バディシステム


−9−


 普段潜っている店の近くの海とは違い、ダイブワールドが所有しているクラブハウス前の海は、多少潮の流れが速かった。その代わり水がきれいで澄んでおり、ダイビングスポットとしてダイバーに人気が高い。
 岩の上から潮の流れを見下ろしながら、滋之は難しい顔をして腰に手を当てる。いつもならなんとも思わない潮の速さだが、今は不吉なものを刺激される。
 雲一つない鮮やかな晴れ渡った空の下、この場にいる人間の中で陰鬱な気分を抱えているのは、おそらく滋之ぐらいのものだろう。背後では、ウエットスーツに着替えた十人近い初心者ダイバーたちが楽しそうに会話を交わしながら、バディ同士で器材の装備を確認し合っている。
 店からクラブハウスまで、分乗したワゴン車で二時間ほどかかったのだが、誰も車酔いすることもなく、体調はよさそうだ。
 滋之は、少し離れた場所に立って、同じく海を覗き込んでいる国府に視線を向ける。一見、いつもと同じで悠然としているが、顔色が悪いように見える。
 ふと国府がこちらを向き、目が合うと、国府のほうから歩み寄ってきた。ウエットスーツのファスナーが胸元まで下ろされ、露になった肌がすでに汗で濡れている。
 再び海を覗き込みながら、傍らでショルダーベルトを身につけ始めた国府に話しかける。
「――……国府さん、やっぱり今日は、海に入るのやめようよ。なんだか顔色も悪いしさ」
「ここまで来てやめられるか。寝てないのは確かだが、バスの中で熟睡できたからな。大丈夫だ」
 なんだか言い訳めいていた。かえって不安になった滋之は、露骨に疑いの眼差しを向けるが、生意気だ、と一言いわれて国府に鼻を摘まれる。とうとう滋之は怒って声を荒げる。
「ぼくは、本気で国府さんを心配してるんだからなっ」
 さすがの国府も一瞬目を丸くするが、すぐに苦笑して頭を乱暴に撫で回される。
 頑固オヤジ、と口中で呟いてから、仕方なく国府の準備を手伝ってやる。あまり言うと、バディを替えると言われそうだった。
 何があろうが、国府のバディを務めるのは自分だという意識が滋之にはある。こんなに手のかかる男を、他の初心者ダイバーたちと組ませるわけにはいかなかった。それに――。
 滋之は横目でちらりと国府をうかがう。国府は唇をわずかに綻ばせていた。近場とはいえ、初めてのツアーダイビングの雰囲気を楽しんでいるようだ。こんな表情をされると、他のインストラクターに相談して、国府だけツアーを中止させるなどできない。
 ウエットスーツに着替える最中に緩くなったゴムを一度外し、軽く頭を振る。風に髪がなびき、うつむくと頬にかかる。スッと髪を一房掴まれたので、何事かと顔を上げると、国府だった。
 なんと言ってよいかわからず、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「――髪フェチ」
「バーカ。男の髪なんか見て、ムラムラするわけないだろ」
 乱暴に髪を指先で払われて、滋之はブーツの爪先で国府の足を蹴るまねをした。そうしている間にも、他のダイバーたちが岩の上から、模範通りの形で着水していく。やや岩から海面まで高さがあるので飛び込むのを怖がった女性もいたが、さほど時間をかけずに飛び出す。
「おら、俺たちも行くぞ」
 国府に言われ、滋之は慌てて髪を一つに束ね直す。マスクやレギュレーター、フィンを装着すると、海に飛び込んだ。
 海中は水がきれいで、透視度は二十メートル前後ぐらい。気候のよさもあり、ダイビング日和といえる。間隔を置いてダイバーたちの姿があるが、それぞれの楽しげな表情がわかるほどだ。隣を見ると、国府も物珍しそうに辺りを見回している。
 国府が滋之を見て、他のダイバーを指さしてから、その指を下に向ける。もっと深くに行きたいといっているのだ。仕方なく滋之は頷き、ゆっくりとフィンを動かしながら潜る。
 水が澄んでいるため、少々深く潜っても陽射しは水中にまで差し込んできて明るい。おかげで、さまざまな海藻や魚たちが本来の色彩を放ち、海中がどれほどきらびやかな空間なのかを教えてくれる。浅く潜っていては味わえない感覚だ。
 途中まで来たところで急に深くなる。さすがに海底が見えず、薄暗い空間だけが広がっている。ゲージで水深を確認しながら、滋之は他のダイバーたちを見やる。若いOLの女性二人組みが横を泳いでいきながら、ヒラヒラと手を振ってくれた。
 思わず苦笑で返すと、後頭部を引っ張られる。振り返ると、いつの間にか背後に回り込んでいた国府に、髪を掴まれていた。
 やはり国府は髪フェチだ、と確信しながら、国府の手を捉えようとする。すかさず、大きくフィンを動かして逃げられた。滋之は国府のあとを追いかける。
 悠然と泳いでいた国府の様子が一変したのは、あと数メートルで手が届くというところだった。国府の姿勢が急に崩れ、体を丸める。何が起こったのか、滋之はすぐに理解できなかった。
 不自然な姿勢のせいで、国府の体がゆっくりと沈んでいく。このときようやく滋之の目に、国府が自分の左足を両手で押さえている様子が映る。足が攣ったのだ。次の瞬間には、滋之は勢いよく泳ぎ出していた。
 なんとか体勢を立て直そうと、苦痛に顔を歪めながらももがく国府の前に回り込んで腕を取り、自分の肩に回させる。いくら水中とはいえ、大人の男の体を支えるのは至難の業だ。他のダイバーたちも、国府の異変には気づいていないようだ。
 滋之は国府のBCDをたぐり寄せると、自分の分と一緒に空気を抜き、懸命にフィンで水中を蹴り、少しずつ浮上する。急激な浮上は肺に負担がかかるので、どんな状況でもできなかった。
 慌ててはいけない――。
 滋之は自分に言い聞かせる。だがどうしても、一年前の事故が頭の中を駆け抜ける。
 ここで国府が身動き、掴んでいた腕を離しそうになる。また足が攣ったのだ。必死に国府の体を抱き締めて、力の限り水中を蹴る。しかし浮上するどころか二人一緒に沈んでいく。
 夢中でフィンを動かす滋之の様子に他のインストラクターが気づいたらしく、二人が急いで側にやってきて、国府の体を支える。それが滋之の限界で、腕が離れる。
 今度は滋之が沈みそうになったが、振り返った国府の強い眼差しを向けられ、力を振り絞る。
 なんとか海面近くまで行き着くと、BCDに空気を送って海面から顔を出した。少し離れた場所には国府の姿がある。
 インストラクターに連れられて国府が海から上がると、滋之もあとに続く。レギュレーターとマスクを外し、荒い呼吸を繰り返しながら言う。
「国府さんはぼくが見ますから大丈夫です。早く海に戻ってください。他の生徒さんたちが気になりますから」
「……足が攣っただけなんで、大したことないです」
 滋之の言葉を引き継いだのは国府本人だった。
 心配するインストラクターたちを、なんとか海に戻す。
 二人きりになると滋之はさっそく、大きな岩にもたれかかった国府の左足にそっと触れる。ピクンと国府が足を震わせた。驚いた滋之は手を引く。
「ごめん、国府さん、痛かった?」
「……いや。それより、このままだと動けないから、筋肉を伸ばすのを手伝ってくれ」
 国府に言われてフィンを外してやると、国府は左足の先を両手で掴んで手前に引っ張り、滋之は膝を押さえる。数回それを繰り返してから、顔をしかめたまま国府が大きく息を吐き出す。
「もういい。なんとかなりそうだ」
 国府のその言葉を聞いて、滋之はまっさきに、国府の頬をひっぱたいていた。
 驚いて目を見開く国府を睨みつけてから、滋之はフィンなどを手にして国府に肩を貸す。怒りもせずに国府は素直に従い、自分の分の荷物を持って立ち上がった。
 滋之の目が赤くなって潤んでいたのを、見たのかもしれない。
 クラブハウスまで黙って歩き、外の簡易シャワー室で湯を浴びて着替えを済ませると、器材はそのままに、ひとまず国府を休ませることにする。
 奥の部屋に布団を敷いてやると、国府は嫌そうな顔をしたが、滋之が睨みつけるとおとなしく横になった。タオルケットを体にかけてやると、さすがに観念したようだ。大きく息を吐き出し、小声でぼそりと言われた。
「――……頼むから、お前が泣くな」
「泣いてない」
 そう答えはしたものの、涙がこぼれ落ちそうな滋之はゴムを取って濡れた髪を垂らす。少しでも国府から顔が見えないようにしようと思ったのだが、腕を引っ張られて、当の国府の体の上に倒れ込んでしまった。
 間近から国府の顔を見下ろし、感情が抑えきれなくなった滋之は肩にすがりつく。ポカッと厚い胸板を叩いてやった。
「バカヤロー、無茶したな」
「……悪かった。お前の言う通りだった」
「あんたは初心者なんだ」
「そうだ。俺はお前から見たら、ズブの素人だ」
 珍しく国府が素直に応じる。滋之はたまらなくなって目から涙を溢れさせ、国府が着ているTシャツに吸い取られる。
 違うのだと、肩に顔を押し付けたまま首を左右に振っていた。国府の大きな手が、壊れものでも扱うように滋之の頭にかかる。
「どうした?」
 問いかけてくる声すら優しい。こんなときに反則だと思いながらも、滋之は顔を上げる。
「……本当は、ぼくが一番悪い。無理にでも、国府さんのこと止めなかったから……。インストラクター失格だ」
 苦笑した国府に髪を掻き上げられてから、両腕でしっかりと抱き寄せられる。
「お前に俺が止められるわけないだろ。俺は、何を言われたって潜るつもりだったしな」
「なんで、そこまでするんだよ」
 この問いかけには国府は黙り込む。
 ただ抱き締められてじっとしていると間がもたず、羞恥心が芽生えてくる。内心でうろたえた滋之は、とうとう心の奥底に閉じ込めていたことを話し始めていた。ヤケからではなく、国府にならいいと思ったのだ。
 なんといっても国府は、今は滋之の大事なバディだ。
「――国府さんが沈んでいくのを見て、一年前の事故を思い出したんだ」
「ああ」
「友人はダイビングは初めてだったんだ。少し水恐怖症なところがあって、だけどぼくは、一緒に潜りたくて……。それで強引に誘った。何があっても、ぼくが守ろうと思ったんだ」
 言いながら国府のTシャツの胸辺りを握り締める。手が重ねられ、思わず滋之も国府の手を握り返していた。
「上手くなったんだ、友人は。だけど留学することになって、だったら記念にって、海外のダイビングツアーに申し込んで、そこで――」
「事故に遭ったあったのか?」
「ぼくが潮の読みを誤ったせいなんだ。ぼくはまだいい。どう対処すればいいか頭と体に叩き込んであるから。だけど、友人は違う。ぼくが浮上しかけたときに、ずっと深い場所に沈んでいくところだった。……ぼくは一瞬、助けに行くのをためらったんだ。怖さがわかっているから、すぐに動けなかった」
「――でも助けたんだろ。お前は、自分のバディを」
 濡れた髪を丁寧に梳いてくれる感触が心地いい。耳に注ぎ込まれる低い囁きも。滋之の胸はギュッと締め付けられる。苦しいはずなのに、その苦しさには疼きが伴っていて戸惑わされる。
 わずかに顔を上げると、国府と目が合う。見つめ合ったまま目が離せず、頭にかかった手に促され、国府の頬に自分の頬をすり寄せる。伸びた不精ひげに肌を刺激され、背筋にゾクゾクとする感覚が駆け抜ける。思わず腰が引けてしまうが、だが感触そのものは嫌ではなかった。
 触れている国府の体が熱い。微かな息遣いすら意識して、滋之は体を硬くする。
 滋之自身の体温も上昇する。無意識に熱っぽい吐息をこぼし、意図したわけではないが、国府の耳に吹きかけていた。
 ささいな感触に刺激されたように、手荒な仕種で国府に髪を掻き乱される。今になって認めてしまえば、実は国府に髪に触れられるのは、好きだった。
「……国府、さん……」
 滋之が頼りなく国府を呼ぶと、誘われたように頬に頬が擦りつけられる。ゾクリと、明らかに快感めいたものを滋之は感じた。気がつけば、眼前に国府の目があり、一心に見つめられている。逃れられないと、なぜか滋之は一瞬で悟っていた。
 頭を引き寄せられ、国府の顔がさらに近づく。唇の端に、そっと国府の唇が押し当てられる。
「あっ、国府さん……」
「黙ってろ」
「でも、こんな――」
 これはキスだ。しかも、国府から与えられるキスだ。
 滋之の頭は混乱するが、なのにクラブハウスの外から響く波の音だけはやけにはっきりと聞こえる。波が打ち寄せる音に合わせるように、唇の端にキスされるせいかもしれない。
 軽いキスの合間に国府が話し始めた。
「目黒からの伝言が、俺の携帯の留守電に残ってた。お前の元に、その事故に遭った友人から連絡が入って、お前がまた海を避けるようになったと」
「目黒さん、が……?」
 小さく洩らすと、初めてしっかりと唇が重ねられてすぐに離される。滋之は目を丸くするが、再び唇が重ねられた。
「お前の今のバディなら、なんとかしてやってくれと言われた。お前が海から離れないように」
「……だったら、国府さんが今日、無理して海に入ったのは、そのせい、なのか?」
 体を離そうとしたが、きつく抱き締められて強引に唇を塞がれる。痛いほど唇を吸われた。
「――俺はお前のために命を懸けてやるほど、お人よしじゃないぞ。俺自身が潜りたかったから、そうしただけだ。それに、足が攣ったのと寝不足は関係ない」
「やっぱり、寝不足だったんじゃないか」
 睨みつけると、これまで真剣な表情だった国府の表情が緩む。間近に国府の笑みを見て、再び滋之の胸は締め付けられる。
 そっと頭を引き寄せられ、互いに求め合うようにしっとりと唇を重ねる。
 丹念に唇を吸われ、花が綻ぶように滋之は唇を開く。微かに濡れた音を立てて唇を吸われるのは、恥ずかしいのに気持ちいい。滋之は国府の肩にすがりつく。
「事故のことを忘れろとは言わない。だけどお前は、しっかり今のバディを見ろ。お前には、まだまだ教えてもらわないといけないことがあるからな」
 キスの合間、熱い吐息の下で国府に囁かれる。そして口腔に、囁き以上に熱い舌がスルリと入り込んでくる。
 大きな両手で滋之は頭を抱え込まれ、強く唇を擦りつけられ、口腔深くにまで国府の舌が差し込まれる。息苦しさを覚えるほど、国府のキスは強烈だ。
 口腔を舐め回され、鼻にかかった恥ずかしい声が洩れる。ふいに舌先が触れ合い、滋之はビクンと体を震わせる。滋之は吸わない煙草の苦味を感じ、思わず眉をひそめる。気づかうように、唇を触れ合わせたまま国府にそっと囁かれた。
「どうした?」
「……なんでも、ない……」
 逃げようとする舌を捉えられる。痛いほど舌を吸われ、きつく目を閉じた滋之だったが、すぐに求められるまま絡め合っていた。
 ようやく唇を離されて滋之が大きく喘ぐと、国府に早口に言われた。
「――すまなかったな」
 国府が何に対して謝ったのか、滋之にはわからなかった。
 こうしてキスをしてきたことか、滋之の忠告を聞かないで睡眠不足の体でダイビングをしたことか、それとも、また目黒と結託して滋之をはめようとしたことか――。
 滋之が戸惑って視線を伏せると、乱れた髪を指で梳かれる。頬を撫でられ、唇を指先でなぞられ、誘われたように唇が寄せられる。再び与えられる濃厚なキスの快感に、滋之は呑まれる。
 引き寄せてくる国府の腕の力が強くなる。このまま、布団の中に引きずり込まれてしまいそうだ。そうなると自分はどうなるのか、と考えて、めまいがする。自分の想像に、滋之は体中の血が沸騰してしまいそうに羞恥した。
 だが、単なる想像では終わらない熱っぽさが、国府にはある。滋之は急に、国府という男が本能的に怖くなった。
「……やっ……、だ。国府、さっ――。もう、怖い、よ」
 キスの合間に、切れ切れに訴える。我に返ったようにふっと国府の腕が緩み、真剣な表情で見上げられる。
「……怖いか?」
 気のせいかもしれないが、国府の言葉には少し傷ついたような響きがあった。危うく滋之のほうが謝りそうになる。熱くて腫れたように感じる唇を引き結んでから、滋之は小さく頷く。
「そうか」
 体から国府の腕がのけられ、やけに寂しく感じる。そんな自分の気持ちに滋之は内心で驚いた。
 おずおずと体を起こすと、布団から少し離れて座り直す。聞こえてくる波の音のリズムとは比較にならないほど、滋之の心臓の鼓動は速くなっていた。
 とにかく息苦しくて、ゆっくりと大きく息を吐き出す。それでも心臓の鼓動は、なかなか鎮まらなかった。








Copyright(C) 2017 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[08] << buddysystem >> [10]