バディシステム


−7−


 国府の車の後部座席で着替えた滋之は、器材を抱えて車から降りる。
 ガードレールを跨ぎながら、先に海へと下りた国府の姿を探す。水遊びには不向きな岩場なので、滋之たち以外、人の姿はまったくない。探すまでもなく、国府はすぐに見つかった。
 ウエットスーツを着込んだ国府は足元に器材を置き、腕組みして海を眺めていた。側まで歩み寄ってわかったが、なぜか表情は不満げだ。
「どうかした? 国府さん。顔が怖いよ」
 言った途端、滋之は伸ばされた国府の手に鼻を摘み上げられた。ふぎゃっ、と踏みつけられた猫のような声を上げ、滋之は国府の手を払いのけ、自分の鼻を押さえる。
「何するんだよっ」
「――なんなんだ、ここは」
 これ以上なく不機嫌そうな声で国府が言う。質問の意味がわからず滋之はきょとんとする。
「……見ての通り、海」
「んなことはわかる。なんで、ここにしたかってことだ。素晴らしい場所に案内してくれるんじゃなかったのか。お前の言うままに車を運転して来てみれば――」
 国府の機嫌が悪い理由がようやくわかり、滋之は今度は国府の鼻を摘み上げてやった。
 二人が今立っている岩場は、いつも練習で潜っていた店の近くの海から、車で十分ほどしか離れていない。ときどきコース生たちを連れてきているスポットで、岩にぶつかった波が複雑な流れを作り出し、海に入るときと上がるときに技術がいる。
「国府さんにはわからないだろうけど、初心者にはなかなかいいスポットなんだよ、ここ。まあ一度、岩場から海に入ってみたらわかるから」
 いい大人のくせにわがままな国府をなだめて、器材を装着させる。滋之もマスクだけつけて周囲を見回すと、国府の腕を取って引っ張る。マウスピースを咥えているため何も言えない国府に物言いたげな視線を向けられた。
「ちょっと高いところから海に入ってもらおうかと思って。ボートダイビングになると、ボートの縁から海面まで意外に高さがあるから、慣れておいて損はないよ」
 国府を連れてきたのは、岩場から海面まで二メートルはある場所だった。我慢できなくなったらしく、とうとう国府は咥えたばかりのマウスピースを外してしまう。
「なんともないだろ、これぐらいの高さなら」
 強がりか本心かはわからない国府の言葉だが、滋之は冷静に指摘する。
「忘れないでおいてもらいたいけど、飛び込んだ拍子にマスクやマウスピースがずれたり、ゲージのホースが絡んだりする場合もあるから。何度も言ったよね? 自分の器材の状態には常に気をつけろって」
「……聞いたような気がする」
 滋之が片足を上げて蹴りつけるまねをすると、ニヤリと笑った国府はさっさとフィンをつけ、マスクとレギュレーターを片手で、タンクやホースももう一方の手で押さえて足元から海に飛び込む。着水前にきちんと両足を閉じたので、なかなか見事だといっていいだろう。
 海面から顔を出したまま、国府が打ち寄せる波に多少苦労しながらも、ゆっくりと場所を移動する。そして、滋之に向かって片腕を突き出し、親指を立てて見せた。
 うまくできただろ、といいたいらしい。
 子供だと思いながらも、滋之は両手で丸を作って見せると、自分も準備をして海に飛び込み、すぐに国府の元へと泳いでいく。
 さり気なく国府の手が腰にかかり、強い力で引き寄せられる。国府なりの気づかいに、ドキリとした滋之は動揺する。なんでもない行為を意識した自分が、妙に気恥ずかしい。
 勢いをつけてから海中に潜る。岩場から押し返してくる波の力も、深く潜れば緩やかなうねりになり、そのうねりに合わせて滋之は身をくねらせる。ちょうど国府も海中に潜ってきたところで、力強いストロークで前に進もうとする。
 何度言っても、癖が矯正できないらしい。水中でのムダな動きは空気を消費するだけでなのだ。
 ジェスチャーで余計な力を抜けと示すと、国府が眉をひそめる。慣れた滋之には簡単なことだが、まだ国府には難しいようだ。
 それでも水深十メートルほどの辺りで泳ぎ続けているうちに、硬かった国府の動きも自然なものになってくる。国府はダイビングに関して勘がいい。元々、運動神経もいいのだ。
 大きな岩の上をするりと通り過ぎて振り返ると、一つにまとめた髪が水中で揺らめいてマスクの前にかかる。視界が塞がれたので軽く首を左右に振ると、滋之の傍らで大きな気配が動き、突然、目の前に国府の顔が現れる。
 国府に乱れた髪を撫でられて直されたと気づいたのは、数秒置いてからだった。ウエットスーツの下で、体があっという間に熱くなる。
 無意識なのかもしれないが、国府はよく滋之の髪に触れる。からかうように引っ張ったり、指を絡めてきたり――。いままで髪に触れてくるような人がいなかったので自覚はなかったが、滋之は自分が、髪に触れられるのが嫌いではないことを認めつつあった。
 髪を撫でた丁寧な手つきは次の瞬間には一変して、頭を小突かれる。滋之が軽く睨みつけると、目に笑みを浮かべた国府が先を行く。滋之は慌ててあとを追いかける。
 約四十分ほどのダイビングを楽しんでから、タンクの空気の残量を確認して滋之は人差指を真上に向けて、浮上するよう国府に示す。
 国府がスムーズに空気量を調節して浮上する。滋之はその様子を見上げ、インストラクターとして満足していた。
 普段他のコース生たちが海から上がるのに利用しているポイントへと移動する。
 浅瀬になってくると、ごつごつとした岩が転がっており、ときおりスーツを擦る。油断するとホースを傷つけたりするので注意が必要だが、無事に二人は膝をついて上体を起こす。一気に重力の存在を感じる瞬間だ。
 体力がある国府はすぐに立ち上がってレギュレーターを外し、大きく息を吐き出す。一方の滋之はというと、まだ膝をついたままレギュレーターを外して荒い呼吸を繰り返す。これだけはダイビングの腕に関係なく、体の鍛え方の問題だ。
 すぐ傍らに気配を感じて顔を上げると、国府がさり気なく、グローブを外した片手を差し出してきた。滋之は首を傾げる。
「掴まっていいの?」
「仕方ないだろ。お前は、ダイビングに関しては魚並みだが、おそろしく体力はないからな」
 誉められるのと同時にけなされた。滋之は笑っていいのか顔をしかめていいのかわからないまま、差し出された国府の手を取る。あっという間に引き立たされた。国府の手の感触を意識してしまい、不自然なほど素っ気なく手を離す。
「……ありがと」
 礼を言った滋之はグローブとフィンを取り、ブーツで岩場を歩く。
 滑るので慎重な足取りとなっていたが、器材の重さが足にきて、ズルッと片足が滑ってバランスを崩す。前を歩いていた国府の腰に、咄嗟に掴まっていた。ちらりと振り返った国府が、意地悪い笑みを唇に浮かべる。
「ちょうどいい。引率される園児みたいに、そうやって歩いてろ。お前にはお似合いだ。俺もヒヤヒヤしなくて済むしな」
「……引率するのは、おっさんの園長かよ」
 小声で言ったつもりだが、波が打ち寄せる音の中でもしっかり聞き取ったらしい。再び振り返った国府に鼻を摘まれた。
 滋之は顔を横に振って逃れようとして、反射的に国府の胸を突き飛ばす。国府の体格からすればなんでもない抵抗だったはずだが、足場が悪かった。足が滑った国府の体が大きく傾き、咄嗟に支えた滋之は傍らの岩に左手をかける。
「痛っ」
 てのひらに鋭い痛みを感じ、小さく声を上げる。体勢を立て直した国府に、岩にかけた手を取られた。数センチほどてのひらがすっぱりと切れており、二人が見ている前で見る間に血が盛り上がって滴り落ちる。岩に張り付いている貝の殻で切ったのだ。
 次の瞬間には国府に手を引かれて歩かされる。
「バカヤロッ。なんでグローブを外したんだ」
 歩きながら国府に一喝される。
「あんただって外してるだろっ。海に上がってグローブを外すななんて、無茶を言うな――」
 滋之は威勢よく反論していたが、てのひらがズキズキと痛んで唇を噛む。真っ赤な血に染まっているであろう自分の左手を見たくなかった。
 国府の車に戻ると、すぐに器材を外される。後部座席のドアが開けられ、シートが濡れるのもかまわず座らされた。国府は素早く、滋之がダイビングの場に常に携帯している救急箱とペットボトルの水を用意する。
 その様子を眺めていた滋之だが、恐る恐る自分の左てのひらに視線を向ける。そして、後悔した。てのひらから指先まで血で真っ赤に染まっていた。思わず情けない声が出る。
「国府さん、血が止まらない……」
「景気よくすっぱり切るからだ。その様子だと、病院で数針は縫われるぞ」
「……痛いのは絶対嫌だ」
「殴るぞ、お前」
 取られた左手だけを外に引っ張り出される。国府がペットボトルの蓋を開けているのを見て、何をされるか悟った滋之は手を引こうとするが、すかさず手首を掴まれる。てのひらに向けて、一気にペットボトルの水をかけられる。
 海でケガをした場合化膿しやすいので、傷口を洗う必要がある。頭ではわかっているのだが、実際にされると痛いうえに腹が立つ。本当に傷口に染みて痛いのだ。
「ふううーっ、うー、うー」
 痛みを堪えるために唇を食い縛るが、どうしても声が洩れる。本当なら国府を殴りつけたい気分だ。そんな滋之の反応を、容赦なく水で傷口を洗いながら国府は笑った。
「怒ってる猫が、毛を逆立ててよくそんな声を出すだろ」
「あんた本当に、次に海に入るときは、ホースに気をつけたほうがいいよ。ナイフで裂かれているかもしれないから」
「それだけ物騒なことが言えるなら、平気だな」
 てのひらにガーゼが当てられ、その上からタオルで押さえるよう言われる。火がついたようにてのひらが熱くて痛い。おそらく、眉をひそめ、唇を真一文字に引き結んだ今の自分の顔は情けないだろう。しかし滋之には平気なふりをする気力もない。
 ペットボトルに残った水を飲み干した国府が、じっと顔を見つめてくる。つられて滋之も見つめ返し、そのまま目が離せなくなる。
 まだ海水浴には時期の早い岩場近くの駐車場には、車どころか二人以外の人の姿がない。波の音は聞こえてくるが、ひどく静かだった。やけに国府と二人きりであることを意識させられる。
 国府の手が伸ばされ、思わず首をすくめる。ゴムを取られ、濡れた髪を簡単に指で解される。もう一枚のタオルを手にした国府に、何も言われないまま濡れた髪を拭かれる。その手つきは、てのひらの痛みを少しだけ紛らわせてくれるほど優しい。
「……国府さんてさ、もしかして髪フェチ?」
「なんだ、そりゃ」
 間近で国府と目を合わせるのも照れてしまいそうで、滋之は目を閉じる。
「ちょっと長い髪を見ると、ムラムラして触りたくなるとか。海に潜ってるとき、ぼくの髪に見惚れてたりしてない?」
「ああ……。発育不良の海藻が海中で揺れてる、と思ってな」
 乱れた半乾きの髪を国府の指が丁寧に梳いてくれる。口ではどう言おうが、やはり髪に触れる指の動きは優しい。
 頬にも指先が這わされる。ふいの指の動きにドキリとした滋之だが、じっとしておく。だが国府の指が唇の端にまで触れてきたとき、自分の鼓動の乱れに耐え切れず、滋之はパッと目を開く。
 スッと国府の指が引かれ、かわって頭からタオルをかけられる。
「――お前が髪を伸ばしてる理由はなんだ」
 怖いほど真剣な声で問いかけられる。滋之が慌ててタオルを取ると、国府は声同様、真剣な表情をしていた。
 滋之の脳裏に、一年前の事故の光景が過る。
 ドクンとてのひらが激しく痛み、顔をしかめる。国府に顔を覗き込まれた。
「そんなに痛むなら、早く着替えて病院に行くぞ。場所を教えろ」
 国府の手が、滋之が着ているウエットスーツのファスナーにかかりそうになり、のけ反ってひっくり返りそうになる。
「なっ、何するんだよっ」
「その手なら不自由かと思ったんだ」
「……いいっ。いいよ、自分でできるから」
 国府の何を意識しているのかと、滋之は自分の反応が恥ずかしい。
 一瞬物言いたげな表情を見せた国府だが、すぐに後部座席から離れ、外で黙々と着替える。向けられた国府の背に視線を向けてから、滋之は手の痛みを堪えてウエットスーツのファスナーを下ろし、片手を使って不自由な思いをしながら着替え始めた。








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