● CLEVERなカンケイ ●




01

 馴染みのバーで、いつものテーブルについているジェイミー・グラハムは、足を組み換え、軽く髪を掻き上げると、運ばれてきたばかりの『ブルー・ムーン』に口をつける。
 ブルーと付いているのに、色はきれいな赤紫というカクテルで、最近のジェイミーのお気に入りだ。味もさることながら、名前通りでないひねくれぶりが、実に自分を彷彿とさせてくれる。
 正面の席に腰掛けている飲み友達のダグラスとシンは、マンハッタンを味わっていた。
 ダグラスは大柄なアメリカ人で、愛嬌たっぷりの顔をしている。年齢は三十代後半。一方のシンは細身の日系アメリカ人で、二十代半ばながら、どことなく学生っぽく、勤勉な雰囲気を持っている。見た目はほとんど日本人だ。
 この二人は会社は違うが、外資系企業に勤めているビジネスマンで、たまたまこのバーで顔を合わせているうちに、同じテーブルについて語り合う仲となった。
 ちなみにジェイミーは二十九歳のイギリス人で、外国語大学の講師をしている。
 ダグラスとシンのデジカメ談義を音楽に、ジェイミーは、先日アメリカ旅行に行った同僚に買ってきてもらったペーパーバックを開く。
 日本製電化製品をこよなく愛しているダグラスとシンの会話に入っていけるつわものは、なかなかいないだろう。
 それに、二人とも英語で会話を交わせばいいのに、なぜか流暢な日本語を使っている。ジェイミーも日本語は嫌いではないし、うまいほうだと自負しているが、なぜプライベートの会話まで、と思わなくもない。
 生ハムを摘まみ上げ、ペーパーバックに視線を落としたまま、ジェイミーはため息交じりに呟いた。
「――……何かおもしろいことはないのか」
 ダグラスとシンに敬意を払い、呟きは日本語だ。
 ピタリと二人の会話が止まり、おもしろがるような視線を向けられる。上目遣いでそれを確認したジェイミーは、軽く二人を睨みつける。
「なんだ」
 いやあ、とダグラスが苦笑を洩らす。
「また始まったと思って。ジェイミーの退屈癖が」
「自分が巻き込まれるのは嫌だけど、何か起こってほしいと思うんだよね、ジェイミーは」
 このバーで一緒に飲み始めて一年ほどになるが、それだけの期間があれば、お互いの気質は大体把握できる。まさしく、シンの言う通りだった。
「当たり前だ。自分が面倒に巻き込まれて、楽しめるわけないだろ」
「……上品できれいな外見をしてくるくせに、食えない性格は変わらずだな」
 ふん、とジェイミーは鼻を鳴らす。自分の外見の価値についてはよく理解していた。
 細くしなやかな髪はまばゆいほどの金色で、瞳は透明感のある冷たいほどの青。近寄りがたさすらあるきわめて理知的で端正な容貌は、モデルであった母親にそっくりだ。
 イギリス人として理想的な容貌は日本人受けがよく、下心ありのモーションをかけられたのも両手の指では足りないほどだ。しかも、男女関係なく。
 恋愛にさっぱり興味がないジェイミーは、『おもしろいこと』の中に、自分の恋愛を含める気は毛頭なかった。
「周りでおもしろいことを探していて、自分の足元をすくわれないように気をつけるんだな」
 年長者らしいダグラスの忠告に、ジェイミーは大げさに肩をすくめてみせる。
「わたしはそんなに大うつけではない」
 学生に教えてもらった日本語の単語をさっそく使ってみる。
 電化製品だけでなく、日本語フリークでもあるダグラスがにやりと笑う。
「どうだかな。お前は案外しっかりしてそうで、肝心なところが抜けていそうだからな。けっこうシンのほうがしっかりしてそうだ」
 ジェイミーはじろりとシンに視線を向ける。自分は関係ないとばかりに、シンはぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
 うるさい学生を一瞬にして黙らせる、殺人的な(と、ダグラスが言った)視線は、どうやらシンにも有効のようだ。
「怖いよ、ジェイミー」
「別にお前をとって食おうなんて思ってない」
 意識はなくとも、日本人のような話し方をしている自分に、多少の忌々しさを覚える。それもこれも、日本に頭の先までどっぷり浸かっている目の前の二人のせいだ。
 このときジェイミーの耳に、地下のこのバーに下りてくる足音が聞こえてきた。
 何気なく視線を階段に向けると、自分たちも人のことは言えないが、ずいぶん毛色の変わった男の客がバーの店内を見回していた。
 ダグラスが小さく感嘆の声を洩らす。
「派手な色男だな」
 まさしく、ダグラスの言った通りだった。
 どう見ても日本人ではない、彫りの深いハンサムな顔立ちに、長めの髪はくすんだ印象のウェーブがかった金髪だ。瞳は、角度によって茶色にも黒色にも見える褐色だ。年齢はシンと同じぐらい。
 物珍しげに店内を見回す度に瞳はくるくると表情を変え、なんだか子供っぽい無邪気さがある。それでいて、したたかな男の匂いを発しているようなところもある。
 男の存在そのものも派手だが、男の格好も派手だ。着物によくあるような華やかな柄がそのままプリントされたパンツを履いており、そのうえシャツは、赤を貴重とした、やはり派手なものだ。
 見ていて目がちらついてきて、ジェイミーは思わず目頭を押さえる。
 それでもバーにいる客たちの――特に女性たちの熱っぽい視線を集めている。
 男は空いている席を探しているようだが、あいにく金曜日の夜ということもあり、カウンターもテーブルも満席だ。
 苦笑を浮かべた男が、大げさに肩を落とす。そして、吸い寄せられたようにジェイミーを見た。くるんと、男の瞳が動く。
 ジェイミーたちは四人がけのテーブルについており、当然ながら、一席空いている。しかしそれはジェイミーたちのテーブルだけでなく、他の二、三のテーブルも同じ状況だ。
「……こっち見てるよ」
 不安そうにシンが言う。
「いいじゃないか。今のところこのバーに外国人は、俺たちだけだ。言葉が不安なんだろ。
誘ってやれよ」
 ジェイミーやシンの意見も聞かず、ダグラスは愛想よく男に向かって手招きする。すると男は表情を輝かせ、長い足で大股に歩み寄ってきた。
「助かったよ。急に飲みたくなってやって来たのに、店がいっぱいだから」
 男の口から出たのは、完璧な日本語だった。目を丸くするジェイミーに、イタズラっぽく男が笑いかけてきた。
「立派な日本語だな。この店の常連か? 俺たちもそうだが、いままで会ったことはないよな?」
 ダグラスの問いかけに、男は曖昧に首を動かす。
「一週間前、日本に来たばかりなんだ。だけど前に日本に留学していて、そのときはよくこのバーに通ってたんだ。つい懐かしくなってね」
 男の口調は柔らかく、人懐っこさが滲み出ている。この外見で日本語にも不自由していないなら、さぞかし日本人の女の子にもてるだろう。冷ややかにジェイミーは考える。
 ダグラスは自分の名を名乗ってから、男と握手を交わす。男もさっそく名乗った。
「ロベルト・ルスカだよ。イタリアのミラノから来たんだ」
 ロベルトと名乗った男の視線が、今度はシンとジェイミーに向けられる。人のいいシンは、ロベルトの物腰の柔らかさにすっかり安心したらしく、さっそく立ち上がって自己紹介し、握手をする。
 次いで、色合いの違う三組の瞳が一斉にジェイミーに向けられる。
 仕方なく、ペーパーバックを閉じて素っ気なく名乗る。
「ジェイミー・グラハムだ」
 握手はしない。男は気を悪くした様子もなく、まるで駄々っ子を見るような目でジェイミーを見た。なんとなくその目が気に食わない。
 席についたロベルトが注文したのは、ジェイミーと同じブルー・ムーンだ。
 ロベルトには遠慮や臆面といったものがないらしく、あっという間にダグラスとシンと意気投合し、あれこれと自分のことを話し始める。
 再びペーパーバックを開きはしたものの、ジェイミーの耳には嫌でも三人の会話が入ってくる。
 それによるとロベルトは、ミラノで会社経営をしている父親からの小言に嫌気が差して、
馴染みのある日本に逃げてきた放蕩息子なのだそうだ。
 ジェイミーのシニカルな思考からそう結論を出したわけではなく、笑いながらロベルト本人がそう言ったのだ。
 今はホテル住まいで、何をするでもなく毎日ぶらぶらしているのだという。聞いているだけで腹が立ってくる能天気さと放蕩ぶりだ。
「――でも、そろそろ仕事に取りかからないとね」
 グラスに口をつけたロベルトの瞳が、意外に知的な光をたたえる。すっかりロベルトの存在をおもしろがっている様子のダグラスが、突っ込んで尋ねた。
「仕事って、何かアテがあるのか?」
「どこかのお金持ちの令嬢にでも拾ってもらって、養ってもらおうかと思って」
 言っている内容の生臭さとは対照的に、ロベルトが爽やかにウインクする。ダグラスとシンは冗談だと取ったらしく、のん気に笑っているが、ジェイミーは違う。
 この男は、案外本気で言っている――。
 目を細めてロベルトを見ていると、当のロベルトと目が合う。人当たりはいいが、どこかで食えなさも漂う笑みを寄越された。
 ジェイミーはぷいっと顔を背ける。
 ロベルトは、危険なぐらいセクシーな男だった。令嬢などと口では言っているが、別に御曹司でもいいのだろう。もしかすると、そちらを相手にするほうが得意なのかもしれない。
 ジェイミーの、『同類』としての勘がそう告げる。
 もっとも、相手はバーでたまたま同席となった男だ。何をしようが関係ない。
 どうせ、今夜限りのつき合いだ。


 レストルームに立ったジェイミーが手を洗っていると、ドアが開けられた音に続き、鏡越しにロベルトの姿が映った。
「――ハイ」
 まるで偶然出会ったように目を丸くしてから、ロベルトが鏡の中で溶けそうに甘い笑みを浮かべ、軽く片手を上げる。
 自惚れではなく、自分のあとを追ってきたのだと思ったジェイミーは、ロベルトを無視して手を洗い続ける。
 潔癖症のきらいがあるため、ある程度の時間が経つと手を洗わずにはいられなくなるのだ。 大学でも、授業が終わる度にまっすぐ洗面所に向かっているぐらいだ。
「――きれい好きなんだね」
 声をかけられても、ジェイミーは無視し続ける。ちらりと視線を上げると、鏡の中でロベルトが肩をすくめている。
「……ガードが固いね」
 そう言いながらも、ロベルトは楽しそうだ。なんだかそれが癇に障り、まともにロベルトの褐色の瞳を見つめ返す。次の瞬間、毒気を抜かれるほど無邪気な笑みを寄越された。
「きれいだ」
「なっ……」
 予想外の言葉を返されてジェイミーは動揺する。その間にロベルトがすぐ隣に歩み寄ってきて、鏡に身を乗り出し、ジェイミーの瞳を覗き込む。
「バーのライトって少し落とされていたから。明るいところで見るとよくわかる。――ジェイミーは、きれいな瞳の色をしているね。アイスブルーの瞳は、その人を神秘的に見せてくれるから好きなんだ」
 ずいぶん馴れ馴れしいではないかと思いながらも、ジェイミーはロベルトを無視しようとする。しかしめげないイタリア男は、さらに図々しい行動に出る。
 いきなりジェイミーの髪を一房手に取り、そのうえ顔を寄せてきたのだ。
「――そして、この黄金の絹糸を思わせる金髪は、俺の憧れだ」
 確かに髪にキスされた。ジェイミーはキッとロベルトを睨みつけるが、堪えた様子もなくロベルトは笑っている。
「いいね。アイスブルーの瞳で睨みつけられると、ゾクゾクする。俺は、年上で気の強い美人がタイプなんだ」
「わたしは、お前のタイプなんて聞いていないし、興味もない。他を当たれ」
「なかなかいないんだよね。美人で年上で頭がよくてクールな――男の人は」
 やはり、とジェイミーは心の中で呟く。
 ロベルトはジェイミーと同類だ。恋愛を楽しむのも、快楽を共にするのも、相手は女性よりも男性のほうがいい人種だ。
 イタズラっぽい無邪気な子供っぽさを装いながらも、したたかさと狡さを秘めたロベルトの褐色の瞳は言っている。
 ジェイミーは違うのか、と。
 こんなに食えない男を相手に無関心を装うのも疲れ、ジェイミーはようやく水を止める。
すかさずロベルトが自分のハンカチを差し出してきたが、冷たく断って自分のハンカチで手を拭う。
「わたしなんて相手にせずに、それこそ金を持っていそうな『令息』でも相手にしたらどうだ」
 心外だと言いたげにロベルトはため息を吐く。
「俺は恋愛に、裕福さは求めないよ。それに、目の前に理想そのものの人がいるっていうのに」
 意味深に見つめられ、内心でロベルトという男をおもしろいと感じている自分に、ジェイミーは戸惑っていた。
 さきほどのダグラスとシンとで交わしていた会話ではないが、何かおもしろいことはないかと言ってはいた。しかし、当事者になるのはごめんだ。
 だがロベルトの登場は、ジェイミーを『おもしろいこと』の渦中に巻き込もうとしている。
 理性と本能の駆け引きが頭の中で始まる。
 無表情は変えないジェイミーを、ロベルトは笑みを浮かべたまま見つめてくる。
 初対面の男のことで熱心に思考を働かせるのもバカらしくなってきて、水を向ける。
「――で、わたしに声をかけてきた目的は」
「美の女神の慈悲を授かりたくて」
 ロベルトの独特の言語センスは、イギリス文学だけでなく、日本文学にも造詣の深いジェイミーを惑乱させる。
 眉をひそめ、学生に対するように注意した。
「わかりやすく言え」
「ジェイミーのことがもっとよく知りたいんだ」
「それで?」
「俺たちが出会った運命をもっと確かなものにするために、まずは携帯の番号を交換し合わない?」
 派手な柄のパンツのポケットから携帯電話を取り出し、ロベルトがにやりと笑う。
 ジェイミーは決して軽い人間ではないし、自分でいうのもなんだが、貞操観念もしっかりしている。これまでつき合ってきた男は、はっきりいって片手の指で足りるほどだ。
 感じる迷いを振り切るため、ジェイミーは言ってみた。
「――大学勤めをしているから、面倒事は嫌なんだ。日本で誰かと深い仲になる気もない。
遊びというなら、もっとごめんだ」
「難しいね、ジェイミーは」
 言葉とは裏腹に、ロベルトは楽しげな表情を崩さない。むしろ、金鉱を掘り当てたといった感じで、さらに褐色の瞳を輝かせている。
 ロベルトが声を潜めた。
「だったら、大人の関係にならない? 遊びではないけど、ジェイミーには絶対迷惑や負担はかけない関係」
「今夜初めて会った男とか?」
「いきなり、なんて言わないよ。俺は当分は日本にいるから、時間をかけてじっくりと、お互いを知るのもいいんじゃない」
「わたしは、自分のことをお前に教える気はない」
 きっぱりと言ったが、イタリア男がすべてこうなのか、それともロベルトという男がそうなのか、会心の笑みと共に、楽天的な部分を発揮してくれた。
「と、いうことは、少なくとも俺のことを知ってくれる気はあるんだね」
 珍しくジェイミーは絶句する。
「……恐ろしく、ポジティブだな」
「俺の数少ない取り柄なんだよ」
「他に取り柄は?」
 わずかに考える素振りを見せたロベルトが、なぜか自信満々の表情で答えた。
「キスがうまいことかな」
 そんなことだろうと思った。ジェイミーは呆れて、大きく息を吐き出す。
 何が悲しくて、ポジティブで派手なイタリア男に、レストルームで口説かれなければならないのか――。
 嘆かわしい状況ではあるのだが、内心でおもしろさを感じつつもある。少なくとも今の状況は、退屈とは対極にあるだろう。
 ジェイミーは露骨に値踏みする視線をロベルトに向ける。視線の意味がわかっていながら、ロベルトは曲者の人懐っこい笑みを見せる。
 ジェイミーは鷹揚な態度で提案した。
「大人の関係になるかどうかはともかく、携帯の番号は教えてやる。ただし、わたしがその気になるまで、指一本触れてこないという条件が呑めるなら、という前提でだ」
「OK。相手を知るのは大事なことだしね」
 戸惑う様子もなく、あっさりとロベルトは承諾する。よほど自分に自信があるらしい。
 もっとも、そうでなくてはジェイミーもおもしろくない。なんといっても、ロベルトとどうにかなろうという気は、毛頭ないのだ。
 あっさり音を上げるような相手では、振り回してもおもしろくはない。ただそれだけの理由で、条件を提示したに過ぎない。
 素性もよく知らない男との約束を守るため、ひとまずジェイミーは、ジャケットのポケットから自分の携帯電話を取り出した。




 イタリア男の――というより、ロベルト・ルスカの情熱を甘く見ていた。
 講義の最中、学生たちの意見のやり取りを眺めながら、イスに腰掛けて足を組んだジェイミーは、内心ため息を吐きたい心境だった。
 ロベルトと携帯電話の番号を交換して一週間が経った、その間毎日、ロベルトから電話がかかってくる。しかも、一回や二回という可愛いものではない。
 朝はモーニングコールに始まり、昼間はランチ、夕方は夕食、夜は飲みに、と誘ってくるのだ。
 誘い方はスマートでも、こうも電話がかかってくるとさすがに腹が立ってくる。
 寝る間際に、おやすみ、と言うためだけに電話がかかってくるので、このとき文句を言おうとすると、気勢を削ぐように甘く囁かれるのだ。
『一声でも多く、ジェイミーの声を聞くためなら、俺は貪欲で図々しい男に変われるんだよ』
 初めてこの言葉を聞いたときは、さすがのジェイミーもベッドに顔を突っ伏してしまった。
そして痛感した。
 この男は手ごわい、と。
 腕時計に視線を落とすと、そろそろ講義は終了だ。同時にそれは、ロベルトからの電話がかかってくるのを意味している。
 一週間もの間、不本意ながらロベルトと連絡を取り合っていると、ロベルトのほうがジェイミーのタイムスケジュールを把握してしまったのだ。
「……あいつは、他にやることがないのか」
 学生たちの前で、思わず憮然とした声で独りごちてしまう。チラチラと学生たちがこちらを見たが、アイスブルーの瞳の冷たい輝きに、誰もがすぐに視線を逸らす。
 ジェイミーの冷たい瞳をきれいだと言うのは、ロベルトぐらいだ。たいていの人間は、澄みすぎた青を怖がる。
 案外ロベルトは、マゾかもしれない。
 ふとそんなことを考え、自分の考えのおかしさに、ジェイミーは唇に薄い笑みを浮かべる。
 講義を終え、ジェイミーが教室を出て廊下を歩いていると、ジャケットのポケットの中で携帯電話が震える。
 取り出すと、案の定、ロベルトからだった。
「何か用か」
 素っ気ない受け答えはいつものことだ。電話の向こうでロベルトが、微かな笑い声を洩らしたのを聞いた。
『ジェイミーの冷たい声は、何度聞いても素敵だね』
「……褒めているようで、わたしをけなしているだろう、お前」
『まさか。ジェイミーには、褒め称えるところはあっても、けなすようなところはないよ。
まさしく、美の女神が作り上げた完璧な芸術だよ』
 聞いていて耳がむず痒くなってくる。
「用があるなら、さっさと言え」
『ランチがおいしい店を見つけたんだ。今、大学の前まで来ているから、一緒にどう?』
 いつもならここで、飛び回ってうるさいだけのハエを叩き落すがごとく、容赦なく断って電話を切るジェイミーだが、寸前までロベルトのことを考え、少しばかり機嫌がよかったせいもあって、こう答えた。
「わたしは舌が肥えているぞ」
 数秒、ロベルトが沈黙する。ジェイミーの言葉を頭の中で反芻した時間らしい。
『……それってつまり、一緒に食事してくれるってこと?』
「わたしは、理解力に欠ける人間は嫌いだ」
 次の瞬間、電話の向こうから大げさな歓声が聞こえてくる。静かになるのをじっと待っていたジェイミーだが、あまりにいつまでも喜び続けるので、イライラしてつい怒鳴っていた。
「うるさいっ」
 廊下を歩いていた学生や職員たちが、何事かとジェイミーに注目する。それらを無視して足早に歩く。一方のロベルトは軽い笑い声を上げる。
『ごめん、ごめん。嬉しくてさ。こんなに興奮したのは、久しぶりだよ』
 うそを言うな、という指摘するのも億劫だ。
『ならこれから出てきてよ。裏門……なのかな、その近くに車を停めてあるから』
 わかった、と応じて、余計な言葉を聞かされる前に電話を切る。
 洗面所で手を洗い、教員棟に戻って教材や資料を置くと、ジェイミーはブリーフケースに、新たなペーパーバックを放り込んで出かける。
 どうせこのあと、今日はもう講義は入っていないのだ。ロベルトとの食事に辟易したらさっさと逃げ出し、別の店にでも入ってのんびり読書をするのもいい。
 外へ昼食に出かける学生たちの間をすり抜け、大学の裏門から外に出る。
 歩道を歩く学生たちの視線が、なぜかある一方向へと向いている。つられて同じ方向を見たジェイミーはつい足を止めてしまった。
 車道脇に停められた黒い車の運転席側に、皮のパンツに淡いピンク色のシャツを着た男が立っていた。
 ウェーブがかった長い金髪は緩く一つにまとめられ、サングラスをかけているので瞳の色はわからない。だが、派手な存在というだけで、男が誰であるか特定するのは簡単だ。
 いくら桜の季節とはいえ、そのシャツの色はなんだと、ジェイミーは内心で呟く。
 他人のふりをしたいところだが、ジェイミーに気づいたロベルトが、様になる仕草でサングラスを外し、子供のように大きく手を振ってくる。おかげでジェイミーまで注目を浴び、はっきりいっていい迷惑だ。
 ずかずかとロベルトに歩み寄ると、実に甘やかな笑みを向けられる。
「やあ、ジェイミー。今日も実にきれいだね。桜の化身かと思ったよ」
「――それはお前だ。今後、わたしの前に現れるときは、ノーマルなスーツか、もしくはワイシャツを着用しろ。もう一度突拍子もない格好をしてみろ、お前との仲はそこまでだ」
「それはつまり、今後も俺と会ってくれる約束ということだね」
 あっという間に右手を取られ、手の甲に軽くキスされる。さすがのジェイミーも、呆気に取られるしかない。
 艶やかに笑い続けるロベルトに助手席のドアを開けられ、乗るよう示される。我に返ったジェイミーは、すでにロベルトのペースに巻き込まれているのを自覚しながらも、車に乗り込む。
 ジェイミーは、感じた疑問をすぐに口にした。
「車、買ったのか?」
「レンタカーじゃ、これから動くときに何かと不便でね。当分日本にいるというのは本当だよ。むしろ、腰を据えて住まないといけないかもしれない」
 ロベルトの言葉は意味深だ。漠然とながら感じていたが、ロベルトは単なる放蕩のためだけに日本に滞在しているわけではないようだ。
 だが、興味はあっても、それ以上の質問はしない。相手のことをより多く知るというのは、それだけ相手に深入りするのを意味している。関係が一段階ずつ複雑になっていくということだ。
 ロベルトが連れて行ってくれたのは、なんともシャレたイタリアンレストランで、女性が多い店内中の視線を一気に集める。
 それはそうだろう。ピンク色のシャツを着た、ただでさえ派手なイタリア男と一緒にいて、目立つなというほうが無理な話だ。しかしロベルトの捉え方は違うらしい。
 テーブルにつき、料理を注文したあと、ウインクと共に言われた。
「みんな、ジェイミーのことを注目してる」
「……ロベルト、今すぐレストルームに行って鏡を覗いてこい。少しは、自分の派手な格好を認識できるだろ」
「自分の姿なんてどうでもいいんだよ。今は、こうしてジェイミーを見るのに夢中なんだから」
 料理を食べる前に、ロベルトの甘い言葉で満腹になりそうだ。
「――ジェイミーは、自分の好奇心と理性の折り合いをつけるのがうまいね」
 食事の最中、ふと思い出したようにロベルトに言われる。凝った盛り付けのパスタを惜しみながらフォークで崩していたジェイミーは、視線を上げないまま問いかける。
「どういう意味だ?」
「怪しいイタリア男の正体を気にかけているけど、絶対自分からは踏み込んでこない」
 気がついてたのかと、ちらりと視線を上げる。褐色の瞳は、油断ならない光をたたえてジェイミーを見つめていた。
「後々、面倒が嫌なだけだ」
「最初に言ったでしょう? ジェイミーには負担も面倒もかけないよ。それに俺は、単なる元お坊ちゃまだというだけで、身元は怪しくないよ」
 ロベルトの表現が気になり、小さく首を傾げる。ロベルトはもったいぶることなく教えてくれた。
「父親がイタリアで会社を経営しているのは言ったよね? その会社が今、経営が危ないんだ。だから俺は、日本でスポンサー探しをしているわけ」
「なんだ、仕事をしているのか」
「本物の放蕩息子のほうがよかった?」
「……別に、どちらでも。わたしには関係のないことだ」
 ロベルトはなぜか嬉しそうな表情となる。
「そう、ジェイミーのそういうクールなところもいいよね。クールさの間から見える感情的な部分が際立って――すごく、キュートだ」
 ロベルト以外の男が言ったなら鳥肌が立ち、迷うことなく殴っているだろう。
 だがこの瞬間、ジェイミーの背に甘い痺れが駆け抜ける。ずいぶん久しぶりの感覚だ。
 ジェイミーの内の変化を読み取ったように、ロベルトは目を細め、甘い眼差しを向け続けてくる。
 案の定、次の約束を求められた。
「ねえ、明日は、夕食に誘っていいかな」
「二日続けて、お前の甘い言葉を聞けと言うのか?」
「夕方のお誘いの電話は休むから」
 ジェイミーはパスタを口に運ぼうとした手を止め、考えるふりをする。ロベルトは期待するように目を輝かせ、テーブルに身を乗り出してくる。
 こんな反応を見せられて、悪い気はしない。
「――明日の夕方は、講義で使う資料を探しに、あちこち回らないといけない」
「つき合うよ。俺を足に使ってよ」
 これで話はまとまった。ジェイミーは短く告げた。
「明日の午後五時、今日と同じように裏門で」
「スーツ着用で」
 ロベルトの受け答えに、ジェイミーは小さく笑んだ。











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