------------------------------------------------------
低体温なカンケイ
------------------------------------------------------

[1]


 送られてき報告書に目を通しながら、エリック・ウォーカーは指先で軽くこめかみを押さえ、低く言葉を洩らした。
「……もう少し、まともな事案はないのか」
 不機嫌な呟きは英語だ。
 報告書をデスクの上に投げ置くと、起動させたままだったパソコンに向き合う。とりあえずアメリカの本社に、今進めている事案の報告だけはしておかなければならない。
「おい、エリック、今夜の食事はどうするんだ」
 手早くファイルを探し出したところで、同僚が声をかけてくる。こちらは日本語だ。
 ただし、エリックが顔を上げると、デスクの前に立っているのは、どこから見ても白人の男だ。
 エリックは忌々しく感じながら舌打ちする。
「日本語を使うな。俺は日本語は嫌いだ」
「でも、ここは日本だ」
「この会社は、アメリカ資本の買収専門会社だ」
「……頑なな奴だな」
 お前がフレキシブルすぎるんだ、という言葉は呑み込む。変わって口を出たのは、違う言葉だった。
「放っておけ」
 そしてすぐに、エリックはまた舌打ちすることになる。思わず日本語で言ってしまったからだ。
 同僚は、してやったり、という顔でニヤリと笑い、エリックは鋭い視線を向ける。
「で、食事は――」
「俺一人でとる。さっさと帰れ」
 大げさに肩をすくめて同僚は立ち去った。
 イスの背もたれに大柄な体を預けると、エリックは腕組みをして窓の外に目を向ける。
 まっさきに目に入ったのは、大きな窓ガラスに映る自分の姿だった。
 淡いグレーのワイシャツに包まれた体は大柄で、髪は褐色、瞳の色は外の闇に溶け込んでいるが、紺碧。顔立ちは悪くはないほうだが、あまり興味はない。とりあえず、欲望を散らす相手に困ったことがないことだけは確かだ。
 ガラスに映る自分の姿に見入る趣味はないエリックは、窓の外に意識を向ける。
 日が落ちたばかりなので、近隣に建ち並ぶオフィスビルの中の人間たちはまだ活動しており、忙しく働いている姿が見てとれる。
 普段のエリックなら、この時間、精力的に働いているだろう。だが今日は、そこまで仕事に熱意が傾けられない。
 あいつはまだ、あのお坊ちゃまのために働いている頃だろうか――。
 皮肉っぽく考えたエリックは、口元に冷笑を浮かべる。
 心の温度というものがあるなら、自分のそれは低いとエリック自身は思っている。だが、『桐山』という男のことを考えるときだけは、別だ。
 あれほど、仕事においてエリックの心を熱くしてくれた男はいない。切れ者ぶりがどこまでも憎たらしく、反面、賞賛も惜しまなかった。あそこまで、エリックと対等にやり合った男は、他にいなかったのだ。
 かつてヨーロッパの地で、まるでロボットを思わせる精密さと正確さ、有能さを持つ桐山と、買収問題に絡んで激しい攻防戦を繰り広げたことが、美しい思い出としてエリックの胸に刻みつけられている。
 ビジネスとしてはシビアな結果だったが、『あれ』は楽しかった。
 プライドが高く、品のよさそうな桐山を敗北させ、自分の前に屈服させるのはどれほど気持ちいいだろうかと想像して、ときおり暗い愉悦に浸ることもあったぐらいだ。
 だが、誰よりもプライドが高いように見えた――実際高いのだろうが、その桐山が膝を折ったのは、エリックではなかった。
 小さく舌打ちしたエリックは乱暴にマウスに手をかけ、最後の仕事に取りかかる。
 メールソフトを起動させながら、エリックは数か月前、自分が抱き上げた青年の、ほっそりとした体の感触を思い出していた。
 頼りない体で、青年というよりむしろ少年のものに近かった。
「……本澤、朋幸。……今の、桐山の飼い主」
 冷たい皮肉を込めて呟き、メールを送信する。送信するメールは一通ではなく、次のメールを処理しながら頭の中は、桐山の『飼い主』である青年の顔を思い描いていた。
 艶のある黒髪に、白く小さな顔。一見して、行儀と血統がいいだけの青年に見えるが、エリックに向けられた眼差しは気丈で鋭かった。
 ただあの気の強さも、桐山という堅固な盾があってのものだと、エリックは冷ややかに分析している。
 桐山がいなければ、どうとでもできる弱い存在だ。
 あの青年を潰してみたいと、エリックの中の衝動は日を追うごとに強くなっていく。そのとき、桐山がどんなふうに打ちひしがれるのか、見てみたかった。
「――俺もそうとう、度し難いな」
 苦笑交じりに洩らすと、やっとパソコンの電源を落とす。
 仕事は好きだが、夜遅くまで残るのは非効率だというのが、エリックの考え方だ。
 手早く帰り支度を整えると、オフィスをあとにした。
 エレベーターを待ちながら、自分の腹具合を確認する。遅くに昼食を食べたせいで、今は空腹は感じない。少しでも何か入れておけば、明日の朝まではもちそうだった。
 そこでエリックの頭に浮かんだのは、会社は違うが、同じビル内で働く、やはりアメリカ資本の会社で働く知人の言葉だった。
 いいバーを紹介してやる、と酒好きのエリックに対して言ったのだ。
 場所は頭に入っている。アタッシェケースと、蒸し暑い日本の夏では羽織る気にもならないジャケットを持ち直すと、エリックはビルの前に行列して客を待っているいるタクシーに乗り込んだ。
 場所を告げ、シートに体を預ける。
 今夜はまず、初めて足を踏み入れるバーが気に入るかどうかはともかく、ビールを一気に飲み干そうと思った。
「……これだから、日本の夏は嫌いだ」
 英語で毒づくと、タクシーの運転手が一瞬こちらを振り返りそうになった。


 タクシーを降り、生暖かな風が首筋を撫でていく。てのひらを這わせると、すでにべたついていた。
 本当に日本の夏は嫌いだと、もう一度口中で洩らしてから、エリックは歩きだす。すでに目的のバーの看板は見えていた。
 一階はカフェで、バーは地下にあるという話だ。
 階段を下り、扉を押し開く。音楽は流れておらず、耳に入ってきたのはざわついた話し声だった。だが、顔をしかめるほどうるさくはない。
 特別洒落た内装というわけではなく、むしろシンプルなぐらいだ。ただ、ざっと見回しても、客は日本人、外国人を問わずいるが、共通しているのは客層のよさだ。
 これなら落ち着いて飲めそうだった。
 あいにくテーブル席は満席だが、エリックはさほどこだわらない。カウンターは空いているので歩み寄る。
 カウンターは、満席のテーブル席とは対照的に、客は男一人だけだった。ジャケットを羽織った後ろ姿はほっそりしているが、そんなことよりエリックの目を奪ったのは、見事な金髪だった。
 本当の外国人なのか、単に髪を染めただけの日本人なのかと思いながら、男との間にスツール一つ分のスペースを空けて腰掛ける。
 空いているスツールにはアタッシェケースとジャケットを置いたが、このとき男の横顔に視線を向ける。
 インテリ然とした白人の男だった。神経質そうな容貌だが、顔そのものは男ながらきれいだ。年齢はエリックと同じぐらいだろう。
 男の前にはワインの入ったグラスが置いてあるが、口をつけた様子はまったくない。男はわずかに眉をひそめ、熱心に雑誌を読んでいた。
 エリックはさっそくビールを頼み、所在なく店内を見回す。すぐに、ビールの注がれたグラスがカウンターの上に置かれていた。
 冷たいビールを一気に飲み干すと、もう一杯頼む。
 何げなく、もう一度男に視線を向けたが、やはり熱心に雑誌に見入っていた。
 どれぐらい熱心かというと、エリックが二杯目のビールを、今度はゆっくりと飲み干す間も、ページをまったく捲らなかったぐらいだ。
 一体何を読んでいるのか――。
 滅多なことでは動かないエリックの好奇心だが、意外に些細なことで動く。
 視線を男の手元の雑誌に向けたエリックは、すぐに男同様、眉をひそめることとなる。男が熱心に見ている雑誌のページには、猫のような顔立ちと、しなやかな肢体を持った青年が写っていた。
 記事でもなんでもない。雑誌に掲載されている企業広告だ。
 イタリアのある化粧品メーカーで、今年に入ってから活発な企業活動を始めた。問題なのは、その化粧品メーカーのバックについている会社だった。
 桐山が勤めている丹羽商事だ。
 エリックはグラスを置くと、露骨に男の手元を覗き込む。エリックは丹羽商事だけでなく、桐山や本澤朋幸についても詳しく調べさせている。そのため、二人の周囲の人間関係についても、大まかながら把握していた。
 たとえば、丹羽商事が後ろ盾になっているこの化粧品メーカーの日本支社長と朋幸は友人同士だということ。
 そして、その支社長と雑誌に写っている猫のような青年が、特別な関係であるということも。
 いわゆる公然の秘密というやつで、マスコミにリークしたところで、誰も飛びつかないというネタだ。それにどこも、丹羽商事が出てくるのを恐れ、触れたがらない。
 ここで男が、エリックの視線に気づいたように顔を上げる。怪訝そうにエリックに視線を寄越してきた。
 男の瞳は、冷ややかなアイスブルーだった。白い肌にまばゆい金髪、それにこの瞳の色と美貌とくれば、男女問わず、さぞかしもてるだろう。
 皮肉っぽく考えたエリックに対して、男は仕返しのように皮肉っぽい口調で問いかけたきた。
「――何か、珍しいものでもあるのか?」
 抑揚の乏しい日本語に、エリックはわずかに目を丸くする。こんな外見を持つ男の口から出るのは、日本語以外の言葉だと思っていたのだ。
 すぐに気を取り直し、エリックは緩く首を横に振る。
「いや、熱心に雑誌を読んでいるから、何か珍しいものでも載っているのかと思ったんだ」
 英語が話せないのかもしれないと思い、エリックも仕方なく日本語で応じる。
 ああ、と声を洩らした男は、雑誌を掴んでエリックの眼前に突きつけてきた。
 氷同士をぶつけたような声が告げる。
「――猫、だ。オスなのに、きれいで性悪な猫」
 男の行動にさすがに驚いたエリックだが、唇にシニカルな笑みを浮かべて応じた。
「珍しい、赤毛の猫だな。……でも、男好きはする」
 男は雑誌を下ろし、わずかに目を見開く。エリックが言葉に込めた意味を察したのだ。
 雑誌に載っているきれいな男性モデルを、ただ熱心に見入っていたわけではないようだ。
 この男は、何か知っている。
 エリックは内心で、他意はないだろうがこのバーを紹介してくれた知人に感謝していた。エリックが他人に感謝の念を抱くなど、滅多にないことなのだ。
「このモデルを知っているのか?」
 エリックが単刀直入に尋ねると、男は意識したように無表情となり、グラスを取り上げる。
 男がワインを飲み干すまで、エリックはスコッチを注文して辛抱強く待った。
「……彼は、前にこの店に通っていた」
 やっと男から返ってきた答えは、エリックを満足させるものではなかった。そこで、もっと情報を引き出すため、ニヤリと男に笑いかける。
「こういうのがタイプか?」
 すかさず、アイスブルーの瞳で睨み返された。
「知り合いの知り合いだというだけだ」
「どんな知り合いだ?」
「不躾な男だな」
 吐き捨てるように言って男が雑誌を閉じようとしたので、すかさずエリックは雑誌を取り上げ、自分の前に置く。
 露骨にエリックを怪しむ態度を見せながら、今度は男のほうから尋ねてきた。
「そういうお前こそ、彼を知っているのか?」
「知り合いの知り合い、というレベルで」
「……結局、よく知らない、ということだろ」
「そういうことになるな」
 エリックが低く声を洩らして笑うと、男は心底おもしろくなさそうな顔をして、再びワインを注文する。
「酒を飲むときぐらい、もう少しマシな顔をしたらどうだ」
「余計なお世話だ」
 険悪というわけではないが、素っ気ない会話を交わしつつ、アルコールだけでは腹のたしにならないので、エリックはオードブルを適当に頼む。
 ここでエリックの携帯電話が鳴ったので、表示された相手の名を見て電源を切る。どうせ会社に戻ってこいという連絡だろうが、今夜のエリックはもう、仕事に対してやる気を失っていた。
 今は、世の中の何もかもがつまらないという顔をして隣で飲んでいる男への興味が、最優先事項だ。
 もっとも、エリックの興味というのは、ほんの短い時間の退屈しのぎ程度でしかない。
 何かしら新しい情報が引き出せれば、上出来だと思っていた。どうせ、バーでたまたま知り合っただけの相手だ。
 一方、男のほうも同じ程度の興味をエリックに感じてくれたのか、グラスの縁に指先を這わせながら、うかがうようにこちらを見ている。
 エリックに言わせれば、自分など、どう逆立ちしてもビジネスマンにしか見えないはずだ。だが男のほうは、ちょっと素性が読めない。
 ノーネクタイ姿が妙に様になっているし、反対側のスツールに置いてある荷物は、書店の袋だけのようだ。
「仕事は何をしている」
「どうして、バーで会っただけの他人に、教えなければならない」
 エリック以上に冷たい声で答えた男の指先が、スッとグラスの縁から離れる。男にしてはしなやかで先細い指をしており、爪もきれいに磨かれて整えられていた。
 なんとなく、目で追いたくなるような指だ。
 外見は上等、中身は氷が詰まっているかのように冷たい――。
 エリックは口元に薄く笑みを浮かべた。
「俺は、ここで働いている。別にとった食ったりはしない」
 そう言って名刺入れから名刺を一枚取り出すと、男の前に滑らせる。男は名刺を取り上げると、嫌味のようにじっくりと眺めた。
「……エリック・ウォーカー……。この会社、日本では、評判が悪いな。金になりそうだと思えば、手当たり次第に買収攻勢に出て、経営を脅かしているだろう」
「俺たちに付けいる隙を与えるほうが悪い。大事に育ててきたものなら、最後まで守りきらないと、意味はない」
 嫌悪を露わにするかと思ったが、男もやはり唇に薄い笑みを浮かべた。
「同感、だな」
 名刺を持っていないという男は、あっさりと名乗った。
「――ジェイミー・グラハムだ」
 ここで握手のため手を差し出さなかったという点では、エリックと、ジェイミーと名乗った男とは気が合いそうだ。
 名乗り合ったところで、二人は顔を見合わせる。どうしてバーのカウンターで隣合ったというだけで、自分たちが自己紹介することになったのか、その理由が一瞬思い出せなかったのだ。
 ほぼ同じタイミングで、二人の色の違う瞳が雑誌に向いた。
「このモデル、タイプか?」
 前置きのないエリックの質問に、ジェイミーは不快そうに細い眉をひそめる。
「広告をじっと見ていたら、そこにモデルが写っていたら、タイプになるのか?」
「何か、思い入れがあるように見えたからな」
「……このモデルは、どこから見ても男だろ。わたしも男だ。お前の目にどう見えるのか知らないが」
 ここぞとばかりにエリックは、言葉で切り込んだ。
「このユーリというモデル、男の恋人がいるんだろ。しかも、一緒に暮らしている」
 エリックのどの言葉に反応したのか、ジェイミーは初めて人間らしい変化を見せた。白い顔がさらに白くなり、アイスブルーの瞳を強張らせたのだ。
「――……そうか、あの二人、一緒に住んでいるのか……」
 ジェイミーのこの呟きは英語だった。しかしエリックが気を留めたのは、呟きの内容だ。モデルも、その恋人も知っている口ぶりだ。
 どっちの知り合いだ、とエリックは心の中で呟く。
 エリックの鋭い眼差しに気づいたように、ジェイミーがこちらを見た。エリックはさり気なく視線を逸らし、出されたオードブルに手をつける。
 サーモンのマリネをフォークの先で突きながら、世間話でもするような口調で言った。
「――で、どっちとつき合っていたんだ」
 少し乱暴にジェイミーがグラスを置く。視界の隅でそれを捉えたエリックだが、次のジェイミーの行動は予想がつかなかった。
「おい」
 ジェイミーに呼ばれて、エリックは何げなく顔を上げる。すかさず、平手で頬を鋭く打たれた。
 わずかに顔をしかめたエリックは、知り合って三十分もたっていないというのに、自分をひっぱたいてくれた相手を睨みつける。
 しかしジェイミーはエリックを一瞥もせず、席を立って帰る準備を始めている。その、澄ましたきれいな顔が、心底むかついた。一瞬、エリックの脳裏を過ったのは、桐山が寄り添うようにつき従っている、桐山の『飼い主』の顔だ。
 ジェイミーとは、色彩も顔立ちも何もかもが違うというのに――。
 エリックの頭に、カッと血が上る。
「待て」
 すかさず立ち上がったエリックは、ジェイミーの肩を掴んで引き寄せると、白い頬を鋭く打ち返した。
 まばゆいほどの金色の髪が乱れ、その下からアイスブルーの瞳が覗く。苛烈な眼差しに、なぜかエリックは怯んでしまっていた。
 肩を掴んでいた手の力を緩めると、ジェイミーは殴られたことなど微塵も感じさせない足取りで歩いていき、精算を済ませると振り返ることなく店をあとにした。
 カウンターに残されたエリックは、自業自得とはいえ、周囲からの居心地の悪い視線に晒されることになる。
 しかしここで、自分も店を出るという選択肢はエリックにはない。
 頬の痛みをあえて無視して、オードブルを平らげると、グラスに残っていたスコッチを飲み干してから、再び雑誌に視線を落とす。
 艶やかに挑発的に笑う青年の写真を眺めながら、エリックは小さく独りごちた。
「……あの反応だと、どっちと、どんな関係だったのかわからんな」




 仕事の切れ間を見つけたエリックは電子手帳を取り出し、ある電話番号を見つけ出すと、さっそく受話器を取り上げてかける。
 手早く用件を告げ、さっさと電話を切ったエリックは立ち上がる。
「コーヒーを飲んでくる」
 誰ともなく告げ、忘れず携帯電話もスラックスのポケットに突っ込む。
 オフィスを出てエレベーターホールに向かうと、ボタンを押す。さほど待つことなく扉が開き、中にはダグラス一人が乗っていた。
 エリックを見ると、愛嬌のある顔がにんまりと笑いかけてくる。
「珍しいな、お前がコーヒーを奢ってやると言い出すなんて」
「いいバーを紹介してくれた礼だ」
 そう答えてエレベーターに乗り込むと、扉を閉める。
 ダグラスは、同じビル内にある別の外資系企業で勤めるビジネスマンだ。
 まだ日本に来て間もないエリックに、お節介にもいろいろと話しかけてきてからのつき合いだ。基本的に人間と関わるのが好きなのだろう。
 それは別にいいが、自分がエリックよりわずかに年上で、日本での滞在歴が長いからといって、先輩風を吹かすのはどうかと思う。
 しかも会話は、日本語を好む。つき合わされるほうは、いい迷惑だ。
「――で、あの店に行ったんだってな」
 ビルの一階にあるコーヒーショップに入り、並んでコーヒーを啜り始めると、ダグラスが切り出した。
「ああ……。今の会社に出戻って、日本にいるのも長くなりそうだから、そろそろ気に入った店というのを見つけておこうと思ってな」
「気取ってない店だから、居心地がいいだろ。そう騒々しくもないし。俺は最近、仕事が忙しくてなかなか行けないけどな」
 エリックはカップの中に視線を落としながら、ポケットの中で震え出した携帯電話の電源を手さぐりで切る。
 ゆっくりコーヒーも飲めないと、今の会社に文句を言う無益さはわかっている。電源を切ってしまうのが一番楽だ。
「……あんたのことだ。あの店のことは、いろんな奴に紹介しているんだろ」
「いや、そうでもない」
 どういう意味か、ダグラスはニヤリと笑う。
「日本にいて、なかなか友人のできなさそうな奴にだけ、紹介しているんだ。友好的な奴は、だいたい自分で気に入りの店を探すか、俺以外の人間に紹介してもらっている」
「ボランティア、というわけか」
 ダグラスの答えが気に入り、エリックは声を洩らして笑う。
「で、そんなことが聞きたくて、俺にコーヒーを奢ってくれたのか」
 まさか、と応じて、エリックはコーヒーを一口啜る。
「あの店の常連のあんたなら、知っているかと思ってな」
「なんだ」
「客のことだ。金髪に青い瞳――」
 エリックがここまで言ったところで、ダグラスは肩をすくめる。
「そんな客、あのバーにどれだけいると思ってる。それでなくても外国人ビジネスマンの客が多いんだ、あそこは」
「――インテリっぽくて、愛想がない」
 最大の特徴を告げると、ダグラスが初めて真剣な顔をして、身を乗り出してきた。
「もしかして、本を読んでなかったか」
「雑誌なら読んでいた」
「……もしかすると……」
「ジェイミー・グラハムと名乗った」
 呆れたようにダグラスがため息をつく。
「そういう大事なことは先に言え」
「知っているのかっ?」
「ああ」
 ムキになって反応したエリックだが、軽く咳払いをして、いつもの自分を取り戻す。
 たまたまバーで隣り合い、そして殴り合った相手だ。本来であれば、会いたくないどころか、思い出したくもない。
 しかしそうもいかないのは、そのジェイミー・グラハムという男が、桐山たちの側にいる人間と繋がりを持っているようだからだ。
 使えるものはなんでも使うのが、エリックの仕事のやり方だ。きれいや汚いなど、手段を選んだことは一度もない。
「――……ジェイミーと何かあったのか」
 そう聞いてから、ダグラスが豪快にベーグルにかぶりつく。エリックは無意識に、昨夜ジェイミーにひっぱたかれた頬を撫でる。
「別に。ただ……何者かと思ってな」
「美人だろ」
「はあ?」
 エリックは眼差しを鋭くして、横目でダグラスを睨む。ニヤリと笑ったダグラスはコーヒーを飲んだ。
「安心しろ。俺は他人の性癖に口出しする気はないから」
「……俺は、違うぞ」
 一瞬、エリックの脳裏を過ったのは、桐山と本澤朋幸が寄り添う姿だった。漠然と、あの二人の間にあるのは単なる主従関係ではないと感じている。だからこそ、こうも苛立つし、二人の関係を潰したくなるのかもしれない。
 それは認めるが、自分まで同類に見られるのは心外だ。
 女に興味があると断言するのも抵抗あるが、同性にも興味はない。ようはエリックは、人間そのものに関心が薄いのだ。
「ダグラス、好きなだけベーグルでもコーヒーでも奢ってやるから、早く教えろ」
 ダグラスはあっという間にベーグルを食べてしまうと、紙ナプキンで指先を拭う。
「何が聞きたいんだ。俺がジェイミーのことで知っているのは、大学の講師をしていて、潔癖症で、それと……、いい奴だ。お堅いが」
「よく一緒に飲んでるのか」
「ああ、半年ぐらい前までな。今はほとんど顔を合わせない。意識して、向こうが曜日や時間帯をずらしているんだろ」
 ダグラスは少しだけ寂しそうな顔をした。陽気な男には珍しい表情だ。しかしエリックには、感傷につき合ってやる暇はない。
「一緒に飲まなくなった理由は――何かあるのか?」
「いろいろ、な。俺もその辺りの詳しいことは知らない。尋ねなかったしな。とにかく、俺たちが一緒に飲んでいるとき、ジェイミーともう一人の奴の間には何かがあった」
 これが最後の質問だと思いながら、エリックはテーブルにわずかに身を乗り出し、声を潜める。
「……奴、というのは?」
「お前に言ってもわからんだろ。ロベルトという、イタリア人だ。派手でよくしゃべる、色男」
 繋がった――。
 エリックは心の中でそっとほくそえんだ。









Copyright(C) 2008 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[--] << Text >> [02]