腕組みした富樫は、低く一声唸る。すると、正面のイスに腰掛けた速水が、箸を止めて心底嫌そうな顔をした。
「……富樫、お前ね、人がこれから楽しく食事しようかというときに、地獄の底から響いてくるような声を出すなよ。食う気が失せるだろ」
客のくせに図々しい速水を睨みつけると、まったく堪えてないらしい。速水は平然とした顔で味噌汁に口をつけた。どうやら食欲は失せなかったようだ。
そもそも速水は、富樫が睨んだぐらいでどうにかなるような繊細な神経の持ち主ではない。大学時代からふてぶてしい性格をしていたが、外見だけはスマートなので、大半の人間は、紳士的な男だと思い込んでしまうのだ。
速水の華々しい性遍歴と蛮勇を聞いたら、おっとりして純情な広己と、その弟の高己は、赤面するどころの騒ぎではないだろう。
そんな『物騒な男』が、なぜ自分の家を出入りして、こうしてメシまで食って寛いでいるのか――。
富樫がいっそう眉間の皺を深くすると、焼き魚の身をきれいに解しながら速水が言った。
「残念だよなー。せっかく広己くんの顔を見に来たのに、まだ大学から戻ってないなんて。お前の仏頂面を見ながらメシを食っても、美味くない」
「嫌なら食うな」
「魚に罪はないから、食わないと勿体ないだろ」
組んだままの腕をピクリと震わせた富樫に、上目遣いで見上げてきた速水がニヤリと笑う。
「まだ八時を少し過ぎたぐらいだだろ。そんなにイライラするようなことか?」
「うるさい。いつもなら、とっくに広己は帰っている時間だ」
そう、いつもならとっくに大学から戻ってきている広己が、今日に限ってまだ帰宅していないのだ。大学に通い始めてそろそろ数か月が経つが、こんなことは初めてだった。だから富樫は心配している。
挙げ句に、こんなときに限って、速水がふらりとやってきて、なぜか富樫の前でメシを食っている。
速水が言うには、富樫に会いに来たわけではなく、『可愛い』広己の顔を見に来たのだそうだ。言われるまでもなく、そんなことは富樫はよくわかっている。
富樫の気持ちも知らず、煮物の芋に箸を突き刺すという行儀の悪いことをしながら、速水はニヤニヤと笑っていた。
「もしかしてお前、広己くんに門限とか言いつけてあるわけ? まさかなあ、大学生になったっていうのに、そんなもの――」
「……門限を作ったら、悪いか」
ぼそりと富樫が応じると、大仰に速水が目を見開く。色男の顔に味噌汁をぶちまけてやりたい衝動に駆られるが、大人げないので我慢する。
箸を置いた速水は、頬杖をつきながら意地の悪い表情を浮かべた。
「富樫、お前、自分が大学行ってる頃、門限なんてあったか?」
「お前が何を言いたいかはわかる。だがな……、ここは田舎で、夜になると帰り道が真っ暗になるんだ。だから、門限を作った。電車もなくなるし、広己は駅からここまで、自転車で通っているから、夜遅くなると危ない。駅まで迎えに行ってやると言っても、遠慮して頷かないしな……」
「はいはい、過保護だねー」
たまらず富樫は、おもしろがっている速水の頭を平手で引っぱたこうとしたが、素早く頭を後ろに引いて逃げられた。
「きゃー、富樫先生、凶暴っ」
気色の悪い声を上げる速水を相手にする空しさに気づき、組んでいた腕を解いた富樫は立ち上がる。
普段は遠慮して、滅多に広己の携帯電話に連絡したりしない富樫だが、今夜ばかりはそうも言っていられない。帰り道の途中で事故にでも会って動けないのではないかと考えると、じっとしていられなかった。
子機を取り上げた富樫の行動の意味を察したのか、呆れたように速水が息を吐き出した。
「もう少し待ったらどうだ。大学生なりに、帰りが遅くなる――いやまあ、遅くはないんだが、事情だってあるだろ、広己くんにも」
子機のボタンを押そうとした富樫は、速水に視線を向ける。
「……どんな事情だ」
途端に、速水はニヤリと笑う。聞かなければよかったと富樫が後悔したが、すでに速水の口は止められなかった。
「――合コンとか」
「広己は未成年だ」
「あー、そうだなー、俺たちの大学時代は清く正しかったよな?」
速水に引っ張り回されて、自分がどんなことをしていたか思い出した富樫は、思わずこめかみを指で押さえる。
「別に酒も煙草もやらなくても、合コンは楽しめるだろ。気に入った子さえいれば。広己くんの場合、どう考えても、気に入られることのほうが多そうだけど」
「お前は……、今すぐこの家から叩き出されたいのか」
苦々しい顔をする富樫とは対照的に、速水は実に楽しそうだ。速水が広己と仲がよくなければ、本当に叩き出したいところだが、それを知った広己がどんな顔をするのか容易に想像がつくので、忌々しいが実行に移せない。
「まあ、友達とメシでも食ってるのかもしれないな。広己くんはおっとりして優しいから、強く誘われると断れないだろ」
「だったら連絡ぐらい――」
ハッと我に返った富樫は、ようやく子機に視線を戻し、広己の携帯電話にかけようとする。そんな富樫の様子を眺めながら、しみじみとした口調で速水が言った。
「なんというか、『お父さん』って感じだな、富樫。あまりの甲斐甲斐しさに、見ていて涙が出そうになるぜ」
「……お前は、本当に……」
子機を片手に、富樫は速水を捕まえようとしたが、素早く立ち上がって逃げられる。
「待てっ」
「大人げないぞ、富樫。痛いところを突かれたからって、怒るなよ」
「お前の減らず口に怒ってるんだっ」
いい年をした男二人で家中を駆け回っていると、玄関のほうで物音がした。片手で掴んでいた速水の腕をパッと放した富樫は、慌てて玄関に向かう。
そこには、ドアを閉め、鍵をかけようとしている広己がいた。富樫の勢いに驚いたように目を丸くしている様子を見て、一気に体の力が抜けた。
「富樫先生、どうしたんですか、片手に子機を持って……」
広己の言葉にようやく富樫は、自分が握ったままの子機の存在を思い出す。
「いや、これは――」
なんとか誤魔化そうとしているところに、わざとらしく息を弾ませた速水までやってくる。広己の顔を見るなり、実に嬉しそうな顔をした。
「おかえり、広己くん」
「ただいま……です」
富樫は速水を押し退けると、さっそく帰りが遅かった事情を広己に尋ねる。すると、返ってきたのは拍子抜けするような言葉だった。
「朝行くときに、自転車がパンクしたんです。それで帰りに、自転車屋さんを探してたんですけど、なかなか見つからなくて、それに道に迷って……。結局歩いて帰ったんです」
ぶはっ、と噴き出したのは速水だ。自分が笑われたと思ったらしく、広己は恥ずかしそうに視線を伏せた。
「まだ、駅の周囲の道はよくわからないんです。だけど、こんなことで富樫先生に電話するのも恥ずかしくて」
「違う、違う。広己くんのことを笑ったんじゃなくて、富樫のさっきまでの態度を思い出して、おかしくなったんだ」
「お前は余計なことを言うなっ」
富樫は必死になって速水の首に腕を回し、これ以上しゃべらせないまないとするが、速水はかまわず広己に何か言おうとしている。
格闘する男二人の様子を、目を丸くしたまま見ていた広己だが、毒気が抜けるような笑顔を見せながら、楽しげにこんなことを言った。
「――本当に、富樫先生と速水さんは仲がいいですね」
広己の無邪気な言葉に、一気に富樫は脱力する。違う、と否定する気力も根こそぎなくなっていた。そんな富樫の隣で、速水は腹を抱えて爆笑している。
今このときほど、速水を殴りたいと思ったことはないが、ニコニコしている広己を見ていると、到底、目の前で暴力行為に及ぶことはできなかった。
あとで覚えていろと速水に対して思いつつ、富樫は優しい表情で広己に手招きした。
とにかく、無事に広己も帰宅したのだから、まずは三人揃っての夕食だ。
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