サプライズ


[27]


 自棄酒は体によくない。もちろん、精神的にも。
 この歳になって、そんな当然のことを、大橋は頭の痛みとともに思い知らされる。問題なのは、頭の痛みと体の気だるさ以上に、心の荒み具合のほうが重症だということだ。
 朝、目が覚めたとき、何もかもどうでもよくなってしまい、体に力が入らなくて大変だったのだ。ベッドの上でさんざん転がってから、なんとか自分に気合いを入れ、苦労して体を起こしたぐらいだ。
 仕事でさんざん嫌なことはあったし、会社に行きたくないと思うこともたびたびあったが、ここまでひどい状態は久々だった。
 大橋は会社の地下駐車場に車を停めると、エンジンを切る。いつもなら颯爽と車を降りるところだが、大きく息を吐き出すと、ハンドルを抱えるようにして前のめりとなる。
 目の前を通り過ぎる車を眺めながら考えることは、これからどうしようかということだった。
 プロジェクトについては、合同にするという計画はなくなったといっていいだろう。藍田からまだ返事をもらっていないが、大橋に対して決然と拒絶の言葉を言った男が、平気で合同プロジェクトの計画に乗るとは思えない。
 もともと藍田は、すべてを一人で背負い込む気だったのだ。そこに横槍を入れる形となったのが、善人面した大橋というわけだ。
 自らを卑下するようなことを考え、また落ち込んでしまう。自棄酒を飲んでベッドに入ってからずっとこの状態を繰り返しており、いまだに抜け出せない。
 このまま車中に閉じこもってしまいたいが、そうもいかない。覚悟を決めた大橋はアタッシェケースを取り上げると、ようやく車から降りた。
 地下から一階に上がるエレベーターに向かおうとして、異変に気づく。エレベーターの前まで行った社員たちが、何かあったのか引き返しているのだ。
 理由は、大橋もエレベーターの前まで行ってわかった。
「……ついてないな……」
 軽くため息をついて髪を撫でる。エレベーターの扉には、使用中止の札が立っていた。
 仕方なく非常階段を使おうかと思ったが、気が変わる。普段の大橋なら、三階分の階段ぐらい余裕で駆け上がれる。ただ、今日は無理だ。余計な運動で使える体力はない。
 もう一基あるエレベーターを使おうと、駐車スペースを区切る壁の反対側に回り込んだところで、大橋は自分の選択を悔やんだ。
 藍田がエレベーターを待っているところに出くわしたからだ。間が悪いことに、狙ったようにしっかりと目が合ってしまい、いまさら知らない顔もできない。
 課長以上の肩書きを持つ人間は、ほぼこの地下駐車場に車を置いている。それでもいままで藍田と顔を合わせなかったのは、与えられているスペースが壁に区切られる形で西と
東に分かれており、利用するエレベーターも違っていたからだ。
 藍田がスッと視線を逸らし、白い横顔を見せる。かつての、大橋がツンドラと呼んでいた頃の冷ややかさが、そこにはあった。
 大橋は一晩中、感情の嵐の真っ只中にいて、苛まれ続けていた。それでもなお、こうしてあらゆるものを引きずっているというのに、藍田は違う。すべてを吹っ切ったのかどうかすらうかがわせないほど、硬く厚い氷で自分を覆っているように見えた。
 藍田のその姿に胸が痛んでから、大橋は自らの傲慢さを知る。自分の存在が、少なからず藍田に影響を与えると思い込んでいたのだ。だが藍田は、よくも悪くも、かつての藍田のように見える。
 引き寄せられるように足が動き、藍田の隣でエレベーターを待っていたが、到着したエレベーターに乗り込むまで、二人は会話を交わすどころか、もう一度視線を合わせることすらしなかった。正確には、大橋が藍田を見られなかったのだ。
 数人しか乗っていないエレベーター内は静かで、階数表示を見上げるだけでは間がもたなくなった大橋は、視線を落とす。このとき、あることに気づいた。
 藍田の左手の人さし指に絆創膏が巻かれていたのだ。大橋が昨日、唇を押し当て、舌先を這わせた指だとわかり、心臓の鼓動がドクンと大きく鳴る。
 ちょうどこのとき、エレベーターが一階のロビーに到着し、扉が開いた。反射的に大橋はエレベーターを降り、並んでいる社員たちの間をすり抜ける。
 振り返ると、エレベーターの扉が閉まる寸前、一瞬だけ藍田と目が合った。このとき背筋に流れた痺れに、大橋は動けなかった。
 こんな調子で仕事ができるのだろうかと思いながら、他のエレベーターに乗り込んで自分のオフィスへと向かう。
 大橋の精神状態がどれだけ不調であろうが、仕事は待ってくれない。たった一人の男の反応に振り回されている場合ではない――と割り切れられれば、どれだけ楽か。
 肩を落としてオフィスに入った大橋を、勘のいい部下の何人かが目を丸くして眺めている。控えめにかけられる挨拶にぶっきらぼうに応じながら、ようやく自分のデスクにつく。
「補佐、移転プロジェクトの書類送付案内の雛型を作ったんですが、チェックしていただけますか。そろそろ、こちらから発行する書類も多くなってきたので、きちんとしたものを印刷所にまとめて発注しようかと思って」
 移転推進プロジェクトのメンバーである社員に声をかけられ、大橋はやっと姿勢を正して用紙を受け取る。
 そうだ、仕事をしなくてはならない。
 気合いを入れるとまではいかないが、自分に言い聞かせながら用紙に目を通す。
「ついでだから、他の印刷物も一緒に発注しておけよ。会計処理が面倒らしいから、書類の管理はしっかりしてくれと釘刺されてるんだ。だから、プロジェクト仕様のものを作ろうかと思ってな。他の書類と紛れ込みにくいやつ」
「だったら一度、他のメンバーと意見をまとめて、改めて補佐から決裁をもらう形にします」
「その書類は俺に手渡ししろよ。すぐ目を通すから。俺は、書類の決裁が遅いことで評判が悪いんだ」
 知ってます、と笑いを含んだ声で言われてしまった。
 大橋も小さく笑みをこぼしたが、用紙に書かれたある文字に目を止めて、眉をひそめる。別に雛型に問題があるのではなく、個人的に気にかかることがあったのだ。
「移転推進実行プロジェクト、か……」
 もし、藍田が任されているプロジェクトと合同になったとき、名称はやはり連名になるのだろうなと、ちらりと考えたことがあるのだ。今となっては、どうでもいいことだ。
 用紙の隅にポンッと判を押してから返すと、大橋は無意識に向かいのオフィスへと視線を向けていた。
 藍田もデスクについており、朝の一仕事とばかりに書類に目を通している。
 こうして藍田の冷ややかな横顔を眺めていると、プロジェクトを任される前に戻ったような錯覚に陥る。
 このまま、藍田に対して特別な感情を持っていなかった頃に戻ってしまえたら、どれほど楽か――。
 ちらりとそんなことを考えた大橋の視界が次の瞬間、急激な感情の高ぶりによって真っ赤に染まる。
 藍田のデスクの前にいつの間にか堤が立ち、何か話しかけていた。何げない、上司と部下の光景だが、大橋の目には違ったものに見える。
 デスクの下で硬く拳を握り締める。胸を突き破らんばかりに溢れ出した感情は、嫉妬だ。こんな感情がある限り、藍田と何事もなかった頃に戻れるはずがなかった。
 藍田がそれを望んだとしても、大橋にはできない。
 立ち上がった大橋は窓際に歩み寄ると、勢いよくブラインドを下した。




 経営企画室での打ち合わせに顔を出した藍田は、その後、直属の上司である新機能事業室室長の執務室に立ち寄る。
 主である室長は、高井という五十代半ばの男だ。独善的という評価が絶えずつきまとっている人間で、藍田も内心では、その評価は外れていないと思う。
 藍田が副室長に就くと決まったときは、若すぎるといって猛烈に反対し、自分の子飼いの部下を推そうとしたらしい。そんな内情を教えてくれたのは、高柳だ。親切心からではなく、高井と藍田を揉めさせようと企んでいたのかもしれない。
 あいにく、藍田があまりに人間らしい反応を見せないため、高井も露骨な行動には出てこなくなったが、そこに、今度のプロジェクトの話だ。高井は圧力こそかけてこないが、しきりに事業部の統廃合について報告させたがる。
 室長ともなると、仕事は副室長が実質的に取り仕切り、これまでの激務がウソのように余裕が生まれる。人によっては、その余裕を何に使うかというと、地位や権力の向上に費やすのだが、高井がまさにそれだった。
 事業部の統廃合に首を突っ込みたがるのも、そういった思惑が絡んでいるのだろう。
 報告するほどの進展はないと、判で押したような藍田の答えを聞くたびに、高井は不機嫌そうな顔をするが、藍田がもう少し感情表現に富んだ人間だったら、同じような顔で応じていたかもしれない。
 なんにしても、不毛のきわみだ。
 そう思いながら顔を出した藍田は、秘書から告げられた言葉に軽く目を見開いた。
「席を外している?」
「はい。急用が入ったそうです。おそらく……会議が入ったのではないかと」
 秘書の視線が、執務室が並ぶ一角へと向けられる。
「ということは、他の室長たちも?」
「いえ、室長会議ではないようです。ただ、慌ただしく出かけられるときに、社内にはいるとおっしゃられたものですから……」
 何事だろうかと思いながらも、藍田も忙しい身なのでいつまでも待つわけにはいかない。高井が戻ったら連絡してほしいと頼んで、その場を離れる。
 たったこれだけの出来事だが、歩きながら藍田は、嫌な胸騒ぎを感じていた。その胸騒ぎの理由がわからないからこそ、釈然としない。
 それでなくても藍田の胸中は、三日前に大橋と関わりを断つと言い放ってから、重苦しい感覚に支配されたままなのだ。
 しかもその感覚は、次第に増している。まるで、藍田の心が軋んで苦しさを訴えているようだ。
 強引に気持ちを切り替え、新機能事業室のオフィスに戻ったところで、意外な光景に出くわした。
 向かいのオフィス企画部で、大橋と一緒に笑い合っているところをたびたび見かける女性社員がいたのだ。確か環境事業部の主任で、旗谷弥生といったはずだ。
 堤が、仕事の資料をもらうために旗谷の元を訪ねているのは知っているが、その旗谷がオフィス企画部にやってきたのは初めてかもしれない。
 大橋の隣で楽しそうに笑っている印象がある旗谷だが、今は、不安げに眉をひそめ、表情を曇らせている。その旗谷の傍らには堤が立っており、いくぶん険しい顔で何事か話しかけていた。他の社員たちも二人の様子が気になるらしく、ちらちらと視線を向けている。
 尋常ではない雰囲気に藍田は思わず足を止めていた。何があったのか問いかける前に、堤が藍田に気づいた。
「藍田さんっ」
 どういう意味か、ほっとしたように堤が表情を和らげて駆け寄ってくる。一方の旗谷は目を見開き、わずかにうろたえる素振りを見せた。
「……何かあったのか? 彼女は、オフィス企画部の……」
「旗谷さんです。実は、藍田さんのことで聞きたいことがあると言われたんですが、どうやらそれに、大橋さんも関わっているようで」
 小声でそう告げた堤が、じっと藍田を見つめていた。大橋の名を出した瞬間、藍田がどんな反応を示すか探っているように感じたのは、後ろめたさの裏返しかもしれない。
 藍田は無表情を保ったまま自分のデスクに戻り、持っていたファイルを置いた。
「何か聞きたいことがあるそうだが」
 立ったまま問いかけると、旗谷が抑えた声で言った。
「藍田副室長は、補佐と……、大橋部長補佐と一緒ではなかったんですか?」
「わたしが?」
 藍田が眉をひそめると、当然のように傍らに立った堤に今度は問いかける。
「わたしが席を外している間に、あの人が来たのか?」
「いえ。電話もかかってきていないと思います」
 反射的に藍田は、向かいのオフィスを見ていた。デスクには、大橋の姿はない。
「――……すみません、わたしの言い方が悪かったようです。大橋部長補佐が、プロジェクトの件で急な会議が入ったと言ってオフィスを出ていかれたので、てっきり、藍田副室長も出席されているのかと思って……。デスクにいらっしゃらなかったですし」
「わたしは、プロジェクトとは関係ない件で打ち合わせに行っていたんだ」
 言いながら藍田は、あることを思い出した。さきほど立ち寄った室長の執務室で、秘書から言われた言葉だ。
「大橋さんは、プロジェクトの件での会議と言ったんだな」
 藍田が、部下たちですら怯む鋭い視線を向けると、動じた様子もなく旗谷は頷く。
「少しだけおかしいと感じたんです。補佐の様子もですが、補佐がプロジェクトのことでメンバーに召集をかけて会議をするならわかりますけど、その補佐が、プロジェクトの会議で呼び出されることなんてあるのかと……。だから、堤くんに藍田副室長が席を外している理由を聞けば、何かわかるかと思ったんです」
「わたしは、プロジェクトのことで今日なんらかの動きがあるとは聞いていない。あの人はいろいろと動いているようだから、どこの誰に呼ばれても不思議じゃないだろう。……正直、大橋さんの動きは、わたしも把握しかねている」
 硬い声で応じながらも藍田は、内心では不安を掻き立てられていた。旗谷が言っていることはもっともだった。大橋に対する呼び出しは、不自然すぎる。
 やはり大橋は動きすぎたのだ。それでなくても大橋は、何かをしでかすかわからないという危惧を上の人間たち人間たちに抱かせている。そこに、プロジェクトを合同にするという動きが加われば、誰かが露骨な牽制に出るのはわかりきっていた。
 藍田が呼ばれなかったのは、事業部の統廃合に関して持つ藍田の権限を恐れ、刺激したくないという理由もあるだろうが、大橋を引き離して藍田を孤立させる狙いがあるのかもしれない。
 推測はいくらでもできる。ただ、はっきりしたことがわからない時点で、迂闊には動けなかった。
 本来藍田は慎重で、なおかつ目立つことを避けてきた。プロジェクトを任されたときも、最初はそのつもりだったのだ。
 なのに、大橋のせいで――。
「藍田さん?」
 デスクに両手を突いて顔を伏せて藍田に、堤が声をかけてくる。大きく息を吐き出した藍田は気持ちを落ち着けると、顔を上げて旗谷を見た。
「君はオフィスに戻っているんだ。他の社員が何事かと思う」
「でも、補佐が――」
「本人が会議と言ったのなら、会議なんだろう。プロジェクトが違うわたしがいろいろ言える立場じゃない。……あの人のことだから、そのうち飄々として戻ってくると思うが」
 突き放すような口調になってしまったのは、大橋の心配をする旗谷に対して個人的に思うところがあったからだ。
 大橋の隣で楽しそうに笑っている旗谷の姿がなぜか脳裏をちらつき、微かな苛立ちを覚えていた。
 藍田の様子に気づいたのか、堤は控えめに旗谷の肩に手をかける。
「旗谷さん、戻りましょう。何かあるようなら、こちらから連絡するようにしますから。でも俺の予感だと、藍田さんが言うとおり、ケロッとした顔で戻ってくると思いますよ」
 堤に促された旗谷がデスクの前から離れるのを待って、藍田はやっとイスに腰掛けた。
 旗谷に向けて言った言葉とは裏腹に、藍田の中では不安や焦燥感がどんどん高まっていく。単なる会議だと、藍田自身が信じていないのだ。
 しかし、プロジェクトが違うのだから、藍田が口出しできることでもない。そのジレンマが苦しかった。
 大橋に引きずられている自分を断ち切るための、最後のチャンスなのだと思った。ここで自制心を保てれば、藍田と大橋との関係は、同僚の一線を保てる。
 理性を保てる自信が、藍田は持てる。
 表面上は何事もなかったように装いながら、藍田はぎこちない手つきで書類を取り上げようとする。そのとき藍田宛ての内線がかかり、半ば条件反射のように素早く受話器を取り上げた。
「藍田です」
『――俺だ』
 受話器から高柳の太い声が聞こえ、藍田はそっと眉をひそめた。
 てっきり、室長の帰りを告げる秘書からの電話だと思っていただけに、完全に意表を突かれた。
「何かご用でしょうか」
 藍田は、自分の声に滲む警戒心を隠そうとはしなかった。一方の高柳の声は、笑いを含んでいるように感じられた。
『胃の調子はどうだ。暑い間に、君とウナギを食いに行く約束をしていたのに、結局行けず終いだったな』
「約束はしていませんよ。それに、今は体調もいいです。……あいにくですが」
『そう皮肉を言うな』
 どちらが、と声に出さずに呟いた藍田は、イスの向きを変える。向かいのオフィスに目をやれば、大橋のデスクは空席のままだ。
『これでも俺は、君を心配しているんだ。それに評価している。敵に回したくないと思う程度には』
「……用件を言っていただけませんか。忙しいものですから」
『わたしだって忙しい。だから、くだらん会議への出席も断った』
 高柳がなんのことを言っているのか、即座に理解した。
「会議とは、まさか……」
『お前たちのプロジェクトを合同にするという計画は、くすぶっていた火を燃え上がらせるには十分の燃料だな。お前が持っている権限と、大橋部長補佐の野心が手を組んだと、宣伝するようなものだ。厄介だと誰もが思う』
「どこから伝わってきたのかはお聞きしませんが、わたしはプロジェクトを合同にするという話については結論を出していません」
『ほお。俺は、大橋部長補佐が熱心に君を口説き落としたと聞いたが』
 藍田の中で、緩やかに炎が立ち上っていく。感情的になるなと自らを戒めながらも、それでも高ぶってくるものを止めることはできない。
「誤解です」
『だが、遅かれ早かれ、君は結論を出すだろう。そうなる前に、大橋部長補佐の翻意を促す必要がある、と誰かが考えても不思議じゃない。今、いくつかの部署の責任者たちが集まって、その場に大橋部長補佐も呼んでいるらしい。わたしも声をかけられたが、あまり醜い場に立ち合いたくないからな、断った』
「醜い、ですか。そう思われるなら、他の方々にも忠告すればよかったのでは?」
『だが、大橋部長補佐に忠告を与える人物と場は、必要だ』
 微かに、高柳が笑い声を洩らしたのが聞こえた。この瞬間、藍田の胸の奥から、ドロリとした感情が溢れ出してきた。いままでに感じたことのない、目も眩むような怒りだ。
 普段、藍田が感じる怒りという感情は、ひどく冷たい。燃え上がることもなく、澱のように心の底へと溜まっていくのだ。しかし、今感じている怒りは、まったく種類が違う。理性を奪うほど激しい高ぶりだ。
「――……それで、大橋さんの吊るし上げはどこで行われているんですか」
 部下たちに聞こえないよう、低く抑えた声で藍田が問いかけると、受話器を通して感じていた高柳の様子が変わる。
『例えが悪いな』
「どこですか。わたしも忙しいんです」
『……知ってどうする。仲間に加わる気か』
「だったらなぜ、あなたはこうして連絡を寄越してきたんですか。わたしを焚きつけるため? わたしに恩を売るため? わたしと大橋さんを切り離すため? それともただ、わたしの反応を楽しむため?」
 ふと、東京のホテルの部屋で、大橋に言われたことが頭を過った。
 お前は、焦ると言葉数が多くなる、と。
 確かにそうかもしれない。大橋のことになると、藍田は冷静さをかなぐり捨てたくなるのだ。今もそうだ。こんなにムキになっている。
「高柳本部長、正直、あなたの思惑などどうでもいいんです。とにかく、場所を言ってください。どの会議室ですか」
『大橋部長補佐から話を聞いているだけなんだから、そうムキにならなくても――』
 ようやく大橋のデスクから視線を引き離した藍田は、デスクに向き直る。堤はいつの間にか自分のデスクに戻っており、まっすぐこちらを見ていた。
 だが今の藍田には、堤のその眼差しすら、感情の抑止力にはならなかった。
「――わたしを〈敵〉に回したくないなら、今後の対応を少し改めたほうがいいですよ。わたしは保身は考えていませんから、プロジェクトの後のあなたの影響力がどうなろうが、まったく興味ないんです」
『藍田っ』
「これは、わたしからあなたへの忠告です。――最後の」
 他の部署の責任者たちが恐れている、自分に与えられている権限の威力とはこれかと、静かに息を吐き出して藍田は実感する。
 高柳が電話の向こうで絶句したのが、その証拠だ。
「雑談はこれぐらいにしましょう。それで、大橋さんはどこにいるんですか」
 低く呻くように高柳が告げた言葉を頭に叩き込むと、捨て台詞を聞かされる前に藍田から電話を切った。
 すぐに立ち上がり、少し会議に顔を出してくると部下に告げ、急いでオフィスを出ようとする。
「――藍田さん」
 硬い声で呼ばれて振り返ると、堤が立っていた。藍田は、首を横に振る。
「流されているわけじゃないんだ……」
 これだけを告げて再び歩き出す。堤はもう追いかけてはこなかった。




 参った、と嘆息して、大橋は視線をさまよわせる。向けられる言葉をまともに聞いていると、耳と心が汚れそうだ――などと繊細ぶる気はないが、気分は悪い。
「一体君は、何を企んでいる」
 うんざりしながらイスに腰掛けている大橋は、質問者である新機能事業室の室長に投げ遣りな視線を向ける。藍田の、一応の上司だ。
 さきほどから、言葉は違えど同じような質問を繰り返しぶつけられているため、いい加減、口を動かすのも億劫になっていた。
 厚手のカーテンまでしっかり引かれ、重苦しい空気に支配された会議室内が、わずかな間だけ静まり返る。微かな空調の音が、やけに耳障りだった。
「ですから、わたしはただ、煩雑な仕事を効率的に進めるために、二つのプロジェクトを合同にしたほうがいいと判断しただけです。この点については専務にも事情を説明して、ご理解はいただいています」
「だったらなぜ、プロジェクトを任された時点で、そう提案しなかった」
 最初から提案したところで、まともに取り合ってはもらえなかっただろう。専務が話を聞く気になったのは、大橋が社内改革のために動き回り、若手の社員たちを煽っているという噂のおかげだ。
 当初は周囲の人間が盛り上がっているだけの話だったが、今は違う。社内改革そのものにさほど興味がないのは変わっていないが、何かしでかすかもしれない存在として認知される境遇は、利用できる。
 例えば、藍田に向けられる敵意の目をいくらか引きつけることができるし、少々のわがままなら、ごり押しできる。
 大橋に暴走されると、社長を始めとした本社の重役たちは困るのだ。
 予想外だったのは、大橋より先に、いくつかの部署の責任者が暴走したということだろう。
 緊急会議だと言われてこの会議室に呼ばれたのだが、すでに着席していた面々を見た大橋は、回れ右して引き返したくなった。どう見ても、冷静な話し合いができる面子と空気ではなかったからだ。
 そして大橋の予想は、嫌な意味で的中した。
「それは、過去に例のないプロジェクトを任されて、わたしとしても手探りの状態で仕事を進めなくてはならず、そこまで気が回らなかったからです。ですが、仕事の準備を整えていくうえで、どうしても、藍田副室長のプロジェクトと連携しなくてはならない面も出てきまして――」
「だからといって、合同でなくてはならない理由にはならんだろう」
「合同はいけないという理由にもならんでしょう」
 大橋が即答すると、藍田の上司が目を剥く。反論されるとは思っていなかったらしい。
 こんな男が上司なら、藍田の奴も苦労するだろうなと、つい同情してしまう。幸か不幸か、大橋の上司である部長はこの場にはいない。もともと管理部門は、今回のプロジェクトでの影響はあまりないと言われているため、大橋以上に不精者な部長は、安穏としたものだ。
 管理部門内で反発の声が上がるとすれば、営業部門と結びつきが強い部署か、プロジェクトに関わる人間に個人的に思うところがあるか、だ。
「だったらまず、プロジェクトを合同にする理由を、資料とともに明確に提示すべきだ」
「誰に対してです?」
 ここで口々に怒声が上がり、大橋は辟易する。さきほどからこの調子で、理論的に会議が進まない。
「……俺は、吊るし上げられてるのか……」
 顔を背けながらぼそりと呟くと、それが聞こえたのか、側に座っている男に睨みつけられた。確か、マーケティング本部の数ある営業部の一つの部長だったはずだ。肩書き上は大橋より上なのであまり失礼な態度も取られない。
 姿勢を正すと、改めて、集まっている男たちの顔を眺める。整然とテーブルが並ぶ中、大橋がついているテーブルだけが、全員と向き合うような形で最前列に置かれているため、会議室にいる全員の視線が全身に突き刺さっていた。
 神経が細い人間なら、顔も上げられず、この場から逃げ出すところだ。できることなら大橋もそうしたいが、肩にのしかかる責任感や諸々の感情のため、実行に移せない。
 何より大橋は、心底ムカついていた。忙しい中、一方的な理由で呼び出された挙げ句、二十人近い人間に取り囲まれ、不意打ちのように糾弾されているのだ。
 いままでの大橋なら、イスを蹴って立ち上がってもいいものだが、心の支えがあった。
 この場に呼ばれたのが藍田でなくてよかった、という妙に面映い気持ちのおかげだ。
 大橋以上に敵を作っている藍田に対する攻撃の激しさは、この状況の比ではないだろう。何より藍田は、本人の自覚なく、他人の感情を逆撫でるところがある。
 関わるなと藍田に言われながら、それでも藍田の心配をする自分は健気だと、大橋はまじめに思う。健気すぎて、愚かでバカだ。
 こんなにも、同性の同僚に純粋な想いを傾けて、何を求めているのか。
 胸を掻き毟りたくなるような狂おしい気持ちが込み上げてきて、大橋は慌てて咳き込む。だが、胸の奥で蠢く熱い塊を吐き出すことはできない。とっくに、大橋の胸に根を張ってしまったらしい。
「――プロジェクトを合同にするという件に関しては、役員会議とまではいかなくても、部門会議にかけるべきだ」
 その言葉に我に返り、大橋は必要以上にきつい口調で応じた。
「必要ありません」
「そんなことは我々が決める」
「我々って……」
 集まっている責任者の大半は、営業部門の人間だ。それに、偶然なのか、意図して集められたのか、マーケティング本部の営業部の人間が多い。
 マーケティング本部といえば――。
「高柳本部長か……」
 自信が漲りすぎて鼻につく、強面の男の存在を思い出し、大橋は顔を歪める。高柳が、藍田に何がしらのプレッシャーをかけていたことや、事業部の統廃合に強硬に反対していることを知っている。
 そんな男がこの場にいないということが、かえって疑惑を深める。
「すでに専務から許可はいただいているのに、いまさら部門会議を開いてどうするんですか。今回のプロジェクトが成功するか否かは、どれだけ時間を有意義に使えるかにかかっているんです。部門会議のために資料を作って、そのための時間を割いて……。とにかく、そんなことのために、わたしたちは部下を使うことはできません」
「だが、必要な手順だ」
「……誰にとって?」
 我々にとって、と臆面もなく言い放たれたときには、さすがの大橋も脱力する。
 論議を交わすのはいい。だが、こうも前進のない話し合いの場にいることは、とにかく疲れる。
 相手が何を求めているかはわかっているのだ。
 合同プロジェクトの話はなかったことにするのはもちろん、事業部の統廃合に関しては、最大限の配慮をしろともいいたいのだろう。そうでなければ、無茶な要求を突きつけてプロジェクトの進行を妨げるといったところだ。
 藍田のプロジェクトが進まなければ、必然的に大橋のプロジェクトも完璧なものにはならない。本社を移転したときの社内の混乱ぶりが容易に想像でき、さすがに背筋に冷たいものが駆け抜けた。
 この場をどうやって丸く収めて抜け出すべきかと、大橋が真剣に考え始めたとき、会議室のドアがノックされた。
「まだ誰か来ることになっていたのか?」
 責任者の一人の口からそんな声が上がる。立ち上がったのは、新機能事業室の室長だった。よほど秘匿の会議らしく、この会議にはお茶を入れる秘書どころか、議事録を記録する社員すらいないため、立派な肩書きを持つ誰かが動かざるをえない。
「――ここにいらっしゃったんですか、室長」
 凍りつきそうなほど冷ややかな声が耳に届き、腕を組んでいた大橋は驚きに目を見開いたあと、慌てて姿勢を戻す。ぎこちなく視線をドアに向けると、新機能事業室の室長と副室長――藍田が向き合っていた。いや、対峙しているといっていい雰囲気だ。
 久しぶりに、こんな藍田を見た。
 大橋は目を見開き、会議室にやってきた藍田を凝視する。
「君が、どうして……」
「プロジェクトを合同にする件での話し合いでしたら、わたしが出席しないわけにはいかないでしょう。それとも、わたしがいると何か不都合がおありですか?」
 藍田は、何もかもが冷たく凍っていた。声も、表情も、眼差しも。
 この状況で不謹慎だが、藍田のその冷たさに、大橋は痺れてしまう。
 見事に、心を射抜かれていた。









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