バディシステム


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 レギュレーターから空気を吸い込み、フィンをつけた足で水を蹴った滋之は、ゆっくりと浮上しながら、浮力を調節する装置であるBCDの空気を少しずつ抜いていく。
 無機質なダイビング訓練用のプールの水と海水では、体にかかる浮力が違う。久しぶりにプールに浸かった滋之は、その感覚に戯れる余裕もなく、自分の行動がコース生たちによく見えるよう、大きな身振りでやってみせる。
 それぞれのコース生たちから空気の泡が上がっていくのを確認して、指で水面を指差す。これで完全に浮上し、今度は浮力を得るため、BCDに空気を入れる。これで浮上は完了だ。
 水面から顔を出したコース生たちはプールに取り付けられた階段に近づき、一人ずつ上がっていく。手を貸すのは、もう一人のインストラクターである目黒の役目だ。海ではバディが、この役目を務める。海に入るときも上がるときも、常にバディは相手の様子を気づかうのだ。
 海において、バディの存在は命綱そのものといっても大げさではない。
 滋之も手を貸してもらってプールから上がると、ずっしりと体にかかる重力を堪える。
「ご苦労さん」
 プールには潜らなかったものの、半袖のウエットスーツ姿の目黒に声をかけられる。頷いて返した滋之はレギュレーターとマスクを外す。これでようやく顔に新鮮な空気が触れる。
 コース生たちは二人一組となり、お互いの装備を外すのを手伝っている。滋之の相手は目黒だ。
 その目黒は、コース生たちに今日の講習はこれで終わりだと告げている。それに、自前の器材を持ち込んでいるコース生には、メンテナンスを怠らないよう忠告する。このときだけは、明るく人当たりの柔らかい目黒は、厳しいインストラクターとなる。
 背後に立ってタンクを支えてくれながら、目黒に尋ねられた。
「久しぶりのプール練習はどうだ?」
 滋之はショルダーベルトのバックルを外し、しずくが滴り落ちる前髪を掻き上げる。
「まあ、プールならね。まんべんなく生徒さんたちに目が届くから、けっこう平気」
 国府のインストラクターを引き受けさせられた翌日、人にダイビングを教える勘を取り戻すため、目黒に誘われて、アシスタントとしてプールコースに参加したのだ。
 ちなみにこのダイビング用のプールは、提携しているスポーツクラブのものを使わせてもらっている。
 ダイビング器材を身につけて水に入る訓練なので、当然のようにコース生はダイビングは初めてという人たちばかりだ。そのためインストラクターとしては神経を使う。
 ホース類が絡まないよう気をつけながら腕を抜くと、目黒がしっかり器材を受け止めてくれる。すっかり身軽になると、滋之は髪を一つにまとめていたゴムを外して、犬のように頭を左右に振る。濡れた髪から水滴が飛び散った。
 滋之の動作を見ていた目黒に、髪を一房掴まれて引っ張られた。
「……伸びたな、髪。だけど邪魔じゃないか。これから暑くなるんだから、短くしたらどうだ。お前がどういうつもりで伸ばしてるのか知らないけど」
 知っていて、あえて目黒は言っているのだ。それでもはっきり口に出さないのは、目黒なりの配慮だろう。滋之はちらりと笑みを浮かべる。
「髪が長いと、セクシーさが増すと思って」
「ダイブワールドのナンバーワン色男の座は、簡単にはお前に渡さないからな」
「……誰が言ってるんだよ、そんな世迷い言」
 次の瞬間、背を押された滋之はプールにドボンと勢いよく落ちる。ダイビング用のプールだけあってかなり深いのだが、目黒の行動をある程度予測していた滋之は、一度水面から顔を出すと、目黒に思いきり手で水をかける。見事に、自称・色男が頭からずぶ濡れとなる。
「やってくれるじゃねーか」
 妙な掛け声と共に目黒までプールに飛び込んでくる。まだその場に残っていたコース生が、プールの中で取っ組み合う二人を見て、歓声を上げる。もちろん、本気でやり合っているわけではないから、笑っていられるのだ。
 首に目黒の腕が回され水中に沈められそうになる。滋之は腕の力が緩められているのをいいことにスルリと抜け出し、自ら一気に水中深くへと潜る。
 水に揺れる髪が頬に触れ、その感触にゾクリとする。目黒が言った通り、髪を伸ばしていていいことはないし、邪魔なだけだ。意味があるとすれば、自分自身に対する戒めというだけだ。
 ゆっくりと浮上して水から顔を出す。浮いている目黒から、一瞬だけ厳しい眼差しを向けられた。また自分を責めているのか、という声が聞こえてきそうだ。
 二人は水から上がると、コース生たちがいなくなったダイビング用プールの縁に腰掛ける。
 滋之は、髪の先から落ちるしずくを目で追いながら、目黒に恨みを込めた声で尋ねた。
「――本当にぼくに、あの人のインストラクターさせる気?」
「あの人?」
 とぼけた目黒に両腕を伸ばし、プールに突き落とすまねをする。大仰に体を反らせた目黒は、他人事だからか、気持ちよさそうに声を上げて笑う。
「まだ諦めてないのか」
「あんな手段で引き受けさせられて、簡単に諦めがつくわけないだろ。しかも、すごい美女っていうならぼくも喜んで引き受けるけど、よりによってあの、迫力満点のおっさんだろ」
 ふてぶてしい態度の国府を思い出し、滋之はフィンを取った足でプールの水を叩く。
「……よく言うよ。奥手で純情な坊主が、美女なんて相手にできるわけないだろ。おれとしては、意外にいけると思ったんだよ、お前と国府さん。人生の先輩と、海の先輩という組み合わせは。お互いを尊敬し合い、鍛錬し合うなんて、理想的だろ」
「あー、なんだか体が冷えてきたな」
 ついでに鳥肌が立ちそうだ。自分で言っておかしかったらしく、目黒も苦しげに笑っている。
「とにかく、頼むわ。昨日会ってわかったと思うけど、けっこうクセがあるからな。国府さんは」
 国府に鼻を摘み上げられた屈辱を思い出し、滋之は無意識に顔をしかめる。
「――……だいたいなんで週刊誌のカメラマンが、いきなりダイビングをやりたいなんて思ったわけ? どう見たってあの人、海の美しさに心を震わされるってタイプじゃないと思うんだけど」
「子供の頃、海の近くに住んでたらしい。それでしょっちゅう素潜りをしてたんだそうだ。だけど素潜りだと、海の中にいられる時間も、行ける場所も限られるだろ。子供ながらに、その限界が悔しかったって言ってた」
 釈然としない滋之の気持ちを表情から読み取ったのか、目黒が言葉を続ける。
「おれも疑問に思ったから聞いたんだ。どうして忙しい今になって、って」
「なんだって?」
「教えてくれなかった」
 あっさりと答えられ、肩を落とした滋之はシャワーを浴びてこようと立ち上がる。だが目黒の話はこれで終わりではなかった。まるで独り言のような言葉が滋之の耳に届いた。
「――……戦場カメラマン志望っていうのが関係あるのかもな」
 滋之はパッと振り返る。
「戦場カメラマンって、外国で紛争や戦争の写真撮るんだろ?」
「ああ。場所によっては、報道の人間だろうが関係なく攻撃されるからな。そんなところに行く気なら、腹も据わるだろ。残す未練は一つでも少ないほうがいい。そう思ってるのかもな」
 滋之は返事をせず、一足先にシャワールームに向かう。
 ウエットスーツを脱いで、冷えた体に熱い湯を浴びながら、少しだけ国府に対する認識を改めてみようかと思った。
 皮肉っぽく、意地悪で強面のおっさんなのは変わりはないが、海に接したいという気持ちは真摯なものだろう。それだけがわかれば、なんとかやっていけるかもしれない。
 閉じていた目を、うつむいてから開く。髪に湯が伝い落ちていく。滋之は髪に指を絡めてから、まだこの髪は切れないなと痛感していた。




 脚立のてっぺんに上り、滋之はふらふらとしながら新しく入荷したウエットスーツを棚の上に展示する準備をしていた。店員の一人がさきほどまで脚立の足元を支えてくれていたのだが、客に呼ばれて行ってしまった。
 絶対動かないでください、と念を押されたのだが、脚立の上でウエットスーツを抱えてじっとしているのも、つらいものがある。結局、慎重に体を伸ばして作業を再開していた。
「――危なっかしいな」
 ふいに脚立の下から、不機嫌そうな声をかけられる。客かと思い、反射的に滋之は謝る。
「すみません。もうすぐ終わりますから、通行は……」
 言いながら視線を下に向け、激しく動揺する。大きなバッグを肩からかけた国府だった。前回、半ば強引にインストラクターをさせられることになってから、およそ五日ぶりの再会だ。
 愛想よく挨拶できるはずもなく、あっ、うっ、と声を洩らし、ただ国府の不機嫌そうな顔を見下ろす。滋之が自分の上の位置にいるのが気に食わないのか、顔をしかめた国府に指先で、脚立から下りるよう示された。
 何様だと思ったが、ウエットスーツを抱えたままの滋之の口を突いて出たのは、まったく違う言葉だった。
「ちゃんと、講習のDVDを観てくれた?」
「なんのことだ」
「……年取ると、物忘れが激しくなるんだな」
 小声で言った途端、国府の手が脚立にかかる。さすがにこの行動には滋之は慌てる。
「うわっ、おっさん、何するんだよ」
「口の利き方を知らん坊主に、体で教えてやろうかと思ったんだ」
 ニヤリと笑いかけられ、内心で毒づきながらも滋之は何も言えない。その坊主の軽口に律儀に反応する国府も、大人としてどうかと思う。
「ほら、下りろ。お前にはこれから、つき合ってもらわないといかんからな」
「つき合うって、何を……?」
「お前こそ若年性の物忘れか。ダイビングに決まってるだろ」
 国府にいろいろと言ってやりたいのだが、ひとまず脚立から下りることにする。
 滋之はずっしりとくるウエットスーツを片腕に抱えたまま、おぼつかない足で一段一段下りていく。足元に視線を落とすと、床はもうすぐだ。
 思わず油断した瞬間、腕からずり落ちたウエットスーツを踏みつけてしまい、脚立から片足が滑り落ちる。
「うわっ」
 体のバランスを崩した滋之が脚立から手を離そうとした瞬間、背後からしっかりとした感触に支えられて、すぐ耳元で忌々しげな声がした。
「こんな低い場所から落ちるなよ。鈍くさい奴だな」
 あっ、と思ったときには腰にがっしりとした片腕が回され、ひょいっと体を持ち上げられる。気がつくと、床の上に着地させられていた。滋之は慌てて振り返る。肩にかけていたバッグを床に置いた国府が、意地の悪い笑みを向けてきた。
「ありがとうございましたは?」
「あ、あんたが驚かせるからだろっ」
 ちょうど戻ってきた店員にウエットスーツを押し付け、滋之は国府に手招きして店の二階へと向かう。コースの説明会や、コース生たちを伴って海やプールへ出向くときの集合場所に、二階を使っているのだ。
 階段を上りながら、国府が聞こえよがしにぼやく。
「最近のガキは、礼儀を知らんな。人が助けてやったっていうのに……」
「最近のおっさんは、恩着せがましいよ」
 腹いせのつもりか、一つにまとめた髪を後ろから思いきり掴まれて、滋之の頭はガクンと後ろに引っ張られる。
 文句を言おうと振り返ると、澄ました顔で国府が言った。
「それで、レンタルしてくれる器材はどこだ。コース生には貸し出してくれるんだろ」
「……さっきの質問だけどさ、目黒さんがあんたに貸した、ダイビングの講習用DVD、ちゃんと観てくれた?」
 国府の答えはあっさりとしたものだった。
「観てない」
「観てないって、あんた子供じゃないんだから。いいおっさんだろ? 必要だから観ろって言ったんだから、きちんと観ろよ」
「やかましい。俺は仕事で忙しいんだ。ドロドロに疲れて帰ってきたあとで、他人が泳いでいるだけの映像なんて観られるか」
「うわっ、信じらんない、あんたって……」
 店の人間はコース室と呼んでいる部屋のドアを開け、国府と共に中に入る。室内は整然とデスクが並び、ちょっとした教室だ。
「適当な場所に座って。それと、DVD返して。あんたが家で観る気がないっていうなら、今日はそれ観るから」
 テレビを移動させ、DVDプレーヤーの電源を入れた滋之が顔を上げると、国府がバッグを肩に部屋を出て行こうとしていた。
「何してるんだよっ」
「俺は、ダイビングをしに来たんだ。そんなものを観る時間はない。よって、帰る」
 あまりの国府の身勝手な理屈に、呆気に取られながら滋之は呟く。
「……信じらんない、このおっさん……」
 部屋をすぐに出て行くかと思われた国府だが、ドアノブに手をかけたところで振り返る。その顔には憎たらしいほどの余裕が漂っていた。
「インストラクターがいれば、初心者でもすぐに海に入れるんだろ? 実地で教わったほうが、頭に入ると思わないか?」
 自分が甘く見られているのを痛感しながらも、滋之の返事は一つしかなかった。
「――今日は絶対、浅瀬にしか潜らないからな」
「まあ、それで我慢してやろう」
 超のつく初心者のくせに、国府はそう言って鷹揚に頷いた。








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