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店の奥の事務所に置かれたパソコンに向かいながら、顔をしかめた滋之は数字を打ち込んでいた。別に悲観するほど売り上げが悪いわけではなく、三日前から機嫌が最悪なのだ。
触らぬ神に……、とでも思われているのか、いつもは何かと気軽に声をかけてくる他の店員たちが、まったく近寄ってこない。周囲を緊張させているという自覚はある滋之だが、態度を改めようとは思わない。それほど国府に対する怒りは深かった。
それがわかっているのか、この三日、目黒はこの支店には顔を出さない。滋之と顔を合わせて恨み言を言われるのが嫌で、避けているのだろう。その証拠に、ダイビングのコースやツアーの事務局がある本店に電話をかけて聞いてみると、毎日事務所には顔を見せているそうだ。
棚卸しの数字を凝視し続けているのに疲れ、イスに深くもたれかかって頭の後ろで両手を組む。いつの間にか癖になったのだが、無意識のうちに滋之は一つにまとめた髪を指先で梳く。
そこに、店員がメモ用紙を手に入ってきた。滋之は声をかける。
「在庫の確認?」
「ダイビング器材を一式揃えたいというお客様が見えられているんです。在庫があるなら、すぐに持って帰りたいとのことなんで」
ダイビング器材というものは、小さなものでも意外に高価だったりする。まとめて購入となると、その金額はバカにならないのだ。
おそらくダイビングを始めたばかりか、これから始める人なのだろう。
そう思ったところで、国府の憎たらしい顔が脳裏を過る。国府は器材をどうするのだろうかとふと考えた滋之は、次の瞬間にはムッと唇をへの字に曲げる。まっさきに国府を思った自分に腹が立ったのだ。
今年店に入ったばかりの店員は、自分が滋之を怒らせたと思ったらしく、理由もわからないのに謝り始める。苦笑した滋之は立ち上がる。
「ぼくも一緒に行くよ。商品の置き場所を変えたから、わかりにくいかもしれないし」
店員の手からメモ用紙を取り上げ、滋之は席を立つ。事務所の隣の商品倉庫に入ると、さっそくメモを見ながら器材を取り出していき、店員に手渡していく。
「これでOK。ウエットスーツやブーツにグローブは、店に出してあるのを選んでもらおうか」
滋之も箱を抱えて、店員と共に店に出る。そこで視界に飛び込んできたのは、Tシャツの上にジャケットを羽織ったサングラス姿の男だった。思わず滋之は足を止める。
その男はパンツのポケットに無造作に両手を突っ込み、吊るされているウエットスーツを微動だにせず見つめている。見間違えるはずもない。国府だ。
滋之の中でムカムカと激しい怒りが込み上げてくる。どのツラを下げて店に来たのだと思ったがすぐに、自分をからかいに来たのだと見当をつける。
「――お客様、お待たせしました」
店員が声をかけ、国府がこちらを見る。すかさず滋之は顔を背けて店員に箱を押し付けると、ズカズカとカウンターに入る。まるで国府が見えていないかのように振る舞う。
国府と店員が何か話していたが、すぐに店員は抱えたままだった器材を持ってきて、カウンターの隅に置く。滋之がその様子を目で追っていると、尋ねもしないのに教えてくれた。
「ウエットスーツなどを『じっくり』と見られたいそうですよ」
「ふーん」
滋之は自分には関係のないことと、気のない返事を返す。そんな滋之の態度に感じるものがあったのか、店員はそそくさと店内の様子を見に行ってしまう。
一人カウンターの中に立った滋之はレジを打ちながら、少しだけ気になって、ちらりと視線をスーツコーナーへと向ける。国府はウエットスーツとドライスーツの間をうろうろと行き来しており、ときおり首を傾げている。しかも、男女ものお構いなしに手に取っている。
一見柄の悪そうな男が、女性もののスーツを手にして撫でている姿は、怖いのを通り越して不気味だ。露骨に他の客や店員までもが、国府を避けて通っている。
国府の様子に気を取られてしまい、レジを打つ手が止まる。そんな自分の姿に気づいて、慌てて滋之は精算を済ませる。
「ありがとうございました」
客に頭を下げて、数秒置いてからパッと顔を上げる。厚みのあるドライスーツを手にしたまま、国府の顔がこちらに向いていた。色の濃いサングラスなのでよくわからなかったが、滋之を見ていたのは間違いない。
不自然に国府はまたスーツに視線を落とす。だが、絶えず滋之の気配をうかがっているのは、さり気なく向けられた背の感じから読み取れる。
「――……仕方ないな、あのおっさん」
小さく洩らしてから、滋之はそっとカウンターを出る。
国府の視界に入らないよう、背後から忍び寄る。国府は気づいた様子もなくスーツからまたそっと顔を上げ、カウンターのほうを向く。さきほどまでいた滋之の姿がなくなっているのに驚いたのか、広い背がビクリと震えた。思いがけず素直すぎる反応に、つい笑い出しそうになった滋之は、必死に唇を噛んで押し殺す。
辺りをきょろきょろと見回した国府がようやく振り返り、滋之に気づく。わずかにうろたえた素振りを見せてから、ぎこちなく声をかけてきた。
「よ、よう。……レンタルじゃなんだから、器材を全部揃えようかと思ってな」
滋之は返事をせず、国府を無視してドライスーツを並べ替えて整理を始める。
「……おい、人を無視するな。俺は客だぞ」
国府が隣に立ったので、これ以上ないほど、プイッと顔を背ける。めげない国府は、今度は反対側に回り込み、意地でも滋之の視界に入ってこようとする。もう一度顔を背けてやった。
「おい、こら、坊主。人が話をしているときは、相手の目を見ろ」
「――商品のことをお尋ねになりたいのでしたら、他の店員を呼びます」
「このっ……」
ようやく滋之は国府を見て、挑発的な眼差しを向ける。サングラスを取った国府は凄みのある目つきで睨んできたが、滋之は怯まず見つめ返す。勝負は呆気なくついた。
国府がふいに肩を落とし、大きく息を吐き出す。そして頭を下げられた。
「……悪かった。この間は、俺が無神経すぎた」
滋之の鼓動がドクンと一度大きく跳ねる。年上の男にこんなふうに頭を下げられて、内心で緊張する。しかし生来の負けん気は、こんなときでも首をもたげる。
「目黒さんに言われてきたわけ? 坊主がいつまでも不機嫌だから、軽く一つ頭でも下げて、機嫌を取ってやってくれって」
「そんなわけねーだろ。だいたい俺は、人に言われたからって頭を下げたりしない。……自分が本当に悪いと思ったときじゃないとな」
言っていて苦痛なのか、国府はいかにも硬そうな髪をガシガシと乱暴な手つきで掻き、爪先を鳴らして落ち着かない。だがまだ、滋之は許してやらない。意地悪な質問をしていた。
「だったらなんで、謝ろうと思ったわけ? こんな坊主に、おっさんのあんたが」
ギロッと睨んできた国府だが、その視線もすぐに宙をさまよう。
「あー、それは……」
「それは?」
冷ややかに続きを促すと、国府の手がいきなり滋之の頭にかかり、ゴムを取られる。滋之があっと思ったときには、思いきり髪をぐしゃぐしゃに掻き乱される。
「うわっ、何してんだよ、あんたっ」
「俺のインストラクターは、お前なんだよ。そう決めた。だからいまさら、他の奴に押し付けられる気はない。お前もそのつもりでいろ」
えらそうに断言され、わずかにムッとした滋之だが、すぐに思い直す。これは、国府なりの最大限の譲歩なのだと。そうでなければ唯我独尊のようなこの男が、坊主呼ばわりをして、さんざんバカしていた自分に謝るはずがない。
滋之はしみじみと目の前の男を眺める。威嚇するように睨みつけられたが、今はもう怖くない。なんといっても、今の立場は滋之のほうが国府より数段上だ。そう悟ってしまった。
滋之は意地悪く笑いかけ、国府の肩を軽く叩いてやる。
「まっ、仕方ないな。あんたみたいに言動共に問題ありの大人じゃ、ぼく以外のインストラクターを見つけるのも苦労しそうだし、目黒さんに心配かけるのも悪いしね」
「……いい気になるなよ、クソ坊主。お前の細い首なんか、あっという間にキュッと捻ってやれるんだぞ」
「海に潜ってる最中、あんたの背負ってるタンクを細工するぐらい、あっという間なんだよ」
もう一度、クソ坊主、と呻いた国府だが、あえなく再度頭を下げた。
「俺のインストラクターは、クソ坊主、お前だ」
「仕方ないね、おっさん。もう一度だけ、面倒見てやるよ」
顔を上げた国府があまりに悔しそうなので、我慢できず、滋之は腹を抱えて爆笑する。
再び頭に国府の大きな手がかかり、乱暴に髪を掻き乱された。
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