バディシステム


−11−


 降り注いでくる強い陽射しに目を細めた滋之は、ウエットスーツに包んだ体を大きく伸ばしてから、会心の笑みを浮かべる。
「んー、いい天気だ」
 風がないため、目の前に広がる海は静かで、波も穏やかだ。この気温の高さなら、水温も冷たくはないだろう。実にダイビング日和といえる。それに今日は、単なるダイビングではなかった。
「――暑いな」
 すぐ側でぼそりと声がして、滋之は振り返ることなく声を上げて笑う。
「何言ってるんだよ、国府さん。暑いから、夏なんだろ。それに、こんな天気の日に海に入ると気持ちいいよ」
 隣に視線を向けると、ウエットスーツに着替え終えた国府が、忌々しげに顔をしかめていた。すぐに我慢できなくなったのか、持っていたバッグの中からサングラスを取り出してかける。
 こうやって見ると、国府も立派なベテランダイバーだ。
 国府の逞しい立ち姿を上から下までじっくり眺め、滋之は内心で感嘆する。すると表情に出ていたらしく、海のほうを向いたままの国府に指摘された。
「お前は機嫌がよさそうだな」
 見ていないようでいて、意外に細かく人の変化を見ている。
「だって、ボートダイビングなんて久しぶりだからさ。ワクワクするじゃん」
 サングラスを指先で押し下げた国府がまじまじと見つめてきて、鼻先で笑った。
「大丈夫か? 俺のバディとして、しっかりしてもらわんとな」
「少なくとも、国府さんより頼りになると思うよ」
 まだフィンをつけていないブーツの先で蹴られそうになったが、素早く躱す。
「インストラクターに何するんだよ」
「その前に、俺にとってお前は、単なる生意気坊主だ」
「うわっ、おっさん暴言」
 国府が持っているバッグを投げつけるふりをしたので、滋之は大げさに身構える。他人の目にはまるでじゃれ合っているように見えるらしく、二人の傍らを通り過ぎていく他のインストラクターやコース生たちがクスクスと笑い声を洩らす。
 一週間ほど前に、国府はステップアップコースのコース生となった。初心者がCカードを取得後、だいたい半数は進むコースだ。
 国府が放っておけなかった滋之は、父親と相談して、とうとうステップアップコースにインストラクターとして参加したのだ。この辺りの経緯は、国府には告げていない。
 今日は、半月ほど前にやってきたクラブハウス近くの港から船を出し、ダイビングの醍醐味であるボートダイビングを楽しむ。
 沖に出るため、浅瀬とは違った海の景色がある。自分たちでボートをチャーターするとなると大変なので、手軽にボートダイビングができるコースは人気があるのだ。
「お前、目黒たちとはボートに乗らないのか?」
 国府の問いかけに、滋之は軽い苦笑を向ける。
「……事故に遭ったの、ボートダイビングの途中だったんだ。それから、遠慮してた」
 国府は表情は変えなかった。サングラスをかけ直し、滋之に向けて手招きする。
「来い。ボートに乗るぞ」
 ぎこちなく頷いて側にいくと、後頭部を叩かれた。
「いたっ」
「おら、隙を見せるな。海は厳しいぞ」
「だからって、なんで国府さんがぼくを殴る理由なるんだよ」
 文句を言いながら歩いていると、ごく自然に国府の手が肩にかかる。ウエットスーツの上から国府の手の感触をはっきりと感じ、肌が落ち着きなくざわつく。
 自分たちの荷物を手に船の前に行くと、まずは先に乗船している人に荷物を手渡す。船に乗り込むとき、海に落ちる危険があるため、ボートと岸壁を跨いではいけないというルールがあるので、滋之も人の手を借りようとする。
 このとき隣で素早く影が動き、ギョッとして見た滋之は目を吊り上げる。国府が足の長さを活かし、さっさとボートと岸壁を跨いで船に乗ってしまったのだ。
「国府さんっ、ボートを跨ぐなって言っただろ。危ないんだからなっ」
「悪いな。長い足を持て余してるもんだから」
 平然と答えた国府がサングラスを外し、当然のような顔をして片手を差し出してくる。意味を察した滋之は、さらに口を突いて出そうだった言葉を呑み込み、思いきって手を出す。強い力で手首を掴まれ、ボートの縁に取り付けられた手すりに足をかけて船に乗る。
 ポイントまで案内してくれるキャプテンや船長、インストラクターにコース生を含め二十名が乗り込むのを待って、船が出発する。
 デッキにいるコース生たちが口々に歓声を上げ、立ってボートの縁にもたれかかり、景色を眺め始める。
 滋之も実は、久しぶりのボートダイビングだということで、内心沸き立つようなものを感じていた。この人も一緒にいるからだろうかと思いながら、すぐ隣に立ち、目を細めている国府の横顔に視線を向ける。
 滋之の視線を感じたように国府がこちらを見た。
「どうした?」
「……人の言うことを少しは聞きやがれ、おっさん、と思ってた」
 咄嗟にうそをつくと、国府の片手が伸ばされる。鼻を摘まれると思い、素早く反応した滋之は両手でしっかりと自分の鼻をガードする。だが国府の目的は鼻ではなかった。
 顔の横を手が素通りして、後頭部にかかる。何事かと思ったときには、一つに束ねてある髪を引っ張られていた。次の瞬間には、髪が風になびく。国府の手には髪を束ねていたゴムがあった。
 我に返った滋之は、国府に掴みかかる。
「何してるんだよっ。せっかく束ねてたのに」
「髪が窮屈だろ。風にさらしたほうが、気持ちよくないか?」
 真顔で問いかけられ、数秒動きを止めた滋之は渋々頷く。確かに、あまり長時間髪を束ねたままにしていると頭痛がしてくる。実際、髪を風に嬲られるのは心地よかった。
 乱れた自分の髪を掻き上げながら、滋之は国府に冗談っぽく問いかけた。
「本当は国府さん、ぼくが髪を下ろした格好が気に入ってるんだろ?」
「――そうだ」
 臆面もなく頷かれ、問いかけた滋之のほうが、どんな反応を返していいのかわからなくなる。知らず知らずのうちに顔が熱くなり、急いで国府の手からゴムをひったくると、解いたばかりの自分の髪を手早く一つにまとめる。
 なんとなく、国府の様子がおかしいとふと思う。さきほど船に乗るとき、当然のように手を差し出してくれたりと、落ち着かないぐらい滋之に対して優しいのだ。
 戸惑った滋之に気づいたのか、国府に額を弾かれる。
「何、ボケッとしてるんだ」
「……国府さんが、なんか悪いもんでも食ったんじゃないかって、心配になった」
 バカ、といって国府が笑う。その笑顔も、胸が締め付けられるほど優しい。
 十五分ほど船に揺られてから、ようやく目印である小さな島が五十メートルほど先に見えてくる。誰も住んでいない島で、また接岸できるような場所すらない。ダイバーたちにとっては、ダイビングポイントを計算するときに便利だというだけの島だ。
 ここで船が停まり、キャプテンからブリーフィングを受ける。水深や水温、日によって大きく違う潮の流れなど、このポイントで潜るうえで必要な情報を教えてもらうのだ。
 それが終わってから、ようやくダイバーたちは器材を装着し始める。
 滋之はバディである国府の器材をチェックして、装着を手伝ってやる。
「絶対、ぼくから離れないでよ。もし見失ったとしても、ぼくのことはいいから、コンパスを見て船に戻る。いい?」
 滋之もタンクを背負わせてもらいながら、後ろに立つ国府に何度も念を押す。すると予想外のリアクションが返ってきた。両肩に、ズシリとしたタンクの重みだけでなく、大きくしっかりとした感触がかかる。国府の手だった。
 飛び上がるほど驚いた滋之だが、しっかりと肩に置かれた国府の手のおかげで動けない。
「……国府さん……」
「お前、もう少し肩から力を抜け。事情はわかるが、俺のバディだっていうなら、一緒に楽しむぐらいの余裕を見せろ。そうじゃないと、俺も気が気じゃない」
 痛いほど肩を掴まれて、滋之はぎこちなく頷く。
「よし、わかったんならいい」
 そう言って手荒に頭を撫でられた。
 国府がデッキの反対側に行ったところで、滋之は自分の頭に手を置く。国府に頭を撫でられて、嬉しいと感じた自分に戸惑う。それに、いつもの傍若無人ぶりがなりを潜め、やけに大人の男らしく振る舞う国府そのものにも。
 急に振り返った国府と目が合い、頭からパッと手を離す。こっちに来いと手招きされた。
「俺の側にいないと、ひっくり返って海に落ちたとき、助けてやれないぞ」
 出し抜けにそんなことを言われ、滋之はムキになって怒鳴り返す。
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。あんたみたいな大きいおっさん、引き揚げるの大変なんだからな」
 子供同士のようなやり取りに、デッキ上にいた人たちが声を上げて笑う。
 顔をしかめた国府にそれでも再び手招きされ、仕方なく滋之はフィンを取り上げて従う。
 実は、海という場にあって国府に主導権を握られるのは、考えていたほど嫌ではなかった。








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