■ BUSYなカンケイ ■




04

 この日、化学品統括室の室長室には、ピリピリとした空気が漂っていた。その源は自分にあると、朋幸はよく自覚 している。
 さきほど顔を洗うため洗面所に立ったのだが、鏡に映った自分の顔を見て、軽い自己嫌悪に陥った ぐらいだ。それでなくても険が表に出やすい顔なのに、鏡の中の顔は、険しく眉をひそめて、唇をこれ以上なく硬く 引き結んでいた。どこから見ても、不機嫌そのものの顔だ。
 どうりで、葉山がいつになくおろおろしていたと、 苦々しく思い返ってしまった。
 もっとも、殺気立っているのは朋幸だけではない。フロア中が同じような雰囲 気に包まれていた。
 今日は、化学品統括室内で決めた決算に関するデータの提出の最終日だ。
 会社全体 としてはまだ少々の猶予はあるのだが、ギリギリまで粘るのは本意ではない。それに明日から、肝心の朋幸は桐山と 有休を取リ、待ちかねていた旅行に出かけるのだ。
 仕事にプライベートのスケジュールを持ち込んだようで心 苦しさはあるが、この日程だけは譲れなかった。
 テーブルの上に広げた書類の一枚一枚を手に取り、じっくり とチェックをしてから、自分のサインをする。正面のソファに腰掛けた桐山も同様で、チェックを終えた書類を朋幸 の前に置いていく。おかげで、朋幸の負担は半分に減っている。
 今日は室長室と秘書室を隔てるドアを開閉す るのも邪魔で、開けたままだ。頻繁に久坂が出入りして、チェックを終えた書類を分類しているのだ。
 それら の書類のデータは電算室で化学品統括室全体のデータとしてまとめられ、別館ビルから本館ビルへと送られる。ひと まずそこで、統括室での決算処理は終了だ。
 ようやく最後の書類に目を通し終えてから、傍らで待たせていた 久坂に手渡す。すぐに久坂は室長室を出ていき、わずかな間を置いて、秘書室を飛び出すパタパタという足音が聞こ えた。
 あの、少し落ち着きのない足音は葉山だ。
 朋幸はソファの背もたれにぐったりと体を預け、瞼を 押さえながら桐山に問いかける。
「まだデータを提出していないところはないな?」
「ご安心ください。全 データは揃っていました。化学品統括室内での決算については、あなたの仕事は終わりですよ」
「それは、よか った。これ以上続いたら、体がもたない……」
「――室長」
 室長室に戻ってきた久坂に声をかけられ、瞼 から手を離す。目の前に目薬が差し出され、朋幸は苦笑を洩らす。
「さっき洗面所に立ったときから、気になっ てたんだ。目が真っ赤だってことが」
 目薬を受け取り、さっそく点す。伸ばした手に取らされたティッシュで 軽く拭うと、まばたきを繰り返す。
「休憩にして、お茶をお入れしましょうか。作業の間、ずっとコーヒーでし たから」
「ああ、頼む」
 久坂が出ていく抑えた足音に続き、ドアが閉められた音がする。
 姿勢を直 した朋幸は、腕時計に視線を落として顔をしかめる。
「どうかされましたか?」
「もうすぐ五時だと思った ら、体から力が抜けた。時間が経つのがあっという間だな」
 桐山は薄く笑んでから立ち上がる。
「よく、 今日までにまとめ上げられましたよ。他の統括室では、まだデータをまとめている最中のところもあるようですし」
 朋幸は、窓際に歩み寄る桐山の背を目で追いかける。常に端然とした格好を心がけている男には珍しく、ソフ ァに腰掛けての仕事では邪魔だったらしくジャケットを脱いでいる。
 ワイシャツに包まれた背の広さに、朋幸 は胸の奥を疼かされる。明日には、自分だけのものになるのだと思うと、たまらなかった。
 桐山が、下ろした ままだったブラインドを上げる。室長室にこもったのは昼前で、昼食もここに運ばせてとったので、今日は外の景色 をほとんど見ていない。
 いつの間にかきれいな夕焼けとなり、オレンジ色を帯びた陽射しが室内にも差し込ん でくる。目を細めた朋幸は、重要な仕事から解放された安堵感から、そっと吐息を洩らす。
「この調子なら、今 日は定時に退社してもいいな。明日の準備もゆっくりできる」
「ええ、そうですね」
 振り返った桐山が目 元を和らげる。こういう表情をされると、もう少しだけ我慢しようと思っていたものが歯止めを失う。企業人の矜持 として、会社ではなるべく桐山に触れないよう気をつけてはいるのだが、あまり効果はないようだ。
 立ち上が った朋幸に、桐山が何もかも承知しているかのような態度で片手を差し出してくる。歩み寄ると、すぐにブラインド を下ろした桐山に手首を掴まれ、胸に抱き寄せられた。
 桐山の体温が心地いい。朋幸はもう一度吐息を洩らし、 桐山の肩に顔を埋める。
「――……明日、なんだな」
「そうですね」
 素っ気ない桐山の答え方が気に 食わず、思わず朋幸は顔を上げる。
 朋幸の考えがわかったように、桐山は微かに苦笑した。
「浮かれた様 子を見せるわけにはいかない、わたしの立場もお察しください」
「……お前でそうなら、ぼくなんて、もっとそ うだろう」
「――大丈夫です。あなたは浮かれてなんて見えませんでしたよ。仕事中のあなたの理性は、わたし ですら崩せませんから」
 素っ気ないかと思えば、臆面もなくこんな台詞を言う。朋幸は自分の顔が熱くなって いくのを感じる。
「まあ、信じてやる」
 わざと鷹揚な口調で答えると、頭上から桐山の微かな笑い声が降 ってきた。
 あとほんの少しだけだと思い、朋幸はもう一度桐山の肩に顔を埋める。労わるように、桐山の片手 がそっと朋幸の背にかかる。
 このとき、突然朋幸のデスクの上の電話が鳴った。内線だ。
「うわっ」
 驚いて声を上げた朋幸は、慌てて桐山から体を離す。桐山はすでにいつもの完璧な無表情を取り戻していたが、眼 差しがわずかに険しい。
 室長室の内線は滅多に鳴らない。たいてい秘書室を通して、繋ぐようにしてある。そ れが室長室に直接内線が入るということは、何かしら急ぎの用があるということだ。
 桐山の眼差しが険しいの は、それを察したのだろう。
「化学品統括室室長室です――」
 受話器を取り上げた朋幸が言い終える前に、 電話の相手が名乗る。化学品統括室で、決算のデータ管理を任せている一人だ。
 どういう理由からか丹羽商事 では、独自に開発した決算管理に使用しているソフトの種類が、本館と別館では違う。そのうえ、互換性がない。そ のため、必要なデータだけを抽出して移し替えなければならないのだ。
 そのデータ管理を任せている社員が、 ひどく慌てた様子で話し始める。
『室長、大変です。化学品統括室のデータをさきほどまで送信していたんです が……』
「どうした?」
『……システムがダウンしました』
 それを聞いた途端、朋幸は顔を強張らせ る。異変を感じ取ったように桐山も顔を寄せてきた。
「それで、状態はすぐに戻りそうなのか?」
『今、I T事業部がコンピュータの調子を見ていますが、できるなら、データ送信の作業を明日にできないかと――』
「明日? ふざけるなと言え。この時期のことは予想の範囲だ。それでもダウンするようなシステムを使わせていた のか」
『……そんなこと、面と向かって言えませんよっ……』
 話す社員の声が、哀願に近い響きを帯びる。
「かまわない。ぼくが言った通りに言え。事は、うちの統括室だけの問題じゃない」
 言いながら、朋幸は 頭が痛くなってくる。何もこんなときに、と心の底から思った。
 嫌な予感を感じ、朋幸は念を押すように尋ね る。
「うちのデータは無事なんだろうな? 部門や事業部からのデータを累積していたはずだ」
『それが、 システムのダウンと同時に、消えてしまいました……。その、ここまで累積したデータも一緒に、です』
 朋幸 は盛大なため息をついてから、デスクに腰を預ける。そうでもしないと、脱力してその場に座り込んでしまいそうだ った。
「バックアップを取っていたはずだ」
『……いえ、その……』
「はっきり言えっ」
『は、は いっ。まさかこんな事態が起こると思わず、昨日の午後からデータを更新していませんっ』
 朋幸は一気に爆発 する。
「バックアップは、新しいデータが加わるたびに行えと言っていただろうっ。どんな些細な更新でもだっ。 初歩的なことだ。それが、昨日の午後のデータから更新してないなんて、どういうことだっ。怠慢で済む話じゃない ぞっ」
 ここで桐山の手が肩にかかる。一瞬の激高からわずかに覚めた朋幸は、ドアのところにトレーを手に立 つ久坂と、顔半分だけを覗かせた葉山に気づく。
「とにかく、関係者を集めてデータを入力し直せ。それと、I T事業の人間に、システムを一刻も早く復旧させろと伝えるんだ。システムの改善と分析なんて、うちのデータを送 信したあとに行わせろ。ぼくもこれから電算室に行く」
『申し訳……ありません』
 朋幸はさきほど見たと きから、ほとんど針の進んでいない腕時計で時間を確認して、低く抑えた声で告げる。
「本館の電算室が電源を 落とすのは、いくら決算処理中だといっても、夜中の十二時だと覚えておけ。その時間までに、昨日の午後から、今 日の夕方までに集まったデータを入力し直して、完璧なデータとして送信するんだ。システムが復旧しないというな ら、ぼくがデータを持って、本館の電算室に駆け込む」
 いくぶん乱暴に受話器を置くと、葉山が首をすくめる。 おそらく電話の向こうで、朋幸に事態を報告するという不幸を背負わされた社員も、似たような状態となっているだ ろう。
 さきほどまでの幸せな気分と甘さを込めた吐息とは違い、朋幸は今度は、不機嫌そのものの大きなため 息をつく。
 デスクに腰を預けたまま、腕組みして桐山を見据える。
「話は聞いていたな?」
「はい」
「ということで、ぼくはこれから電算室に行ってきて、作業を見守ってくる」
 桐山は不快そうに軽く眉を ひそめた。
「わざわざあなたが行かれなくても……」
「最後までしっかり見届けるのが、ぼくの仕事だ」
 断言すると、桐山はそれ以上の異論は唱えなかった。
 朋幸は勢いをつけてデスクから下りると、電算室 で他の仕事を片付けるため、準備を始める。
 朋幸のその様子を眺めていた桐山が、ふいにすぐ側まで寄ってき たかと思うと、そっと囁いてきた。
「――ムキになってらっしゃいますね」
 朋幸はキッと桐山を睨みつけ る。
「下手をしたら、明日の朝、出発できなくなるんだぞ。だからといって、中途半端な形で出発するのはもっ と嫌だ。だから、無事にデータが送信できるまで立ち合う。何時になってもだ」
 桐山が柔らかな笑みを浮かべ る。
 朋幸の視界の隅では、珍しいものを見てしまったという様子で、葉山が目を丸くしている。苛立っていた 朋幸の心は見事に鎮まり、冷静な化学品統括室室長の顔を取り戻せる。
 明日のことは明日のことだ。今はとに かく、完璧に仕事をやり遂げておきたい。
 パソコンとファイルを手に、朋幸は室長室を出ていこうとする。
「ぼくのことはいいから、三人とも、決算が終わった今日ぐらい定時で帰っていいぞ」
「二人、ですよ」
 背後からさり気なく桐山に訂正される。思わず笑みをこぼしそうになった朋幸だが、久坂と目が合ったので、 寸前のところで唇を引き結ぶ。代わって久坂が、何もかもわかったような笑みを浮かべる。
 気恥ずかしさを押 し隠すように、朋幸は不機嫌な声で告げた。
「――行ってくる」




 睡眠時間は三時間もなかったな、と桐山はハンドルを握ったまま苦笑を洩らす。
 昨夜は、日付が変わるギリ ギリのところで、ダウンしていたシステムが復旧し、同じく、ギリギリで入力し終えたデータをなんとか本館に送る ことができた。
 IT事業部、丹羽商事の関連会社であるシステム会社の人間たちが必死になるのは当然だが、 電算室には、朋幸が呼びつけた化学品統括室のデータ管理の人間たちまで集まっていた。
 おかげで、普段は空 調のおかげでひんやりとしている電算室の室温が、数度は高かったように思える。
 システムの復旧を待つ間、 他の仕事を片付けるといっていた朋幸だが、結局自らもデータ入力を手伝っていた姿には、苦々しさを通り越して、 桐山は微笑ましさすら感じてしまった。
 どんな仕事でも手を抜けないのが、朋幸の特徴だ。それに、翌日から 有休を取って旅行に出かけるということに、罪悪感を感じてもいたのだろう。
 桐山などにしてみれば、普段は 働きすぎるほど働いているのだから、もう少し悠然としていても、と多少の歯痒さを覚えたのも事実だ。
 そう いった経過の後、朋幸と桐山が会社をあとにできたのは、午前一時を過ぎてからだった。
 さすがに朋幸はいつ になく疲れ果てており、桐山もマンションの部屋の前まで送り届けながら、心配でならなかった。
 危うく、旅 行の出発時間を遅らせましょうと、切り出しかけたぐらいだ。
 できなかったのは、別れる間際、朋幸がとても 嬉しそうな顔をして、明日が楽しみだと言ってくれたからだ。
 数時間前に立ち寄ったばかりの朋幸の住むマン ションが見えてくる。
 まだ朝も早いため、車も人の通りもまばらだ。朝一番の飛行機に乗るためには、この時 間に出発しなくてはならないのだ。
 マンションの前に立つほっそりとした人影に気づき、つい桐山は唇を綻ば せる。見間違えるはずもない、朋幸だ。
 今日の朋幸はもちろんスーツではなく、生地の柔らかそうなパンツに、 シンプルなデザインのTシャツ、その上から白のパーカーを羽織っている。
 童顔というわけではないのだが、 普段の似合いすぎるほどのスーツ姿が強烈なせいか、ラフな格好をした朋幸は、桐山が戸惑うほど幼く見える一瞬が ある。
 マンションの前に車を停めると、すぐに桐山は車を降りる。
「おはようございます。少しは眠れま したか?」
 意識せずとも桐山は柔らかな表情となり、朋幸にそう問いかける。朋幸は少し怒ったようにぶっき らぼうに頷く。これは、朋幸が照れているときによくする表情だ。
「まあ、な……」
「目が真っ赤ですよ」
 朋幸が忌々しそうに目を擦ろうとしたので、桐山は寸前でその手を掴んで止める。
「目薬は用意してあり ます」
「……眠る努力はしたんだからな。だけど、まあ、今日は仕事じゃないから、どこで居眠りするのも自由 だと思って――」
 朋幸には悪いが、微笑ましい言い訳だ。
 朋幸の手から取り上げたバッグを後部座席に 置きながら、つい桐山は笑ってしまう。
 仕事の疲れは体に残っているが、自分の機嫌がすこぶるいいというの は、朝起きたときから桐山は気づいていた。
 後部座席のドアを閉めて、改めて朋幸と向き合う。まぶしげに朋 幸が目を細めた。桐山は首を傾げる。
「どうかされましたか?」
「いや……」
 朋幸が軽く周囲を見回 してから、片手を伸ばしてくる。そっと前髪に触れられた。
「髪、今日は下ろしているんだと思って。外でお前 のそういう髪型を見ると、新鮮だ。それに、今日はスーツじゃないし」
 桐山にとっては深く考えての行動では なかったのだが、朋幸の指摘に動揺する。
 髪については、ただ、仕事ではないのだからと、こうしただけだ。 それに服装についても、スーツでないとはいってもシャツにジャケットという格好で、ネクタイをしているかそうで ないかの違いぐらいだ。
 自分の些細な変化に目を細めてくれる朋幸に、むしょうに愛しさを覚える。その朋幸 と、これから四日間もの時間を共に過ごせるのだ。
「参りましょうか」
 桐山は助手席のドアを開けて、朋 幸を促す。普段、朋幸を車に乗せるときは必ず、後部座席の運転席の後ろだ。
 今日という日がいつもとは違う と、桐山の行動で感じ取ってくれたらしく、目を丸くした次の瞬間には、朋幸は花が綻ぶような笑みを浮かべる。
「そうか。今日は仕事じゃなく、プライベートでお前と一緒にいるんだな」
「ええ」
 二人とも車に乗 り込むと、朋幸がシートベルトを締めるのを待ってから、車を出す。
 桐山が横目でうかがうと、朋幸はやはり 眠いらしく、いつもの鋭利さは影を潜め、少しぼんやりした横顔を見せている。
「空港に着くまで、シートを倒 して少しお休みになられたらどうです」
「大丈夫だ。なんだか、この状態が気持ちいいんだ。平日の朝から、こ んなふうにぼんやりできるなんて、滅多にないからな」
「ずっとお忙しかったですからね、あなたは」
 そ れに、これからも――。
 せめてこの四日間ぐらい、朋幸の気を煩わせることのないよう、楽しんでもらいたか った。
 自分の無表情には自信があるつもりの桐山だが、朋幸はときどき信じられないような洞察力を発揮する。 いきなり、こう言われた。
「――旅行先で、あまりぼくに気をつかうなよ。お前はぼくの子守りじゃないんだか ら……一緒に楽しむんだぞ」
 この人には敵わない。
 桐山は思わず笑みをこぼしてから、しっかりと頷く。
「わたしはそのつもりですよ。申し訳ありませんが」
「温泉だぞ、温泉。お湯に浸かるのが苦手なお前がの ぼせる姿を、しっかり見てやるからな。わざわざ、部屋に温泉がついている旅館を選んだぐらいだからな。いくらで もみっともない姿を見せろ」
 昨年のことを、朋幸はまだ根に持っている。だから行き先も、昨年出張で出かけ た先である、北陸にした。もう一度じっくりと観光して、温泉にも入りたいのだ。
 同年代の誰よりも大人とし て成熟しているはずなのに、妙なところで子供っぽい。
 そこが可愛くもあるのだが、と本人を前に決して口に はできないことを、桐山は考える。口にしたのは別の言葉だった。
「――わたしのどんな姿も、存分にご覧にな ってください。邪魔する者は誰もいませんから」
 代わりにあなたの姿も、と続けると、寸前まで勢いのよかっ た朋幸が、急にシートに体を投げ出すようにしてもたれかかる。
 ぼそりと言葉が返ってきた。
「そのつも りでこの忙しい中、あんなに苦労して時間を作ったんだろう……」
「そうでしたね」
 桐山はそっと唇に笑 みを刻んだ。








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