バディシステム


−12−


 自分のゲージ類を確認して、コンパスでポイントの確認をした滋之は、頭を小突かれて顔を上げる。いつの間にかすぐ側に泳いでやってきた国府に、あっちに行くと親指で示される。
 あっという間に、いつもより深いポイントでのダイビングに体が慣れたらしく、国府はアクティブだ。それに楽しそうでもある。
 それはそうだろう。普段は見られない大きな魚たちの魚群が体を掠めるようにして通り過ぎていき、岩や海藻で起伏に富んだ海の中の景色は美しい。
 この場所だけ切り取ってしまえば、とうてい日本の海とは思えないだろう。
 国府が示すほうに泳いで向かいながら、滋之はコンパスで方向を確認する。障害物が多く、辺り一面をすぐに見通せないということは、それだけ海の中で初心者は迷いやすいともいえる。一緒にいて、国府をそんな目に遭わせるわけにはいかなかった。
 自分でも自覚しているほど、滋之はボートダイビングに神経質になっていた。一年前の悪夢を振り払いたいという気持ちも、どこかにあるのかもしれない。
 国府が海底に腹ばいとなり、何かを熱心に見ている。そっと近づいて覗いてみると、派手な背びれを持つ魚だ。滋之としては魚よりも、その魚を穏やかな目で見ている国府に見入ってしまう。
 急に国府が身を起こし、驚いて目を丸くした滋之はレギュレーターから大量の泡を吐き出す。そんな滋之を見て笑った国府が、力強くフィンを動かして泳いでいき、滋之も追いかける。
 元気というか、精力的な男だと思う。
 前に海中で足を攣ってから、体調が悪いときには海には入らないと骨身に沁みた様子だが、それでも今日のボートダイビングに参加するため、夜中に仕事を終え、無理やりに睡眠をとってやってきたのだという。それで、この動きだ。
 体格やスタミナが違うというしかないだろう。滋之を引き寄せた国府の両腕は逞しく、迫力があった。だから、抵抗することなく国府のキスを受け入れてしまったのだ。
 ぼんやりとして、何度となく思い返した国府とキスしたときの状況を、また脳裏に蘇らせる。
 国府は決して乱暴ではなく、逞しかった腕も、滋之が少し抵抗すればすぐに外れたのかもしれない。そうしなかったのは、滋之自身だ。
 では、なぜそうしなかったのか――。
 いつの間にか泳ぐのをやめ、その場に漂っていた滋之だが、眼前を魚が悠然と泳いで通り過ぎていったため我に返る。
 そこで、起こっている異変に気づいた。少し離れて前方を泳いでいた国府の姿が見えなくなっていたのだ。しかもよりによって、海藻がよく成長しているエリアでだ。
 息を吐き出した滋之は、勢いよく泳ぎ出して国府の姿を探す。鼓動が嫌な乱れ方をしていた。
 まるで海中のカーテンのように揺れる海藻を手で押しのける。まるで滋之をその場に引きとめようとするかのように腕にまとわりつき、苛立ちながら外す。
 声が出せるものなら、とっくに大声で国府を呼んでいるだろう。
 もし国府に何かあったらと考えるだけで、全身を悪寒が駆け抜ける。国府が目の前からいなくなるようなことになれば、自分がどうなってしまうか想像もできなかった。
 大きくフィンを動かそうとしたそのとき、ガクンと体が何かに引きとめられる。振り返ると、左足に潮流で大きく揺れた海藻が絡みついていた。足を動かして外そうとするが、反対に他の海藻まで巻きついてしまう。
 普段ならなんなく対処するところだが、今の滋之の頭にあるのは国府のことだ。海藻を手で引き千切ろうとしてバランスが崩れる。
 腕を強い力で掴まれて支えられる。体を強張らせながら見ると、険しい目をした国府だった。国府は携帯している水中ナイフの刃を取り出すと、足元に絡み付いている海藻を手早く切っていく。その手際のよさに、滋之は国府の肩に手を置いたまま見入っていた。
 同時にじわじわと、国府が無事だったのだという実感が湧いてくる。
 ようやく足が自由になり、国府が顔を上げる。怒っているように睨みつけられたが、すぐに苦しげに目が細められた。
 肩に置いた手を取られて引き寄せられる。ただし、大事な器材のホースなどが絡み合って外れる危険があるため、必要以上には近づけない。
 ゆっくりとフィンを動かしながら向き合い、見つめ合っているうちに、もう一方の手を国府に取られる。意図が伝わってきて、滋之は体を羞恥で熱くしながら、そっと周囲を見回す。
 岩や海藻に隠れそうになるほど潜降しているため、仮に周囲に人がいても、すぐには二人の姿は見えないだろう。
 近づきたいのに近づけない、もどかしいほどの一定の距離を取ったまま、国府に取られた手を重ね合い、指を絡める。恥ずかしくて滋之は顔を伏せるが、おそらく場所が地上であったなら、このまま国府に抱き締められていただろう。てのひらを通して、国府がそれを求めていることは漠然と伝わってくる。
 そして仮に国府に抱き締められたとき滋之は、自分から国府にしがみつくことも予測がついた。
 ふいに片手が解かれ、一瞬の寂しさを味わう。だが国府のてのひらは、そのまま滋之の腕に這わされてきた。
 ウエットスーツの上から、ただ腕に触れられるだけの行為に、ゾクゾクとするような感覚を感じる。すがるように国府を見つめると、数瞬のためらいのあと、体が引かれて手を離される。
 何事もなかったように国府が背を向けて泳ぎ始め、つられて滋之もあとを追いかける。
 さきほどの国府の行動と、そんな国府の何もかもを受け止めようとしていた自分の気持ちは一体なんだったのかと、フィンを動かしながら滋之は考えていた。
 だが意識はすぐにゲージへと向く。もう、冷静さは取り戻したつもりだ。
 空気の残量を確認して、海面に戻るまでの必要量を素早く頭の中で計算してから、国府に追いつき、海面を上を指差す。頷いた国府と共にゆっくりと浮上していく。
 水深数メートルで一度止まり、船から垂らされているロープに掴まりながら三分ほどの時間をかけて呼吸を整える。ようやく海面から顔を出すと、先に国府を船に上がらせることにする。
 ウエイトやBCD、フィンといったものを順番にキャプテンに手渡して船に上がった国府が、何より先に振り返って、手を差し出してくる。
「ほら、渡せ」
 ぶっきらぼうな物言いは、いつもの国府だ。急に夢から覚めたような状態となり、滋之は次々に自分の荷物を国府に渡して受け取ってもらう。
 手を貸してもらってハシゴを上ると、場所を移動してデッキにぺたんと座り込む。
 戻ってくるのが早かったらしく、デッキには滋之たちの他に、女性のコース生二人の姿があるだけだ。すでにウエットスーツを上半身だけ脱ぎ、水着姿になって楽しげに何か話している。
 滋之はグローブを外しながら、少し離れた場所に座り込んだ国府に視線を向ける。キャプテンと笑い合いながら何かを話している。やはり、どこから見ても滋之の知っている国府だ。
 ゴムを外し、指で簡単に濡れた髪を解して、プルプルと頭を左右に振る。本当か冗談かは知らないが、滋之が髪を下ろした姿が気に入っていると言った国府が反応するかと思ったが、こちらに一瞥すら向けない。
 内心で残念さを感じ、次の瞬間には、慌ててそんな感情を打ち消す。別に、国府に気がついてほしいから髪を解いたわけではない。
 水の中ではなんともない肌に張り付くウエットスーツを息苦しく感じ、ファスナーを下ろして胸元を大きく開く。そこに、滋之とは違ってウエットスーツを脱いで上半身裸となった国府が、両手に紙コップを持ってやってきた。
「おい、熱いお茶飲むか」
「うわっ、珍しい。国府さんが気を利かせてくれるなんて」
「……いらないんだな」
「うそうそっ。飲むよ」
 差し出された紙コップを受け取ると、慎重に口をつける。一口啜ったお茶の熱さがじんわりと体中に染み渡る。思わず吐息を洩らしていた。
 国府は傍らに立ったままデッキにもたれかかり、手すりに腕をかける。距離の近さを意識する。
 さきほどの、海中での行為の意味を聞いてみたかった。だが一方で、こんな強い陽射しの下で、軽々しく晒してはいない行為なのだという気もする。誰も知らない、二人だけの秘め事だ。
「――いいもんだな。ボートダイビングは」
 急に国府が口を開き、驚いた滋之は危うくお茶をこぼしそうになる。
「……急にどうしたの。国府さんが素直な言葉口にすると、なんか裏があるんじゃないかって身構えるんだけど」
 動揺を抑えつつ滋之は応じる。国府は口元に苦い笑みを浮かべはするが、海に視線を向けたまま滋之を見ようとはしない。いつもなら、鼻を摘もうとすかさず手を伸ばしてくるはずなのに。
 やけに柔らかな国府の言動に、とうとう耐え切れなくなった滋之は問いかけた。
「国府さん、なんかあった?」
「どうしてだ」
「変。……おとなしいっていうか、意地悪じゃないっていうか――」
「意地悪なほうがいいのか?」
 笑いながら問い返され、滋之は返事に詰まる。
「そうじゃ……ないけど」
「――お前、髪切るなよ。どういう理由で髪を伸ばしてるのか関係なく」
 何事かと面食らった滋之は、国府を見上げる。やはり国府は滋之を見ようとはしない。
「あのさ、さっきのボートダイビングはいいって言葉から、なんでぼくの髪の話になるんだよ」
「海の中で、お前の髪がユラユラ揺れてるのを見てると、本当に人間の男なのか、捕まえて確認したくなる」
「あっぶないなー。今度から国府さんの前泳ぐのやめようかな。だいたい、他に何に見えるって言うんだよ。海に河童はいないからな」
 からかわれているのかと、失笑した滋之だったが、船底に当たる波の音に紛れ込ませるように、早口で国府が言った。
「――……海藻に足が絡まって、泣き出しそうな目をしてるお前を見て、一瞬、人魚なんてものが存在してたら、こんな感じなのかと思ったんだ」
 一気に言い切ったあと、国府は激しい自己嫌悪に陥ったように、自分の頭をガシガシと手荒に掻き、舌打ちした。
「くそっ。何言ってるんだ、俺は。船で酔ったのか」
 そう言いたいのはこっちだ、という言葉を滋之はぐっと呑み込む。身悶えたくなるほど恥ずかしい国府の発言だが、思ったことを言ってくれる関係になれたのだという感動に近いものもある。
 何か返さなければと思い、滋之はぎこちなく笑う。
「タンク背負って、レギュレーターつけた人魚なんているわけないじゃん。……そんなに、海の中のぼくの姿に見惚れるんなら、今度はスキンダイビングやろうよ」
 スキンダイビングとは、ウエットスーツにシンプルな装備で海に潜る方法だ。
 国府は苦々しげに顔をしかめる。
「調子に乗るな」
 言いながらも、国府は不自然なほど滋之を見ない。一方の滋之はひたすら国府を見上げる。
 張り詰めたように逞しい国府の腕や背を、海水とも汗ともしれないしずくが幾筋も伝い落ちていく。よく焼けた肌をしずくが彩っているようで、自覚もないまま滋之は見惚れてしまう。
 触れるだけで火傷してしまいそうだと思った。白くて細いだけの滋之の体にはない迫力だ。
 このとき急に胸の奥に突き上げてくるような疼きを感じ、軽く身震いする。自分が国府の体に欲情したのだと、すぐにわかった。
 慌てて国府から顔を背け、気を鎮めようとお茶を飲む。だがかえって体が熱くなり、逆効果だったようだ。結局、国府と同じようにウエットスーツを上半身脱ぐことにする。
 肌に密着したウエットスーツを脱ぎ、ようやく両腕を抜き出す。途端に、海の上を渡ってきた風に肌を撫でられた。
 濡れた髪が頬に張り付くのもかまわず、顔を伏せる。もう少し風に吹かれないと、熱くなった顔の熱は冷めない気がした。
 隣で急に国府の気配が動く。わずかに顔を上げて見ると、自分のバッグの中からパーカーを出していた。そして滋之を振り返り、不機嫌そうな表情で歩み寄ってくる。
 何も言わずにいきなりパーカーを投げつけられ、頭から被ってしまった滋之は懸命に大きなパーカーの合間から顔を出す。
「何するんだよっ。今日の国府さんの行動って、本当にわけわかんないよ」
「――羽織ってろ」
 頭ごなしに言われ、滋之は呆気に取られる。
「……い、いよ。別に……。女の子たちでさえ羽織ってないのに」
「あとで後悔するぞ。お前、肌が真っ赤になるだけで、大して焼けないんだろうが。夏になると顔を真っ赤にしてヒイヒイ言ってると、目黒が話していたぞ」
 余計なことを、と内心で目黒を恨みつつ、渋々滋之は国府のパーカーを羽織る。側に寄ってきた国府に、フードまで被せられた。
「大げさだなあ……」
 聞こえよがしにぼやくと、国府に頭を小突かれる。
 ようやく国府が見つめてくれる。向けられる眼差しに安心した滋之は、自分の隣を示す。言いたいことを理解して、国府はすんなり隣に座り込んだ。ただし、手で示したのとは反対方向だ。
 素直じゃない、と思ったのは一瞬で、すぐに滋之の胸はじんわりと温かくなる。
 国府は、太陽が照り付けてくるほうにわざわざ座り、滋之が陰に入るようにしてくれたのだ。
 今日の国府は様子がおかしいが、同じぐらい優しい。自分に向けられる国府のそんな優しさが、滋之は照れてしまうほど嬉しかった。








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