」
「お前がそういう状態になったのは、これまで片手の指の数だけ見たことがあるが、今夜が一番重症みたいだ」
「些細な……問題だ」
「気に病んでいるのに?」
 すっかり逢坂に手玉に取られていることを感じ取り、藍田は顔を背けてグラスに口をつける。逢坂は苦しそうに声を洩らして笑いながら、肩を叩いてきた。
「大したものだな、藍田」
「何?」
 背けていた顔を、うんざりしながら逢坂に向ける。こちらの気分とは対照的に、逢坂は機嫌よさそうにワインを飲み干した。
「仕事も大変だっていうのに、それ以外のことに心を奪われて、なおかつ些細な問題と言い張る、お前の頑固さが大したものだ」
 藍田はそっと眉をひそめてから、苦しい胸の内を打ち明けた。
「そんなことじゃない……。ただ、どうすればいいかわからないだけだ」
「お前は有能だが、器用じゃない。特に、人間関係はな」
 親友の指摘は、今の藍田には耳に痛かった。
 逢坂は傍若無人な人間ではあるが、冗談を言うべき状況と、真剣な話をすべき状況を知っている。単なる無礼な男なら、藍田もここまでつき合ってはいないのだ。
 新たなワインを頼んでいる逢坂を眺めながら、カウンターに肘をついた藍田は無意識に、絆創膏を巻いた指先を唇に当てていた。
「おい、藍田――」
 ふいに逢坂がこちらを見たので、ハッとして指先を唇から離して姿勢を正す。
「……なんだ」
「ぼんやりしたいけど、人恋しいっていうんなら、これからお前の家に移動して飲むか?」
 逢坂の言葉を頭の中で反芻してから、藍田は慌てる。
「人恋しいってなんだっ……」
「人の気配が恋しくて、わざわざ家に戻ったのに、また出てきたんだろう?」
 二人の視線は足元へと向けられる。アタッシェケースは、逢坂のものしかない。藍田がいつも持ち歩いているアタッシェケースは、自宅だ。
 顔を上げた逢坂に、いつになく怖い顔でこう言われた。
「――何があったのか知らないが、やっぱり重症だよ、藍田。今みたいなお前は、初めて見た」
 色素の薄い逢坂の瞳を見つめてから、藍田は深いため息を洩らした。
「わたしの不幸を喜んで、からかってくるのかと思っていた」
「不幸なのか?」
 鮮やかな切り返しに、完全に藍田は沈黙してしまう。いつもなら、徹底的に逢坂と論議し合うところだが、今夜はあまりに藍田の分は悪い。最初から、切り札が逢坂の手にあるようなものだった。
 イスを引いて立ち上がると、逢坂も倣ってアタッシェケースを取り上げる。
 支払いを済ませながら藍田は、逢坂に言われた言葉をぼんやりと考えていた。
 親友から人恋しさを指摘された男がここにいる一方、同じ時間、『あの男』はどこで何をしているだろうか、と。
 もっとも、もう関わりのないことだ。わたしに関わるなと、大橋に言い放ったのは他でもない、藍田自身なのだ。
 突然胸が締め付けられて苦しくなる。これが人恋しいという感覚なのだと、漠然と藍田は理解した。









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