松葉杖をついて出勤した朋幸を見て、久坂はそれでなくても大きな目を、さらに大きく見開いた。朋幸はつい、まじめな口調で
こう言ってしまう。
「久坂、あんまり見開くと、目がこぼれ落ちる――」
「どうされたんですか、その足っ……」
冗談も聞こえなかったらしい。朋幸は軽く顔をしかめてから、自分の足元に視線を落とす。
「旅行先でちょっと捻ったんだ。
大げさだと思うんだが、歩くのに少し難儀しているから、やむをえず、な。まあ、二、三日もすれば、痛みも治まるだろうから、
それまでの我慢だな」
「――できるだけ、室長室から出られないようお願いします」
ふいに傍らから、そう声がかけら
れる。慣れない松葉杖を使う朋幸を、何かあればすぐフォローするつもりで張り付いている桐山だ。その桐山の手には、二人分の
アタッシェケースだけでなく、みやげの入った紙袋もある。
朋幸は、桐山を軽く睨みつけた。
「だから、大げさだと言
っているんだ。昨日だって、旅先から戻ってきたら、病院は閉まっている時間だったのに、わざわざ院長に電話をして特別に診て
もらったんだぞ」
できるだけ騒ぎにならないようにと朋幸は願っていたのだが、桐山のほうはそうも言っていられないとば
かりに、足を診てもらうだけで大騒ぎだったのだ。
祖父の代から本澤家とつき合いのある病院だけに、まさか実家に連絡が
いかないだろうかと朋幸は心配しているが、一方の桐山は、ウォーカーの件と一緒に、足の怪我のことも報告するべきだといまだ
に主張している。
そのことで桐山自身の立場が悪くなるかもしれないと、当の桐山は考えてもいないらしい。朋幸のほうは、
桐山の立場を慮っているというのに――。
捻挫した足が疼いていること以上に、朝から桐山とこの件で車中で軽く揉めたこ
ともあり、朋幸の機嫌は少々悪かった。
桐山が、朋幸の事情よりも、その朋幸の父親や祖父への忠義心を優先しているよう
に感じてしまうのだ。
朋幸が片手を出すと、心得ているようにすかさず桐山が紙袋を持たせてくれる。その紙袋を、今度は
朋幸の手から久坂へと差し出した。
「おみやげだ。いらないと言われていたけど、ぼくがのんびりしている間、ここの留守を
守ってもらったんだから、何も買ってこないのは気が済まない。大したものじゃないけどな」
大層なものを買ってくると、
こちらが申し訳なくなるぐらい久坂が恐縮するのは目に見えているし、と朋幸はこっそりと心の中で言葉を付け加える。
そ
んな朋幸の気持ちが伝わったのか、久坂はにっこりと笑ってみやげを受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
「う
ん。……と、ぼくがいない間、変わったことはなかったか?」
問いかけながら、苦労して松葉杖を使って室長室へと向かう。
素早く先回りした桐山がドアを開け、中に入った朋幸は自分のデスクではなく、応接セットのソファに腰掛けた。
思ったと
おり、デスクにつくより、ソファに足を投げ出して座ったほうが楽だ。
傍らに松葉杖を置いてコートを脱ぎながら、朋幸は
桐山を見上げる。承知したように桐山が頷いた。
「今日は、こちらで仕事をすることにいたしましょう。今、パソコンと電話
を移動させますから」
「……怪我をしているせいか、いつもよりお前が優しい気がする」
朋幸がニヤリと笑ってそう言
うと、眼鏡の中央を押し上げた桐山は、表情一つ変えずに答えた。
「わたしはいつも、あなたに優しいつもりですが」
「――滅多に聞けない、お前の冗談だな」
桐山の口元がわずかに緩んだ気がしたが、もっとよく見ようと思ったときには背
を向けられてしまった。
朋幸の前に、何枚かのメモ用紙が置かれる。留守中に朋幸宛てにかかってきた電話の相手先と用件
が、きれいな字で記されていた。
「急ぎのお電話はありませんでしたが、桐山さんに判断を仰いだ内容の電話が二件あります」
「ああ、それは聞いているから、大丈夫だ。……〈こちら〉はトラブルがなくてよかった」
「……〈こちら〉、ですか?」
不思議そうに久坂が首を傾げたので、落ち着いたら話すとだけ告げる。巻き込まれているのが朋幸と桐山だけなら問題はな
いが、一応トラブルの当事者は藤野であり、生活産業統括室だ。あまり気軽に話せる内容ではない。
「さて、張り切って仕事をするか――……」
あまり気のない声で朋幸が呟き、久坂を苦笑をさせたそのとき、室長室の電話が鳴った。しかも、内線だ。よほどの相手でない
限り、室長室に直接内線をかけてくることはない。大半が、まずは隣の秘書室宛てにかけてくるのだ。
なんだか嫌な予感を
感じた朋幸が背筋を伸ばすと、ちょうど電話機ごとこちらに持ってこようとしていた桐山が受話器を取り上げた。
名乗った
桐山の表情が、次の瞬間にはピリッと緊張する。慇懃な口調がさらに畏まるのを聞いて、朋幸はため息をついていた。
電話
の相手がわかってしまったのだ。
別館から本館ビルまでの距離など高が知れているが、もちろん朋幸は移動で歩いたりはしない。特に、足を捻挫している今は。
後部座席のシートに深くもたれかかりながら、朋幸は低く声を洩らす。
「……旅行から戻ってきたのは昨夜、そして今
は、まだ朝だぞ。しかも始業時間前。それなのにどうして、父さんどころか、じいさまにまで、足の怪我のことがバレているんだ」
朋幸がバックミラー越しに恨みがましい視線を向けると、桐山はわずかに苦い顔となる。
「わたしをお疑いでしょうが、
わたしはまだ、誰にも何も報告してはいませんよ」
「誰も疑ったりしていない。なんのために今朝、お前とケンカしたと思っ
ているんだ。……と、なると、院長経由かな……。いや、だったら、昨夜のうちに連絡が入るか」
「松葉杖をついてロビーを
歩かれているあなたを、どなたかが見かけて、社長に理由を尋ねられたのかもしれませんね」
それが一番納得できる理由の
気がして、朋幸は曖昧な返事をする。
室長室にかかってきた内線は、朋幸の父親――丹羽商事の取締役社長直々のものだっ
た。
足をどうしたのだと開口一番に問われ、さすがの朋幸もうろたえてしまい、結果、こうして本館ビルの父親の元に出向
くことになったのだ。
「まあ、なんにしても、全部報告することになるな。ウォーカーのことも含めて」
「それは、わた
しの口から」
頷いた朋幸は、すぐにウィンドーに額を押し当てる。そして、派手なため息をついた。
「なんで、足をち
ょっと捻挫しただけで、こんなことになるんだ。ぼくはもう、とっくに成人しているんだぞ。こんなことは、電話で報告すれば済
む話なんだ。騒ぐにしても。それが、わざわざ自分のところに呼びつけて、詳しく事情を話せなんて……」
「あなたは、大事
な宝ですから。一度壊れてしまうと、二度と手に入らない貴重な存在です。会長や社長にとって。何より、わたしにとっても」
桐山の最後の一言で、少しだけ朋幸の機嫌はマシになった。無意識に唇に笑みを浮かべながら、朋幸はこう応じた。
「お前のその言葉に免じて、父さんの前で仏頂面を晒すのはやめておく」
「あの表情はあの表情で、あなたが心を許している
証拠だとわかっているので、見ているほうとしては、微笑ましいものですが」
バックミラーに映る桐山の目元が和らいだの
を見て、朋幸の頬は熱くなってくる。
「……ぼくをからかって楽しんでいるだろう、桐山……」
桐山からの返事はなか
ったが、低い笑い声は聞こえてきた。有能すぎる秘書は最近、さらに人が悪くなったようだ。
朋幸もクスッと笑ってから、
外の景色に視線を向ける。
微かな車の揺れに身を任せながら、さりげなく桐山に言ってみた。
「――桐山、今回のこと
で懲りてなかったら、またどこかに連れて行ってくれ」
「喜んで」
桐山の短い返答が嬉しい。
この先、ウォーカ
ーの件でさまざまな騒動が巻き起こるかもしれないが、今は、旅行の楽しい思い出に浸るのも許されるだろう。浮かれている間は、
足の痛みも、松葉杖を使う煩わしさも気にならない。
「なあ」
「はい」
「父さんのところに顔を出したあと、じいさ
まのところにも行けと言われると思うか?」
「……あなたが唇を尖らせて社長室から出てくる様子が、目に浮かぶようですね」
朋幸は大きくため息をつくと、乱暴にシートにもたれかかった。
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