バディシステム


−2−


 どうして、こうなるのか――。
 大きなため息をついた滋之は、顔を上げた途端、鏡に映る自分自身と目が合う。どこから見ても、うんざりという表情をしていた。
 ここは、店の隣にある馴染みの喫茶店の洗面所だ。
 滋之の提案に従って、目黒と国府の厄介者コンビは店を出ていってくれることになったのだが、目黒が先に店のシャワーで海水を洗い流したいと言い出し、なぜか滋之が、国府を案内するはめになったのだ。しかも、目黒がやってくるまでの話し相手まで任されてしまった。
 いまさら国府と友好的に話せるはずもなく、重苦しい沈黙に耐えかねて、こうして洗面所に逃げ込んだというわけだ。
 ちなみに、店を移動して滋之と国府が交わした会話といえば、『国府孝実(たかみ)だ』『あ、そう』という二言だけだ。
 国府のような迫力のある男を連れてきた目黒を、少し恨み始めていた。一人っ子である滋之は、目黒を兄のように慕っているが、同時に滋之を弟のように思っている様子の目黒は、ときおり滋之をおもちゃのように振り回してくれる。今の事態がまさにそれだ。
 頬にかかる髪を指先で払いのけ、パンツのポケットからゴムを取り出す。
 髪を一つにまとめると、男らしいとは言いがたい容貌に拍車がかかる。中性的といえば聞こえはいいが、ようは女顔一歩手前なのだ。子供の頃はよくこの顔のせいでからかわれたが、今も状況はあまり変わっていないかもしれない。
 鼻は高くも低くもなく唇は小さめ、中途半端な顔のパーツの中で、目がくっきりと大きくて印象が強いせいで、女の子を連想させるらしい。
 強情そうな目だと言ったのは誰だったか――。
 ふと考えた滋之だが、次の瞬間には激しく後悔した。さきほど居眠りをしたとき、あんな夢を見たせいで、『彼』のことを思い出してしまった。
 振り払うように滋之は鏡の中の自分の見据えると、ふいっと顔を背けて洗面所を出る。
 店内に戻ると、テーブルについた国府の姿が目にとまった。両手を頭の後ろで組み、窓の外の景色を眺めている。このときだけは、国府を取り巻く険のようなものがわずかに薄れていると感じた。
 黙って滋之が正面のイスに腰掛けると、顔をこちらに向けた国府がどういう意味か、目を丸くする。まじまじと滋之の顔を眺めてから、ニヤリと笑いかけられた。身構えると、案の定、ロクでもないことを言われた。
「時間がかかったな。腹が痛くて個室で座り込んでたのか」
「……ぼくの腹の具合を、あんたに報告する義務があるのか」
 店を出てしまえば、国府はもう客ではない。実際、何も買わずに出てきたのだ。さきほど店でからかわれ続けたせいもあり、自然に滋之の口調は刺々しいものになる。
 煙草に火をつけた国府が、忌々しそうに唇を歪める。
「ツンケンした、可愛げのない坊主だな」
「なくてけっこう。だいたいぼくは、二十四だ。坊主呼ばわりはやめろ」
「坊主は坊主だ」
 きっぱりと国府が言い切り、次の瞬間、憎たらしい笑みを浮かべる。ぐぬぬっ、と呻いたあと、滋之は反撃に出た。
「うるさい。おっさん」
「……俺はまだ三十だ」
 国府の言葉に本気で驚いた滋之は、テーブルに身を乗り出して目の前の男の顔を凝視する。煙草を咥えた国府に、顔に煙を吹きかけられた。煙草を吸わない滋之は咳き込む。
「何するんだよ、おっさん」
「お前今、俺の歳を聞いて、実年齢より老けてるとか失礼なことを思っただろ」
 滋之はここぞとばかりに意地悪く笑いかける。
「ふーん、自覚あるんだ」
 生意気だ、と言った国府が片手を伸ばしてくる。滋之は鼻を摘み上げられていた。
「痛いっ。何するんだよ、おっさんっ」
「教育的指導だ。おっさんではなく、国府さんと言え」
「いっ、痛いって。……だったらあんたも、人を坊主って呼ぶなっ」
 抗議しながらも、滋之も国府の鼻を摘んでやる。このまま我慢大会に突入しようとしていたが、傍らからおもしろがるような声をかけられて、我に返った。
「――あっという間に仲良くなったな、二人共」
 シャワーを浴び、髪は濡れたままだが、すっきりとした顔の目黒だった。
 滋之は国府と顔を見合わせてから、同じタイミングでお互い、鼻を摘まんでいた手を離す。途端に国府は煙草を咥えて何事もなかったような様子となり、滋之は隣に座った目黒に抗議する。
「……どこをどう見たら、仲良さそうに見えるんだよ」
「じゃれ合ってただろ」
 滋之はプルプルと首を横に振る。そして、こうして目黒がやってきたので、自分の役目が終わったことに気づいた。
「じゃあ、ぼくは店に戻るから――」
 言いながら立ち上がりかけると、目黒の手が肩にかかり、また座らされた。目黒が一見爽やかな笑みを浮かべている。わがままな女性のコース生を相手にするとき、目黒がよく見せる笑みだ。
「……何? ぼく、ほら、看板息子だから、いつでも店にいないと」
「まあ、もう少し休憩しようぜ」
 嫌な予感を感じつつも、滋之は目黒に逆らえない。
 結局座り直し、目黒がコーヒーを注文する間に、訝しげな表情をした国府と再び目が合う。憎たらしい男は滋之を挑発するように、煙草の煙を吹きかけてきた。
「――で、目黒よ、俺を騙した責任はどう取るつもりだ」
 ようやく落ち着いたところで、重々しく国府が切り出す。はっきりいってこの場では部外者である滋之はアイスコーヒーに口をつけ、窓の向こうの通りに視線を向ける。
「騙したっていうのは心外ですね。国府さんがダイビングをやりたいと言うから、その後押しをしただけです。まあ、多少は話を簡略化したのは認めますよ」
「多少だあ? お前、Cカードのこともバディのことも、何も言ってなかっただろ。いかにも、ちょっと練習すれば、すぐにでも自由に潜れるって感じの説明だっただろ」
「実際そうですし」
 なあ? と目黒に声をかけられたが、滋之はあえて聞こえなかったふりをする。生意気だと言わんばかりに国府にあごを掴まれ、強引に二人のほうを向かされた。
「潜るだけなら、すぐだよな?」
 もう一度目黒に尋ねられ、渋々滋之は頷く。
「コースを受けたら」
 満面の笑みを浮かべた目黒が、国府に向き直る。
「どうします? 国府さんがやりたがっていたダイビングが、ちょっとの努力でできるようになるんですよ。面倒な手続きはうちがやりますし、器材のレンタルもありますから、身一つで始められます。いい機会だと思うんですけどね」
 上目遣いにちらりと滋之がうかがうと、いつの間にか煙草を揉み消した国府は、腕組みをして難しい顔で考え込んでいた。ダイビングをするかしないかで、いい大人がここまで悩む光景も珍しい。それとも、よほど仕事が忙しいのかと考える。
 数分ほどうなり続けた国府だが、ふっと顔を上げて目黒に向けて手を差し出す。
「――出せ。どうせ持ってきてるんだろ」
 滋之には、一瞬国府がなんのことを言っているのかわからなかったが、目黒にはそれで十分だったらしく、パーカーのポケットから店の封筒を取り出して国府に手渡した。
 目を丸くして眺めている滋之に、目黒が説明してくれる。
「コースの申込書だよ。初心者Cカード取得コース」
「すぐに初心者じゃなくなる」
 申込書に視線を落としながら国府が言葉を付け足す。さらに片手を差し出され、すかさず目黒はボールペンも渡した。
「ハンコは後でいいですから」
「心配するな。持ってきている」
 目黒は苦笑して肩をすくめる。
「……やっぱり、申し込む気だったんじゃないですか」
 書類に書き込まれていく国府の字を眺める。なんとも大雑把な字だ。ここでふと滋之は、ようやく肝心なことを思い出し、目黒に尋ねた。
「この人と目黒さん、友達?」
 濡れた髪を様になる仕草で掻き上げた目黒は、運ばれてきたコーヒーを啜る。
「ああ。知り合ってまだ、三か月ぐらいだけど。――おれが休みのとき、よく一緒に潜る野崎さんを知ってるだろ?」
 店の常連客の一人なので滋之とも顔馴染みで、水中撮影を請け負う会社のテレビカメラマンだ。
「その野崎さんの紹介なんだ。撮影繋がり」
「……それってつまり、このおっさんもカメラマン?」
 言った途端、書類に目を落としたままの国府の手が伸ばされ、素早く鼻を摘まれた。不本意ながら滋之は訂正する。
「国府、さん」
 すぐに手がのけられ、何事もなかったように国府はボールペンを持つ手を動かし、目黒は噴き出す。
「国府さんは報道写真のほうのカメラマンだ」
 そう言って目黒が、ある有名な週刊誌の名を出す。思わず滋之は、素直に感嘆の声を洩らした。
「おれと野崎さんの海の話を聞いていて、国府さんはダイビングに興味を持ったんだ。それで、さっき言った通り、なら一度、ダイブワールドに来ませんかって、声をかけていたんだ」
「行ってみたら、この小僧がひょこひょこと近づいてきたんだ」
 もっと他に表現のしようはないかと思ったが、また鼻を摘まれるのは嫌なので、滋之は黙ってストローに口をつける。
 滋之と国府の出会いが容易に想像できたのか、目黒は声を上げて笑う。
「見た目は童顔の小僧ですけど、滋之のダイバーとしてのキャリアは本物ですよ。いろいろとライセンスも取っていますから、海の中で連れていると便利です。……まあ最近は、なかなか海に入りたがりませんけど」
 意味深に目黒の視線が向けられる。その視線の意味をよく理解している滋之は、ぎこちなく顔を背ける。ふと気がつくと、いつの間にか顔を上げた国府が、二人のやり取りを見ていた。
 何事もなかった顔をして、国府が書き終えてハンコを押した書類を目黒に突きつける。簡単に目を通した目黒は満足げに頷いた。
「確かに受け取りました。これで国府さんも、我々ダイバーの仲間入りですね」
「……Cカードを取ってからの話だけど」
 一言付け加えた滋之は、ジロリと国府に睨まれる。目黒が笑いながら仲裁に入る。
「まあまあ。これからインストラクターとコース生という関係になるんだから、穏便に」
 危うく聞き流しかけた滋之だが、次の瞬間には目を見開いて目黒に詰め寄る。
「目黒さんっ、それどういう意味っ」
「俺にも説明しろ」
 低く凄んで国府もイスから腰を浮かせる。実は油断ならない爽やかな笑みを見せながら、目黒はとんでもないことを言った。
「いや、だから、国府さんのCカード取得のコースは、滋之にやってもらおうかと……。おれは他のコースも受け持ってるから、国府さんの希望の時間に空いてるとも限らないし。それなら、いつでも店を抜け出せる滋之が適任じゃないかと思ったんだ」
 なるほど、と呟いたのは国府だ。あっさり納得するなと思いながら、滋之は必死で首を振る。
「なんでぼくなんだよっ。初心者以前の人のコースを受け持つなんて嫌だからな。目黒さんだって、一年前の事故のこと覚えて――」
 言いかけた滋之だが、国府の前なのを思い出して不自然に口をつぐむ。
 一年前のある『事故』があって以来、滋之はインストラクターの資格を持っていながら、コースは受け持たなくなった。それにプライベートで海に潜るときは、気心が知れ、ベテランである目黒としか組まない。そうやって自戒し続けてきた。
 一年前の出来事は、確実に滋之のトラウマとなっている。
 ここで目黒は真剣な顔となり、諭すように言う。
「いつまでも引きずっててもダメだろ。あれは事故だし、お前のせいじゃない。もう、インストラクターとして復帰してもいいだろ」
「……簡単に言うけど……」
「おれは切り出すのを待ってた。今回はいい機会だと思う」
 いつかは、誰かに言われると思っていた。滋之だって、いつまでも一年前の出来事に囚われ続けているのはよくないとわかっている。しかし、インストラクターとしての復帰一号のコース生が国府だというのも、感情的に納得できない。
 ちらりと国府を見ると、人が真剣な話をしているというのに、テーブルに頬杖をつき、次の煙草を唇に挟んでいるところだった。目が合うと、底意地の悪い口調で言われた。
「――インストラクターは誰でもいいが、途中でメソメソと泣き出すようなガキをつけるのだけは勘弁しろよ。俺はダイビングを習いたんであって、子守りも、メンタル面のリハビリの先生もやる気はないからな」
 自分を指して言っていると瞬時に察した滋之は、ムキになって反論しようとしたが、間髪をいれずに目黒に肩を掴まれて押さえられる。
「落ち着け、滋之。――国府さんも、この子をイジメないでくださいよ。素直なんですから」
「ようは、ガキなんだろ。あー、やだね。俺の大事な命を、お前みたいなガキに預けるなんて」
 目黒の柔らかな物言いとは対照的な、唇に意地の悪い笑みを刻んだ国府のきつい言葉に、滋之は一瞬我を失う。その結果、本意に反することを勢いで口にしていた。
「ガキガキ言うなっ。そこまで言うなら、インストラクターを引き受けてやるっ。言っておくけどぼくは、相手がおっさんだからって、遠慮はしないからな」
 ここで、目黒がにんまりと会心の笑みを浮かべ、国府が呆れたように唇をへの字に曲げて、ぼそりと呟いた。
「……ガキだ。こいつはやっぱり。こんな簡単な挑発に乗りやがった」
「へっ……?」
 わけがわからない滋之はマヌケな声を出して首を傾げる。寸前までの殺伐とした空気は、あっという間にのんびりとしたものに変わった。目黒は腹を抱えて笑っている。
 自分だけが状況を把握しきれていないと察し、滋之は思いきり顔をしかめる。
「なんなんだよ、一体っ」
 ようやく笑い収めた目黒に、なぜか肩を叩かれる。一方で国府は、自分は関係ないといった顔で煙草を吹かしている。
 二人の様子を交互に見てから、滋之の頭にパッと閃くものがあった。
「あーっ」
 思わず頭を抱えて声を上げてしまう。目黒に頭を撫で回された。
「ようやく気づいたか。自分が、国府さんのインストラクターを引き受けたこと」
「やだねー。こんなとろいガキ――坊主に、命を預けないといけないなんて」
 目黒と国府の言葉が、波状攻撃となって滋之に襲いかかる。うまく二人の言葉に煽られてしまった現実が、いまさらながら痛かった。
 しばらく呆然としていた滋之だが、すがるように目黒を見上げる。露骨に顔を背けられた。
「――……目黒さーん」
「捨てられた子犬のような目をして、頼りない声を出すな。おれはお前を立ち直らせるために、心を鬼にするって決めたんだ。それに、親父さんにも許可は取ってある」
 それを聞いた滋之はピンと背筋を伸ばす。これまでのやり取りは、目黒と国府の間だけで決められたわけではなかったのだ。つまり、それだけ目黒も父親も、滋之のインストラクター復帰に本気というわけだ。
 一方の国府のほうは、一年前、滋之に何が起こったのか知っているのか知らないのか、ただ煙草を吸っている。滋之の事情などどうでもいいというふうにも見える。
「おれもできる限りフォローはするから、とにかくやってみろ。……お前は、人にダイビングを教えるのが嫌になったんじゃない。自分に対するけじめとして、教えるのをやめたんだろ。そういうけじめの取り方は、誰も納得しないと思うぞ」
 目黒は本気で言っていた。この一年、ここまで突っ込んだ話をされたことはなかったが、やはり目黒なりに滋之を気づかってくれていたのだろう。その気持ちがわかるだけに、簡単に席を立てないし、機嫌も損ねられない。
 やってみようか、と滋之の気持ちは大きく傾く。最初に国府を教えなければならないというのはある意味、与えられた試練ともいえるが。
 澄ました顔で煙草を吸い続ける国府の、魅力的といえなくもない顔を眺めながら、滋之は自分の中で結論を出す。その瞬間を見透かしたように、国府にふっと煙草の煙を顔に吹きかけられた。
「――なんだ。人の顔を、恨みがましそうにでっかい目で睨みやがって」
 言われっ放しの滋之は、ここぞとばかりに報復に出た。
「あんたなら、多少何かあったって、ピンピンしてるだろうなと思って」
 ただでさえ迫力のある面構えだというのに、国府の眉間に深いしわが寄った。
「……何かって、なんだ……」
「予見できないトラブルだよ――」
 おっさん、と続けようとしたが、国府の、煙草を挟んでいないほうの手がピクリと動くのを見て、鼻を庇いつつ滋之は口を閉じる。
 睨み合う滋之と国府の傍らで、半ば感嘆するように目黒が洩らした。
「――案外、いいバディ同士になるかもな。国府さんと滋之は」








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