バディシステム


−6−


 それから約一週間をかけ、国府は不規則な仕事の合間を縫って滋之のいる店にやってきた。
 Cカード取得のコースは、本来なら三日間、集中的にメニューをこなして終了するものなのだが、国府の場合は、一つのメニューをやっている最中に呼び出しの電話が入ると、風のように仕事に行ってしまうので、なかなか進まなかったのだ。それでも、筆記テストもなんとか無難に終えることができた。
 こんなに根気があって面倒見のいいインストラクターであったことを感謝してほしいと、滋之は内心、自画自賛したかったぐらいだ。
 本店内の事務局で、国府のCカード申請の書類をチェックした滋之は、満足の吐息を洩らす。一つの仕事をやり遂げた充実感があった。大袈裟なようだが、偽らざる本心だ。あとはこの書類を、Cカードを発行している団体に送付するだけだ。
 この一年、インストラクターの仕事はしていなかったので、滅多に事務局に顔を出していなかった滋之だが、国府の講習を引き受けてから、毎日一度は顔を出すようになった。おかげで一年前の立場に逆戻りで、ベテランインストラクターに可愛がられ――いいようにからかわれている。
 とことんまで、自分はからかわれやすい体質なのだと、痛感せずにはいられない。それでもここ何日か、楽しいのは確かだった。
 国府と怒鳴り合うのも、片手の指では足りないほどだが、濃い一週間であったのは間違いない。
 一年ぶりに担当した初心者だから、というせいだけではないだろう。
 事務員にあとの処理を任せてから、滋之は自分のデスクの引き出しの中から、ダイブワールドが行っているツアーコースの一覧を取り出す。
「――国府さんに、ツアーコースを勧めるのか?」
 急に背後から声をかけられ、飛び上がる勢いで驚いた滋之は振り返る。いつからいたのか目黒が立っており、滋之の手元を覗き込んでいた。なぜだか動揺した滋之は、うろたえながら言い訳めいたことを口にする。
「……うん。本人も、なんかいいコースがあったら、適当に申し込んでおいてくれって言うしさ。毎回参加は無理でも、ボートダイビングの経験とかしたいだろうし。経験タンクを積ませてあげたいし。だから――」
 空いたイスを引き寄せた目黒が隣に座り、意味深にニヤニヤと笑う。気恥ずかしいものを感じた滋之は、乱暴に目黒の肩を叩く。
「なんだよっ。気持ち悪いな」
「いや、最初はどうなることかと思ったが、あの気難しい国府さんとうまくやってるじゃないか。」
「あの人の場合、気難しいんじゃなくて、エキセントリックなんだよ。偏屈ジジイとも言うな」
「滋之がそう誉めてたって、国府さんに報告してやろう」
 滋之は目黒に掴みかかるがあっさりと、笑いながら躱される。国府には口で勝つ自信はある滋之だが、どう逆立ちしても目黒には敵わない。
「ぼくは忘れてないからな。二人が手を組んで、ぼくをはめたこと」
「人聞きが悪いな」
 ここでふと目黒がまじめな顔となり、周囲を見回す。そしてわずかに身を屈め、小声で言った。
「――みんなを代表して言うんだが……、これを機に、本格的にインストラクターに復帰したらどうだ。国府さんを最後まで指導できたんなら、もう一年のブランクなんて関係ないだろ」
 ある程度予測はしていた言葉なので、滋之は苦笑して曖昧に首を動かす。
「……少し考えさせてよ。正直、まだ怖いんだ。人にダイビングを教えるのが」
「国府さんから話を聞いたけど、平気だったそうじゃないか。お前が考えているより、精神的に落ち着いてきているってことじゃないか」
 滋之はふと、国府を相手にダイビングを教えていたときのことを思い出す。目黒の言う通りで、一度覚悟を決めてしまうと、想像していたほど一年前の事故のトラウマは感じない。
「でも平気だったのは、相手が……国府さんだったからだと思うんだ」
 目黒がからかうような表情となる。
「おっ、なんだ。二人の信頼関係は、知り合って一週間ほどで、そこまで深まっていたのか」
 目黒をジロリと睨みつけてから、急にこんなことを言った自分に気恥ずかしさを覚えた滋之は、憮然とした口調で応じた。
「……国府さんなら、多少何かあっても、平気そう、だから……かな」
 一拍置いてから、目黒はデスクを叩いて爆笑する。
「確かに国府さん、頑丈そうだもんな」
「絶対言うなよ。あの人、妙なことでへそ曲げるんだから」
 まだ笑い続ける目黒を放って、滋之はデスクの上を片付けて荷物をデイパックに突っ込むと立ち上がる。目黒が見上げてきた。
「店に帰るのか?」
「うん。国府さん、何度も言ってるのに、いつも連絡なしにいきなり店に来るから。……別に、あの人のためじゃないからな。ブチブチ文句言われるのもバカらしくて――」
「はいはい。おれは今日はこれで上がりだから、ついでに送っていってやるよ」
 同じく立ち上がった目黒に、まるで子供をなだめるように頭を撫でられる。国府といい目黒といい、ときどき自分を、成人した男だと忘れるのではないかと、滋之は心の中で抗議する。
 事務局を出た滋之は、店に出ている父親に声をかけてから、先に店の外にいた目黒の元に行く。目黒の傍らにはバイクが停められており、すかさずヘルメットを投げて寄越される。
 すっかり目黒のバイクの後ろに乗るのに慣れた滋之はデイパックを背負うと、いそいそと目黒とともにヘルメットを被る。さっそくバイクの後ろに乗り込んだ。
「しっかり掴まっておけよ。お前軽いから、いつか吹っ飛ばすんじゃないかって、不安になるんだよな。……ダイブワールドの唯一の後継者の身に何かあったらと思うと、手が震えそうだ」
「ついでに、唯一のインストラクターをキズモノにしたって、国府さんにも呪われるかもな」
 滋之としては軽い気持ちで言ったのだが、ピクリと目黒の背が震え、神妙な声が返ってきた。
「――……お前一人の体じゃないし、今日は安全運転で行こう」
 何言ってるんだか、と呆れながら、しっかりと目黒の背に掴まる。
 確かに、いつもよりスピードを出さない目黒の運転に、ヘルメットの下で笑みをこぼした滋之は、すぐに国府のことを考える。
 やはり国府には、次はどんなコースを受けたいか相談したかった。ダイビングでやりたいことによって受けるコースは変わってくる。忙しいだろうが、ダイビングの基本は身につけてほしい。
 意外に国府のスキルアップのために真剣になっている自分に、滋之は不思議な気持ちになっていた。あんな事故があったあとでも、決してダイビングを教えるのを嫌いになっていたわけではないのだと痛感する。
 しかし、すぐに自分を戒める。一年前、事故に遭った友人は、二度と海に潜ることはないだろう。水そのものが怖くなったかもしれない。そう思うと、浮ついた気持ちにはれない。
 気がつけば、いつのまにかバイクは店の近くを走っていた。わずかに身動いた滋之は、店の前へと目を向ける。見覚えのある背格好の男が、店の駐車場を出てくるところだった。
「国府さん……」
 小さく声を洩らす。目黒も気づいたらしく、わざわざ国府の傍らへとバイクを停めてくれた。
 一瞬胡乱そうな表情をした国府だが、ヘルメットから出ている茶色の尻尾のような髪で滋之とわかったようだ。少し意地の悪い、いつもの笑みを向けられた。
「彼氏とデートか?」
 バイクの後ろから降りてヘルメットを取った途端、いきなり本気とも冗談ともつかない言葉をかけられる。顔をしかめた滋之とは対照的に、やはりヘルメットを取った目黒が声を上げて笑う。
「大丈夫ですよ。国府さんの大事なインストラクターはキズモノにしていませんから」
「そりゃよかった。俺はこいつじゃないと役に立たない体になったからな。こいつが使いものにならないと、溜まって困るんだ」
「いい技持ってますからね、滋之は」
 他人が聞けば赤面するような会話を交わす国府と目黒に、からかわれているとわかっていながら滋之は、顔を熱くして怒鳴る。
「おっさん二人が、道の真ん中で下品な会話を交わすなっ」
 国府がニヤリと笑う。
「どこがだ? 俺のインストラクターはお前で、そのお前にケガをされると困ると言ってるんだ。海に潜れないと、せっかくこうしてやって来た俺は、ストレスが溜まるしな」
「そうそう。滋之はいい教え方をしますからね、とおれは応じたんだ」
 うそをつけ、と内心で滋之は応じる。
 ヘルメットを目黒に押し付けて返すと、国府の腕を掴んで店へと引っ張る。
「じゃあね、目黒さん。――ほら、国府さん。海に潜りたいんなら、さっさと準備しないと」
 言いながら振り返ると、目黒は上機嫌といった面持ちでヒラヒラと手を振っていた。国府と二人で滋之をからかって、さぞかし楽しかったのだろう。ヘルメットを被り直した目黒のバイクは、あっという間に走り去ってしまう。
 立ち止まってその姿を見送っていた滋之は、視線を感じて上目遣いに国府を見上げる。さきほどまで妙な冗談を言っていたというのに、やけに真剣な表情で滋之を見下ろしていた。
「……何?」
「いや……。改めて言うのもなんだが、お前と目黒は仲がいいと思って。――兄弟みたいだ」
 ここで滋之は、国府のTシャツから伸びた剥き出しの逞しい腕をしっかりと掴んだままなのに気づき、自分でもおかしいほどうろたえて離す。
「つき合いが長いからね。目黒さんは高校生の頃は、店で店員としてバイトしてたんだ。そのバイト料をダイビングにつぎ込んでて、今みたいなダイビングバカができあがったってわけ」
「だから――お前の事故のことも知ってるんだな」
 からかうでもなく、低く淡々とした口調で言われたので、滋之も反発を覚えることなく素直に頷く。どういう意味か、大きな手が頭にかかって軽く叩かれた。ささいな行為が、やけに嬉しい。
 店の裏に周りながら、すぐに国府はいつもの調子を取り戻していた。
「Cカードの申請をしたんなら、これで俺はもう、初心者じゃないな」
「初心者だろ、まだ。過大に表現したって、初心者に毛が生えた程度だね」
 応じながら滋之は、国府は実は何が言いたいのかと横目でうかがう。いきなり肩を抱かれて引き寄せられ、本気ではないだろうが脅すような口調で言われた。
「――いい加減、歩いて行ける海で潜るのは飽きた。今日は場所を変えろ」
「飽きたっていっても、まだ海に潜ったの四回だろ。……車で移動するの面倒だし」
「本音が出やがったな、こいつ」
「……正直、慣れてない場所に行くの怖いんだよね」
 苦い表情を作りながら滋之が本音を洩らすと、もう一度頭を叩かれた。
「大丈夫だ。お前は俺に、ダイビングの基礎をみっちり仕込んでくれたんだろ。それにいつまでも、目の前の海で潜ってるわけにはいかないしな」
 国府の言葉で、自分はインストラクターであるのだと思い直す。こうして国府と二人きりでいるのが当たり前になりすぎて、歳の離れた友人感覚でいたのだ。
 もしかして励ましてくれたのだろうかと、滋之はそっと国府をうかがい見る。唇をへの字に曲げた国府と目が合い、滋之の甘い気持ち一蹴するようなことを言われた。
「おら、とっととタンクを準備しろ。俺の貴重な休みを費やして来てるんだから、時間がもったいねーだろ」
 国府はどう転んでも国府だ。心の中でそっと呟いてから、滋之はおざなりな返事を返す。
「はいはい。国府さんの貴重な休みを費やすにふさわしい、素晴らしい場所に案内するよ。……あっ、国府さんの車で行くから」
 文句を言いたそうな顔を一瞬見せた国府だが、すぐに黙って頷いた。








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