■ BUSYなカンケイ ■




01

 最後の書類に目を通して判を押した朋幸は、深々とため息をつく。ふっと気が緩み、思わず本音が口をついて 出た。
「――……なんでこんなに、忙しいんだ……」
 もっとも朋幸自身、その理由は嫌というほどわ かっている。ぼやきとして言ってみただけだ。
 四月は何かと会社は慌ただしく、忙しい。それでなくても 丹羽商事は、三月末が決算日となっているため、今は社内中どこも決算絡みの仕事が最優先となり、決算書の作 成のために奔走している。
 化学品統括室室長という肩書きを持っている朋幸も、各部門ごとの仮の決算書 に目を通しては分析している。
 これらの資料をもとに、来月は会議ラッシュが待っている。さらにその翌 月は、会議の内容をまとめて、株主総会へとなだれ込む。朋幸の場合さらに、株主たちから執行役員の任期延長 の承認を受けなければならないのだ。形だけとはいえ、重要な手続きだ。
 しかも――。
 室長室の重 厚なドアが控えめにノックされる。仕事に集中していると、うっかり聞き逃してしまいそうなノックだ。
朋幸はもう一度ため息をついてから応じる。数秒の間を置いてから、おずおずといった様子でドアが開けられる。
 書類をボックスに入れた朋幸が顔を上げると、開けられたドアの隙間から、線の細い青年がこちらをうか がっている。
 そんなに自分は怖い重役だと思われているのだろうかと、いささか傷つきながらも朋幸は、 青年に向けて軽く手招きする。
「……入っても、よろしいでしょうか……?」
 遠慮がちに声をかけら れる。
「入らないと、仕事にならないんだろう」
 苦笑交じりの朋幸の言葉に安堵したように、青年は 一礼して室長室に入ってくる。
 葉山という、つい十日ほど前に入社して秘書課に配属されたばかりの新入 社員で、早々に化学品統括室就きが決まり、現在は研修を受けている最中だ。
 葉山はぎこちない足取りで 朋幸のデスクの前に立つと、やはりぎこちない手つきで、ボックスの中の処理済みの書類をまとめ始める。
 朋幸は頬杖をついて、葉山を見上げる。
 化学品統括室つきの歴代秘書は、わざと選んでいるわけではな いのだろうが、似たような外見と雰囲気を持つ人間が多い、と藤野から聞いたことがある。なんでも、線が細く て整った容貌の、穏やかな雰囲気の男性ばかりなのだそうだ。
 朋幸が知っているのは、久坂と、自分の前 の室長についていた秘書だけなのだが、こうして葉山を眺めていると、なるほど、と納得させられる。
 身 長は朋幸とほぼ同じぐらいで、体つきも久坂ほどでないにしても細身だ。物腰も口調もどこかおっとりとしてお り、全体から育ちのよさが滲み出ている。顔立ちも、日本人形のようなすっきりとした目元が印象的な、品のい い美貌の持ち主だ。
 すでにもう、女子社員たちはチェックを入れ終えているだろう。
 しかし当の葉 山は、朋幸が見たところ、人見知りが激しくて奥手そうだ。自分がかつて似たようなタイプだったので、まず間 違いない。
「桐山は戻ってきたか?」
 朋幸は、じっと葉山を見上げたまま問いかける。
「いえ… …、まだです」
 朋幸の視線を痛いほど感じているのか、葉山の顔が少しずつ赤くなっていく。
 とり あえず、朋幸の視線を正面から受け止められようになったら、どんな重役の下でも働けるようになるとは、桐山 の言葉だ。
 桐山が最初にそんな言葉をかけたものだから、葉山は朋幸の前でまます萎縮してしまうのだ。
「そうか。会議が長引いているようだな」
 デスクワークで多忙な朋幸の代理で、桐山は生活産業統括 室の報告会議に出席している。
 三月末をもって、化学品統括室内の一部門であった化粧品部門は、生活産 業統括室下の食品部門に完全に併合された。その後処理がなかなか大変で、朋幸は桐山にすべて任せてある。
 久坂は久坂で、秘書課の新入社員たちの研修マニュアルの進行管理や、肝心の新入社員たちの教育に、奔 走している。そのため四月に入ってから、秘書課と化学品統括室の行き来が頻繁になり、空席が多い。
「そ れでは、書類を持っていきます」
「ああ。ついでに部長から、この資料のファイルをもらってきてくれ」
 メモに素早く必要なことを書いて葉山に手渡す。受け取った葉山がデスクの前から動こうとしたが、ふと 何かに気づいたようにデスクの上に視線をとめた。空になった朋幸のカップに気づいたのだ。
「新しいコー ヒーをお持ちしましょうか?」
「コーヒーばかり飲むなと、桐山に言われているんだ。君が代わりに、桐山 に叱られてくれるか?」
「……いえ、それは……」
 顔を強張らせた葉山に、朋幸はニヤリと笑いかけ る。
「――冗談だ」
 目を白黒させた葉山だが、ようやく小さな笑みを浮かべ、頭を下げて室長室を出 ていった。
 朋幸は簡単にデスクの上を片付けてから、カップを手に立ち上がる。  室長室を出て、誰もいない秘書室を通り抜けようとすると、突然、久坂のデスクの電話が鳴る。内線だった。 反射的に朋幸はデスクに歩み寄り、受話器を取り上げる。一階の受付からだった。
「はい、化学品統括室秘 書室」
『久坂さんに、お客様が見えられています』
 秘書課に出入りしている旅行会社の人間だと聞か され、朋幸はすぐにピンとくる。思わず唇を綻ばせていた。
「すぐ行く」
 受話器を置くと、朋幸は室 長室の鍵をかけてから秘書室を出て行こうとする。タイミングよく葉山が戻ってきたので、持っていたカップを 押し付ける。
「あのっ……」
「ちょっと一階に行ってくる。十分もかからないだろうから、それまで秘 書室を出ないでくれ」
 それだけ言い置くと、朋幸は秘書室を飛び出す。
 一階のロビーに下りると、 朋幸は受付に尋ねてから、待合用に置かれたソファに腰掛けている一人の男を示される。おそろしく姿勢がよく て、がっちりとした体格の持ち主だ。宇野というらしいが、いつも出張の手配などは久坂に任せているため、朋 幸は会うのは初めてだ。
「――宇野さん、ですね」
 朋幸が声をかけると、飛び上がる勢いで宇野は立 ち上がる。満面の笑顔を浮かべていたが、朋幸の顔を見て、次の瞬間には表情を引き締めた。
「はい、そう ですが……」
「久坂が今、席を外しているので、代わりに受け取りにきました」
 宇野は納得したよう に大きく頷く。
「本澤様、ですね」
「様はけっこうですよ」
 朋幸は笑いかけ、宇野の隣に腰掛け る。さっそく宇野はアタッシェケースを開け、中から取り出した封筒を手渡してくれた。
「中をご確認くだ さい。二名様分の飛行機のチケットに、旅行の案内が入っています。三泊四日のフリープランですから、ごゆっ くりとお楽しみください」
「はい、確かに」
 手早く封筒の中を確認した朋幸は、その封筒を胸に抱え る。
 久坂を通して宇野に頼んでいたのは、来週から出かける旅行の手続きだった。しかも仕事抜きで、桐 山と二人きりだ。
 昨年末ぐらいから相談していた話で、春に温泉に行くことだけは決まっていた。
あまりの多忙ぶりに、一時はどうなるかと危惧していたのだが、結局、来月からは朋幸が抜けられない仕事が詰 まっているため、当初の予定通り、旅行は今月行くこととなった。同じ忙しさでも、四月はまだ、山積みとなっ ている仕事さえ片付けてしまえば、時間が取れる。
 最初は、プライベートなことで四日も有給を取ること に罪悪感を抱えていた朋幸だが、わが身の忙しさを振り返ると、これぐらいのわがままは許してほしいという気 持ちに変わってしまった。
 実際に飛行機のチケットなどを手にして、ようやく旅行に出かけるのだと実感 が湧いてくる。
「――旅行、楽しみにされているのですね」
 宇野に声をかけられ、朋幸は顔を熱くし ながら頷く。
「ようやく、仕事抜きで出かけられますから」
「久坂さんも、おっしゃってましたよ。室 長は働きすぎで心配になります、と」
「久坂らしいです。心配性ですから」
 そう言うと朋幸は立ち上 がり、宇野に頭を下げて礼を言った。


「――葉山くんはどうですか?」
 ハンドルを握った久 坂に問いかけられ、ウインドーの外を流れる景色を眺めていた朋幸は、視線をバックミラーに映る久坂へと向け る。
「久坂、化学品統括室つきのこれまでの秘書の共通点を知っているか?」
 問いかけると、久坂は 肩を震わせて笑う。
「藤野室長ですね」
「藤野室長の言うセオリーが確かなら、葉山はぴったりだな。 桐山の奴も、ぼくの視線を真正面から受けられるようになったら大丈夫だと、期待しているみたいだし」
「わたしとしては、桐山さんの視線を受け止められるようになったら、怖いものはないと思いますけど」
  朋幸はつい声を上げて笑ってしまう。そんな朋幸の様子から感じるものがあったのか、バックミラー越しに久坂 から柔らかな眼差しをちらりと向けられる。
「……ここ最近、お疲れのご様子でしたけど、今は機嫌がよろ しいですね」
 朋幸はシートから身を乗り出す。
「さっき宇野さんと会って、チケットとか受け取った んだ」
 宇野と会って室長室に戻ると、ちょうど久坂も戻ってきており、慌ただしく一緒に会社を出たのだ。 これからとる昼食は一応、会食、ということになっている。
「そうなんですかっ……。申し訳ありません。 本来はわたしが受け取ることになっていたのに」
「気にするな。プライベートの用をお前に頼んでおいたん だから、これぐらいは、な」
「でも、これだけお忙しいと、旅行の準備もままならないのではありませんか」
「疲れて戻って準備するのが、楽しいんだ」
 そうですか、と答えた久坂の声は笑いを含んでいる。
「きっと桐山さんも、室長と同じお気持ちでしょうね」
 ウキウキとした様子でバッグに荷物を詰め込 む桐山の姿を想像して、朋幸は顔をしかめる。
「……あいつはなあー……。前日にてきぱきと準備を済ませ てしまいそうなタイプだ」
「どうでしょう」
 車中での久坂との気楽なやり取りが、朋幸の心を和ませ てくれる。この調子で、午後も精力的に仕事を進められそうだ。
 会食するレストランがある外資系の高級 ホテルに到着すると、久坂と並んでロビーを歩きながら腕時計に視線を落とす。約束の時間まで、まだ少し余裕 がある。
「お久しぶりではないのですか、会長とお会いするのは」
 久坂に話しかけられ、朋幸は苦笑 で返す。久坂が言っているのは当然、丹羽グループの会長であり、朋幸の父方の祖父のことだ。
「苦手なん だ。会うたびに、結婚相手を紹介すると言われてな。……ぼくの父親もかなりのものだが、じいさまのほうがお 節介は上だ。それが純粋な善意だから、また困るんだ」
「みなさん、室長を大事に思われているのですね」
「……正直に何もかも言ってしまえば、楽なんだがな。そうわけにもいかない」
 朋幸がぽつりと洩ら すと、久坂から気づかうような眼差しを向けられる。
 朋幸にとっては欠かすことのできない有能な片腕で ある桐山は、仕事上だけでなく、私生活においても何よりも大事な存在だ。朋幸がすべてを委ねられる、愛しい 男だ。
 だが当然、桐山との関係は公にできるものではない。密やかに深く、静かながらも激しい関係を続 けなくてはならない。
 朋幸と同じく、同性の恋人がいる久坂は、誰よりも朋幸の気持ちを汲んでいる。向 けられる眼差しには、まったくの他人事ではない思いが込められているのだ。
 ポンッと久坂の肩を叩くと、 久坂がふんわりとした笑みを浮かべる。
 そのうち葉山にも、こういう笑顔を浮かべられるほど自分に馴染 んでもらわないとな、と朋幸は頭の片隅でちらりと思う。
 エレベーターホールに向かうと、スーツ姿にア タッシェケースを手にした大柄な白人男性二人と日本人男性が一人、先にエレベーターを待っていた。グループ らしく、男三人は英語で談笑を交わしている。
 朋幸と久坂は少し距離を置いて立ち、エレベーターを待つ が、三人の英語での会話は意識しなくても耳に入ってくる。
 旅行の相談をしているようだ。その中に『温 泉』という単語を確かに聞き取り、思わず朋幸は唇を綻ばせる。来週からの朋幸たちの旅行も、温泉に入るのが 最大の目的なのだ。
「あの方たちも、……みたいですね」
 顔を寄せてきた久坂がそっと小声で囁いて くる。朋幸が頷くと、二人の会話の内容が聞こえたわけではないだろうが、外国人の一人がふとこちらを見た。
 褐色の髪と、紺碧の瞳を持つ男だ。頬からあごにかけてシャープなラインを描く桐山とは対照的な、がっ しりとした骨格をしている。目鼻立ちは大造りながらも整っており、目は理知的な光をたたえていた。
 そ れでいてどこか無機質なものを感じ、なんとなく朋幸は、初めて会ったときの桐山を彷彿とさせられる。
  まるで値踏みされているようだと、多少の居心地の悪さを覚えたとき、エレベーターの扉が開く。
 男たち が先に乗り込み、朋幸と久坂があとに続く。男たちが押した階数ボタンは、朋幸たちが向かうレストランがある 階と同じだった。
 扉の前に立った朋幸は、背後に男たちの気配を感じる。エレベーターが動き出すと、沈 黙が流れたのは一瞬で、すぐに男たちは低く抑えた声で会話を始める。
 目的の階に着くと、すぐに久坂が ボタンを押して扉を開けて待つ。朋幸は男たちのあとに降りようと壁に身を寄せかけたとき、さきほど一階で目 が合った紺碧の瞳を持つ男と肩がぶつかる。このとき、男が脇に抱え持っていた大判の封筒が足元に落ち、中か ら書類が何枚か出た。
「すみませんっ」
 咄嗟に日本語で謝ってから朋幸は屈み込み、書類を拾い上げ ようとする。すると、強い力で手首を掴まれて止められた。驚いた朋幸が顔を上げると、同じく屈み込んだ男が 手早く書類をまとめ始める。
「こちらこそ失礼した」
 男の口から出たのは、ロベルトほど完璧なイン トネーションでないにせよ、きれいな日本語だった。大柄な体格に見合った太い声は、どこか突き放すような響 きを帯びている。
 男はあっという間に書類を拾い上げて、他の男たちと共に足早にいってしまう。立ち上 がった朋幸はその後ろ姿を見送ってから、久坂と顔を見合わせる。
「上手な日本語でしたね。日本に住んで いるんでしょうか」
 一緒にエレベーターを降りた久坂の言葉に、朋幸は曖昧に首を動かす。
「言える のは、彼が持っていた封筒の企業名がチラッと見えたが、日本に進出していない製薬会社のものだった」
「……あの一瞬で、確認されたのですか?」
 久坂の視線を感じ、朋幸は慌てて言い訳する。
「たまた ま目に入っただけだ。意識して、産業スパイみたいなマネができるわけないだろう」
「そんなに強く否定さ れなくても……」
「昼休みにまで仕事が頭から離れないと思われるのが嫌なんだ。自分が仕事人間になった みたいでな」
 我ながら子供のような理屈だと思うが、久坂はクスクスと笑って頷く。
 レストランに 入ると、祖父の名を出してテーブルへと案内してもらう。肝心の祖父はまだ、訪れていないらしい。
 店内 を歩きながら朋幸は、さきほどエレベーターで同じだった男たちがテーブルについているのを横目で確認する。
 テーブルについて三分もしないうちに、祖父が女性秘書を伴って現れた。
 朋幸と久坂は立ち上がっ て迎えるが、このとき紺碧の瞳の男が、こちらを見ているのに気づく。もっとも、朋幸と目が合うと、ごく自然 に視線は外される。
 たまたまかと思い、朋幸はこのときは深く考えなかった。


 食事を終え て祖父を見送ってから、久坂と再びイスに座り直した朋幸は、楽しみにしていたデザートを注文する。このレス トランのケーキをときどき秘書課経由でもらうのが、最近の朋幸のお気に入りなのだ。
「……あの人の話を聞 いていると、食事の味がわからなくなる」
 ケーキを口に運びながら朋幸が小声でぼやくと、久坂が苦笑を 洩らす。
「相変わらず、パワフルでしたね」
「多分あの口ぶりからして、父さんや母さんとも結託して るんだ。ぼくに見合いを勧めるために」
 桐山を同行させなくてよかったと、朋幸は心の底から思う。不本 意でも口にしなくてはならない、『特定の恋人はいないが、今は誰ともつき合う気はない』という言葉を、誰よ りも桐山にだけは聞かれたくなかったからだ。
 スプーンで掬い取ったクリームをペロリと舐めてから、朋 幸は久坂にぼそぼそと言う。
「……今日の会食の内容は、桐山には内緒だからな」
「心得ております」
 ここで朋幸と久坂は、ほぼ同時にため息をつく。ようやく緊張から解放されて、美味しいケーキを堪能で きそうだ。
「秘書課へのお土産に、ケーキを何個か買って帰ろう。いつももらってばかりだからな」
「お気づかいなく。彼女たちも、室長が喜んでくださるのが、楽しいようですし」
「いい。それに、もらっ てばかりだと、桐山も機嫌が悪いんだ」
 久坂は奇妙な表情をした。どうやら、桐山の機嫌が悪くなる理由 に心当たりがあるらしい。
「……わたしにも責任の一端はあるような気がしますから、ケーキ代の半分を出 させてください」
「何か知っているのか?」
「いえ、桐山さんがあるうわさを耳にされたようで――」
「うわさ?」
 どんなうわさか聞き出そうと、朋幸がテーブルに身を乗り出したとき、視界の隅で人が 動いたのを捉える。一階のエレベーターホールの前から一緒だった三人の男たちが席を立ち、店を出ようとして いるところだった。
 紺碧の瞳を持つ男は、朋幸に一瞥を向けようとすらしない。やはり、さきほど目が合 ったのは偶然だったようだ。
「室長、どうかされましたか?」
「あっ、いや、どうもしない」
 朋 幸はそう答え、すぐに意識を男からケーキへと戻す。あえて気にするほどの出来事ではない。明日には忘れてし まいそうな些細なことだ。
 ケーキを食べ終えて満足した朋幸は、ウェイターに頼んでケーキを何個か箱に 詰めてもらうと、支払いを済ませて席を立つ。
 レストランを出てエレベーターホールに向かったところで、 朋幸は驚いて目を見開く。十分近くも前に先にレストランを出たはずの紺碧の瞳を持つ男が、たった一人でエレ ベーターホールに立っていたからだ。
 男は朋幸の姿を見るなり、大股で歩み寄ってくる。何事かと身構え る暇もなかった。
 いきなり肩に男の大きな手がかかり、強引に引き寄せられた。
「室長っ」
 久 坂が声を上げる。朋幸は片手を上げて制し、自分の顔を覗き込んでくる男を見据える。
「――何か、ご用で すか?」
 男は朋幸の眼差しに怯むことなく、それどころか、反対に朋幸を捉えるかのように強い眼差しを 向けてきた。
「君は、丹羽グループの重役の、子息か何かか?」
 日本語を確かめるようにゆっくりと、 男に問われる。朋幸は突然の質問の意図がわからず、眉をひそめる。男は苛立ったように小さく舌打ちしてから、 言葉を続ける。
「さっき君が一緒に食事をしていたのは、丹羽グループの会長だろう?」
「……人違い です。ぼくの祖父は、そんな人ではありません」
「祖父……、なら、孫、か」
 朋幸のうそを信じてい るのかいないのか、男は英語で呟く。
 朋幸は男の手を払い退けると、先にエレベーターのボタンを押して いた久坂の元に駆け寄る。ちょうど扉が開き、二人は急いで乗り込む。
 男は追いかけてくるようなことは しなかったが、扉が閉まるその瞬間まで、紺碧の瞳でじっと朋幸を見つめていた。そこには、狡知な光が確かに 存在していた。
「――一体なんの目的で……」
 久坂が不安げに言葉を洩らし、朋幸は緩く首を左右に 振る。
「はっきりと断定してなかったところをみると、テレビか雑誌で見て知っていただけかもしれない。 単なる好奇心から声をかけてきたのかもな」
 朋幸の祖父はそう表舞台に出るほうではないので、顔を知っ ているとなると、経済に通じているか、利害関係にある人間が大多数といえるだろう。
 あの男はどちらに なるのか――。
 そう考えはした朋幸だが、実は危機感は抱いていなかった。あの男はどう見ても記者には 見えなかったし、このホテルのレストランにも偶然居合わせただけのようだ。そんな人間が、執拗に祖父の存在 を追いかけるとも思えない。
 ふと朋幸の脳裏に、執拗に自分を追いかけていた記者の顔が過る。思わずそ のせいで顔をしかめていた。利用価値はある男だと桐山は言っていたが、朋幸はどうも苦手だ。
「室長?」
 気づかうように声をかけられ、朋幸は久坂を安心させるため笑みを浮かべる。
「心配するな。好奇心 の強い外国人ビジネスマンだろう。――桐山には報告しなくていいぞ。あいつの眉間のシワをさらに増やすだけ だ」
「しかし……」
「じいさまの孫だからといって、声をかけられるのはしょっちゅうだ。いまさら、 だな」
 納得していない様子ながら、久坂が頷く。朋幸は苦笑していた。
「久坂は心配症だ。今日、宇 野さんにもそう言ったんだがな」
「……わたしで心配症なら、桐山さんなんて、どう表現すればよろしいん ですか」
「――愛情表現だ」
 朋幸がきっぱりと言い切ると、久坂は見る間に顔を赤くした。








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