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国府の出発を一週間後に控えた日の夜、滋之たちの姿は、クラブハウスの前の砂浜にあった。
ぽっかりと浮かぶ満月を見上げた滋之は、寂しくなった後ろ髪を撫でる。切って何日か経っているが、一年がかりで伸ばしていた髪をすっぱり切ってしまうと、なんだか落ち着かないのだ。
「おい、準備しろ」
背後から声をかけられて振り返ると、ウエットスーツのファスナーを上げている国府の姿がある。少し離れた場所には、同じくウエットスーツを着込んだ目黒がいて、目が合うとにんまりと笑いかけられた。
国府がしばらくダイビングから離れることになるため、壮行会のような意味合いを込めた何かができないだろうかと言い出したのは、目黒だ。
そこで国府が出したリクエストは、夜の海に潜ってみたいというものだった。こうして話はあっという間にまとまり、参加したいという店の常連客たちも伴って、こうしてナイトダイビングに訪れたのだ。
みんな自分のバディたちと向かい合い、準備を確認し合う。頼りは水中ライトだけというナイトダイビングは、それだけ危険も大きい。普段以上に装備品や装置には気をつかう。
滋之と国府の装置を細かくチェックしていく。水中ライトの予備を出させて、きちんと明かりがつくか確かめる。水中でのサインは、国府が嫌がるほど練習した。
「大丈夫か? チェックしすぎて電池がなくなるなんてないだろうな」
国府の言葉に、滋之は苦笑する。日中のダイビングとはわけが違うので、さすがの国府も緊張しているのがわかる。
「大丈夫だよ。いざとなったら、ぼくから離れなければいいんだから」
「戦場に向かう前に溺死なんて、笑い話にもならないからな」
さらりと不吉なことを言った国府を、じろりと滋之は睨みつける。二人のやり取りを聞いていたのだろう。目黒が腹を抱えて爆笑している。
「……デリカシーがないっていうか、縁起でもないことを言わないでくれるかな」
ベルトを締めながら滋之が独りごちると、国府に肩を抱かれ、耳元にそっと囁かれた。
「バーカ。その気がないから言えるんだよ。また髪が伸びたお前と再会しないといけないしな」
髪フェチ、と声に出さずに呟いてから、装置を身につけていく。そして仕上げに、ケミカルライトの中央を折って、タンクに取り付ける。暗闇の中では、バディの背についていくにしても、肝心の前後すらわからないので、蛍光色に光るケミカルライトを身につけておくのだ。
すべての準備を終えてから、いよいよ海に入ることになる。
「国府さん、最後になるかもしれないナイトダイビングを楽しんでくださいよ」
近寄ってきた目黒までが、飄々とした様子でそんなロクでもないことを言う。国府は、おう、と言って軽く手を上げたが、滋之は抗議のため口を開こうとする。すると国府と目黒が、揃って人の悪い笑みを浮かべる。
「なっ? おもしろいだろ。実際に行く俺よりも、神経質になってる」
国府が言うと、目黒が頷く。
「本当に生まじめですからね、こいつは」
自分がからかわれていることを知った滋之は、ムキになって怒鳴る。
「なんでそんなに、どうでもいいようなことでいつも息が合ってるんだよ、あんたらっ」
国府と目黒に揃って大笑いされ、滋之は二人に蹴りを入れてマウスピースを咥える。もう海に入っている人たちがいるのだ。
ようやく国府と目黒も準備を整え、マスクをつける。このときには、二人とも表情は真剣だ。
ゆっくりと慎重に歩いて海へと浸かっていく。
国府と共に頭の先まで海に潜ると、空気量を調節しながら周囲にゆっくりと水中ライトの明かりを向ける。水中ライトがなければ、本当に何も見えない。今日はまだ月が出ているので、水面はぼんやりと照らし出されているが、水中に潜ってしまえば意味はない。
十分な光がないというだけで、いつものダイビングスポットも様相は一変する。
普段はたくさん泳いでいる魚たちも、ほとんど姿が見えない。海藻の根元や岩の陰に水中ライトを向けると、ようやくじっと身を潜めて眠っている魚たちの姿がある。
動いているものが何もないかといえば、そうでもない。夜行性の生き物はいるのだ。
背後から水中ライトの光がチラチラと揺れたので振り返ると、岩の上で国府が熱心に手を動かしている。何事だろうかと滋之が引き返し、国府の手元を覗き込むと、昼間はほとんど姿を見せることのないエビだ。
国府はそのエビを捕まえようとしているのだ。しかしエビは、後ろ飛びで器用に国府の大きな手の合間からすり抜けていく。
ムキになって追いかける国府がおもしろい。なんとなく滋之もつき合い、国府の手元を水中ライトで照らしてやる。
このとき、ごく自然に国府に片手を取られて握られる。目を丸くして驚いた滋之だが、すぐに笑みをこぼす。国府の手をきつく握り返していた。
海の中、こうして国府と触れ合える幸せな時間がまた持てることを、滋之は心の底から願っていた。
「――海の向こうに何を見ているのか」
傍らから声をかけられ、船の縁にもたれかかっていた滋之は視線を自分の隣に向ける。ドライスーツを上半身だけ脱ぎ、トレーナー姿となっている目黒だった。これからボートダイビングの実習なので、デッキの上はコース生たちが右往左往してちょっとした一騒動だ。
もちろん、インストラクターである滋之も海に入る。国府の講習を終えてから、滋之はインストラクターに本格復帰して。コース生たちを見ている。
そうやって過ごしている内に、海を渡ってくる風は、身を切るほど冷たいものに変化していた。
いくぶん伸びて首筋にかかる髪を指で梳いて、滋之は軽い笑みを浮かべる。
「何? 目黒さん」
「いや……。お前が切なそうな顔して、海を眺めてるからな」
「そんな顔してないよ」
「――国府さんが心配か?」
わずかに肩を震わせた滋之は、目黒の前で意地を張る無益さを思って、こくりと頷く。目黒は、金髪から多少落ち着いた茶色になった髪をガシガシと掻く。
「そうか……」
グローブをしている手で拳を握り、滋之はわざと荒い口調で言う。
「あのおっさん、人が心配してるの知ってるくせに、全然連絡してこないんだよ。だいたい、生存確認をどうして、週刊誌の写真で確認しなきゃいけないんだよっ」
段々興奮してくるが、苦笑した目黒に肩を叩かれて落ち着かされる。
「お前の声を聞くと、里心がつくんじゃないか?」
「……里心?」
次の言葉を聞いて、滋之は心底、国府以上に目黒ほど食えない男はいないと痛感させられた。
「可愛い年下の恋人の声を聞くと、一人身の夜はつらいだろ。そのくせ、いつ何があるかわからないから、常に気は張り詰めておかないといけない。自分の身に何かあったら、その可愛い恋人が悲しむからな」
ウエットスーツを着ていても寒風が身に染みるというのに、滋之は冷や汗をかく。
「えっと、年下の恋人って……、ぼくのこと?」
「他にいないだろ。可愛い恋人は」
いつの間にバレたのだろうかと、滋之は必死に考える。だが、まったくわからない。すると、滋之の動揺を読み取ったように、目黒がにんまりと笑った。
「出発の前に、国府さんに脅されたんだよ。お前に変な虫がつかないよう、よく見張っといてくれって。そのときの国府さんが、あんまり鬼気迫る顔してたから、ピンときた」
「……あのおっさん……」
滋之がこう呟いた途端、目黒は堪え切れなくなったように噴き出す。
「冗談だ。ずっと気になってたから、鎌かけてみただけだ。本当にお前は素直だね」
目黒を睨みつけて、滋之はボートの船底にぶつかる波の動きに視線を落とす。ポンッと目黒に肩を叩かれた。
「おれの目は確かだっただろ。お前と国府さんをバディに組ませたなんて」
「――……悔しいから、なんて言っていいかわかんないよ」
声を上げて笑った目黒だが、急に穏やかな口調となって言ってくれた。
「大丈夫だよ、国府さんは。便りがないのは元気な証拠っていうしな」
「わかってる。あの人のふてぶてしさは、よく知ってるつもりだから。だけど――」
ときどき、泣き出したくなるぐらいの不安感に襲われる。わけもなく、今この瞬間、国府に何かあったのではないかと心配になるのだ。
「……会いたいんだ、国府さんに」
「ああ」
「できるもんなら、とっくに会いに行ってる。一目でいいから、あの人の少し意地の悪そうな笑った顔を見たいんだ」
恋しさで胸が苦しい。あとどれだけ、こんな苦しい思いをすればいいのか、それすらもはっきりしないのだ。だからなおさら、恋しさにも不安感にも拍車がかかる。
「――あの人に何かあったら、まともでいられる自信がないんだ」
それは偽りのない、滋之の本心だった。慰めるつもりなのか励ましのつもりなのか、何も言わず、目黒はただ肩を叩き続けてくれた。
詰めていた息を吐き出した滋之は、無理に笑みを浮かべる。
まだもう少しだけがんばってみようと自分に言い聞かせることが、今の滋之にできるすべてだ。
「――……おっそいなあ。目黒さん」
岩場に敷いたシートの上に一人座り込み、滋之は小声でぼやく。
店が休業日であるため、今朝はいつもよりのんびりとベッドの中でまどろんでいたが、目黒からの電話で叩き起こされたのだ。
「潜るって言い出したのはそっちなのに、なんでぼくが待たなきゃいけないんだよ」
目黒からの電話の用件を思い出し、さらに小声でぶつぶつと洩らす。
風が冷たくて、滋之は首をすくめる。ドライスーツを着込んでいるため体はそうでもないのだが、頬が凍りつきそうだ。三月に入ったとはいえ、陽気はまだ春めいているとは言いがたい。
当然のように、岩場には滋之以外の人の姿はない。それでも天気はよかった。空を見上げた滋之は目を細めてから、手をかざす。
乗り気ではなかったのに、それでもこうして準備を整えて海にやってきた理由は、目黒に強引に押し切られたというのもあるが、もちろんそれだけではない。
この岩場は、国府と潜ったことのある思い出の場所だった。国府が撮った写真を週刊誌で眺めるだけでは我慢できなくなると、滋之はよく、国府と潜った場所を一人で訪れてはしばらく海を眺めているのだ。
冷たい海中は、国府の腕の中の温かさとは比較にならないが、それでも、遠くにいる国府の存在を身近に感じられそうだった。
滋之がそんな感傷的な思いに浸っていると知っているのかいないのか、いまだに目黒は姿を現さない。
「あー、もう帰るぞっ。せっかく人が、着替えまで済ませて待ってるっていうのに、何してるんだよ、あの人っ」
グローブを外し、くしゃくしゃと自分の髪を掻き乱していると、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
すぐに目黒だと思った滋之は海のほうを向いたまま、ここぞとばかりに文句を言う。
「遅いよっ、目黒さん。寒い中、いつまで待たせる気だよ」
滋之の言葉が聞こえているはずなのに、背後からはなんの答えも返ってこない。目黒がふざけているのだと思い、さほど気にもかけず、滋之は立ち上がりながら言葉を続ける。
「だいたいなんで急に、ここで潜るなんて言い出したんだよ。いつも目黒さん、ここじゃ地味だからって、潜りたがらないのに。しかも朝っぱらから、人を電話で叩き起こすのはやめてよ」
言いながら手首にしていたゴムを外す。背にかかるほど伸びた髪を無造作に束ねようとしたとき、滋之のすぐ背後に人が立った気配がした。
「――髪、かなり伸びたな」
耳に馴染んだ男の声をかけられ、滋之は手をとめる。代わって、すぐ背後に立った人の手によって、少し手荒く髪を撫でられる。この触れ方には覚えがあった。
咄嗟に声が出ず、滋之は震えを帯びた吐息を洩らす。
「一年半分の長さか。……そりゃ、長くもなるな。きちんと手入れはしているようだが」
「髪フェチ、相変わらずなんだね……」
ようやく発した憎まれ口も、これが精一杯だった。
滋之は感情の高ぶりに耐え切れず、体を小刻みに震わせながら口元をてのひらで覆う。そうでもしないと、嗚咽が洩れそうだった。ただしもう、溢れ出てくる熱い涙は抑えられない。
両肩に大きくがっしりとした手がかかり、体の向きを変えさせられる。だが、涙で視界がぼやけ、すぐ目の前に立つ男の顔をはっきりと見ることができない。うつむき、もどかしい思いで手の甲で涙を拭い、滋之は顔を上げる。
「よお」
ずいぶん久しぶりの再会だというのに、ぶっきらぼうに国府が言う。だがそれがいかにも国府らしくて、かえって滋之は嬉しかった。同時に実感する。国府が自分の元に戻ってきてくれたのだと。
滋之はまっさきに国府の顔に両手を伸ばし、感触を確かめるように頬を包み込む。温かかった。
厚手のシャツの上にジャケットを羽織り、ジーンズというラフな格好はいつもの国府のものだが、少し痩せて精悍さがさらに増したように見える。その印象に拍車をかけるように髪も無精ひげも伸びている。
身奇麗にして現れてほしかったとは思わない。何を置いても会いにきてくれたという国府の気持ちが、痛いほどわかっているからだ。
「国府、さん……」
「幽霊じゃないぞ。ちゃんと、フィンをつける足もあるからな」
「……なんだよ、それ」
睨みつけたかったが、拭ったばかりの涙が再び溢れ出て叶わない。すかさず今度は、国府の指に涙を拭われた。
「なんで――」
「んっ?」
「なんで、ここに……。いつ、帰ってきたんだよ」
しゃくり上げながらの滋之の問いかけに、国府がそっと目を細める。このときの表情が、胸が締め付けられるほど優しくて、また滋之は涙を溢れさせる。国府の仕種一つ一つに、感情が反応してしまうのだ。
国府の手が後頭部にかかり、そっと引き寄せられる。滋之は反射的に国府の肩に手をかける。溢れる涙を国府の唇に優しく吸い取られ、体が甘美に痺れた。
「……国府さんっ……」
「今朝、日本に着いた。そのとき、目黒には連絡しておいた。頼んだんだ。お前を外に呼び出しておいてほしいと」
滋之は、国府の胸を殴りつける。
「どうして帰国すること、ぼくに教えくれなかったんだよ」
「――……怖かったのかも、しれないな」
「意味、わからないよ」
ここでもう一度、涙を吸い取られる。
「お前の髪が短くなっているかもしれない姿を、真正面から見るのが怖かった。一年半前のことは、俺の都合のいい夢かもしれないと思えたんだ」
バカヤローと呟いて、滋之はもう一度、国府の胸を殴りつける。
「それで、ぼくの後ろ姿を見て髪が短かったら、そのままいなくなるつもりだったのかよ。おっさんのくせに、卑怯なこと考えるなよ」
「……戦地で度胸を使い果たしたのかもな。お前に対してだけ、俺は臆病になる」
悔しくて滲み出た涙を拭ってから、滋之は国府の唇に噛み付くようにキスする。一瞬驚いた素振りを見せた国府だが、すぐに痛いほど抱き締め、貪るようなキスを返してくれた。
「――夢にして、たまるか。お前が嫌がろうが、なんだろうが、俺はお前を離さない。髪なんて、本当はどうでもいい。お前が、こうして俺の腕の中に、いてくれるなら」
キスの合間、切れ切れに国府に熱く囁かれる。滋之は吐息とともに笑みをこぼした。
「そのほうが、国府さんらしいよ。ぼくが好きになって、ずっと待ってた人だ」
「滋之……」
もう限界だった。滋之は声を上げて泣きながら、必死に国府にしがみつく。
「理屈なんて、どうでもいいんだっ。国府さんが、無事にぼくの目の前にいてくれたら……。ずっと心配で、たまらなかった。……声が聞きたくて、会いたくて、抱き締めてもらいたくて、たまらなかったんだよっ……」
もうどこにも行かないでほしいと滋之が哀願する。ああ、と穏やかな声で国府が答えてくれる。
しばらく声を上げて泣き続けていた滋之だが、肝心な言葉をまだ言っていないことを思い出して顔を上げる。
「国府さん――、おかえり」
「ふん、やっと言ったか。おかげで俺も、ようやく言える」
ただいま、と低くはっきりと国府が耳元で言ってくれる。滋之は国府の肩に顔を埋め、何度も頷く。
「お前も着替えてることだし、俺も久しぶりに潜るか。感覚が鈍ってないか、確かめないとな」
国府の言葉を聞いて、滋之は顔を上げる。
「なっ、何言ってるんだよっ。戦地で写真撮って、長時間飛行機に乗って帰ってきたような人が、疲れてないわけないだろっ。今日はもう、おとなしくしてろよ。……頼むから」
国府がにんまりと笑い、滋之の髪を掻き乱してくる。
「仕方ねーな。――可愛いバディの言うことは、聞いておくか」
「そうだよ。国府さんみたいなのにつき合ってくれるバディは貴重なんだから……大事にしろよ」
「……そうだな」
真摯な声で返され、冗談めかして言った滋之のほうが反応に困る。次の瞬間、思いきり鼻を摘み上げられた。
「うわっ」
「お前に会ったら、まっさきにこれをしてやろうと思ってたんだ。忘れてたぜ」
「――……おっさん、他に考えることないのかよ……」
滋之は呆れたふりをしながらも、内心では嬉しくてたまらない。これでこそ国府だ。
滋之にとってかけがえのない、大事なバディなのだ――。
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