サプライズ


[28]


 自分の上司の返事など求めていないといわんばかりの不遜さで、藍田はズカズカと会議室に入ってきて、大橋の隣に立った。
「――……しっかりしろ。見世物になった虎みたいな情けなさだ」
 見下ろされながら藍田に小声で言われ、思わず笑ってしまう。
 九官鳥といい、藍田の例えは的確なのかピントがズレているのか、微妙なところだ。
「どういう例えだよ、お前……」
 藍田は表情を綻ばせるどころか、唇を一度引き結んでから、冷めた視線で会議室内をゆっくりと見渡した。まるで、集まっている人間の顔を記憶に刻み込むように。最後に、ドアの前にまだ立っている自分の上司を一瞥した。
「席にお戻りになったらどうです。みなさん、お忙しい身でしょうから、手早く済ませましょう」
 会議室内が騒然とするが、藍田は気にもかけていない。淡々とした口調で大橋に問いかけてきた。
「それで、どこまで説明したんだ」
「……俺がどうして、プロジェクトを合同にしようと考えたのか。あと、専務から承認は得ていること。プロジェクトの合同にするという件に関しては、お前の返事は――いまだ保留になっていることも」
「この場にいる方々の意見は?」
 大橋は端的に、この場にいる責任者たちの言い分を説明したが、藍田の表情はピクリとも動かなかった。おそらく見当はついていたのだろう。
 それより大橋が気になったのは、なぜ藍田は、この会議室がわかったのかということだ。大小の会議室から、簡単な打ち合わせで利用するミーティング室まで、この程度の人数が集まる場所など社内にいくらでもあるのだ。藍田の落ち着きぶりからして、まっすぐこの会議室にやってきたように見える。
「おい、藍田、どうして俺がここにいるとわかった――」
「そんなことは後にしてくれ。とりあえず、この状況をさっさと切り上げる」
〈切り抜ける〉ではなく、〈切り上げる〉と言い切った藍田に、再び大橋は痺れてしまう。表面上の冷たさとは裏腹に、その言葉から藍田の熱さを感じていた。
 大橋が見上げながら注ぐ眼差しに気づいた様子もなく、藍田は白く冴えた横顔を見せている。不思議な感覚だった。
 これまで大橋は、藍田のバリアーになると言い張り、多少はその役目を果たしているつもりだった。同性である藍田を庇護している気になっていたのだ。
 だが今は――。大橋に向けられる攻撃の矢面に立とうとしているのは、傲然として冷ややかな、その藍田だ。
「――説明不足だったことは、みなさんに謝罪いたします。わたしとしても、大橋部長補佐からのプロジェクトを合同したい旨の申し出を受けてから、対応を考えている最中でしたので、お知らせするのが遅くなりました」
 藍田が頭を下げたのを見て、大橋は舌打ちを寸前で堪える。
 プロジェクトを合同にするという話は大橋が一人で突っ走ったことなので、藍田が頭を下げる必要はないのだ。そもそも、こんなことで頭を下げる藍田を、大橋は見たくなかった。
「まあ……、そんなことだと思ったよ。大橋部長補佐の独断で動いたことだということは」
 口を開いたのは、マーケティング本部の企画部長の一人だ。藍田の眼差しがひときわ鋭くなり、微かに目を細めた。その反応の意味は、大橋にはわからない。
「独断は独断ですね。わたしも突然聞かされたときは驚きました」
「だったら、今回の騒動の責任をはっきりさせるために、部門会議を開くべきだと思うんだが。そこで改めて、大橋部長補佐のプロジェクトを合同にするという提案について審議するべきだし、そもそも、彼の越権行為は問題だ」
 カッとした大橋は反射的に立ち上がろうとしたが、すかさず藍田に足元を蹴られて、イスに座り直す。
 何事もなかった顔をして藍田が言った。
「大橋部長補佐が行った越権行為というものを、具体的に言っていただけますか。わたしは把握していないものですから」
 一瞬にして会議室内が静まり返る。大橋としては、藍田に代わってトラブルを処理したことを言われるのではないかと内心ヒヤヒヤしたが、この場にいる人間たちは把握していないらしい。指摘されたところで、専務の指示を受けて行動したことなので、責任を取るという話にはならないはずだ。
「――わたしにしてみれば、あなた方がなんの権限があってこのような場を設け、大橋部長補佐一人を呼んで弾劾裁判のようなことをしているのか、そちらのほうが気になります。こういうことを、越権行為と言うのではありませんか?」
「しかし、プロジェクトを合同にするという話は、看過できんっ。そんな提案をすること自体、打算が働いていると思われても仕方ないはずだ」
「心配はご無用です」
 淡々とした表情と口調で言い切った藍田に対して、一斉に反論の声が上がる。誰が何を言っているのか聞き取ることが不可能なぐらいだが、藍田は最初から、個人の言い分など相手にしていなかった。
 ずっと藍田を見上げていた大橋は、次の瞬間、思わずドキリとしてしまう。
 目の前で藍田が、鮮やかな笑みを浮かべたからだ。
「大橋部長補佐に越権行為などというものがあったとしても、わたしがしっかり監視いたしますし、そんなことは許しません」
 正直、藍田の表情に見惚れてしまい、藍田の口から出た言葉の意味を理解する余裕が、大橋にはなかった。
「それは……、どういう意味だ」
「あなた方がそこまで大橋部長補佐の影響力や野心を警戒されるなら、やはり、わたしと彼のプロジェクトを合同にして、身近でわたしが監視するほうが安心だということです。わたしとしても、彼が勝手な行動を取らないか、常にチェックできますし。合同プロジェクトであれば、発行する書類のすべてを互いに共有して、情報も管理できる。仕事上の連携も必要となるでしょうし、こうするのが一番合理的で、安全です」
 大橋は、自分がゆっくりと驚愕の表情を浮かべていくのを感じていた。藍田がまさか、こんなことを言い出すとは思いもしなかったのだ。
 ――プロジェクトを合同にする。
 藍田は鋭い矢を放つように、そう言ったのだ。言葉はもっともらしく丁寧だが、これは、この場にいる人間に対する宣戦布告も同然だ。
 当然のように凄まじい怒りの声が上がったが、藍田は動じない。ただ驚いて目を見開いている大橋より、よほど肝が据わっている。――わかってはいたが。
「なんの権利があって、そんな横暴をっ……」
「横暴? これは、プロジェクトの一環ですよ。より良い環境を整えて仕事を進めるというだけです。専務にも許可をいただいているとのことですし、なんら問題はないと思いますが」
 薄い笑みとともにそう言った藍田が、次の瞬間には無表情となる。
「それでもわたしたちが信用ならないとおっしゃるなら――管理室室長の宮園さんに顧問をお願いしましょう」
 こいつは飛び道具をいくつ持っているんだ。
 ようやく驚きが去り、大橋は頼もしさすら感じながら藍田を見つめる。このとき自分がどんな眼差しを向けていたのか知らないが、こちらをちらりと見た藍田が、急にうろたえたように視線を逸らした。白い横顔に、わずかに赤みが差す。
「大橋部長補佐の暴走を心配されるあなた方なら、喜んでこの提案に賛同していただけるはずだと思っています。宮園室長には、この会議室を訪ねる前に説明させていただき、前向きなお返事をいただいておりますから、ご心配なく」
 この時点で、会議室にいる人間の中に、藍田の話に異論を唱える者はいなくなっていた。


 乱暴にドアが閉まり、ようやく会議室に二人きりとなると、大橋は大きく息を吐き出してイスの背もたれに体を預ける。今になって気づいたが、痛いほど肩が強張っていた。
 さすがの藍田も疲れたのか、几帳面で行儀のいい男には珍しく、テーブルに浅く腰掛けた。手を伸ばせば届く距離にいるそんな藍田を、大橋はじっと見つめる。
 大橋の視線に気づき、藍田が不機嫌そうな表情を浮かべた。
「……なんだ」
「お前は焦ると、口数が多くなると再確認してたんだ」
「わたしは焦っていなかった」
「なら、感情が高ぶっていたか?」
 睨みつけられたが、大橋は余裕で受け止め、笑いかける。
 抑えきれない喜びが、全身から溢れ出そうだった。そんな自分を、現金だと笑う気にもなれない。それぐらい大橋は浮かれていた。
 関わらないでほしいと大橋に向かって言い放った藍田が、こうして目の前にいるのだ。しかも、大橋を救うために。
 いつものように、熱い塊が胸の奥で蠢く。素直にその衝動に身を任せて藍田に触れたかったが、大橋にはどうしても聞きたいことがあった。
「――藍田、どうして俺がここにいるとわかったんだ。面倒なことになると思って、俺は誰にも行き先を教えなかったんだが」
 ああ、と声を洩らした藍田が、皮肉っぽく唇を歪める。何か不愉快なことを思い出したらしい。
「高柳本部長だ」
 その名を聞いた途端、大橋はひどく納得していた。さきほどの会議に、やけにマーケティング本部の人間が多かったはずだ。
「……あの人の差し金か」
「おそらく。黙っていればわたしに気づかれなかったものを、余計な電話をかけてくるから……、脅すつもりが、わたしに脅されることになるんだ」
 まだ何かしでかしていたのかと、大橋は半ば苦笑を浮かべて身を乗り出す。
「なんて言ったんだ?」
「大したことは言ってない」
「いいから教えろよ」
 藍田は眉をひそめてから顔を背け、素っ気ない口調で言った。
「わたしを敵に回したくないなら、対応を少し考えろと……」
「そりゃ怖い。あの強面の高柳本部長も、受話器を握って縮み上がってただろうな」
 すかさず凍りつくような眼差しを向けられたが、大橋には通じない。こんな眼差しを向けられて、背筋がゾクゾクするような興奮を味わっていると知ったら、藍田はどんな顔をするだろうかと頭の片隅で考えてしまう。
 大橋がまっすぐ見つめ返していると、藍田は戸惑ったように視線を伏せた。
 この広い会議室に今のところ二人きりだということを、いまさらながら意識する。藍田も自分と同じだと考えるのは、自惚れだろうか。
 テーブルの端にかけられた藍田の左手の指に視線を奪われながら、大橋はもう一つ、大事なことを尋ねた。
「――……さっき、宮園さんの名前を出していたが、本当に大丈夫なのか? あの人だけは、敵に回すとやりにくいというか……」
「意外な言葉だな。大橋部長補佐はもっと豪胆なのかと思っていた」
「からかうなよ。俺はともかく、お前が――」
 目の敵にされるんじゃないか、という言葉を、気恥ずかしさもあってぼそぼそと呟く。藍田はわずかに目を見開いてから、呆れたようにため息をついた。その反応に、多少大橋は傷ついた。
「お前なあっ、俺は真剣に心配してるんだぞっ。なんか知らないうちに、お前は大事なことをあっさり決めているしっ」
 会議中の言葉が本当なら、藍田はプロジェクトを合同にすることを認めたのだ。そのうえ、会社の調整役である管理室室長の宮園を、合同プロジェクトの顧問に据える構想までぶち上げてくれた。
 真剣な大橋に対して、藍田はちらりと笑みを浮かべる。
「あんただって、わたしのことは言えないだろう。大事なことを一人で決めて、動いた」
「それは――……」
 完全に大橋の分が悪い。理屈ではなく、もっと本質的な部分で、藍田には敵わない。こういう状態をなんというのだろうかと思ったが、考えるのは後回しだ。
「それは、良かれと思って、俺が暴走した結果だ」
「だったらわたしも、そうなんだろうな」
 怜悧で理性的な藍田らしくない言葉に、大橋はめまいを覚える。こちらも、理性的に話し続けることが、そろそろ苦痛になり始めていた。
 たまらず口元を手で覆うと、そんな大橋の様子に首を傾げながらも、藍田は続ける。
「……宮園さんに、わたしなら、大橋龍平という男をコントロールできると言われたことがある。わたしも最初はそうするつもりだったが……、正直、あんたの存在は、わたしの手に余る」
「あの人は好きだな。コントロールとか、操るとか。俺も似たようなことを言われたぞ。俺にしても、お前を操るなんて荷が重過ぎる」
「単なる監視者の立場で、わたしたちの立場を楽しまれると――迷惑だ」
 藍田の話を聞いていると、冷然とした表情を保ちながらも心の中では、憤然としたものや苛立ちをずっと抱えていたのだとよくわかる。
 冷たそうな容姿の内から、繊細さと熱さがどんどん透けて見えてくる。そのギャップが大きいだけ、大橋は藍田に引き寄せられるのだ。
 こちらが考えているより、藍田はずっとしたたかで強靭だと実感しながら、それでもやはり、両腕の中に閉じ込めて、すべてのものから守りたくなる。いや、他人の目から隠してしまいたいのかもしれない。
「宮園さん、顧問云々っていう提案に頷いたのか?」
「驚いていたな。もちろん即答はされなかったが、頷かざるをえない。すでにもう、ここで管理室室長である宮園さんの名前を出したんだ。……マーケティング本部は、管理室にも不信感を抱く。そうなったら、管理室はどこに肩入れするほうが有利か、頭の切れるあの人ならわかるはずだ」
「あの宮園さんを取り込もうと考えるなんて、お前怖いな」
 からかうように大橋が言うと、心外だといわんばかりの顔で藍田は首を横に振る。
「宮園さんに、ご協力願うんだ」
「……やっぱり、宮園さんの相手をするのは、お前が最適だ。嫌いじゃないが、苦手なんだ、俺は」
「でも、感謝はするべきだ。あんたがあの人を苦手にしていようが、あの人の名前で、さっきの状況は救われた」
「――救ってくれたのはお前だ」
 大橋がこう言うと、ハッとしたように藍田は驚きの表情を浮かべた。薄く開かれた唇が自分を誘っているように見えるのは、やはり重症というべきなのだろう。
 うろたえた大橋が髪に指を差し込もうとしたとき、藍田が小さく声を洩らして笑った。
「そうだな。……忘れるな。わたしが、あんたを守ってやったんだ」
 この男には珍しく、冗談のつもりだったのかもしれない。だが大橋の背筋には、身震いするほどの熱い痺れが駆け抜けた。
 大橋は動揺を抑えるために口元に手をやる。ゴクリと喉を鳴らしてから、思わずこう言っていた。
「――……男前すぎて、惚れそうになる発言だな」
 自分で言っておきながら、笑えなかった。それだけでなく、藍田も笑みを消してしまう。
大橋の言葉に、冗談がまったく含まれていないことを感じ取ったのかもしれない。
 このときになって大橋はやっと、現実を直視した。
 実はもう、とっくに惚れていたのだ。藍田という男に――。
 次の瞬間、二人は同時に、同じ方向に動いていた。ドアに駆け寄ろうとしたのだ。
 大橋は、多少乱暴に藍田を押し退けると、素早く前に回り込んでドアに鍵をかけ、振り返る。目を見開いて立ち止まった藍田が今度は反対方向に駆け出したが、大橋は苦もなく追いつき、肩を掴んで引き止めた。
「大橋さんっ」
 身をよじろうとした藍田にかまわず、大橋は力ずくで体の向きを変えさせる。さらに藍田は後退って逃げようとしたが、両腕ごとしっかりと抱き締めた。腕の中で藍田が暴れても、それ以上の力で押さえ込むだけだ。
 無言で激しい攻防を繰り広げているうちに、次第に藍田の息が上がってくる。その息遣いに、ますます大橋は煽られていた。
 藍田の骨が折れてもかまわないとばかりに、体を両腕の中で締め上げる。小さく呻き声を洩らして、やっと藍田は観念した。
「……痛いんだ。この、バカ力っ……」
「抵抗したかったら、もっとメシを食え」
「こんなときまで……食事の指導か」
「俺が、お前のことでおおっぴらに世話を焼けるのは、メシのことぐらいだからな」
 険を宿していた藍田の眼差しから、ふっと鋭さが消える。それどころか、揺れる眼差しが物憂げに伏せられた。
 やはり大橋は、藍田の素の表情に弱かった。反射的に力を緩めてしまうが、腕の中に収まった体は逃げようとはしない。
 胸の奥から湧き起こってくる熱い高ぶりに従い、大橋は藍田をもう一度抱き締めた。今度は、藍田の体の感触をしっかりと味わうために。
 たまらなく心地よかった。大事だと――愛しいとも思ってしまう。
 藍田の存在をそう思うことは、抗えない本能だ。
「……あんたは、世話好きだな。誰に対しても」
 ぽつりと洩らした藍田の息遣いが首筋にかかる。大橋は、ドクドクと激しく打っている自分の鼓動を感じながら、藍田の後頭部に手をかけ、柔らかな髪をそっと撫でた。
「世話好きなら、女房二人に逃げられたりするかよ」
「優しすぎるから、不安になるんだろう。誰に対しても優しいんじゃないかって。……わたしが言っても、説得力は皆無だが……」
「お前も、同じ不安を感じるか?」
 この問いかけに対する藍田の反応は驚くべきものだった。
 急に体を強張らせたかと思うと、顔を背け、再び大橋の腕の中から逃れようとし始めたのだ。大橋は慌てて藍田をしっかりと抱き寄せる。
「藍田っ、藍田、話を聞けっ」
「うるさいっ。聞く話なんてないっ」
「俺はあるぞっ。お前に聞かせたいことも、聞きたいことも、いくらでもある。俺たちは……、もっとお互いを知るべきだ。少なくとも、俺はもっと……知りたい。藍田春記という男のことを」
 怒っているのか、それ以外のことからか、顔を背けているせいで露わになっている藍田の首筋が真っ赤に染まっていた。
 ふいに、資料倉庫でのやり取りを思い出す。あのときは、藍田を背後から抱き締めたせいで、首筋を真っ赤に染めた藍田がどんな表情をしていたのか確認することはできなかった。だが、今は違う。
 加虐的な衝動が自分の中で芽吹くのを感じながら、大橋は背けられた藍田の顔に手をかけ、こちらを向かせようとする。
「……藍田、会議室に飛び込んできたのは、俺を守るためなのか?」
 藍田の抵抗は止まったが、やはり顔はこちらに向けないまま、答えが返ってきた。
「結果として……、そうなっただけだ」
「ついさっき、自分で言ったんだろ。あんたを守ってやったんだ、って」
「――……嫌な男だ」
 小さな呟きを聞いて、たまらず大橋は短く声を洩らして笑う。すると、ようやく顔をこちらに向けた藍田に睨みつけられた。思ったとおり、顔が赤い。特に目元の赤さが目を引いた。
 大橋はゆっくりと笑みを消しながら、藍田の頬にかけたてのひらを後頭部に移動させ、頭を引き寄せる。
 もう藍田は抵抗せず、まっすぐ大橋を見つめてきながら独り言のようにこう言った。
「わたしは、あんたに流されてなどいない」
「ああ……。お前は流されるというより、奔流を自分で作っちまうタイプだな。自覚なく」
 その奔流に流されているのは、大橋だ。もう一人、忌々しいことに堤も。
 それでも藍田という男にもっと近づきたいと思ってしまうのは――。
 ここでようやく大橋は、どうして自分が藍田に敵わないのか、納得いく答えを導き出した。なんのことはない。〈惚れた弱み〉というやつだ。
「……人を、災害みたいに言うな」
 吐息を洩らすように藍田が笑い、大橋の理性はあっさり奔流に呑まれた。
「藍田――……」
 ゆっくりと顔を近づけていくと、藍田はまっすぐ見つめてくる。怯むことなく大橋は、間近から藍田の目を覗き込んだ。
 清冽で怜悧なくせに、強烈に大橋を引きずり込む『何か』を宿した目だった。一方の藍田は、自分の目に何を感じているのだろうかと思いながら、大橋は藍田との距離をなくす。
 互いの目を見つめ合ったまま、藍田の唇にそっと自分の唇を押し当てた。ピクリと藍田の体が動いたが、それだけだ。逃げようともしなかった。
 興奮のあまり、大橋の体は火がついたように熱くなり、快感に近い歓喜が全神経を駆け巡る。
 同性だとか、同僚だとか、そんなことはどうでもよかった。ただ、ようやく藍田春記という男に触れられたという実感に酔ってしまう。
 すぐに大橋は大胆になり、藍田の唇を柔らかくゆっくりと啄ばむ。一度、二度、と。
 その合間に、藍田の唇が微かに動いた。
「……なんで、こんなことをするんだ、あんた……」
 少し掠れた藍田の声に、どうしようもなく高ぶりを覚える。
「聞きたいか?」
 もう、『わからないから聞くな』とは言えない。大橋は自分の気持ちがわかっていた。
 大橋の様子から何かを感じたらしく、藍田は視線をさまよわせてから顔を背けようとしたが、その前に大橋がしっかりと唇を重ねた。
 きつく唇を吸い上げて、強引に舌で歯列をこじ開けようとする。藍田は目を見開いて硬直していたが、大橋が後頭部を引き寄せ、ぶつけるように唇を擦りつけ合うと、態度が変わった。
 氷が溶けるように、腕の中で藍田の体から強張りが解けていく。その体を、大橋は両腕でしっかり抱き締めながら、上唇と下唇を交互に吸い上げた。
 年齢もさほど変わらない、しかも同性の唇の感触に、大橋は夢中になっていた。頭では、自分が今キスしているのは男だとわかっているのだ。だけどそんな理由では、もう止められない。
 藍田の目元がますます赤くなり、誘われるように大橋は唇を寄せる。大きく体を震わせた藍田が、咄嗟にといった感じで腕に手をかけてきた。
「どうして俺がこんなことをするのか、聞きたいか、藍田?」
 腕にかかる手の感触に少しだけ加虐的なものを刺激され、思わず問いかけた大橋に対して、藍田が睨みつけてきた。
「……あんたは自分勝手だ。聞くなと言ったり、聞きたいかと言ったり」
「そうだな」
 声を洩らして笑った大橋は、再び藍田の唇を塞ぐ。こじ開ける必要もなく、藍田の歯列を舌先でくすぐると、侵入を許された。
 紳士的だったのは最初だけで、気がつけば夢中で藍田と貪り合っていた。互いの唇も舌も、唾液も――。
 かつてはツンドラと呼んでいた男とのキスは、熱かった。
 藍田の感触に浸りながら、大橋は心の底からこう思う。
 人生は驚きに満ちている――。
 少し前までの大橋は、考えもしなかった。自分が、関わりの薄い同僚でしかない男の藍田を守りたいと思い、抱き締め、キスすることを。
 何より、たまらなく愛しいと感じることを。
 そんな存在に出会えた人生の巡り合わせに、大橋は心の底から感謝していた。藍田も、少しでいいからそう感じてほしいと願いながら。
 痩せた体を抱き締める腕に力を込めると、応えるように藍田の両腕が背に回される。
 それだけで、蕩けそうなほど大橋は幸せだった。









Copyright(C) 2008 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[27] << Surprise >> [第二部]