ここしかない場所 [Extra 03] Clap  




 目が覚めたとき、広己は全身にじっとりと嫌な汗をかいていた。寸前まで感じていた、体を押し潰されそうな圧力が指先にまで残っており、呼吸が速くなっている。
 どれだけ今、精神的に落ち着き、満ち足りた生活を送っていても、過去に体験した苦しさは記憶から消えることはない。それがときおり、なんの前触れもなく夢となって蘇る。
 広己は布団の中で寝返りをうち、体の強張りを解こうとするが、自分のすぐ背後に黒い影が取り憑いているようで、たまらなく怖かった。
 寮生活を送っている間も、こんなことは何度かあった。そのたびに広己は、朝までじっと布団の中で体を硬くして、夜が明けるのを待っていた。
 ただ、富樫の家で暮らすようになってからは、この状態になるのは初めてだ。
 慣れているから耐えられる、と自分に言い聞かせられたのはわずかな間だった。広己は暗闇の中で目を凝らし続けていたが、とうとう覚悟を決めてベッドから出る。
 慎重な足取りで部屋を出ると、手探りで壁に触れながら富樫の部屋へと向かった。さすがにもう、富樫の部屋の電気は消えている。
 閉められたドアの前で一分ほど逡巡してから、広己はそっとドアを開け、体を滑り込ませる。カーテンの隙間からわずかに差し込む月明かりのおかげで、ベッドの上で眠っている富樫の姿を見ることができた。
 広己は静かにベッドに歩み寄ると、これ以上なく気をつかいながら、布団の中に潜り込む。すぐに、富樫が吸う煙草の香りがふわりと広己を包んだ。
「……どこの猫が潜り込んできたのかと思った」
 少し寝ぼけたような、だけどとても優しい声をかけられ、同時に強い力で広己の体は引き寄せられる。煙草の香りだけでなく、高い体温が広己を包み込んでくれた。
 それを認識した途端、広己が背後で感じ続けていた黒い影が遠ざかっていくようだった。背を抱き寄せてくれる富樫の腕に促されるように、広己も富樫の広い背に両腕を回してしがみつく。
「少し脈が速いな。怖い夢でも見たか?」
 髪に唇を押し当てた富樫に言われ、逞しい胸に顔を埋めながら広己は頷く。富樫に限って、子供みたいだと笑ったりはしない。
 広己を落ち着かせるように、富樫の大きな手は何度も、背や髪を撫でてくれる。そのたびに不安が吸い取られていくようで、広己はゆっくりと体から力を抜いていく。
「何か心配なことでもあるか?」
「違います。ただ、ここに来る前のことを思い出して……」
「胃は痛くないか?」
 かけられる優しい言葉そのものよりも、富樫が話すたびに体を通して伝わる震動が心地いい。そこに富樫の鼓動が重なると、自分は守られているのだと、広己は強く実感できる。
「おい、もう寝たのか?」
 軽く体を揺すられ、やっと広己は顔を上げる。思いがけず真剣な顔をした富樫と目が合い、その表情につい嬉しくなって、微笑み返す。
「機嫌は直ったか?」
 やっと富樫も笑ってくれ、前髪を優しい手つきで掻き上げられる。
「……富樫先生に心配されて、嬉しくなったんです」
「なんだ、それ」
「ぼくのことを考えてくれているんだなあって、すごく感じます」
「当たり前のことを言うな。俺はずっと――お前のことを考えているぞ」
 片腕で頭を抱き寄せられ、額に富樫の唇が押し当てられる。反射的に目を閉じた瞼にもキスが落とされ、頬や鼻先にも唇が触れた。無意識に求めた場所にも、富樫の唇は触れる。
「んっ……」
 優しく下唇と上唇にキスされ、もう一度、今度は軽く吸われる。次のキスは熱っぽく。開いた唇の間から富樫の舌が入り込み、広己も素直に応じた。
 まるで広己をあやすように、丹念に口腔を舐められてから、ごく自然な流れで誘い出された舌をそっと吸われる。そんなキスの間も富樫の手はずっと、愛しげに広己の背を撫でてくれていた。
 穏やかで長いキスを終え、静かに唇が離されると、思わず広己は吐息を洩らす。その吐息に誘われるように、富樫に軽く唇を吸われた。
「もっと脈が速くなったな」
 からかうように富樫に言われ、全身が熱くなるのを感じながら広己は富樫の肩に額をすり寄せる。
 広己をしっかり両腕で抱き締めながら、富樫が囁くような口調で言った。
「――俺は、お前が抱えた不安な気持ちを全部吸い取ってやることができると思うか? 嫌な記憶を消してやることはできないが、お前が嫌な思いをしなくて済むなら、いくらだって努力はするつもりだ」
 真摯な言葉に、広己は唇を綻ばせる。
「ぼくが不安なとき、こうして抱き締めてくれるだけで、十分です。それだけで、嫌な気持ちが溶けてなくなっていくんです」
 そうか、と言った富樫の息遣いが耳に触れ、小さく身震いする。その反応を、富樫は別の意味に捉えたらしい。
「まだ怖いか?」
 富樫の声は、広己の中にある、甘えたいという心理を刺激する。広己は、寝ているところを起こしてしまって申し訳ないと思いつつも、おずおずと頷いた。
「怖い、です……」
 答えた次の瞬間、広己の体はベッドに押さえつけられ、富樫が覆い被さってくる。耳に唇を押し当ててきながら、富樫が苦笑交じりの声で言った。
「そのうちお前に、俺のほうが怖いって言われそうだな」
 広己は小さく笑い声を洩らすと、富樫の背に両腕を回した。


 翌朝、テーブルについた広己の体は、まるで宙に浮いているかのようにふわふわとした感覚に支配されていた。まだ、富樫に抱き締められているようだ。
 広己は眠い目を擦ってから、キッチンに立つ富樫に視線を向ける。いつもと変わらない後ろ姿だが、見ているだけで知らず知らずのうちに顔が熱くなってくる。
 富樫と交わした行為の一つ一つが鮮明に思い出され、恥ずかしさのあまり居たたまれない気持ちになる。自分から求めた、ということが、羞恥に拍車をかけるのだ。
 ここでたまらず、広己は口元に手を当ててあくびを洩らす。すると、冷蔵庫を開けていた富樫も、同じタイミングであくびをした。
 二人は顔を見合わせてから、照れたような笑みを交わす。
「講義中、居眠りするなよ」
「……富樫先生こそ、気をつけてくださいね」
 広己の言葉に、富樫は卵を手に難しい顔をした。
「保護者失格だな。自分の事情で、お前を寝かせなかったなんて」
「そっ、そんな、こと――」
 富樫は低く声を洩らして笑うと、広己の元に歩み寄ってきて頭を撫でる。思わず広己が顔を上げたところで、唇に素早くキスされた。
 目を丸くする広己に、何事もなかった顔をして富樫は尋ねた。
「目玉焼きは卵二つでいいか?」
「……はい」
 再びキッチンに立つ富樫の後ろ姿を見つめながら広己は、自分が少しずつ、今の生活に慣れてきていることを実感していた。キッチンに立つ富樫の姿が日常となり、その姿を見つめる自分に幸福を覚える。
 当たり前にある日常の幸福――。
 それを与えてくれるのは他でもない、富樫だ。
 広己はイスから立ち上がると、富樫の背後へと近づく。邪魔にならないよう、控えめに背に額を押し当てると、声に出さずに呟いた。
 大好きです、と。










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