ここしかない場所 [Extra 02] Clap  



 突然やってきた高己の顔を見て、兄の広己は目を丸くした。
「高己、どうしてっ――」
「引っ越しの片付けも落ち着いたって聞いたから、そろそろ遊びに行っても大丈夫かなあ、と思って」
 そう言ってバッグを差し出すと、条件反射のように広己は受け取る。次の瞬間には困惑の表情を浮かべ、靴を脱ぐ高己に遠慮がちに聞いてきた。
「でもお前、母さんにはなんて言ってきたんだ」
「兄貴のところを遊びに行くって、正直に言った。それに、いまさら母さんや父さんも、こっちに顔を出しにくいだろ? だから俺が、兄貴をお願いします、って富樫先生に挨拶しておこうかと思って。ちょうど今、俺も春休みだし」
 今日は泊まるから、とも付け加えると、広己は呆れつつも頷き、高己を手招きした。
 広己のあとをついて歩きながら、高己は家の様子を観察する。兄が実家よりも大事なところとして選んだ場所だ。そしておそらく、兄はこの家の人間として生きていくことも心に決めたはずだ。
 どういうところなのか、弟としてはしっかり見極めておく必要があった。
 ふらりと家からいなくなった広己が、ほんのわずかな期間で何を経たのか高己は知らない。ただ確かなのは、広己は一年の寮生活を終えて高校を卒業したあと、看護師を目指すため大学に入り、富樫という医者の元に再び、今度はきちんと両親を説得して身を寄せた。
 弟としては、多少寂しい想いがあるのだ――。
 高己は、広己に気づかれないよう、そっと息を吐く。
 ダイニングに入ると、イスに腰掛けた富樫がいた。広己が入院していたとき、一度だけ顔を合わせたことがあるが、こうして向き合うのは初めてだ。
 一見して迫力があり、イイ男なだけに、怖くてぶっきらぼうな印象もある富樫だが、少なくとも広己に対しては違うらしい。
 申し訳なさそうに事情を説明する広己に、かまわないと笑って言う表情はひどく優しい。まるで宝物を愛でるように兄貴を見るんだな、というのが高己の率直な感想だ。
 高己が挨拶すると、好きなだけいればいいと富樫は言ってくれた。
「あっ、そういえば、速水先生に知らせたんだ」
 母親から言付かった土産をバッグから出しながらの高己の言葉に、広己はきょとんとした顔をする。こういう無防備な表情は、実家にいる頃は見せなかったものだ。
「何を?」
「今日、兄貴に会いに富樫先生の家に行くって」
 ここでなぜか、広己と富樫が顔を見合わせる。広己は楽しそうに唇を綻ばせているが、対照的に富樫は、苦虫を噛み潰したような顔となる。二人の間に流れる微妙な空気を感じ取り、高己は慌てた。
「えっ、あれっ、俺なんか、悪いことした?」
「……気にしなくていい」
 そう言ったのは富樫だが、表情を見る限りでは、到底その言葉を信じる気にはならない。広己のほうはクスッと笑って言った。
「ご飯、多めに作らないといけませんね」
「またあいつは、押しかけてくるのか」
 この会話の意味を、高己は夕方、知ることになる。


「こうも頻繁に来てると、まるで富樫の家が、もう一つの我が家のような感覚になるな」
「……甚だ、嫌な感覚だな」
「素直に喜べよ」
「素直に、迷惑だ」
 嵐のように突然やってきた速水は満面の笑みを浮かべ、一方の富樫は、これ以上なく不機嫌そうだった。
 そんな二人のやり取りを眺めながら、高己は隣の広己にこそっと話しかける。
「あれ、大丈夫なの? なんか今にも、殴り合いを始めそうな感じだけど……」
「本当は仲いいんだよ、富樫先生と速水さん。あれはいつものことだから、二人にとっては挨拶みたいなものなんだと思う」
 そうかなあ、と高己が口中で呟いたとき、速水がパッとこちらを見る。ものすごくハンサムな医者の速水は、高己の中では、『変わり者』の『いい人』という分類がされている。なんといっても、入院して精神的に参っていた広己を立ち直らせてくれた人だ。心療内科医としても優秀なのだろうと、高己は尊敬すらしていた。
「高己くん、連絡ありがとう」
 突然速水に礼を言われても、素直に高己は頷けない。昼間の富樫の様子を見ているからだ。
「いや……、俺、余計なことしたかなって……」
 ちらりと富樫を見ると、速水はその富樫の肩を遠慮なしに叩いた。
「あー、こいつの態度は気にしなくていいから。嬉しいくせに、こういう素直じゃない態度を取るんだ。広己くんは歓迎してくれるっていうのに、大人のこいつのほうは――」
「あまり余計なことを言うと、叩き出すぞ」
 はいはい、と返事をした速水は、手土産に持ってきたというデザートを広己に差し出した。広己は礼を言って頭を下げ、高己もワンテンポ遅れて頭を下げる。
「でも速水さん、この間も来てくれたのに、仕事は大丈夫ですか? ここまで車で運転してくると、疲れるでしょう」
 広己の言葉に、速水は嬉しそうに目を細める。
「可愛い君の顔を見るためなら、車の運転ぐらい、苦労のうちに入らないね」
 聞いていて高己のほうがドキリとしてしまう言葉だが、広己のほうはなんでもないことのように笑っている。どうやら、言われ慣れているらしい。
「相変わらず楽しいですね、速水先生」
「君はそう言ってくれるが、この男は、うるさい、と言いたげな顔で睨んでくるんだよね」
 『この男』とは、キッチンに立っている富樫だ。肩越しに振り返り、速水に鋭い視線を向けている。
「……広己、夕飯を作るのを手伝ってくれ」
 速水から遠ざけるためか、富樫がそう声をかけ、頷いた広己はシャツの袖を捲り上げる。
 高己は、キッチンに並んで立った広己と富樫の和やかな様子を眺めながら、テーブルに頬杖をつく。
 他人と一緒に暮らし始めたばかりだというのに、広己が寛いでいるのは明らかだった。一年間の寮生活を体験したせいもあるだろうが、それよりも、この家の居心地が大きいのだろう。少なくとも実家にいるときは、広己はこんなに楽しそうではなかった。いつも息を潜めて、心はどこか別の場所にあるように見えたのだ。
「――寂しい?」
 ふいに声をかけられ、高己は目を丸くする。慌てて姿勢を直して速水を見た。
「えっ」
「なんか、寂しそうに広己くんのことを見てたから」
 優しい目をした速水に言われ、知らず知らずのうちに高己の頬は熱くなる。
「そう、ですか?」
「初めて君たち兄弟が一緒にいるところを見たときも思ったけど、君は広己くんのことをお兄さんというより、保護すべき相手として扱っているよね」
 優秀な心療内科医の目は侮れない。高己は視線をさまよわせてから、もう一度、キッチンに立つ二人を見る。思い切って立ち上がった。
「兄貴、ちょっと散歩してくる」
「あっ、俺も」
 速水も立ち上がると、富樫は冷めた視線で言い放った。
「お前はそのまま帰っていいぞ」
「あはは。心にもないこと言うなよ、富樫」
「……打たれ強いですね、速水先生って……」
 高己がぼそりと洩らすと、速水の手が肩にかかって促される。このとき、富樫が物言いたげな表情をしたのが印象的だった。高己に何か言おうとして、ためらったという感じだ。それに、ダイニングを出るときに浮かべていた、心配そうな表情も気になる。
 外に出ると、速水に促されるまま海のほうへと向かって歩き出す。
「――ありがとうございます」
 暗い砂浜を歩きながら、高己は口元に笑みを浮かべて言った。隣を歩く速水は澄ました顔で首を傾げる。
「何が」
「俺が居心地悪い思いをしないようにと思って、今日来てくれたんですよね」
「さあ、どうかな。俺は富樫の家に遊びに行くのが好きなだけかも。からかうと楽しいんだ、あの男は」
 それは確かにあるかもしれない、と高己は心の中で納得する。
「速水先生には感謝してるんです。兄貴が寮に入っている間、ずっと支えてくれていたし、兄貴だけじゃなく、俺の話も聞いてくれて」
「若い子の話を聞くのが好きなんだ。迷って、悩んで、それを見事に吹っ切る様が、とてもきれいに感じられてね。いい大人に育ってくれるといいなあ、と考えていると、俺まで元気になる」
「それ、兄貴のことですね」
「いやいや、君もなかなか」
 高己はまだ熱い自分の頬を撫で、足を止める。この砂浜に広己が倒れていたことですべてが始まったのだと思うと、なんだか感慨深い。
「……俺は家の中で、兄貴を支えてやれなかったことが、ずっと気になってたんです。結局兄貴は、他人の――富樫先生に助けを求めた。しかも、会ったばかりの人だ」
「心の中でわだかまりになってた?」
「ちょっとだけ、富樫先生がどんな人なのか値踏みしてやろうって気持ちがあったんです、ここに来るまで。兄貴が無条件に信頼している人のことを、そんなふうに思ってました」
 嫌な話をしているのだが、相変わらず、高己を見る速水の目は優しい。高己の気持ちはすべてわかっていると言われているようだ。
「電話で話していればわかるんだけど、実際見ても、兄貴は……すごくいい感じでした。富樫先生の側で、思いきり安心しているっていうのかな」
「弟としては、複雑な心境?」
 高己はちらりと苦笑して、首を横に振る。電話で広己の声を聞くたびに、速水が言うような気持ちにはなっていたが、今は違う。
「よかった、と思います。俺も、肩から力が抜けたっていうか」
「それはまさしく、保護者の心境だ。大事な人を安心して託せる場所を見つけられて、君は納得したんだ。これからは、純粋に弟としての立場を楽しめるんじゃないか」
 自分の中にあったモヤモヤとした気持ちは、速水の言葉で浄化されるようだった。形を持たなかった感情が、速水によって明確な輪郭を与えられたのかもしれない。
「それとも――」
 ぐいっと速水に肩を抱かれ、顔を覗き込まれる。速水は、年上とは思えないイタズラっぽい表情を浮かべていた。
「大事なお兄ちゃんを取られて、やっぱり寂しい、かな?」
 笑いかけた高己だが、それができず唇をわずかに歪める。
「やだなあ……。速水先生と話していると、なんでもお見通しで。俺のこと、単純だとか思ってるでしょ?」
「まさか。可愛いなあ、とは思ってるけど」
 速水の『冗談』に高己は声を上げて笑い、来た道をのんびりとした歩調で引き返す。
「――速水先生、俺は、兄貴が楽しそうに暮らしているなら、それでいいんです。いや、もっと簡単かな。……兄貴が笑っているなら、俺は嬉しい」
 背後から伸びてきた手に、ポン、ポンと軽く頭を叩かれる。速水はひどく優しい声で、こう言ってくれた。
「いい子だ。君も、広己くんも」
 その言葉に涙が出そうになったが、なんとか高己は、笑って速水を振り返ることができる。
 砂浜を出た先には、広己が笑って待っていた。










Copyright(C)2007 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[01]  kokoshikanaibasyo  [03]