バディシステム


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 体と意識が深く引き込まれる。水と一体になっていく感覚に、いつも気持ちは高揚させられる。一方で、普段生活している場所と異質の世界は、楽しさと同時に、常に怖さが隣り合わせで存在している。
 もっと深く、もっと遠くに――。
 夢中で水中に身を躍らせていたが、ふと我に返る。いつの間にか、周囲から誰もいなくなっていた。薄暗い海の中に、一人取り残されてしまったのだ。
 いや、正確には、『彼』を一人にしてしまったのだ。
 ゾッとするような恐怖を覚え、マウスピースを咥えたまま、思わず叫んでいた。




 ビクンと大きく体を震わせた氏家(うじいえ)滋之(しげゆき)は、突っ伏していたカウンターから勢いよく顔を上げる。目の前には、見慣れた店の光景があった。
 夢か、と口中で呟き、次の瞬間には体を震わせる。夢で味わったかつての体験のせいか、居眠りの最中にかいた汗が一気に冷えたせいかはわからない。背にかかるほど伸びた茶色の髪を掻き上げて、イスの背もたれにかけていたパーカーを取り上げた滋之は慌てて袖を通す。
「熟睡だったね。滋くん」
 そう言った常連客の大瀬が、漏水防止用のリストバンドを差し出してきながら苦笑する。滋之は気恥ずかしさを押し隠して立ち上がり、商品を受け取ってレジを打つ。
「午前中、商品の搬入で、本店とこの店を行き来させられたんですよ。おかげで、へろへろで」
「まあ、滋くん一人が居眠りしてても、他の店員がしっかりしてるからね。この店は」
「……悪かったですね。頼りない跡取り息子で」
 滋くんはそれでいいんだよという、悪意なくけなされているのか、フォローなのかわからない大瀬の言葉を聞き流しつつ、お釣りを渡して商品を袋に入れる。
「なんといっても滋くんは、この店の看板息子なんだから。座ってるだけで、親父さんも安心だろ。ついでに、女のお客さんも喜ぶし」
「大瀬さん、おれがいい男だから、実はねたんでいるでしょう」
「うんうん、そうかもしれないね」
 滋之の父親と同年代である大瀬は、口元を手で覆って小さく声を洩らして笑う。大男には似合わない、なんとも可愛らしい笑い方だ。
 なんだって二十四歳にもなって自分は、こんなに客にからかわれるんだ――。心の中で自問しながら、滋之は商品を渡す。
「ありがとうございました」
 滋之の言葉に送られ、忍び笑いを洩らし続けながら大瀬が店を出ていく。入れ違いに、新たにカップルが入ってきた。
 店内を軽く見回してみると、滋之が居眠りをしている間に客が増えたようだ。他の店員たちは、あちらこちらで客の対応をしている。これはのんびりとイスに腰掛けている暇はない。
 滋之の実家はダイビングショップ・ダイブワールドを経営しており、この店を含めて支店は三店舗ある。先ほどの大瀬の『看板息子』という言葉には頷けないが、一人息子であるのは確かだ。それにこうして支店の手伝いもしているし、ダイビングインストラクターの資格も持っている。
 ダイブワールドは、初心者からベテランまでの幅広いダイバーを相手に、キャリアに応じたダイビングコースを開いているのだ。滋之も一応、所属インストラクターとなっている。
 もっともここ一年は、インストラクターの仕事は一切引き受けず、たまにベテランダイバーたちと海に潜るのがせいぜいだ。
 夢の中で感じた水の冷たさを思い出し、もう一度体を震わせる。
 滋之は店の出入り口に視線を向け、外の様子をうかがう。六月の梅雨時に入ったが、天気のいい日が続いている。
 海に入るにはまだ少し肌寒いが、夏場のダイビングを楽しむなら、今から始めるのが海に馴染むいい時期だ。そのため、この時期に店を訪れるのは、ダイビングは初めてという人も多い。
 そんなことを考えて、意識してさきほどの夢の内容を頭から追い払う。タイミングよく客がレジの前に立った。
 レジを打っている滋之の視界の隅に、また新たに店に入ってきた一人の客の姿が映る。
 背の高い男で、ジーンズにTシャツ姿にサングラスをかけている。特別な格好というわけではないが、剣呑とした雰囲気を漂わせている。見方によっては柄が悪い、と映るかもしれない。
 滋之は横目で男の姿を追いかける。男から無言の圧力でも感じるのか、さきほど入ってきたカップルが別のスペースへと逃げるように移動する。しかし男は一向に気にした様子もなく、サングラスをずらしては、鋭い眼光を放つ目でウエットスーツを眺めている。それがまた、柄が悪い。
 ただ、サングラスの下の顔立ちは悪くはなかった。
 無造作に伸びた前髪の間から覗く目は切れ長で、サングラスを引っかけている鼻は高い。唇はむっつりとへの字に引き結ばれており、なんだか不機嫌そうだ。年齢は三十代前半といったところだろう。
 平日の昼間からダイビングショップでふらふらとしているからではないが、男はサラリーマンではないなと滋之は推測する。店番をしながら、客の職業をあれこれ考えるのは、けっこう好きだった。店の会員カードを作るときに、書類に書き込まれた職業を見て、内心でガッツポーズを作ったり、意外性に驚いたりしている。
 男の職業がむしょうに気になり、会員カードを作ってくれないだろうかと、滋之は期待を込めた視線を男に向ける。
 店内を一周した男が、ふとあるものの前で立ち止まる。カウンターから身を乗り出していた滋之は、チャンス、と小声で洩らす。
 ちょうどカウンターに入ってきた別の店員にレジを任せ、滋之はススッと男に近づく。
 男は、ダイビングツアーのパンフレットを手に、熱心に見入っていた。この店では、ダイビングの楽しさを知ってもらうため、店の近くの海に潜る初心者対象のものから、海外の海に出かけるものまで、さまざまな種類のツアーを取り揃えてある。
 男が見ているのは海外でのダイビングツアーのものだ。
「――まだ定員に余裕がありますよ。夏休み時期の人気のツアーですから、早めに申し込まれておくと間違いないですね」
 滋之が声をかけると、なぜか男はずらしていたサングラスをかけ直す。まるで表情を読み取られるのを嫌うように。迷惑だったかな、と思いつつも、男がパンフレット置き場の前から移動しないので、滋之は話を続ける。
「現地のガイドもしっかりしていますし、ぼくも潜ったことがありますけど、とてもきれいですよ。Cカードを取得されたばかりの方でも、楽しめるスポットだと思います。ただ女性の方が多いツアーなので、もう少し本格的にダイビングを楽しまれたいなら――」
「……Cカード」
 ぼそりと男が呟く。掠れ気味のなかなか渋い声をしているが、滋之が気になったのはそんなことではない。明らかに、男の声は動揺していた。
 なんとなく察するものがあり、お節介を承知で、滋之は簡単にCカードの説明をする。
「Cカードというのは、海での運転免許のようなものです。ダイビングの指導団体がそれぞれ発行しているんですけど、これがあるとインストラクターなしで海に潜れますし、海外でも通用します。ダイビングツアーの注意書きにもけっこうありますしね。Cカード取得者のみ、と。持っていたほうが、ダイビングを自由に楽しめますよ。Cカードにはランクが設けられていますけど」
 滋之はパンフレットの一つを手に取り、ツアー日程の下に書かれた注意書きを指先で示す。サングラスを乱暴な手つきで外した男は、険しい表情で文字を目で追い、低く呟いた。
「……あのヤロー、こんな面倒なもんが必要なんて、一言も言ってなかったぞ」
 どうやら男はダイビングに関しては、初心者以前らしい。滋之は控えめに説明を付け加える。
「面倒とは言っても、三、四日も講習を受けると取得できますよ。それから申請して、一、二週間でカードは手元に届きますし。うちの店で、海外にも支部の多い団体が発行するCカードを取得できるコースをやっていますよ。申請の手続きも」
「本当か?」
 食いつかれそうな勢いで見つめられ、滋之はコクコクと頷く。すると男が鋭い目を細め、何かを探るように滋之を上から下まで眺める。居心地が悪くて仕方ない滋之は、助けを求めるように周囲に視線を向ける。
「――……あの、ぼくが、何か?」
「お前みたいなのでも、そのCカードっていうのは持ってるのか?」
 不躾な視線だけでなく、男は実に失礼だった。相手は客だと嫌というほどわかっているが、それでも滋之はムッとする。
「持ってます。ついでにぼくは、インストラクターの資格も持っています」
 途端に男は、にんまりと笑みを浮かべた。なんとも物騒な笑い方だと滋之は思った。
「だったら、俺でも簡単に取れそうだな」
 明らかに、初対面の男にバカにされている。ここが店でなければ、地団駄を踏むところだ。
「……だったら、って、なんだよ。だったらって」
 つい独りごちると、しっかり男の耳に届いたらしく、余計な解説をしてくれた。
「インドア生活送ってそうな生っ白い顔して、タンクの重さに耐えきれそうにもない細い体してるから、そう思ったんだ。見たまま、感じたままを口にしただけだ」
「女の人だって、タンクを背負ってますっ。それに、日焼けしてないのは、最近海に出てないからです。色が黒くて、ごっつい人間じゃないと、Cカードを持ってちゃいけないんですかっ」
「そう興奮するなよ。俺も悪気があって言ったわけじゃねーんだから」
 悪気はないが、悪意はあるのではないか――。
 滋之は思いきり恨みがましい目を男に向ける。こんなに無礼な客は初めてかもしれない。
「まあ、とにかく――」
 気を取り直した滋之は、男が手にしているパンフレットを取り上げ、国内のダイビングツアーのパンフレットを代わりに押し付ける。
「お客さんのような、これから初心者になろうかという人は、このツアーがいいと思いますよ」
 男が胡散臭そうに新たなパンフレットに視線を落とす。内容は、この本店がある場所から歩いてすぐの海に潜る、ツアーとは名ばかりのものだ。このツアーはちなみに、Cカードがなくても参加できるので、ダイビングを初めて体験したいという人に人気だ。
「……なんだよ、これは」
「Cカードがない人は、インストラクターと一緒じゃないとダイビングはできませんよ。何かあったとき、対処できませんし。まさか、一人で潜るつもりだったとか言いませんよね?」
 ぐいっと男の顔を覗き込むと、バツが悪そうに露骨に背けられる。この様子なら、潜る気満々だったらしい。さきほどの無礼な言葉の仕返しとばかりに滋之は、いかにも呆れた、という大きなため息を吐く。
「――感じの悪い店員だな」
「お互いさまですよ。お客様」
 仮にも、物心ついたときから両親の客商売を見てきた滋之なので、普段はどんなに客に怒鳴られたとしても反論などはせず、ひたすら頭を下げる術を心得ているが、この男に対してだけは、別だ。柄の悪そうな風貌に反して、会話を交わすには気安い相手なのだ。
「だいたい、一人でダイビングができるわけないでしょう。どうしてもバディが必要なんですから。ちなみにバディというのは、ダイビングするときに組む相手ですよ。海に入るときから上がるときまで、お互い助け合うんです」
「……それぐらい、知っている」
「独り言です」
 このヤローと、男の表情が言っている。
 あまり友好的ではない視線を交わし合っていると、傍らからのんびりとした声をかけられた。
「おっす、滋之。――と、あれっ、来てたんですか、国府(こくぶ)さん」
 パッと滋之が振り返ると、そこにはダイブワールドのロゴが入ったパーカーを羽織った目黒(めぐろ)弘明(ひろあき)が立っていた。
 目黒は、この店に所属するダイビングのインストラクター兼ガイドだ。滋之の知る限り、二十八歳という若さながら、インストラクターとしてもダイバーとしても、一流といっていい。人当たりのよさもあり、コース生やツアー客に人気は高い。もっともその人気は、目黒本人の外見も関係しているだろう。
 派手な金髪と、年中きれいに焼けた肌のせいで一見軽薄そうな印象を与える目黒だが、とにかく海に潜るのが好きな男だ。その姿勢は誠実ともいえ、見た目とのギャップが女性にはたまらないらしい。顔立ちも、目鼻立ちのくっきりとした、文句なしのハンサムだ。
 目黒の姿を見た途端、国府と呼ばれた男は不機嫌そうな表情を隠そうともせず、目黒を睨みつける。何も知らなければ、滋之ならすぐに回れ右して逃げ出す迫力だ。
 しかし目黒はのんびりと笑い、濡れた派手な金髪を掻き上げる。近くの海で潜ってきたばかりなのだろう。シャワーもまだ浴びていないらしく、目黒の側に寄ると潮の香りがする。
「なんか言いたそうな顔ですね、国府さん」
「ヌケヌケと言いやがって。お前が、ダイビングは簡単だ、すぐに潜れるから、一度この店に来いって言ったから、俺はこうして来たんだぞ。それが、このクソ生意気な坊主に話を聞いたら、全然話が違うじゃねーか」
 目黒と国府が知人同士らしいという事実より、今の滋之にはもっと重大なことがある。
 坊主、と思いきり国府に指さされたことが、かなり不愉快だった。滋之は国府を睨みつけたが、すかさず目黒に引き寄せられた。
「この店の可愛い看板息子に、坊主はないでしょう」
「……二人まとめて、蹴り入れるぞ」
 滋之は小さく口中で呟くが、当然のように目黒と国府に無視される。滋之よりもわずかに高い目線で、二人は言い合いを始める。滋之は身長が低いほうではないが、この二人が高すぎるのだ。
「滋之から話を聞いたんなら、わかったでしょう。Cカードを取るのは、そう難しいことじゃないって。うちでコース申し込んだら、俺が手取り足取り丁寧に教えますよ」
「気色悪いこと言うな。だいたい簡単に、コース、コースって言うけどな、俺は仕事が不定期で忙しいんだ。しかも、一人じゃ潜れないんだろ」
 やはり、バディが必要だと知らなかったのだ。滋之の視線に気づいたように、国府は決まり悪そうに目を逸らす。目黒が意地悪く笑った。
「心配しないでください。立派なバディ候補が目の前にいるじゃないですか」
 国府の正面に立っているのは目黒だ。国府は顔をしかめ、清々しいほどに断言した。
「――お前は嫌だ」
「まあまあ、そう結論を急がずに。友人だからこそ特別扱いして、国府さんの空いている時間にコースが受けられるようにしようと思ってたのに。仕事、大変でしょう? コースは本当は予約制なんですけど、国府さんの仕事の場合、いつ休みになるかわからないですからね。他のダイビングスクールだと、予約は守れと言ってうるさいですよ。しかも国府さん、気が短いでしょう。文句言われて耐えられますか?」
「お前、俺を騙しておいて、さらに脅す気か……」
「親切と言ってくださいよ」
 言うかっ、と怒鳴った国府の声に、周囲にいた客の視線が一斉に、滋之を含めた三人に向けられる。よくも悪くも、目黒と国府は立っているだけで注目を浴びすぎる。
 このまま取っ組み合いでも始められると困るので、滋之は控えめに提案した。
「……あのさ、話し合いなら別の場所でやってくれないかな」








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