バディシステム


−10−


 あのキスはなんだったのか――。
 濡れた髪からゴムを外した滋之は、指で髪を梳きながら考える。五日間も考え続けているが、いまだ答えらしいものは見つからない。だからといって、国府に直接尋ねるなど、論外だ。
「おらっ、またボケッとしてやがるな、お前は」
 いきなり背後から頭を叩かれた滋之は、我に返って振り返る。フィンを手にした国府が不遜な表情で立っていた。いつもの憎たらしい国府だ。
 この男とキスしたのだ、とまた生々しいことを考えてしまった滋之だが、顔を熱くしながらも慌てて頭から追い払う。
「いったいなあー。あんまり頭叩くなよ。国府さんみたいになるだろ」
「……俺みたいな立派な大人の男になりたいのか」
「うわっ、いい加減な耳」
「クソ生意気なガキだ」
 聞こえよがしに舌打ちした国府に頭を小突かれたが、一度離れかけた手に髪を掻き乱される。なんでもない動作だが、滋之の鼓動は速くなり、胸の奥にくすぐったい感覚が広がる。
 クラブハウスでキスされたあと、結局二人とも、海に戻ることはなく、国府は足りなかった睡眠を取り戻すかのように熟睡してしまい、滋之は寝入る国府の顔を眺め続けているしかなかった。
 それが五日前の出来事で、現在の二人は、こんな感じだ。ふらりと現れた国府と共に、店の近くの海で潜ったばかりだ。
 まったくこれまでと、何一つ変わっていない。唯一変わったといえるのは、滋之が、国府のささいな仕種に反応するようになったことだろう。不意打ちでキスされるのではないかと、身構えてしまうのだ。
 海から上がってすぐに座り込んでいた滋之は、帰り支度をしようと立ち上がる。しかし、体が重くて足にくる。
 ふらついたところを、何も言わずに国府に支えられる。ウエットスーツを通した厚みのある胸に手をついた滋之は、キスした状況を思い出して慌てて体を外す。
「……ありがとう」
 ぼそりと礼を言って器材を持ち上げると、どういう意味か、また頭を小突かれた。
 ウエットスーツ姿のまま店へと戻りながら、滋之は何気なく海を振り返る。ちょうど夕日が出ており、海がオレンジ色に染まろうとしている。
「――きれいだね」
 隣を歩く国府につい話しかける。
「なんだ?」
 真剣な表情で反応され、柄にもないことを言ったと滋之は照れる。
「大したことじゃ……。夕日がきれいだなと思って」
 同じく振り返った国府がニヤッと笑った。
「いい女でも歩いているのかと思ったぞ」
「……あー、これだから、汚れた大人ってのは嫌なんだよ。情緒の欠片もなくて」
「冗談だ。いいもんだな。こういうのんびりしたのも」
 夕日に染まる国府の横顔を見て、滋之は切なくなる。
 店が見えてくると、滋之は小さく声を洩らす。すかさず国府が応じた。
「今度はなんだ。犬のフンでも転がっててびっくりしたか」
「あんた、本当に殴るよ」
 滋之が店を指さすと、つられて国府も見る。店の前に目黒が立っていた。目黒はとっくに滋之と国府に気づいていたらしく、手を振られる。
「――なかなか様になってきたじゃないですか、国府さん。器材を手にウエットスーツ姿で歩いている姿が」
 二人が歩み寄ると、にこにこしながら目黒が口を開く。ピンとくるものがあった滋之は、露骨に疑いの眼差しを目黒に向ける。当の目黒に問いかけられた。
「どうした、滋之」
「目黒さんが男相手に爽やかに笑うときって、絶対腹の中じゃ、なんかロクでもないこと考えてるときなんだよね」
 そんなわけないだろ、と言いながらも、目黒は意味深に国府を見る。嫌そうな顔をしながらも、結局国府が水を向ける。
「……言いたいことがあるなら言え」
「いや、国府さんと久しぶりにメシでも食いたいなあと思って。酒を飲むっていうのもいいですね。滋之もオマケにつけて」
 目黒が一昨日、新しいダイブコンピューターを買ったことを思い出す。財布の中が軽いので、国府に奢ってもらうのを考えついたのだろう。
 呆れた滋之は、ポロリと本音を洩らす。
「――……目黒さん、せこい」
「なんとでも言え」
 どうする? と滋之は国府を見上げる。国府は重々しいため息を吐いてから、なかなか不穏なことを言った。
「まあ、いいだろう。お前には何度か騙されてきたが、今日の俺は機嫌がいい。大目に見てやる」
 目黒をその場に待たせ、滋之と国府は急いでシャワーを浴びて着替えを済ませる。おかげで髪を乾かす暇もなかった。
 三人が向かったのは、店の近くにある居酒屋だった。店員たちだけでなく、コース生たちもよく利用する店で、滋之も例外ではない。
 夕方から店を抜け出して飲むことに多少の良心の呵責を感じながらも、悪い大人二人に押し切られて、結局、滋之はついてきてしまった。
 店の奥の畳敷きの部屋に入ると、さっそくテーブルを三人で囲む。
 注文を任されたので、メニューを開いてつまみや料理を店員に頼む。そんな滋之の傍らで、国府や目黒はアルコールを自分勝手に頼んでいる。
 すぐにビールが運ばれてきて、三人は乾杯してジョッキに口をつける。
 どうにか四分の一ほどを一気に飲んだ滋之は大きく息を吐き出す。そんなにビールが好きなわけではないのだが、今日は素直においしいと思える。
 再びジョッキに口をつけようとしたところで、斜め前に座っている国府がふいに片手を伸ばしてくる。思わず首をすくめると、髪を一房掴まれて軽く引っ張られた。シャワーを浴びて急いで出てきたので、今は髪を一つにまとめていないのだ。
 国府の突然の行動にドキリとした滋之だが、目黒の見ている前で不自然な反応ができず、国府に尋ねる。
「どうかした?」
「お前、髪をちゃんと拭いたのか? ぐっしょり濡れてるぞ」
「……だって、シャワー室の外で目黒さんが急かしたから……」
 国府が自分のバッグの中から使っていないタオルを出すと、頭に被せられる。乱暴に髪を拭かれ、あまりの手荒さに滋之は声を上げる。
「うわっ、わっ。国府さん、乱暴すぎっ」
「うるさい。じっとしてろ」
 滋之と国府とのやり取りを、ニヤニヤしながら見ていた目黒と目が合う。感じた照れを押し隠し、滋之は不機嫌な表情を取り繕う。
「なんだよ、目黒さん。一人でニヤニヤして気持ち悪い」
「いやー、仲がいいと思って。ちょっと歳の離れたお兄ちゃんが、甲斐甲斐しく手のかかる弟の世話を焼いてるみたいだ」
 国府と顔を見合わせた次の瞬間、滋之の顔に乱暴にタオルが押し付けられる。
「自分で拭け」
 素っ気なく国府に言われ、滋之は抗議する。
「あんたが勝手に拭いてたんだろっ」
「お前がみすぼらしく、ずぶ濡れの頭をしてるからだ。まるで女の幽霊みたいだったぞ」
「あんた、女の幽霊見たことあるのかよ」
「論点はそこじゃないだろ」
 普段やっているように国府とムキになって言い合っていると、いつの間にか運ばれてきたつまみの皿をテーブルに並べていきながら、目黒が声を洩らして笑う。
「――ほらな。仲がいいじゃないか」
 もう一度国府と顔を見合わせてから、滋之は自分で髪を拭きながら座り直す。国府は国府で、心底嫌そうな顔をして煙草を咥えた。


「信じられん奴だ。なんでジョッキ二杯のビールで、ここまで見事に酔っ払えるんだ」
 すぐ側で人の気配を感じると同時に、国府の声でそんな言葉が頭上から降ってくる。
 すっかり乾いた自分の髪に埋もれるようにして、畳の上に転がっていた滋之はうっすらと目を開くが、次の瞬間にはきつく目を閉じる。酔ったせいで目の前の景色がぐるぐる回り、とてもではないが目が開けていられない。
 国府の言う通りで、他の二人が速いペースでビールや日本酒を飲んでいく中、時間をかけてジョッキの二杯目を空にしたときには、滋之はもう座っていられなかったのだ。だからこうして、畳の上に体を横向きにして転がっている。
 軽い笑い声に続いて目黒の声も聞こえてきた。
「これでも、今日はがんばったほうですよ、こいつ」
 二人に背を向けて動かない滋之を眠っていると思ったのか、国府と目黒は言いたい放題だ。
 酔いが醒めたら覚えていろよと、力なく心の中で呟く。気持ちが悪くて、二人にバレないよう、そっとタオルを口元に持っていく。このときになって、タオルが国府のものであることを思い出し、顔を埋める。
「おい、滋之」
 背後から目黒に呼びかけられる。しかし滋之は返事をせず、じっとしていた。目黒の減らず口を相手にするには、今は状態が悪すぎる。すると国府が目黒に言った。
「寝かせておいてやれ。いざとなったら、俺が背負って店に連れて帰ってやる」
「……やっぱり国府さん、滋之に甘いですよ。初対面では、あんなに険悪そうだったのに」
 目黒の口調から、またニヤニヤと笑みを洩らしているのが容易に想像できる。
「――こいつは、なんだか放っておけない」
「向こう見ずなところがありますからね。すれてなくて素直だから、店の客やコース生にも人気がありますよ。特に年上には男女関係なく。なんだか可愛がりたくなるタイプなんですよ。おや、もしかして国府さんも?」
「話の振り方がわざとらしいぞ、目黒」
 悪口を言われたら飛び起きてやろうと企んでもいた滋之は、思いがけない話の展開に顔を熱くする。
「……こいつは、感情表現がストレートだな。俺なんて面食らうときがある」
「本当に老けますよ。今からそんな年寄りみたいなこと言ってると」
 国府は目黒を睨みつけでもしたのか、十秒ほど不自然に会話が途切れた。そして会話が再開されると、寸前までの軽いノリがどこかにいき、目黒が真剣な口調で切り出した。
「――助かりましたよ。滋之のこと」
「なんのことだ?」
「一週間ぐらい前に、おれが国府さんに相談したことです。……滋之の友人から電話があって、滋之がまた海から距離を置こうとしてるって。国府さんが海に連れ出してくれてから、そいつも状態が落ち着いたみたいです」
「俺は何も。むしろこいつに、迷惑をかけたかもしれん」
 そんなことないですよ、と目黒が応じる。
 滋之は体を硬くする。髪に何かが触れてきたのだ。それが国府の手だと、すぐにわかった。もう何度も国府に髪に触れられているので、触られ方を肌で覚えてしまった。
 胸の奥で妖しい感覚がうねる。酔いのせいだけでなく、体が熱くなってくる。
 畳の上に散った髪を丹念に指で梳かれ、その指がときおりうなじに触れる。
「――こいつが髪を伸ばしている理由を知っているか?」
 どこか思い詰めた声で国府が問う。グラスをテーブルに置いた音の後、目黒が小さく洩らした呻き声が聞こえた。
「さあ……。いつの間にか、伸ばしていたんです。最初は単なる不精かと思っていたんですけどね。そのうちゴムでくくるようになって、これは不精で伸ばしているわけじゃないと気づいたんです。伸ばし始めて一年近くになりますかね」
「ということは、思い当たる理由は、やっぱり一つということか」
 国府と目黒が沈黙する。だが滋之には、二人が何を考えているのかよくわかった。おそらくその考えは、正解だ。
 滋之が髪を切らないのは、他人が聞けば笑うかもしれないが、薄れそうになる事故の記憶を引き留め、常に自分自身に自省を求めるためだ。
 海から完全に離れることができない代わりに、滋之なりに考えたささやかな贖罪の方法だ。
「けなげというか、生まじめというか……。そこが、滋之らしくもあるんですけど」
 苦笑交じりの目黒の言葉のあと、重々しい口調で国府が言った。
「――俺の前では遠慮して、友人だと言っていたが、今でも好きなんだろうな。事故に遭った『彼女』のことが」
 パッと目を見開いた滋之は、頭が混乱する。確かに国府は『彼女』と言った。
 滋之はずっと、国府は、事故に遭ったのが後藤という男だと知っているものだと思っていた。また、その前提で話していたのだ。
 目黒から、何もかも聞いていたはずではないか――。
 滋之の混乱ぶりを、当然のように知らない二人は話を続ける。
「そりゃもう、滋之は惚れてましたから。可愛い夢だったんですよ。大好きな彼女と一緒に、大好きなダイビングをやりたいっていう」
「……そうか」
「彼女もいい子だから、もちろん滋之を責めるなんてしませんでしたよ。だけどそれがかえって、滋之にはつらかったんでしょう。……この間の電話で、ヨリを戻すっていう話にはならなかったようですね。まだ彼女に惚れている滋之としては、心の傷が痛んだのかもしれないですね」
 とんでもない目黒の大うそに、淡々と国府が応じた。
「こればかりは、俺たちがどうにかしてやる、というわけにはいかんからな」
 聞かなかったことにしておこうと思っていた滋之だが、たまらずガバッと飛び起きて、国府と目黒を睨みつける。めまいに襲われて体がふらついたが、咄嗟に畳に手を突いて堪える。
「おいっ……」
 国府の手が肩にかかり、体を起こしてくれる。礼を言うのも忘れて、滋之は照れと恥ずかしさから、きつい口調で言っていた。
「国府さん、また目黒さんに騙されてるっ」
 国府がわけがわからない、といった顔をしたので、今度は目黒を睨みつける。目黒はニヤニヤと笑っていた。
「――聞いてたのか」
「聞いてたのかじゃないよっ。何、国府さんに思いきりうそ教えてるんだよ」
「話に、重みと深刻さをアップさせてみようかと思ってな」
 目黒はまったく悪びれていない。正直、毒気を抜かれてしまった滋之だが、それでも口調だけは怒っているように装う。
「人のトラウマを、勝手に脚色するなっ」
 酔っていて立てないので、這って目黒の元まで行き、掴みかかる。しかし目黒に、まるで犬でも可愛がるように髪を両手で撫でられてから、あっという間に畳の上に転がされる。
「酔っ払いはおとなしく寝てろ。吐いても置いて帰るからな」
「吐くときは、目黒さんの胸元を狙うから」
 子供のようなやり取りを目黒と交わしていると、ようやく事態が呑み込めたらしい国府が、物騒なぐらい低い声を発した。
「――目黒、こいつが言ったことは本当か?」
 平然として目黒が頷く。目黒のこういう神経の図太さだけは、滋之も尊敬してしまう。
 目黒が口を開きかけたが、またロクでもないことを言い出しそうだったので、畳に転がされたまま滋之が説明する。
「……彼女なんて、うそだよ。後藤は男で、本当にぼくの友人だ」
 このヤロー、という国府の呻き声が聞こえてくる。目黒が大げさな動作で両手を合わせ、国府に向かって頭を下げる。
「まさか国府さんが、いまだに後藤くんのことを女だと信じてるなんて思わなかったんですよ。滋之がとっくに説明してるものかと思って……」
「せ、説明したっ。だけどわざわざ、後藤の性別まで言う必要があるなんて思わないだろ」
「……これ幸いにと、さらに俺を騙そうとしたんだな」
 国府に鋭い視線を向けられ、露骨に目黒が顔を背ける。再び体を起こした滋之は、目黒の前に回り込み、文句を言う。
「冗談にしていいことと悪いことがあるんだからな。それでなくても国府さんが、見かけによらず騙されやすいって知ってるだろ」
 余計なお世話だ、と国府がムスッとした顔で答える。
 何を思ったのか、ふと目黒が滋之の顔を覗き込んでくる。そしてにんまりと笑いかけられた。
「――ずいぶん平気な顔して、事故のこと話せるようになったじゃないか。一か月前は、悲愴な顔してたっていうのに」
 目黒に指摘され、滋之はピクリと体を震わせる。滋之自身に自覚はなかったのだ。
 それが果たして喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか、判断がつかなくて怖かった。自分は薄情なのかもしれないとすら、考えてしまった。
 心配そうに目黒が表情を曇らせる。
「大丈夫か? 顔色が変わったぞ」
 次の瞬間、滋之は口元を手で押さえる。胸から込み上げてくるものがあった。すぐに国府が動き、支えられながら立たされる。
「吐きそうなんだろ。洗面所に連れて行ってやる」
 有無を言わさず、国府に抱えられるようにして店の洗面所に入る。狭い洗面所で大人の男が二人も入ると窮屈な感じがする。
 個室に押し込まれそうになり、滋之は首を横に振って拒む。
「……国府さん、もう平気……。吐きそうだったの、気のせいみたいだ」
 険しい眼差しを向けてきていた国府だが、軽く息を吐き出す。
「だったら口をすすげ。少しは酔いがマシになるだろ」
 頷いた滋之は自分の足で洗面台に歩いていこうとしたが、どうしてももつれて力が入らない。結局国府に支えられて移動する。
「――ごめん、国府さん」
 水道の水で一度口をすすいでから、顔を伏せたまま滋之は謝る。すると頭に手がかかり、乱暴に撫でられた。こんな状況でも、国府にキスされた光景が脳裏に蘇り、慌てて打ち消す。
「なんでお前が謝るんだ」
「だって……、ぼくがよく説明してなかったから、目黒さんに騙され続けることになったんだろ」
「言っておくが俺は、他の奴にまで騙されるようなマヌケじゃないからな。目黒の、どうでもいいようなうそだから、騙されてやっているんだ」
 本当なのかもしれないが、言い訳めいている。なんだか国府が可愛く思え、つい滋之が笑みをこぼそうとすると、慌てたように国府が言葉を付け加えてきた。
「……別に、お前の友人が事故に遭ったことがどうでもいいといってるわけじゃないからな。お前は友人のことばかり言ってるが、お前も危ない目に遭ったんだろう。目黒からそう聞いた」
「あんなに騙されてるのに、目黒さんの言うこと信じるんだ」
「どうでもいいうそはつくが、お前に関することならうそは言わないな。あの男は」
 もう一度口をすすごうとして髪先が水に濡れる。すかさず国府が髪を束ねて持ってくれる。ささいなそんな行動にすら、滋之の鼓動が跳ね上がる。
 同性なのに、国府に触れられるとどうしても意識してしまう。また、キスされるのではないかと。いっそのこと、キスしてきた理由を国府に尋ねてしまえばいいのだが、羞恥というより、防衛本能が働いて口から出てこない。
 単なる悪ふざけだと言われて自分がどれだけ傷つくか、滋之には予測がついているのだ。
 ようやく顔を上げ、持っていたハンカチを取り出して口元を拭う。鏡の中から、すぐ後ろに立つ国府が真剣な表情をして滋之を見つめていた。
 肩に手がかかり、滋之は抑えようがなくて体を強張らせる。鏡を通して二人は見つめ合う。
 感じる緊張感に耐え切れず、滋之はうつむいて口を開く。
「国府さん――」
「お前、狸寝入りしていたな」
 いきなり国府に言われ、面食らった滋之は振り返る。
「はあ?」
「俺たちは、お前が寝ているもんだと思って、話してたんだ」
「……今頃になってそんなこと言われても……。だいたい、あんなこと言われているのに、平気な顔して起きられるわけないだろっ」
 国府が怒っているのだと思い込み、ムキになって怒鳴り返した滋之だが、国府の様子がおかしいのに気づいて首を傾げる。目が合うと、わずかに戸惑いを含んだ表情で顔を背けられた。
「国府、さん……?」
「なんでもない。もういいなら、俺は戻るぞ」
 滋之の返事も聞かないうちに国府が慌しく洗面所を出ていく。一人残された滋之は、何度も首を傾げて国府の態度の意味を考える。
 背中越しに交わされていた国府と目黒の会話を思い返し、ゆっくりと滋之の頬は熱くなる。また頭がクラクラとしてきた。
『――こいつは、なんだか放っておけない』
 確かに国府はそう言った。滋之の目の前では、口が裂けても言ってはくれない言葉だ。だが国府は、滋之のことをそう思ってくれているのだ。少なくとも、嫌われてはいない証明になる。
 ここでハッとして、鏡の中の自分の顔を凝視する。次の瞬間には、小さく噴き出していた。国府が戸惑った表情を見せて洗面所を出て行った理由がわかった気がした。
「照れてたんだ。国府さん」
 鏡の中で、滋之の顔は真っ赤になった。五日前のキスが嫌がらせや悪意からでないとするなら、と考え、一瞬頭に浮かんだことがあった。滋之は目を閉じて、ありえない、と打ち消す。
 それでも、指先を濡れた唇に這わせ、国府から与えられたキスの感触を忠実に頭の中で再現していた。体の奥が疼き、自分が得体の知れない生き物になった気がして、小さく身を震わせる。
 気分を切り替えるつもりで顔を洗おうとした滋之だが、顔をしかめて口元をてのひらで覆う。
「気持ち悪い……」
 罪悪感を含んだ甘い気持ちはあっという間に吹っ飛び、滋之は個室に飛び込んでいた。








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