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まだ六月である平日の昼間の砂浜には、人影はまばらだった。それでも、天気はよくて気温も高いため、中には水に足をつけて遊んでいる人の姿がある。
もっとも、これからダイビングを始めようとしているのは、滋之と国府の二人だけだ。強引な国府に押され、店の近くの海にダイビング器材一式を抱えて移動してきたのだ。
砂浜の隅にシートを敷き、そこに二人は座り込んでウエットスーツを着込む。普通はウエットスーツの下には水着を着るものなのだが、国府は持ってきていなかったため、店に置いてあるものを買わせた。
優秀な店員を自分勝手な理屈で連れ出すのだから、これぐらいの売上の貢献をしろと言ったところ、意外にも国府はおとなしく従ったのだ。
「きついな……」
首周りに手をかけ、顔をしかめて国府が洩らす。滋之は使う器材をシートの上に並べていきながら、素っ気なく応じた。
「ウエットスーツできついなんて言ってたら、冬場になるとドライスーツなんて着られないよ」
器材をすべて並べ終えると、一つ一つを丁寧に教えていく。ここは手抜きはできなかった。なんといっても、使い方を頭に叩き込んでおいてもらわないと、命にかかわってくるのだ。
「それじゃあ、さっそく――」
滋之は国府を立たせると、ショルダーベルトを装着させ始める。体に密着しているウエットスーツを身につけて改めて感じたが、国府は体をよく鍛えてあった。スポーツジムで計算して鍛えたものではないだろう。
しっかりとベルトを締めながら、沈黙しているのも間がもたないので国府に話しかける。
「国府さんの仕事って、ハードなの?」
んあ? と気のない返事をした国府の顔を上目遣いに見上げ、聞かなければよかったと後悔した滋之は、言い訳のように付け加える。
「……けっこうしっかり体を鍛えてあるから、そうなのかなって……」
「ただで見せるにはもったいない肉体美だろ?」
「はいはい。まともに海に浮かべるようになったら、集金して回ったら」
国府の背後に回り込み、装着したBCDが緩んでいないかチェックをする。その間中、国府に小言を言われる。
「お前なあ、生意気だし可愛げがないぞ」
「おっさんに可愛いと言われてもなあ」
「そういうところが――」
最後まで言わせず、国府にパワーインフレーターという、BCDとホースで繋がっているてのひらサイズの装置を手渡す。顔をしかめる国府にかまわず、ボタンの位置を説明する。
「インフレーターについてるこっちのボタンが排気、こっちが給気。どっちがどっちか、よーく覚えておいてよ。給気ボタンを押すと、BCDに空気が供給されて浮かび上がれるようになるし、排気ボタンだと、排出されて反対に沈む」
不器用な手つきで国府はボタンを交互に押す。この大きくて武骨そうな手がカメラを持つときは、素早く反応してシャッターを押すのだろう。思わず滋之は国府の手の動きに見入ってしまうが、当の国府の視線を感じて顔を上げる。
「なんだ、やり方が違うのか?」
真顔で問いかけられ、知らず知らずのうちに滋之の顔は熱くなる。
「そうじゃないけどっ……。あっ、ボタンを長めに押さない。空気が入りすぎないように短く押すんだ。BCDを貸してあげるから家に持って帰って、自分で装着の仕方と、ボタン押しの練習しておいてよ。ただDVD観るより、やり甲斐あるだろ」
海の中でパニックになったときでも装置の操作をしなくてはいけない。そのときのために、体でボタンの位置や装着の仕方を覚えておく必要があるのだ。
フィン以外の器材をすべて国府に装着してから、滋之は手早く自分も身につける。
向き合ってから、国府のマスクの位置を調節する。波の穏やかな浅瀬なので、今は国府はスノーケルを咥えている。何かと口うるさい国府だが、さすがにスノーケルを咥えていると、慣れない装備を自分で外してまで言葉を発しようとはしない。
今度から国府がうるさいようなら、スノーケルかレギュレーターを咥えさせておこうと、滋之はロクでもないことを思いつく。クスッと笑みを洩らすと、それが気に食わなかったらしく、国府に後ろ髪を掴まれて引っ張られた。
「何するんだよっ。ほら、海入るから、これ持って」
滋之は乱暴にフィンを押し付け、国府の腕を掴んで海に入っていく。春ほどではないが、まだ水は冷たい。ウエットスーツを通してじわじわと肌を刺激され、滋之は軽く身震いする。それでも、一か月前に目黒や他の仲間と海に潜ったときに比べれば、水温は高くなったといえるだろう。
隣の国府を見ると、わずかに緊張した面持ちだ。掴んでいた腕を外し、自分の肩に手をかけるよう示す。素直に国府は従った。
腰の辺りまで海に浸かる。足の長さがまったく違う国府は、腿の中ほどだが。
「ここでフィンをつけて。素早く、テキパキと」
滋之の指示で、国府は片足を上げてフィンをつけ始める。掴まれた肩にさらに重みが増し、滋之は両足を踏ん張って耐える。次に滋之がフィンをつける番だ。
もう一度海に浸かってからの行動を説明して、自分もスノーケルを咥える。先に足がつかなくなった滋之から、レギュレーターでの呼吸に切り替えて身を躍らせる。
身振り手振りで国府をさらに深みへと誘い、ここからが本番だ。それぞれの装置を示してから、BCDからすべての空気を抜いて、海底へと沈み込む。さすがに度胸はあるらしく、国府は落ち着いた様子だった。それどころか、表情には余裕のようなものすら漂う。
この時期、海水はまだ少し濁っている。透明さが増すのはだいたい夏の終わり頃からだ。だが、ダイビングの感覚を味わうには十分だ。その証拠に、国府は物珍しそうに海中を見回している。
空気の大半を抜いたので、泳いだり漂ったりというよりは、海底を腹這いになって移動する。
さきほど教えたようにパワーインフレーターの給気ボタンを押して、今度はBCDに空気を供給する。すると体が浮かび上がる。BCDの操作と、呼吸の仕方によって体が微妙に浮沈する感覚を、何度も繰り返して国府に覚えさせる。これができないと、次のステップに進めないのだ。
国府は楽しそうで、そのうち不格好ながらも泳いで好き勝手に移動を始める。滋之はぶら下げたコンパスで位置を確認してからあとを追いかける。
浜辺に近かろうが、危険な潮の流れがなかろうが、どんなときでも油断をしてはいけないと、滋之は常に自分に言い聞かせている。それが、一年前の事故で唯一滋之が得たものだ。
バランスを崩した国府のフィンが海底につき、沈殿していた砂や細かなゴミを舞い上げる。国府の背後を泳いでいた滋之の視界が一瞬にして奪われ、その場で止まる。国府の姿を見失っていた。しかも国府はこの状況をおもしろがっているらしく、別方向でも砂が舞い上がって水が濁る。
普通なら、なんでもないアクシデントだ。だが滋之は違う。急に鼓動が跳ね上がり、胸が苦しくなる。必死になって国府の姿を探していた。こうなるとコンパスは役に立たない。
濁った水の中を動き回り、両手を伸ばして探る。
時間にすれば、一分ほどだ。しかし滋之には、一時間以上も一人で置かれている気がしてくる。
ふいに、強い力に腕を掴まれる。ハッとして振り返った滋之は、まだ舞い上がる砂の中から国府が姿を見せる場面を凝視する。驚きのあまり目を見開く滋之に対して、国府はおもしろがるような笑みを向けた。
からかわれたことに対して、目もくらむような怒りを覚える。
気がついたときには滋之は、国府がつけているマスクの位置をわずかにずらしていた。あっという間にマスク内が浸水する。どうするんだと言いたげに、自分のマスクを指さして何度も示す。
滋之はふわりと体を浮かせて国府の間近に移動すると、顔と顔を寄せる。自分のマスクもずらして浸水させると、鼻から息を吐き出してマスクの中の水を排出する。すぐに国府も倣う。
次に滋之は、パワーインフレーターを握って給気ボタンを押すまねをして、指先で海面を示す。二人はゆっくりと浮上した。
海上に顔を出した途端、国府がレギュレーターを外す。滋之もほぼ同時に外した。
「お前、わざと俺のマスクをずらしただろ。どういうつもりだ」
「あんたこそ、わざと砂を舞い上がらせただろ。ルール違反だ。海にあるものを不用意に傷つける。ダイバーは、海の環境を破壊しないよう細心の注意を払う義務があるんだ。軽い遊び心じゃ済まないこともある」
口調から、滋之が本気で怒っているとわかったらしく、国府が難しい顔となる。
「……それに、ぼくがあんたの姿を見失ったらどうするんだ」
「別にこんな浅瀬なら――」
「そうじゃない。もし急に潮の流れが速くなって、あんたが流されたらどうするつもりだった。あんたを助けられるのは、あの場面ではぼくしかいなかった。バディっていうのは、仲良く一緒に海に潜るのが役目じゃない。海の中で、唯一無二の命綱なんだ」
興奮のため頬が熱い。滋之はきつい眼差しで国府を睨みつけていたが、その国府が唇に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「お前がそこまでバディでムキになるのは、一年前の事故があるからか?」
ビクンと体が強張る。一年前の事故について国府が知っているのは不思議ではない。おそらく目黒が説明したのだろう。だが、この状況で切り出されたくはなかった。
滋之はぐっと唇を噛み締める。そんな滋之の表情に加虐的なものを刺激されたように、国府は口を動かし続ける。
「一年前、お前は自分のバディを事故に遭わせたんだってな、海外のリゾート地で。友人だったらしいな、そのバディは。結果として命は無事だったが、お前のほうが再起不能になるんじゃないかっていうぐらい落ち込んだと、目黒の奴が言ってたぞ」
一年前の事故は、ダイビングに接している限り、常に滋之について回る事実だ。
「俺もそれを聞いて、お前にインストラクターを頼むのはどうかと思ったんだが、目黒の奴がどうしても、お前にインストラクターに復帰してもらいたいっていうから、協力したんだ」
怒鳴ってやりたかったが、具体的に何を言っていいのか、頭の中が真っ白になって言葉が浮かんでこない。結局滋之はこう言っていた。
「砂浜に戻るから、スノーケルの準備して。BCDの空気量はそのままでいいよ」
面食らったように目を丸くする国府を強引に先に行かせ、あとから追いかける。
砂浜への上がり方を淡々と説明して、滋之はさっさとシートの上に自分の器材を下ろす。濡れた髪や顔を簡単に拭いてから、ウエットスーツの上からバスタオルを羽織る。傍らでは、滋之の反応に呆気に取られていた国府が、思い出したようにスノーケルとマスクを外している。
「……おい、なんか反応を返せよ。気味が悪いだろ」
滋之はちらりと国府を一瞥してから、自分の機材を抱え持ってサンダルを履く。
「器材は全部、店に持ってきて返しておいてよ。塩水を抜かないといけないから、BCDを借りる気があるなら、別のを持って帰って。じゃあ、ぼくはこれで帰るから」
「待て、こらっ。あれだけでコースは終わりか? お前、手を抜いてるんじゃないのかっ」
「うるさいっ。二度とぼくに声をかけてくるなっ。無神経オヤジっ」
大声で国府を怒鳴ると、キッと睨みつけてから滋之は足早に砂浜を立ち去る。その間、一度も後ろを振り返らなかった。
店までの道のりを濡れたウエットスーツ姿で歩くのはさほど気にならない。他のコース生やインストラクターもこの海で潜ったときは、着替えをせずに店まで戻ってシャワーを浴びるようにしているので、地元の人間にとっても見慣れた光景だ。
歩道にペタペタと濡れた足跡を残しながら店に戻ると、滋之は裏から中に入る。ウエットスーツを上半身だけ脱いで店の奥の事務所に向かう。
事務所の電話を取り上げると、素早くある番号にかける。イライラしてコール音を聞きながら、髪を一つにまとめたゴムを乱暴に外す。
『もしもし――』
人の苦労も知らず、なんとものんびりとした声の目黒が電話に出る。
「ぼくだよ」
『ああ、滋之か。どうかしたのか?』
声の様子からして今日国府が、滋之の元に訪れたとは知らないようだ。
さきほど海で、国府に言われた言葉が脳裏に蘇る。一年前の事故を軽々しく他人に言われたくはなかった。しかも、当時の自分の様子を知らない人間に。
滋之を思ってくれたのだろうが、個人の事情を国府のような男に話した目黒に責任の一端はある。大きく息を吸い込んだ滋之は一気に怒りをぶちまけた。
「ぼくはもう二度と、あのおっさんの面倒は見ないからなっ。インストラクターなら他を当たれって言っといてよ」
「ちょっ、ちょっと待てっ。国府さんとなんかあったのか?」
「あった。だけど言いたくない。知りたいなら、おっさんに聞いて。デリカシーの欠片もなさそうだから、何がぼくの気に障ったか、気づいてないと思うけど。それじゃあ、悪かったね」
乱暴に受話器を置くと、滋之はぐしゃぐしゃと濡れた髪を掻き乱す。思わず苛立たしさのあまりに叫んでいた。
「――あーっ、腹が立つっ」
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