バディシステム


−8−


 傷口を縫ってから五日経つ左てのひらが、思い出したようにズキズキと痛む。化膿しているのだろうかと、デスクの上に投げ出した包帯の巻かれた左手を眺めながら、滋之は眉をひそめる。
 昼休みに入っている事務局で、滋之は一人で電話番をしていた。たまたま用があって顔を出すと、ここぞとばかりに捕まって押し付けられたのだ。
 持ってきたデイパックの中に痛み止めと化膿止めが入っているので、飲んでおこうかとイスから腰を浮かせかける。そこに電話が鳴り、反射的に受話器を取り上げる。
「はい、ダイブワールド・ダイビングスクール事務局です」
 滋之が告げると、どういう理由か、電話の相手が息を呑んだ気配が伝わってきた。左のてのひらが痛んでいることもあって機嫌が悪い滋之は、ついきつい声を発する。
「もしもし――」
『あっ……、滋之、か?』
 返ってきた声を聞いた途端、滋之は全身を硬直させる。
「……後藤(ごとう)、なのか……?」
『よかった。お前がいた店に電話したら、用があって本店のダイビングスクールの事務局にいるって教えてもらったんだ』
 一年ぶりとはいえ、後藤は相変わらず屈託なく話す男だった。それが滋之にはかえってつらく、懐かしいのと同じぐらい、強烈な罪悪感に息苦しくなる。
 それでも、小刻みに震える声で尋ねた。
「どうしたんだ? まだ留学は終わってないんだろ」
『ああ、この電話、オーストラリアからかけているんだ。……絵ハガキやメールを送っても、お前から返事がこなくて、ずっと気になってたんだ。あっ、お前を責めているつもりはないんだ。ただ、前みたいにつき合っていきたくて。――もっと早くにこう言いたかったけど、お前とはあの事故のあとから顔を合わせることがなかったし、おれもバタバタと出発したからな』
 やはり責めているではないかと、滋之は心の中で呟く。後藤にそのつもりがなく、罪悪感からくる自分の被害妄想だと自覚はある。だが事実後藤には、滋之を責める権利があった。彼は、一年前の滋之のバディであり、事故に遭った本人だ。
『インストラクター続けているって知って、安心したよ。繊細で責任感が強いからな、お前。自分のせいだと思い込んで、ダイビングもやめたんじゃないかって、それが心配だったんだ』
「――最近までやめていたんだ」
『それっ……』
「人にダイビングを教える権利がないと思ったんだ。だけど、個人的にインストラクターを頼まれて断れなかったから……。この先、またインストラクターの仕事をやるかどうかはわからない」
 後藤と話しているのが苦しかった。一年前の事故があったときでさえ、後藤は滋之を一言も責めなかった。だからこそ滋之は、自分で自分を責め続ける。
 このまま話し続けていても、やはり後藤は滋之を責めたりはしないだろう。何事もなかったように屈託なく、友人として話し続けるのだ。
『お前は悪くないだろっ。あのときおれが、お前の忠告を無視したから、ああなっただけだ。それに、おれは今――』
「悪い。もう切るから」
 後藤から、本当に傷つけられる言葉を言われるのが怖くて、一方的に電話を切る。
 動揺のあまりデスクに突っ伏していた。まさか突然、後藤から電話がかかってくるとは思ってもいなかった。
 後藤が電話で言っていたように、確かに絵ハガキやメールは来ていた。しかし滋之は返事を出したことはない。事故があったことなど一切うかがわせない後藤の態度が怖かったのだ。
 責められるのは怖い。だが責められなければ責められないで、それも苦しくてつらかった。
「――ありゃ、お前一人か」
 急に背後でドアが開閉される音がして、よく耳に馴染んだ声がする。目黒だ。
 デスクに伏せていた顔をそっと上げて滋之が振り返ると、目黒が立っていた。寸前までの滋之と後藤のやり取りなど知るはずもない目黒が笑いかけてくる。
「要領悪いな、お前。昼休みの電話番を押し付けられたのか」
「……目黒さん、酒臭いよ」
 鼻をつくアルコールの匂いに顔をしかめながら、滋之がぼそりと言うと、間近まで顔を寄せられて息を吐きかけられる。
「夜中まで、国府さんたちと飲んでたんだ。安心しろ。今日はコースは取ってないから」
 ここでふいに目黒に左手を取られる。
「何?」
「国府さんが、お前の手のことを心配してた。ぴょこぴょこと元気に動き回っていると答えておいたけどな。どうせ今は国府さんの面倒しか見てないから、インストラクターとしては差し支えはないんだし」
 心配していたといいながら国府が店に顔を出さないのはどういうことだと、滋之は思う。忙しいというのは理由にならないだろう。現に目黒は、国府と一緒に飲んだと言った。
 手の様子を見ているとばかり思っていた目黒が、なぜかじっと滋之の顔を覗き込んでくる。滋之は思いきり、目黒のハンサムな顔を押しのける。
「……なんだよ」
「いや、やけに元気がないと思って。いまさらケガのこと気にして落ち込んでるのか?」
 軽そうな外見に騙されそうになるが、目黒は人一倍、他人に気をつかい、配慮ができる男だ。
 滋之はなんでもないと首を横に振ったが、もちろん、目黒は納得などしてくれない。
「うそを言え。思いきり何かありましたって顔してるぞ」
 目黒に隠し事はできない。一年前の事故があってから、抱えた苦しみをすべて聞いてくれていたのは、他でもない、この目黒なのだ。
「――……電話があった」
 イスを引っ張り寄せていた目黒が、不自然な姿勢のまま目を丸くする。短い言葉でも、滋之が言おうとしていることは明確に伝わったようだ。
「電話があったって、もしかして――」
「後藤だよ。わざわざオーストラリアから」
「そうか……」
 イスに腰掛けた目黒は、感慨深そうに遠い目をする。目黒は後藤と面識があるのだ。
「元気そうだったか?」
「相変わらずだよ。人のよさそうな話し方と声だった。ぼくが、絵ハガキやメールに返事を出さないから、心配してわざわざかけてきてくれたんだ」
「だったら、もっと喜んだ顔しろよ。友情は続いていたってことだろ。まあおれも、後藤くんが事故のことでお前を怒ってるなんて、少しも思ってなかったけどな。お前の気にしすぎだ」
 軽く言われ、滋之は衝動的に湧き起こった怒りを抑えられなかった。
「気にするっ。あいつは、ぼくのせいで死にかけたんだっ。それなのに、ぼくだけが忘れるなんてできないっ。そんないい加減なことっ――」
 興奮のあまり、デスクを両手で叩いてしまう。そしてすぐに、悲鳴を上げて左手を抱える。てのひらの痛みが全身を駆け抜ける。慌てて目黒が立ち上がり、左手を掴み寄せられた。
「何してるんだよっ、お前。てのひら縫ったんだろうが」
 呻きながらてのひらを見ると、真っ白な包帯にゆっくりと小さな赤い染みが浮かび上がり、広がっていく。
「あー、くそっ。これは病院に行って診てもらったほうがいいぞ」
 目黒の言葉をうなだれて聞いていると、肩を掴まれて顔を上げさせられる。珍しく、目黒は険しい表情をしていた。目黒の言いたいことはよくわかる。だけど滋之は、自分を許せないのだ。
「――ぼくには、後藤と前にみたいにつき合える勇気はない。言葉を交わす度に、いつ後藤に責められるか、ビクビクするのは耐えられないんだ。だから……」
「そのことは今はいい。とにかく病院行くぞ」
 目黒に促され、滋之はようやく立ち上がった。




 陳列してある商品を並べながら、ふと滋之は店の出入り口に視線を向ける。七月に入ってから、朝とはいっても暑い日が続いている。強い陽射しが降り注ぎ、アスファルトの地面から陽炎が立ち昇る光景も、そう珍しいものではなくなった。
 滋之は周囲に客がいて、辺りに響き渡るのもかまわず、大きなため息を吐き出した。ここのところずっと、ため息はつき通しだ。
 本格的なダイビングのシーズンだというのに、もう一か月、国府が店に姿を現さないのだ。それどころか音信不通だ。ちょうど、滋之が岩場で左てのひらをケガしたとき以来だ。そのときのケガはもうほぼ完治しており、念のため大きな絆創膏を貼ってあるだけだ。
 国府の自宅に電話をかけても留守電に切り替わるだけだし、携帯電話も常に電源が切られている。目黒も同じ状況で、連絡がつかないらしい。
 ダイビングをやめたのだろうかとも一時は考えたが、そのくせ今月のコースの料金はしっかり払い込まれていた。
 口を開けば意地悪や皮肉が多い男だが、あれはあれで、聞かないとけっこう寂しいものだ。
 もう一度ため息をついて作業を再開しかけたところで、出入り口の自動扉が開く。
「いらっしゃいませ」
 言って顔を向けた瞬間、動きが止まる。店に入ってきたのは、国府本人だった。
 いつものようにサングラスをかけた国府は、一か月の間にさらに伸びた前髪をうっとうしげに掻き上げ、大きなバッグを肩にかけ直しながら、何かを探すように顔を動かす。
 吸い寄せられたように国府が滋之のほうを向き、すぐにサングラスを外す。驚いたのは、サングラスの下から現れた目の険しさだ。凄みすら漂っている。これまで見たことのない無精ひげが、その印象を強める。
 機嫌が悪いのかと思ったが、歩み寄ってきた国府の顔を間近に見て、そうではないとわかった。ひどく疲れた顔色をしており、目の下には濃い隈ができている。あまり眠っていないらしい。
「……あの、国府さん――」
「手を見せてみろ」
 言葉と同時にいきなり国府に手を取られる。滋之のてのひらを見た国府は、ムッとしたように眉をひそめ、ただでさえ剣呑としているというのに、物騒なほど凶悪な空気をまとう。今日の機嫌は最悪のようだ。
「この様子だったら、平気そうだな」
「うん。もうほとんどいいけど、場所が場所だから一応絆創膏貼ってあるだけ。なんなら絆創膏外して、傷跡見せてあげようか?」
「いらん」
 あっさりと言った国府だが、口調とは裏腹に慎重に指先が絆創膏の上に這わされ、くすぐったい。それ以上に、体の奥からゾクゾクするような感覚が込み上げてくる。つい左手を引いていた。
 気まずい思いで視線を交わし合ったが、国府は表面上は気にした素振りも見せず、汗で額に張り付いた前髪を再び掻き上げ、悔しげに洩らした。
「――目黒の奴、また俺を騙しやがった……」
 滋之はきょとんとして国府を見つめる。
「目黒さんが、どうかした?」
「……どうもしない」
 決まり悪そうな表情を浮かべ、憮然とした声で国府が答える。当然のように、滋之はこの言葉をまったく信じなかった。
 意識しないまま笑みをこぼす。さきほどまで気分が沈み込んでいたというのに、国府が約一か月ぶりに姿を見せたというだけで、嬉しくなってくる。国府が忌々しげに舌打ちした。
「何笑ってるんだ」
「別にー。ただ、いい大人なのに、また目黒さんにいいように丸め込まれたんだろうなあ、と思うと、笑えてきた」
 すかさず国府の片手が伸ばされ、久しぶりに容赦なく鼻を摘み上げられる。
「いだだっ」
 傍らを通りかかった二人組の若い女性客が、クスクスと笑い声を洩らす。
「久しぶりに会ったっていうのに、相変わらず生意気じゃねーか」
 鼻先をピンッと軽く弾かれ、滋之は両手で鼻を押さえる。
「八つ当たりするなよ。だいたい、目黒さんになんて言われて騙されたんだよ」
「……いい。もう気が済んだ。本当だったら、俺にも責任があるしな」
 言いながら国府の視線が滋之の左手に向けられる。滋之も自分の左てのひらをまじまじと眺めてから、まさかと思いつつも尋ねた。
「もしかして、ぼくの手のこと? でもこれって、国府さんは関係ないだろ。ぼくが勝手に滑って切っただけだから。それに、もうほとんど治ったし」
「――目黒の奴は、ケガが化膿して手術することになったと、わざわざ編集部経由で連絡を寄越してきたぞ。だから仕事が終わって、まっすぐやって来たんだ」
 国府の話に、滋之はぽかんとしてしまう。
「えっと、それって、ぼくのケガのこと?」
「お前みたいに抜けた奴が、他にいるか」
 あまりな言われようだ。だが滋之は、怒りよりももっと大事なことに気を取られていた。
「心配……してくれたんだ」
「仕方ねーだろ。俺も気になってたが、ここのところずっと仕事で張り込んでいて、忙しかったんだ。――急いで来てみりゃ、お前はケロッとした顔してるし、手には絆創膏一枚だと? ふざけやがって。目黒のヤロー、今度会ったら一発ぶん殴ってやるからな」
「……怖い見た目によらず、国府さんて意外にお人よしだよね」
 切れ長の目で鋭く睨まれたが、滋之はまったく怖くなかった。それどこか、国府のあごに手を伸ばし、生えた無精ひげを撫でてやる。これには国府も目を丸くして驚く。
「ひげも剃らないで、凶悪犯みたいなご面相で来てくれるなんて。……感動して涙が出そうだ」
「調子に乗ると、お前も一発ぶん殴るぞ」
 しかし国府の口調には力がない。一気に脱力したという感じだ。本当に疲れているのだと感じた滋之はからかうのをやめ、真剣に問いかけた。
「国府さん、寝てないんだろ? もう帰って寝たほうがいいよ」
 途端に国府がムスッとした顔となる。
「誰が、お前の顔見るためだけにここまで来るか。つき合え。今日、あるんだろ」
 そう言って国府が天井を指差す。正確には、二階を。すぐに国府が言おうとしていることを理解した滋之は、頭で考えるより先に、プルプルと首を横に振る。国府にギロリと睨みつけられた。
「うそをつくな。俺は目黒に頼んで、予約を入れてあるんだ。――今日、Cカードを取得したばかりのダイバーたちで、日帰りのダイビングに出かけるんだろ。お前んとこの店が持ってるクラブハウスがある場所まで」
 初心者のための日帰りのダイビングツアーがあるのは知っているが、国府がそのツアーに予約を入れてあったというのは初耳だ。目黒は滋之に何も教えてくれなかった。
「――そういうことだ。とにかくお前も、さっさと出かける準備しろ」
 当然のように言われ、半ば呆気に取られた滋之はぽかんと国府を見上げる。しっかりしろと言いたげに国府にまた鼻先を弾かれ、ようやく我に返った。
「なっ……、何言ってるんだよっ。疲れてるときに海に潜るのは厳禁だからな。それなのに真顔で、日帰りツアーに行って潜るなんて……。今日はおとなしく帰って寝ろよ」
「疲れてない。ほら、準備しろ。もう集合時間だ」
 国府の様子が少しおかしかった。いつもの意地悪だとか皮肉っぽいのとは違う、頑なな何かがある。だが滋之にも、インストラクターとしての意地があった。それに、後藤から電話があってから、また滋之は海から遠ざかろうとしている。
 後藤からの電話がきっかけで、薄れかけていた事故の記憶が生々しく蘇りそうで怖いのだ。現に、目黒に誘われても断っている。
「行きたくないんなら、いい。今日はお前は必要ないしな」
 国府の物言いに胸の痛みを覚えた滋之だが、きつい眼差しで見つめ返す。それでも結局、滋之が折れるしかなかった。放っておくと本当に無茶をする国府には、つきっきりでサポートする人間が必要だ。
「――頑固オヤジっ」
 店中に響き渡るような声で国府を罵倒してから、滋之は踵を返す。急いで自分のダイビング器材を準備するために。








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