02
予定されていた時間から一時間近く遅れて、生活産業統括室の報告会議がようやく終了する。
桐山は軽く
息を吐き出してから、腕時計に視線を落とす。すでに昼休みは終わろうとしていた。朋幸はもうすでに、会長との
会食から戻ってきているかもしれない。
余裕があれば同行するつもりだったが、仕方ない。心配するまでも
なく、代わって久坂が同行しているだろう。
桐山はデスクの上の資料などをまとめて立ち上がる。ちょうど、
さきほどの会議での主役であった、生活産業統括室室長の藤野も立ち上がったところで、示し合わせたように目が
合った。
向けられた苦笑は、会議の大変さをそのまま物語っている。
「――……いやいやまったく、根
が深いな」
一緒に会議室を出て並んで歩き始めると、すぐに藤野が盛大にぼやく。声が大きいため、周囲に
も聞こえているのだが、気にかけている様子はない。対照的に、元化粧品部門の社員たちは身を縮めている。
桐山は、藤野のこの裏表のなさに好印象を持っていた。自分と年齢が近いこともあり、仕事以外の内容で言葉を
交わすことも多い。それに、朋幸に敵意を持っておらず、むしろ協力的ですらある点も、好ましい。
「化粧品
部門の整理のことですか?」
「実務的なことは、ドカッと一気にやっちまえばそれで済むんだが、問題は、気
持ちの整理だな。会社に泥を塗ってくれた部門、ということで、他部門からも風当たりが強くてな。生活産業内に
組み込みはしたが、なかなか感情の行き違いが多い」
「そうですか……」
意識しないまま桐山は表情を
曇らせる。すると藤野がニヤリと笑った。
「本澤室長は、なかなか計算高い。……いや、悪い意味で言って
るんじゃない。人の利、時の利、っていうのをわかってると言いたいんだ」
「――今の生活産業統括室室長が
あなただからこそ、大鉈を振るった、とおっしゃりたいのですね」
「自惚れを承知で言うが、まったくその通
りだ。俺以外、面倒なことを引き受けそうにないからな。それに会社としても、財務上面倒なことになりそうなも
のは早々に、決算に組み込んで処理したかっただろう。揉め事を長引かせて、お家騒動だと思われるのは得策じゃ
ない。その点をうまく利用したよ、彼は」
桐山の脳裏に、普段は怜悧でいながら、自分の腕の中では麗しく
微笑む朋幸の美しい顔が浮かぶ。朋幸が賞賛されるのは、自分が賞賛されるよりも喜びを感じる。
だがとき
おり桐山の中に、朋幸は、自分などが触れることもできない存在になってしまうのではないかと、焦りにも似た気
持ちが湧き起こるのだ。
「まあ、化粧品部門のことはうまくこちらで処理すると、本澤室長には伝えておいて
くれ」
「承知しました」
エレベーターホールについたところで藤野が、これまでの会話は前振りだとで
もいうように、急に声を潜めた。
「……桐山、個人的に聞きたいことがあるんだ。昼メシ、つき合わないか」
何事かと思いながら、桐山はそっと眼鏡の中央を押し上げて頷く。
藤野とは一度そこで別れて、桐山
は足早に化学品統括室へと戻る。秘書室には新入社員の葉山の姿だけがあった。桐山を見るなり、弾かれたように
立ち上がり、直立不動となる。
「室長たちはまだ?」
「は、はいっ。さきほど久坂さんから連絡が入りま
して、もうすぐ戻られるとのことです」
「だったら、室長が戻られるまで、ここにいてくれ。昼休みは遅れて
とってかまわない。わたしはこれから、生活産業の藤野室長と外に出る」
桐山が言った言葉を、葉山は生ま
じめにメモに書きとめる。その様子を横目に、桐山は手にしていた資料を自分のデスクの引き出しに入れて鍵をか
ける。葉山が研修を終えるまでは、情報管理は怠れなかった。
桐山はすぐに秘書室を出て一階のロビーへと
降りると、すでに藤野が待っていた。
二人は歩いて、会社近くにある魚料理の専門店に入る。店の造りは小
さく、カウンター席のみ二十席ほどしかない。丹羽商事の重役たちが密談をするときなどによく利用している店だ。
昼休み時の混雑が過ぎたところらしく、店内には数人の客しかいなかった。藤野に促され、桐山はその客た
ちから離れた壁際の席に、その隣に藤野が腰を下ろす。
料理を注文してからすぐ、桐山は切り出す。
「――それで、わたしに聞きたいことというのは、どういったことでしょう」
藤野はカウンターテーブルに
片肘をつくと、憂うつそうなため息をついた。内面はともかく、豪胆な部分しか他人に見せない藤野には珍しい。
「実のところこれからする話は、化学品統括室にはあまり関係ない話なんだ。生活産業統括室にとっては、な
かなか深刻な噂話なんだがな」
「噂話?」
「あくまで、な。――会社の戦略開発部と、うちの薬品事業部
で進めている事案がある。バイオ技術に関する特許の売買についてだ。応用の仕方で、幅広く利用できるという優
れものなんだが……」
自分の手帳を出した藤野は、周囲にちらりと視線を向けてから、手早く手帳に何か書
き込み、桐山に差し出してきた。見ると、成和製薬と書かれている。一般にはそう知名度が高くない日本の製薬会
社だ。
だが上場企業なので、妙な噂はすぐに株価に跳ね返る。藤野が簡単に企業名を口にしなかった理由も
わかる。
「具体的な契約の話にも入っていたんだが、それを厄介な連中が嗅ぎつけたらしくてな」
次に
藤野が手帳に書いたのは、WBという文字だった。アメリカにある製薬会社だ。
「……噂話というより、ある
程度確認はしてらっしゃる口ぶりですね」
「今のところ、噂にしておいてくれ。俺としても、頭が痛いんだ。
WB社の悪名は知ってるだろ?」
ええ、と桐山は答え、出されたお茶に口をつける。
特殊な企業戦略
を持つ製薬会社で、自社での開発よりも、他社から特許を買い取るのを専門としている。新薬や新技術の開発に対
しての嗅覚の鋭さは、人によっては侮蔑の意味を込めてハイエナにたとえるほどだ。また、特許を買い取るまでの
経緯についても、何かと問題が多いといわれている。
まったくの畑違いの桐山ですら、それぐらいは知って
いる。関わりがある藤野とすれば、WB社に対する抵抗感はこんなものではないだろう。
「そこまでご存じな
ら、わたしに聞きたいことというのは一体……」
「WB社が日本に、ある社員を送り込んだらしい。切れ者の
男だということだ。丹羽商事が絡んでいるとわかって送り込んできたんなら、うちの社と正面からやり合うつもり
だと見ていいだろう」
藤野が手帳に、ある男の名を書き殴る。その男の名を見て、桐山は眉をひそめて低く
呟いた。
「――……エリック・ウォーカー……」
確かに、桐山がよく知っている男の名だった。
遅めの昼食を終え、先に店を出た桐山は歩きながら、苦々しい思いで『エリック・ウォーカー』のことを思い出
していた。
来週から、朋幸と旅行に出かけるというのに、厄介な男が日本に出張ってきたものだと思う。藤
野にも、気をつけるよう忠告はしておいた。
切れ者であると同時に、何かと好戦的な男だという人物像も一
緒に。
今回は直接関わり合うことはないだろうが、できるならもう二度と、桐山はエリックと顔を合わせた
くはないし、朋幸にはその存在すら知らせたくなかった。
エリックは、危険すぎる男だ。
エレベータ
ーが化学品統括室があるフロアについて扉が開く。意識しないまま険しい表情となっていたらしく、エレベーター
を待っていた社員たちがぎょっとしたように桐山を見る。
反射的に眼鏡の中央を押し上げ、瞬時に完璧な無
表情を取り繕うと、桐山は足早に歩き始める。すると化学品統括室に入る前に、ジャケットのポケットの中で携帯
電話が震え始めた。
取り出して表示を見た桐山は、せっかく無表情を取り繕ったばかりだというのに、顔を
しかめてしまう。電話の相手は、フリーライターの嶋田だ。
この男もまた、危険すぎる男だといえるだろう。
ただし、使い方によっては有益な薬にもなる。
その点エリックは、毒にしかならない。
桐山はすぐに
エレベーターホールに引き返して電話に出る。おそらく室長室にはもう朋幸が戻っているはずなので、うかつに秘
書室には入れない。
朋幸はまだ、桐山が嶋田と連絡を取り合っているとは知らなかった。それとなく、嶋田
は利用できる人間だとは話しているのだが、なかなか朋幸の反応は厳しい。それならば、会社を通さない調査の仕
事を、桐山がときどき嶋田に依頼していることは、知らないままでいてもらいたいと思っている。朋幸にとっては
取るに足らないことだ。
嶋田というのは妙なところで人脈が広い男で、思わぬ情報を拾ってくることがある。
その情報はもちろん、朋幸のために活用していた。
『――お坊ちゃまはどうしてる』
まるで友人にでも
電話をかけてきたように、気軽な調子で嶋田が開口一番に言う。桐山は一度唇を引き結び、危うく出そうになった
叱責の声を堪える。
「仕事中だ。何か用か」
『用がないと、かけてくるなと言いたそうだな』
「当た
り前だ。お前とは馴れ合う関係ではない」
『大目に見ろよ。陰ながら、お坊ちゃまを支えているんだぜ、俺は。
あんたもそれを承知で、俺を使っているんだろ』
やはり秘書室に戻らなくてよかったと、桐山は息を吐き出
す。危うく嶋田を怒鳴りつけでもしたら、言い訳ができない。
「……お前を相手にしている暇はない。本題に
入れ」
『ちっ、冷たいな』
本気で電話の向こうにいる男を怒鳴りたくなったが、桐山の怒気を感じたよ
うに、嶋田はすかさず声の調子を真剣なものに変えた。
『明日から、何日間になるかわからないが、ちょっと
旅行に出かけるんでね。俺に何か調べものを頼むつもりなら、少し待ってもらうことになると言おうと思ったんだ』
いい気なもんだな、と皮肉を言いそうになった桐山だが、当の自分が来週から朋幸とともにどこに出かける
のか思い返し、寸前のところで呑み込む。
『まあ、旅行とはいっても、ある人物の行動を監視するために、必
然的に泊まりになるだけの話なんだけどな』
「監視……。朋幸さんにしたようにか」
桐山の言葉に交じ
った皮肉をどう感じたのか、嶋田は軽く笑った。
『お坊ちゃまへの尾行は、完全に俺の個人的好奇心からだ。
だが今回は、仕事だ。俺も、霞を食って生きてるわけじゃないからな。……妙な奴らが動き出した、という話だ。
おもしろい記事にできるんじゃないかと思っているんだ』
朋幸が絡まないのであれば、桐山は嶋田の仕事に
は興味はない。
「わかった。こちらのほうは、今のところ頼む仕事はない――」
言いかけた桐山の脳裏
に、さきほど藤野から聞いた話が過る。一瞬嶋田に、エリックの動向を探るよう頼もうかと思ったが、すぐに思い
直す。今の状態であれば、間違っても朋幸とエリックが知り合うことも、また障害になることもない。
藤野
には悪いが、桐山はこれ以上、エリックと関わる気はないし、エリックとの思い出をたどる気もなかった。
『どうかしたのか?』
「いや、何も。――その仕事が終わったら、連絡をくれ」
へえ、と嶋田がわざと
らしい感嘆の声を上げる。なんとも神経を逆撫でされる反応だ。
「……なんだ」
『まるであんたと俺、友
人同士みたいだと思って』
ブツリと乱暴に電話を切った桐山は、携帯電話を素早くジャケットのポケットに
滑り込ませる。
秘書室へ向かいながら、ふざけたことを言うなと、内心で嶋田を罵倒し続けながら。
昼食から戻ってきた桐山の機嫌が悪いのを、朋幸は顔を一目見て察していた。
何があったのか聞いてみた
かったが、午後から再び、嵐のような忙しさに巻き込まれてしまい、上司と部下を超えた会話を交わすのは不可能
だった。それに朋幸の周囲には、常に桐山以外の人間がいた。
おかげで、ようやく二人きりになれたのは、
帰りの車中だった。
朋幸は後部座席のシートに深く体を預ける。すっかり夜が更けた外の景色を眺めるふり
をしながら、バックミラーに映る桐山の目をちらちらと確認していた。やはり、眼鏡越しの眼差しは険しい。
最近は自宅まで送り届けられても、桐山は朋幸の部屋に一歩も立ち入ることなく帰ってしまう。そうなると、プ
ライベートな会話を交わせるのはこの車中だけだ。
しかし、肝心の桐山がこんな様子では、朋幸も旅行のこ
となど切り出せない。
傍らに置いてあるアタッシェケースの中には、今日、宇野が持って来てくれた封筒が
入っている。本当は、旅行先でどこに出かけたいとか、気楽な会話を交わしてみたいのだ。
「――会長との会
食はどうでしたか?」
ようやく桐山が思い出したように、ふとそんな話題を持ち出してくる。
朋幸は
顔をしかめ、バックミラーに映る桐山を睨みつける。なんとも桐山らしい話題の選択だといえるが、今は少し恨め
しい。
「相変わらずだ。人をいつまでも子供扱いする」
一方で、見合いを勧められているのだから、理
屈としては合わないかもしれない。もっとも見合いの件については、口が裂けても桐山には言えない。
「会長
にとっては、あなたは唯一の大事なお孫さんですから、仕方がありません」
「うん、わかってる」
ここ
で会話は一度途切れる。朋幸は思いきって今日の昼食時、何かあったのかと尋ねようとしたが、桐山に先を越され
た。
「……今日の昼、何か変わったことはありませんでしたか?」
バックミラーの中から、桐山に鋭い
眼差しをちらりと向けられる。咄嗟に朋幸は、ホテルで会った外国人のことを思い出す。確かに変わったことでは
あったが、ただでさえ機嫌が悪そうな桐山に、あえて言うほどのものでもない。
「いや。どうしてだ?」
「あなたはそうでもなかったのですが、久坂の様子が少しおかしかったものですから。彼が眉間にシワを寄せてい
るときは、あなたの身に何かあったときです」
「秘書課にケーキのお土産を持っていったんだが、久坂が半額
出すというのを、ぼくが無理やり全額出した。それを気にかけてたんだろ」
これは事実だ。桐山は数瞬だけ
拍子抜けした表情となったが、すぐに軽く頷いて元の無表情となった。
「それをお聞きして安心しました」
「……何か気になることでもあったのか?」
「ご心配なく。久坂の表情から何もかも読み取ろうとすると、
わたしはとんでもない心配症になってしまうようですね」
「久坂は、確かになあ。ぼくの母親よりも心配症だ
ぞ」
ここまで話して、朋幸はふと思い出したことがあった。
「そういえば、ケーキで思い出した。ぼく
が秘書課からお菓子をもらうと、お前は機嫌が悪くなるだろ? その理由を久坂は知っているみたいなんだ。自分
にも責任はあるから、みたいなことを言っていたぞ」
ああ、と桐山は吐息を洩らすように声を洩らす。
「言ってもよろしいのですか?」
桐山に尋ねられ、朋幸はきょとんとする。
「……大げさな奴だな。わ
ざわざ念を押すようなことでもないだろ」
「甘いものがお好きなあなたを、秘書課はお菓子で餌付けしている、
という冗談を耳にしたものですから――。秘書課からお菓子が差し入れられる度に、わたしはそのことを思い出し
てしまうのですよ」
朋幸は苦い表情を作り、腕組みをする。
「餌付けという表現はないよな。……事実
だけど。そうか、だから久坂はあんな言い方を……」
恥ずかしいとか気を悪くしたというより、秘書課から
の差し入れのお菓子を見ては、桐山がそんなことを思っていたというのが、なんだかおかしい。
朋樹は口元
に手を当てて、小さく噴き出す。そんな朋幸の様子をバックミラー越しに見たのか、桐山の目元がわずかに和らぐ。
バックミラーを通して、桐山の変化を目にした朋幸の胸の奥は、甘く疼いた。ここ最近、桐山にキスされるどころ
か、抱き締めてもらってもいない。
仕事の場では抑えているが、本当は桐山の体温が恋しくて仕方なかった。
来週は旅行に出かけるからと、なんとか必死に堪えているに過ぎない。
マンションの駐車場に停めた車から
降り、いつものように桐山が部屋の前まで朋幸を送ってくれる。
朋幸はいくぶん緊張しながら部屋の鍵を取
り出す。少しでいいから部屋に寄っていかないかと、今夜こそ言うつもりだった。
ドアをそっと開けながら
桐山を振り返ろうとしたとき、背後から伸びてきた手にドアを大きく開けられる。耳元にそっと囁かれた。
「お疲れのところ申し訳ありませんが――、少しだけ部屋にお寄りしてもよろしいでしょうか」
朋幸の全身
が燃え上がったように一気に熱くなる。小さな声で答えていた。
「……ぼくが、嫌というわけないだろう……」
何事もなかったように朋幸は玄関に入り、桐山も落ち着いた物腰であとに続く。だがドアが閉まった瞬間、
アタッシェケースを足元に落として二人はきつく抱き合う。
「桐山っ……」
桐山本来の性質を表すよう
に、抱擁は激しくて熱い。骨が軋みそうなほどきつく掻き抱かれながらも朋幸は、うっとりとして桐山の頬に自分
の頬をすり寄せる。
「ぼくだけが、我慢しているのかと思っていた。澄ました顔をしているお前が、憎らしく
て、憎らしくて――」
「そんなはずがないでしょう。わたしは誰よりも貪欲で、嫉妬深い男ですよ」
「わ
かって、る……。お前の本性は誰よりも、ぼくが知っている」
あなたの顔をよく見たい、と桐山が囁き、一
度抱擁が解かれる。次の瞬間には玄関の電気がつけられ、すぐにまた朋幸は引き寄せられて抱き締められる。
「あっ、ん……」
壊れ物でも扱うように頬を撫でられた次の瞬間には、荒々しく唇を塞がれる。
強引
に口腔に侵入してきた桐山の舌が蠢き、朋幸はゾクゾクとするような肉の疼きを感じる。今夜はキスだけで我慢す
るつもりだったのに、こんなキスをされると、そんな我慢はあっという間にどこかにいってしまう。
桐山を
宥めるどころか、さらに駆り立てるのをわかっていながら、朋幸は甘えるように桐山の舌を吸う。朋幸を閉じ込め
る桐山の腕も胸も熱くなってきて、その中で朋幸は溶かされてしまいそうだ。
キスの合間に、朋幸は切ない
声で桐山に言う。
「……桐山、部屋に……。欲、しい。お前が、欲しい」
桐山は唇だけの笑みを浮かべ
た。
「魅力的なお誘いですが、わたしはまだこれから会社に戻って、打ち合わせがあります」
「嫌だ」
朋幸は潤んだ目で桐山を睨みつける。あっという間に桐山の唇から笑みが消え、眼鏡越しの眼差しが情欲の
熱を孕む。
「そんなことをおっしゃって……。わたしは今夜は絶対、あなたにひどいことをしてしまいますよ」
桐山の囁きに、朋幸の胸の奥で淫らな衝動がゾロリと蠢く。桐山がこう言うとき、本当に容赦がないのだ。
ただし、朋幸を痛めつけるような行為に及ぶわけではない。
「いい。お前になら、ひどくされてもいい。わか
って、いるだろ?」
「……朋幸さん」
深く唇を重ね、キスだけで朋幸は簡単に翻弄される。両手を伸ば
して桐山の髪をいつものように掻き乱そうとしたが、その手を取られて後ろに回される。桐山の片手に両手首を戒
められて、朋幸の体は玄関横の壁に押し付けられた。
ジャケットとワイシャツのボタンを外されて、前を開
かれる。空いている片手で素肌の脇腹を撫でられて、朋幸は喉の奥から呻き声を洩らす。両手首を解放されたので、
必死に桐山の肩に掴まる。
首筋や喉元に熱い唇が押し当てられ、朋幸は顔を仰のかせて小さく喘ぐ。その間
にも桐山の手は性急に動き、スラックスの上から朋幸の敏感なものは刺激され、焦れるような愛撫に朋幸の足元は
乱れていた。
「やっ……、桐山、直接、触れて……くれ」
「はしたないですよ、そんなことを口にされて」
朋幸の羞恥を煽るようなことを口にしながらも、桐山の手はベルトを緩め、スラックスの前を素早く開いて
いく。下着ごとスラックスを腿の辺りまで下ろされた。
「ひっ、うぅ」
敏感なものを直接桐山のてのひ
らに包み込まれて、擦られる。腰が震えるほどの快感が湧き起こり、朋幸はきつく唇を噛む。外に聞こえるはずが
ないとわかっていながらも、玄関で嬌声を上げるわけにはいかない。それがまた、被虐的な刺激を生む。
桐
山の唇が気まぐれに、瞼の上や額、頬から耳へと滑っていく。
もっと触れてほしいという朋幸の気持ちを読
んだように、いきなり桐山に体の向きを替えさせられる。朋幸は壁にすがりつき、背後から桐山にきつく抱きすく
められる。桐山も、自分を欲しがっているのがよくわかる。
熱く込み上げてくる気持ちにたまらなくなり、
朋幸は懸命に振り返ると、すがるように桐山を見つめながら求める。
「……桐山、キス、欲しい。早くっ……」
すぐに朋幸の望みは叶えられ、桐山の唇が重ねられる。夢中で唇を吸い合っていた。そうしながら、桐山の
両手は油断なく、朋幸の快感の源を責め始める。
「あっ、あぁっ」
熱くなっている朋幸のものは再びて
のひらに包み込まれ、胸元にもてのひらが這わされて、すでに凝っている胸の突起を転がされる。
「感じやす
いですね。もう、あなたのここが、硬くなっている。……ああ、こちらは硬くなるだけでなく、もう濡れてきてい
ますよ」
「んぁっ……、恥ず、かしい、桐山っ……」
恥ずかしいのがお好きでしょう、と残酷なぐらい
優しく、耳元に囁かれる。低く響く桐山の声にも官能を刺激され、朋幸はブルリと身震いする。
胸の突起を
痛いほど乱暴に摘まれ、引っ張られる。かと思えば爪の先で掻かれ、その度に朋幸は背をしならせる。一方で、て
のひらに扱かれ続けているのものも、濡れている先端をきつく擦り立てられる。
壁に爪を立てながら、朋幸
は桐山の腕の中で悶える。
「――あなたの中に、入ってもよろしいですか?」
「立った、まま……?」
驚いて朋幸は振り返る。桐山は冴えた表情ながらも、眼差しだけは狂おしいほど熱い。
「ベッドの中に
あなたをお連れすると、今夜はもう仕事ができませんから。そうなると、来週の旅行がどうなるか」
「……そ
れ、脅しじゃないか……」
「いいえ。場所を選ばないほど、わたしはあなたが欲しいということです。恥知ら
ずと呼んでいただいてかまいませんよ」
やはり、脅しだ。桐山の淫らな要求に、朋幸が応えずにはいられな
いと知った上での、甘い脅しだ。
うなじに柔らかなキスを受けながら、朋幸は掠れた声で言った。
「―
―……恥知らずっ……。でも、欲しい。お前が」
自分も十分、恥知らずだ。
朋幸は頭の片隅でちらり
とそんなことを思ったが、胸元に這わされていた桐山の手が動いたことで、すでに意識は桐山の動きを追いかける
のに必死になる。
引き寄せられた腰を、羞恥を押し殺しながら控えめに突き出す。唾液で濡らされたらしい
指が秘孔の入り口をくすぐってきて、強引に挿入されてくる。
つらさに一瞬息を詰めた朋幸だが、濡れた先
端を再び擦られて背筋に快感が駆け抜ける。秘孔に二本の指を付け根まで受け入れていた。
「くっ、うう……」
朋幸の強張りを解そうとするかのように、桐山の唇が首筋に這わされ、荒々しく愛撫される。
秘孔を
掻き回されてから、感じやすく繊細な襞の感触を確かめるように擦られる。思わず朋幸の腰は揺れていた。苦しさ
は、じわじわと愉悦へと姿を変えていく。その証拠に、朋幸はすでにもう下肢に力が入らず、自分で立っていると
いう感覚すら怪しくなっている。
「最初はきつかったようですが、もう大丈夫のようですね。……あなたの中
が、わたしの指に絡みついてきますよ。柔らかく、まとわりついてくるように」
その言葉を証明するように、
桐山の指がゆっくりと秘孔から出し入れされる。
「ほら、あなたの中の襞が、わたしの指の動きについてくる」
「いっ……、い、ゃ――。うっ、うっ、うくっ」
再び桐山の指が深く挿入され、巧みに秘孔の奥を暴く
ように蠢く。その動きを捉えるように秘孔を収縮させたとき、惜しみなく桐山の指は引き抜かれた。
さらに
腰を引き寄せられ、挑発的に突き出した姿勢を取らされる。
「朋幸さん、つらいでしょうが、我慢してくださ
い」
そう言って桐山が、自らの欲望の証である熱いものを、朋幸の秘孔の入り口に押し当ててきた。
「ああっ」
さすがに朋幸は堪えきれず、大きな声を上げてしまう。我に返り、必死になって片手で自分の口
元を覆う。かまわず桐山は背後から押し入ってきた。
「大丈夫ですか?」
深々と繋がったところで、耳
に唇が押し当てられて問われる。きつく抱きすくめてくる腕に片手をかけながら、朋幸は小さく頷く。
「平気、
だ」
桐山の唇がうなじや首筋に這わされ、再び胸の突起を愛撫される。
「んっ……」
朋幸は壁に
すがりつきながら、胸元にある桐山の手の上に自分の手をかける。すると、反対に桐山に手を取られ、自分の突起
を弄らされる。
「あなたの声を聞かせてください。大丈夫ですよ。外には洩れませんから」
「でも――あ
うっ」
桐山に、緩く一度だけ秘孔を突き上げられる。朋幸は自分の体奥深くで息づく桐山の欲望を感じ、潤
んだ吐息をこぼす。
「桐、山、熱い……」
「……よく、締め付けてますよ。あなたの中が、わたしを。気
が狂いそうになるほど、愛しい反応です。あなたがわたしを求めていると実感できて……」
それは朋幸も同
じだ。桐山ほどの男が、こんなにも熱く自分を求めてくれるというのは、幸せとしかいいようがない。
桐山
の両手にしっかりと腰を掴まれ、秘孔を擦り上げられる。
「あっ、あっ、あぁっ、桐山っ」
突き出した
腰をくねらせてしまう。すると腰を引き寄せられ、桐山の逞しいものでグッと最奥を抉られた。
「ひあっ」
顔を仰のかせ、朋幸は甲高い声を上げて鳴いてしまう。痺れるような感覚が背筋を駆け抜け、一瞬意識が遠
退きかけていた。すでに限界を迎えていた朋幸のものは、たったそれだけの行為で、触れられることなく達してし
まっていた。
足元に、自分が放った絶頂の証が滴り落ちるのを、伏せた目で目の当たりにする。
上気
した頬だけでなく、桐山に包み込まれている体全体が熱い。それに、桐山を包み込んでいる体の内も――。
達したばかりだというのに、小刻みに最奥を突かれ、目もくらむような肉の愉悦が湧き起こり、溢れ出す。
「あっ、あっ、あぁっ」
性急に動き続けていた桐山だが、前触れもなく朋幸の秘孔から自分のものを引き抜
いた。背後で桐山が身じろいだ気配を感じ、朋幸は息を乱しながら問いかける。
「……ど、して、桐山……」
「お疲れのあなたを汚すわけにはいきませんから。――お許しください。こんな場所で、手荒な行為に及んで」
下肢の後始末を桐山にしてもらってから、朋幸は壁に背を押し付ける。顔を上げた桐山に、次の瞬間には抱
き締められた。
桐山の肩に頬をすり寄せながら、朋幸は熱っぽい吐息を洩らす。
「早く、仕事から解放
されて、お前と二人きりになりたい。本当は旅行はどうでもいいんだ。ただお前とゆっくりできるのなら、場所な
んてどこでもいい」
「朋幸さん……。残念ですね。わたしはあなたとのプライベートな旅行を楽しみにしてい
るのですが」
パッと顔を上げた朋幸は、食い入るように桐山の顔を見つめる。
「……本当、か?」
「昨年約束してから、待ち遠しかったですよ」
優しい笑みを向けられ、照れた朋幸はもう一度桐山の肩に顔
を寄せる。
こんなことを言われたら、桐山が帰ったあと、朋幸はどうやって夜を過ごせばいいのかわからな
かった。
桐山を思って煩悶し続けるのは、あまりにつらすぎる。もっとも、帰るなと言ったところで、桐山
は聞いてくれないだろうが――。
それが、桐山らしいといえば桐山らしい。そういう男が、朋幸の最愛の恋
人なのだ。
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