■ BUSYなカンケイ ■




03

 打ち合わせが休憩に入り、桐山は室内にこもった熱気にいまさらながら辟易する。他の人間も同じだったらしく、社員 の一人がさっそく空調を強くした。
 ここ数日、春というより初夏に近い気温の高さだ。
 桐山は視線を窓の外 へと向ける。隣のビルの窓ガラスが陽射しを反射して、一瞬目を射抜かれた。そっと目を細める。
 日曜日だった昨 日も夜遅くまで会社で書類をチェックしていたため、目が疲れていた。桐山は眼鏡を外してデスクに置くと、瞼の上から軽 く揉む。目が疲れやすいといえば朋幸だが、すぐに真っ赤になるので、わかりやすいというより痛々しい。
 もっと も、そんな朋幸も庇護欲をそそられ、いとおしいと感じる自分は、度し難いほど彼に狂ってしまっているというしかない だろう。
 瞼の上から手を退けた桐山は、再び窓の外を眺める。四月とはいえ、すっかり桜の時期は終わってしまい、 わざわざ春に旅行を設定した意味はなくなってしまった。
 それでもやはり、明後日から出かける旅行に思いを巡ら せると、どんな激務も甘受できる。
 完璧な無表情を保っていると自負している桐山だが、さすがに旅行のことを考 えると、どうしても表情が綻びそうになる。
 そんな自分に自制をかけるため、眼鏡をかけ直す。
 このとき桐 山は視界の隅に、ドアが開けられたままのミーティングルームを遠慮がちに覗く人影に気づく。葉山だ。
 室内の空 気に圧倒されて、声をかけるにかけられないといった様子だ。
 来た、と口中で呟いた桐山は次の瞬間には立ち上が り、足早にドアに歩み寄る。
「桐山さ――」
 口を開きかけた葉山の腕を掴み、半ば引きずるようにして、ミー ティングルームから離れる。
 葉山は乱暴な桐山の行動に驚いたように目を丸くしている。基本的に桐山は、朋幸以 外の人間に対しては扱いが雑だ、とよく朋幸本人に指摘される。
 久坂のように小柄だとさすがに遠慮もしてしまう が、他の人間には、扱いが雑だとか以前に、自分がどんな物腰なのか意識すらしていない。
 空いている他のミーテ ィングルームに葉山を押し込むと、素早く周囲を見回してからドアを閉める。
「――届いたか?」
 桐山の鋭い 問いかけに、葉山はぎこちなく頷く。抱え持っていた厳重に梱包された包みを差し出してきた。
 受け取ると、すぐにそ の場で包みを開く。
 数日前に、かつての自分の勤務地だった丹羽商事のイギリス支社に連絡して、同僚に至急の用 として頼んでおいたものだ。予定よりずっと早くに手元に届いたのは、たまたま出張先のイギリスから日本に戻ってくる 社員がいたため、言付けておいてくれたからだ。
 立ち去ってよいものかどうか戸惑っている葉山に、言葉をかけて やる余裕もない。
 包みの中身は分厚い書類の束と、薄いファイル一冊だった。桐山はすぐにファイルを開き、綴じ られた英文の書類に素早く目を通す。
 書類を読み進めていくうちに、自分の眉間のシワが深くなっていくのがわか った。最後の一文まで読み終えたときには、唇を歪めていたぐらいだ。
「――……予想通り、胸が悪くなるような経 歴を積み上げてきたようだな。エリック」
 嫌悪感を滲ませた低い声で呟くと、傍らの葉山がビクリと身をすくめる。 大きく息を吐き出した桐山は、大丈夫だと、葉山の肩を軽く叩く。
 ファイルを閉じ、手にした書類と葉山を交互に 見る。うかがうように桐山を見上げてきた葉山だが、目が合うとすぐに視線は床に落とされた。
 桐山は思案する。
 関係ない、で押し通そうかと思ったエリック・ウォーカーの件だが、結局、藤野から話を聞かされたその日のうち に、できるだけの情報を提供すると約束した。
 夜、玄関で立ったまま朋幸を貪るという、獣のような行為に及んだ あと、会社に戻ってからの話だ。
 朋幸を腕の中に捕え、高い体温としなやかな体の感触を味わっているうちに、気 が変わったのだ。
 朋幸をエリックの件に関わらせたくはないが、将来に禍根を残しそうなものは、早いうちに処理 しておきたい。なんといっても、朋幸はその将来を背負う身なのだ。
 ただし、事は朋幸に内密で進めたい。
「――……桐山さん?」
 控えめに葉山に呼ばれる。朋幸への秘密が増えていくことに、気づかないまま苦笑を浮か べていたらしい。
 桐山はすぐに元の無表情を取り戻す。
「ありがとう。もう戻っていいぞ」
「あの……、 エリック・ウォーカー氏というのは、大変な人物なのでしょうか」
 葉山の口から出た言葉に、桐山は思わず素で鋭 い視線を向けてしまう。葉山は、自分がとんでもない失言をしたような表情となり、うつむいてしまった。
「どうし て、その名前を知っている。わたしはお前には、一言も洩らしていないと思うが」
「……イギリス支社から、さきほ どお電話がありまして、そこでエリック・ウォーカー氏のお名前が出ました。荷物が手元に届いたかの、確認のお電話だ ったのですが……」
 桐山はため息をつく。これは、自分のミスだ。個人的な用件だと告げず、とにかく最新のエリ ックの経歴と、桐山自身がイギリス支社にいた当時に使用した資料を送ってほしいと頼んでおいたのだ。
「久坂は、 その場にいたか?」
 久坂は、朋幸に対して隠し事ができない。できることなら、エリックの件は久坂にも隠してお きたい。
 葉山は小さく首を横に振る。
「いえ……。秘書課に行かれて、席を外してらっしゃいました。室長は、 隣のお部屋に在室されてましたが、わたしが電話を取っている間、室長もお電話中のようでした」
「そうか、なら― ―」
 大丈夫だ。桐山は口中で呟く。
 こうなったら仕方がないと、桐山は葉山に声を潜めて告げる。
「わ たしは今、内々で進めている調査がある。できるなら、室長にも久坂にも今は耳に入れておきたくない調査だ」
「… …はい」
 葉山が緊張した面持ちで頷く。ただ、目の色が変わっている。この状況で一瞬で覚悟が決まるなら、秘書 として――朋幸の側にいる秘書としてだが、見所はありそうだ。
「わたしと室長が明後日から、有休を取るのは知っ ているな。その間、海外事業部やイギリス支社、それに生活産業の藤野室長から入る連絡は、すべてお前が受けるんだ。 わたしのほうからも、彼らには言っておく。緊急の用があれば、すぐにわたしの携帯に連絡してくるんだ。久坂は通さな くていい」
「承知、しました……」
 答えた葉山の声が微かに震えを帯びている。桐山は安心させるように言葉 を加えた。
「単なる連絡役だ。そう硬くなるような仕事ではない。それに、ほんの四日間のことだ」
 手早く打 ち合わせを済ませてから、葉山を先にミーティングルームから出す。
 ちょうど一分待ってから桐山もあとに続く。 自分の無表情をより完璧なものにするため、眼鏡の中央を押し上げ、気持ちを切り替えた。




 この日の朋幸は、桐山の運転する車ではなく、ハイヤーで会社をあとにした。
 桐山は途中で抜け出せない仕事が あり、朋幸は朋幸で、プライベートで大事な用があった。
 何もこの忙しいときに、と思うが、仕方がない。
  そんな思いで朋幸が会社から直接ハイヤーで向かったのは、実家だった。
 父親も、朋幸以上に決算の関係で忙しい はずだが、その状況でわざわざ夕食を一緒に、と電話をかけてくるのならよほどのことだろう。それに、食生活を心配し ているという母親の伝言を聞かされると、実際に顔を見せて元気だと証明するしかない。
 実家に戻ると、すぐに母 親が玄関まで出てきて、朋幸の手から有無を言わさずアタッシェケースを取り上げてしまった。促すように背を押され、 ダイニングへと向かう。
 すでに父親は寛いだ格好でイスに腰掛けていた。先月の執行役員の定例会議で顔を合わせ て以来だ。朋幸はジャケットも母親に預けると、父親の向かいのイスに座る。
「――忙しいか?」
 母親が出し てきたおしぼりで手を拭きながら、朋幸は父親の質問に苦笑を洩らす。
「自分の会社が今どういう状況か、わかって いるだろう、父さん」
 もっともその状況も、ひとまずは明日までだ。明日にはケリをつけてしまい、明後日の朝は 旅行に出発する。
 朋幸のジャケットをハンガーにかけた母親もテーブルにつき、久しぶりの家族団らんが始まる。
「あなた、明後日からの有休で何をするか、決めているの?」
 激務に追われる男二人の胃の負担にならないよ うにという配慮か、あっさりとした和食で揃えられた夕食を味わっていると、急に母親が切り出してくる。思わず朋幸は 箸をとめていた。
 両親には、有休を取るとは告げてあるが、桐山と旅行に行くことまでは説明していない。もっと も、二人揃って有休を取るのだから、行動を共にするとは容易に想像がつくだろう。
 声が不自然に硬くならないよ う気をつけながら、朋幸はなんでもないことのように答えた。
「旅行に行って、のんびりしてくる。明日には、統括 室の決算処理も終わらせるから、ちょうどいいし。……桐山もつき合ってくれるし、心配するようなことはないよ」
「大変ねえ、桐山さんも。せっかくのお休みだというのに、あなたのお守りをしないといけないなんて」
 朋幸より もむしろ、母親の言葉のほうが不自然だ。そのうえ、父親と母親が意味深に視線を交わし合う。
 今になって朋幸は、 なぜ忙しいこのときに、わざわざ自分が実家に呼び出されたのか不審に思った。何か、あるはずだ。
 まさか、桐山 との関係を感づかれたのだろうかと咄嗟に考え、心臓の鼓動が急に速くなる。
 水を向けてきたのは父親だった。
「――この間、おじいちゃんと一緒に昼食をとったんだろう?」
「あっ、うん……。だけど、いつもと同じだよ。 特に大事な話があったわけでも――」
 ここまで言って、朋幸はハッとする。ようやく、二人が何を言おうとしてい るのか理解したのだ。
 眉をひそめ、父親と母親を交互に見据える。
「ぼくは、見合いなんてする気はないから ね。たとえ、じいちゃんの紹介でも」
「見合いなんて、堅苦しいものじゃないんだ」
 父親の言葉で、やはり三 人の――もしくは関係者たちの間で、朋幸の見合いの計画は進められていたのだと知る。
 怒るよりも、まず戸惑い を覚える。朋幸自身に欠片ほどもその気がないのに、どうやって話を実行に移す気だったのだろうかと思うと。
「ち ょうどお前が有休を取っている最後の日が、新聞社主催の絵画展の初日に当たる。この日に、関係者のオープニングセレ モニーを兼ねたパーティーがあって、お前に会わせたいお嬢さんも出席されるんだ。おじいちゃんたちも同席するから、 一緒に食事でもしないかという話なんだが」
「お食事だけなら、気軽におつき合いできるでしょう? あなたたち二人 だけ、というわけでもないんだし」
 二人がかりの説得に、朋幸は素っ気なく首を横に振る。
「旅行から戻って くるのは昼過ぎだろうし、その日はゆっくり休みたいんだ」
「朋幸……」
 よほど祖父から強く言われたのか、 珍しく父親が困り果てた顔をする。丹羽商事の社長とはいっても、こうなると威厳も何もあったものではない。
 朋 幸は最後の手段に出た。
「――あまり言うようなら、これから先、実家にも帰らないし、じいちゃんとの食事も断る。 ぼくは、つき合う相手は自分で選ぶ。誰だろうが、何も言わせない」
 言いたいことを言うと、何事もなかったよう に朋幸は再び箸を取り上げ、食事を再開する。
 頑なな朋幸の態度に感じるものがあったらしく、控えめに母親に言 われた。
「あなた、今はつき合っている人はいないと言ってたけど、本当は誰かいい方がいるんじゃないの?」
 脳裏に浮かんだのは当然、桐山の顔だった。
 自分自身に歯痒い思いを感じながら、朋幸は口元に自嘲の笑みを浮 かべて首を横に振る。
「……いないよ、そんな人」
 見合いに関する話は、そこで強引に打ち切る。
 朋幸 の性格からして本気で席を立つと思ったらしく、父親も母親も、仕方ないといった様子で話題を変える。
 もっとも 朋幸は、二人の話をほとんど聞いていなかった。
 食事を終え、母親がコーヒーを淹れるのを待つ間に、朋幸だけ席 を立ってダイニングを出る。向かったのは、二階の自分の部屋だった。とはいっても、年末年始に帰ってきたときぐらい にしか使わない部屋だ。
 急いで部屋のドアを閉めると電気もつけないまま、ジャケットから抜き出して持ってきた 携帯電話の電源を入れる。
 両親があんな話をして、また朋幸も、あんな受け答えをしたものだから、今この瞬間、 どうしても桐山の声が聞きたくなった。やむなくとはいえ、うそをついてしまったことが、たまらなく桐山に対して申し 訳ないのだ。
 見合いの件について、何もかも正直に話して桐山に許してもらいたかったが、一方で、桐山にだけは 知られたくない気持ちが朋幸にはある。
 桐山との関係に、他人の存在など匂わせたくなかった。それに、桐山にも 同じことを求めてしまう。誰も、桐山に近づかないでほしいと。
 これは、朋幸が桐山に対してだけ持つエゴだ。
 今はどんな仕事をしているのだろうかと思いながら、朋幸は素早く桐山の携帯に電話をかける。他人と一緒なら、 あまり関係を匂わせるような会話は交わせない。
 ひとまず、桐山の携帯電話の電源は切られてはいなかった。
 コール音が三回鳴ってから途切れる。電話の向こうから聞こえてきたのは、他人の声と間違えようのない、官能的です らあるバリトンだ。
『――どうかなさいましたか?』
 冷ややかに思えるほど淡々とした口調で、桐山に問われ る。前までの朋幸なら、冷たいと言って機嫌を損ねたかもしれないが、今は違う。周囲に誰かいるのだと察して、つい朋 幸まで声を潜める。
「……すまない。大した用じゃないんだ。またあとで――」
『少しお待ちください。今外に 出ますから』
 冷ややかな調子のまま言われ、朋幸は電話を切らずに待つ。
 数十秒ほどの間を置いてから、再 び桐山に問われた。
『どうかされましたか?』
 朋幸はほっと安堵の息を吐く。さきほどまでとは一変して、桐 山の声は温かみに満ちていた。自分に注がれる愛情を、桐山のこんな些細な変化から感じてしまう。
「用……、とい うほどじゃないんだ。ただ、お前の声が聞きたくなったから、かけた」
 ふっと、桐山の吐息のような笑い声が電話 を通して感じられる。朋幸は熱くなった顔を伏せる。
「……悪い。こんなことで、電話したりして。打ち合わせ中だ ったんだろう?」
『かまいませんよ。ちょうど、休憩しようと思っていたところです。――何よりの差し入れです。 こうしてあなたの声を聞かせていただけるということは』
 どんな場所でこんなことを言っているのか、側に人がい るのではないか、そんなことを一瞬心配した朋幸だが、すぐに思い直す。桐山ほどの男が、注意を払わないわけがない。
『何かありましたか?』
「えっ……?」
『いえ、あなたがこのように電話をくださるのは、珍しいと思いま して。今はまだ、ご実家ですよね?』
 見合い話を断って、急に桐山の声が聞きたくなったとは言えない。
 少 し沈黙して、朋幸は何かいい理由はないだろうかと考える。だが、わざわざ考えるまでもなかった。正直に自分の気持ち を告げてしまえばいいのだ。
「……一人だと、なんとなく落ち着かない。早く、お前と二人きりになりたくて、たま らないんだ、きっと」
『朋幸さん……』
「もうすぐ、なんだな」
 桐山が微かに笑った息遣いが、 電話を通して感じられた。
『ええ、もうすぐですよ。わたしたちのことを誰も知らない場所で、二人きりになれます』
「それを聞くと、明日一日だけ、がんばれそうな気がする。明日は、大変だからな」
『旅行の準備はお済みです か?』
 この状況で、桐山と旅行のことについて話すのも、なんだか妙な気分だ。同時に、嬉しくて胸の奥がくすぐ ったい。
「まあ、な。お前は――前日に一気に済ませてしまいそうだな」
『いえ、毎日、少しずつ準備していま すよ。まとめてやってしまうと、なんだか惜しいですからね。あなたとの旅行について、あれこれ考える時間も貴重なん です、わたしにとっては』
 桐山の言葉を聞いていると、朋幸の顔はどんどん熱くなってくる。
 たまらなく、 桐山のきつい抱擁が欲しかった。どうして今、自分の側にいてくれないのかと、責めたくなってくる。それほど朋幸は、 桐山という存在が恋しかった。
「ぼくも……、だ。お前と同じだ。これから帰って、最後の荷物を詰め込む。明日は、 日付が変わらないうちに帰れるかどうか、わからないしな」
「それがよろしいですね。わたしも、そういたします」
 あれだけ熱烈な言葉を言ってくれたというのに、電話を切るときはお互い素っ気なかった。
 言うべき言葉が なかったのではなく、余計なことを言って、これまで交わした会話の熱を冷ましたくなかったのだ。
 携帯電話を切 って、朋幸はスラックスのポケットに入れる。
 母親の淹れたコーヒーを断って、すぐに自宅に帰りたかった。桐山 の言葉を聞いたあとで、もう見合いの話など耳に入れたくない。
 あと一日だと自分に言い聞かせて、朋幸は部屋を 出た。




 朋幸からの電話を切って、桐山は唇に静かな笑みを浮かべる。朋幸の声に仕事中にはない、少しの甘やかさを感じ取り、 誰に対してなのか多少の優越感を覚える。
 こんなにも、誰かと二人きりの時間を過ごすのを待ち焦がれたことがあ っただろうかと、自問する。答えはもちろん、ない。そしておそらく、朋幸も同じ気持ちでいてくれる。
 このとき 誰かが廊下を歩いてきたので、眼鏡の中央を押し上げた桐山は、瞬時にいつもの無表情を取り戻す。
 寸前までの朋 幸との電話の余韻を胸に、今夜はもう少しがんばる必要がある。自分のためでも、誰のためでもない。朋幸の将来のため だ。
 軽く一呼吸ついてから、桐山は今度こそ携帯電話の電源を切る。今夜に限って、たまたま電源を切り忘れてい たからこそ、朋幸からの電話を受けることができたのだが、もう電源を入れておく必要はない。
 携帯電話をジャケ ットのポケットに突っ込みながら、ミーティングルームに戻る。
 空調が働いているはずだか、室内にいる男たちが 吸う煙草の煙で、天井近くが白く曇っている。煙草量が増えるほど、この場にいる男たちが苛立っているともいえるのだ ろう。
「失礼しました」
 声をかけて席に戻った桐山に、隣に座っている藤野が疲れた様子ながらも笑みを向け てきた。ネクタイはほとんど首に引っかかっているというありさまで、昼間はきちんとセットしてあった髪も、今は乱れ ている。
「大事な用だったら、別に俺たちのことは気にしなくていいんだぞ」
「いえ、大丈夫です。――室長か らの電話です」
 ビクリと藤野の肩が揺れる。桐山が言う『室長』とは誰を指しているのか、考えるまでもない。
 ため息をついた藤野は、ガシガシと髪を掻いて低く尋ねてきた。
「今回の件、本澤室長はまったく知らないん だろう?」
「ええ。あの方に関わりのないことで、余計は心配はおかけしたくありませんから。今回、わたしがこう して、戦略開発部と生活産業統括室の薬品事業部の対策会議に参加したのは、あくまで個人的な協力です。化学品統括室 は関係ありません」
「まあ、こちらとしても、他の統括室に迷惑をかけるのは本意でないから、そう言ってもらえる と助かるんだけどな。しかし――」
 藤野の視線が、デスクの上に置かれている書類に向けられる。桐山が、イギリ スから送ってもらった書類のコピーだ。それをこの場にいる全員に、部外秘扱いで配った。
 自分たちが、顔を見な いまま対峙する男が、どれだけ危険な人物か知っておいてもらうためだ。
「しかし、まあ……」
 藤野が他の表 情のしようがないといった様子で苦笑を浮かべる。
「読めば読むほど、エリック・ウォーカーっていうのは――食え ない男だな。もっとも、そんな男とやり合って勝った男がうちの社にいてくれたというのも、巡り合わせだ」
 ミー ティングルーム内にいる男たちの視線が、一斉に桐山に向けられる。それらの視線を落ち着いて受け止めた桐山は、そっ と眼鏡をかけ直す。
 海外事業部でどう言われたのかは知らないが、藤野の発言は、桐山にとっては過大評価でしか ない。
「……エリックとは、痛み分けです。彼は、決定的な一撃を与えさせてはくれませんでした。そうなる前に、 あえて身を引いたというほうが正しいでしょう」
 桐山がエリック・ウォーカーという男を知ったのは、五年前のイ ギリスでだ。
 当時桐山は、ヨーロッパ圏での丹羽商事の業務展開の管理を担当しており、丹羽商事の各統括室とは 浅いながらもつき合いがあった。そのときまだ、生活産業統括室の室長は藤野の前任者だった。その前室長が、ときおり イギリス支社に連絡をしてきては気にしていたのは、ある買収専門会社の動向だった。
 経営に問題を抱える企業を 買収しては再生させ、新たに別の企業に売りつけるのを仕事としており、買値と売値の差額がその会社の利益となるのだ が、その手法が莫大な利益を生み出すのはともかく、露骨すぎるやり方に、眉をひそめる人間も少なくなかった。
  その点では、WB社と似ているかもしれない。
 このとき桐山は、丹羽商事が業務提携に乗り出していた食品メーカ ーとの折衝にあたっていたのだが、横槍を入れてきたのが、その買収専門会社だった。
 買収専門会社の担当者は、 WB社に引き抜かれる前の、エリック・ウォーカー。
 エリックもまた、当時はヨーロッパ圏の担当者の一人だった のだ。
 アメリカの弁護士資格を持つというビジネスマンで、話し合いの場を持ったときに初めてエリックと顔を合 わせた桐山は、自分たちが抱えた杞憂は決して杞憂では済まないと確信した。
 杞憂は必ず、危惧に変わると。
 実際、業務提携に対する買収会社の妨害は凄まじかった。指示を出していたのは、エリックだ。桐山のエリックに対す る警戒心は、このとき植え付けられたものだ。
『――お前と俺はよく似ている、桐山。だから俺は、お前がどうしよ うもなく憎い』
 日本語で、エリックは面と向かってこう言った。桐山ですら、背筋が冷たくなるような酷薄そうな 笑みを浮かべて。
 桐山たちが、無事に食品メーカーとの業務提携を締結させた翌日の出来事だった。エリックはわ ざわざ、イギリス支社まで桐山を訪ねてきたのだ。
 そして、こうも言った。
『次に会うときは、お前を叩き潰 してやる。お前はもう少し大物になってから潰したほうが、楽しいだろう。俺もそのときまでに、力を蓄えておく』
 エリックは、かつての自分と似ているからこそ、今では決して相容れない存在だ。桐山はそう思う。だからこそ、関わ りたくない。自分が直接関わらなくて済むなら、できる限りの助力は惜しみたくなかった。
「……お前ほどの男が、 そこまで警戒する男か」
 藤野が唇を歪める。本人は苦笑を浮かべたつもりかもしれないが、笑みにはなっていない。
 脅すつもりはないが、桐山は正直に自分の考えを告げた。
「あの男なら、さらに危険人物になっているはずで す。当時ですら、危険な男でしたから」
 ざわついていたミーティングルーム内は、いつの間にかしんと静まり返っ ていた。








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