ここしかない場所 [Extra 04] Clap  




「――はい、体調は大丈夫です。胃のほうも、なんともないですし」
 ベッドに腰掛け、両手でしっかり持った携帯電話を耳元と口元に押し当て、広己は優しい声での問いかけに真剣に答える。
 電話の向こうから伝わってくる気配は少しざわついていた。電話の相手である速水は、もうこの時間、病院での勤務は終了しているはずだ。どこか人の多い場所で、広己からの電話を受けているのだろう。
「あの、速水さん、やっぱり電話かけ直しましょうか?」
『平気、平気。せっかく君が電話をくれたのに。気にしなくていいよ。飲みに行こうと思って、街をふらついてるだけだから』
 速水の言葉を聞くと、自分が今いる場所とのギャップを実感する。まったく違う場所にいるというのに、速水がいるところもにぎやかだが、実はこちらも、にぎやかだ。
 広己が季節外れの転入生として入った高校の寮は、一応個室とはなっているが、バス・トイレ・洗濯機は隣室と共有となっている。つまり、2DKの部屋を二人で使う形になっているのだ。
 それでも、勉強や寝るときは人目を気にしなくていい分、精神的にはいくぶん楽だ。ただ、同世代の少年たちが集まって生活しているだけあって、壁の向こうの廊下は、就寝時間となって自分たちの部屋に入るまでにぎやかだ。
 これまでの高校生活では、学校さえ出てしまえば他人の気配を気にしなくて済んだが、寮生活ではそうもいかない。それでも、寮に入って半月ほど経つが、苦痛というほどではなかった。もちろん、居心地がいいわけではないが――。
『広己くん?』
「あっ、はい、聞いてます」
 速水が微かに笑って気配がする。見えるはずもないのに、思わず広己は首を傾げた。
「どうかしましたか?」
『いや、君と電話したあと、俺はすぐに富樫に連絡するのかと思ったら、おかしくてね。自分から連絡してくるようなマメな男じゃないのに、君のことになると、まるで別人だ。広己と何を話した、何か変わった様子はなかった、きちんと食事はしてるのか――。こんな感じで、君の様子を聞きたがる』
 速水の言葉を聞きながら、自然に広己の唇は綻ぶ。寮に入っている間は、自分の中の衝動が歯止めを失わないよう、富樫の声は聞かないと決めているのだが、その決意があっさり揺らぎそうになる。
「……富樫先生、元気なんですね」
『元気、元気。あいつは頑丈な男だよ。だけど、君が恋しくてたまらない様子ではあるな』
 からかわれているとわかっていながらも、広己の頬は熱くなる。
 このとき閉めたドアの向こうで、洗濯機のブザーが鳴る。広己の洗濯が終了したのだ。携帯電話を耳に当てたまま立ち上がると、そっとドアを開ける。隣室の住人は他の部屋に遊びに行ったまま、まだ戻ってきてないようだ。
 それを確認した広己は部屋を出ると、洗濯機から素早く自分の洗濯物を取り出してカゴに入れ、そのまま共有部分のベランダへと出た。山の上にある学校と寮なので、昼間は見晴らしがいいのだが、日が落ちると周囲は真っ暗で、ほとんど何も見えない。
 湿気を含んだ生暖かな風が吹き、広己の髪を揺らした。
『――友達はできた?』
 優しい笑みを浮かべているのだろうなと容易に想像できる穏やか声で、速水が尋ねてくる。広己はカゴを足元に置くと、手すりにもたれかかった。
「まだ、です……。それでなくてもぼく、三年の中途半端な時期に転校してきたから、変な注目の浴び方してるんです」
『まさか、イジメられたりとかはしてないだろうね』
「それは大丈夫ですっ。……クラスの人や、隣の部屋の人は、むしろ気をつかってくれているぐらいで。だけど、ぼくはそんなふうにかまわれたことがないから、どんなふうに返せばいいかわからないんです」
 速水に心配はかけまいと思い、半月間はこんなことは言えなかったのだが、さすがに広己も焦っていた。このままの状態なら、前にいた高校での自分の状況と同じだ。それでは、なんのために学校を替わったのかわからない。
 広己としては必死の思いでの相談だったが、相変わらず、電話越しに返ってくる速水の声は優しい。
『難しいことじゃないだろ。君は、さんざん富樫や俺にかまわれたけど、きちんと応えていた。可愛く笑ってくれていただろ』
 こういう言葉がさらりと出てくるのは、さすがに速水さんだ――。
 広己は妙なことに感心してしまう。
「……でも、富樫先生も速水さんも大人だから、ぼくも甘えていられたんです」
『変わらないよ。大人だろうが、君と同世代だろうが。いきなり打ち解けろなんて言わないから、せめて、お礼を言うことと、笑いかけることから始めたらどうかな。別に媚びろって意味じゃなくて、広己くんの素直な気持ちを、少しだけ表に出してみるんだ』
 それだけのことでいいのだろうかと思いながらも、速水に言われると、不思議と自分にもできそうな気持ちになる。
「がんばって、みます……」
『あはは、いいなあ。その悲壮な返事。まあ、肩から力を抜くぐらいでちょうどいいよ。君はまじめすぎるから。高己くんも、広己くんのそんなところを心配してたよ』
 広己は目を丸くする。速水の口から、高己の話題が出たのが意外だったのだ。
「速水さん、高己と話したんですか?」
『高己くんが病院に来てくれたんだ。お互い、君を心配しているという点で、歳は離れていても、妙に仲間意識が芽生えてね。それからよく連絡を取り合ってるんだ。――見た目は似てないけど、素直なところはよく似てるよ、君と高己くんは。だから話していて楽しい』
「すみません。兄弟でお世話になって……。高己と電話で話しても、そんなこと教えてくれなかったから、びっくりしました」
『高己くん、夏休みのことを気にしてたよ。寮は閉まるんだろ。家に戻るのかな?』
 広己は真っ暗な景色を見下ろしながら、片手で手すりを握り締める。富樫だけでなく、高己にも速水にも会いたい気持ちは強い。だが、転入してからさほど間が経たないうちに突入する夏休みに合わせて実家に戻っていては、なんのために寮に入ったのかわからない。
 そのため広己は、夏休みをどう過ごすか考え、両親にあることを頼んであった。
「――夏休みの間、予備校の夏季講習と夏季合宿を参加することにしたんです。親に頼んで、もう申し込んでもらいました。将来、就きたい仕事があって、そのために勉強したいんです」
 速水が深いため息をつき、一瞬広己はドキリとする。呆れられたかと思ったのだ。
『君の行動力には、ときどき驚かされるよ。こちらが思っているよりずっと大人の面を見せられて、君を子供扱いしたことが恥ずかしくなる』
「そんな……」
『がんばるのはいいけど、無理はしすぎないように。それと、夏休みに入ったらせめて一度ぐらいは、高己くんに会ってあげるんだよ。君の可愛い弟なんだから』
 可愛い弟、という表現に、つい広己は噴き出してしまう。他人から見れば、きっと高己のほうが、しっかりした兄だと思うはずだ。
「はい、そうします。高己にも言われてるんです。夏休みに入ったら、絶対会おうって」
『じゃあ俺は、高己くんからそのときの様子を教えてもらうのを、楽しみにしよう』
 口調を真剣なものへと一変させた速水から、体調に気をつけるよう念を押されて電話を切った。
 広己はほっと息をつくと、畳んだ携帯電話をそっと撫でる。優しい想いを向けてくれている人の存在を実感して、心が潤っていくのがわかった。
 携帯電話をパンツのポケットに入れ、洗濯物を干そうとした広己は、このときやっと、自分以外の人の気配を感じる。パッと顔を上げると、開けたままのベランダの窓にもたれるようにして、広己の隣室の住人が立っていた。
「志摩くんっ……」
 思わず広己は大きな声を上げ、次の瞬間には口元を手で覆う。広己のそんな仕草を見て、志摩晶は笑った。
「大丈夫だって。他の部屋の奴らもまだ騒いでるから、多少大きな声出しても」
 サンダルを履いてベランダに出た志摩が、持っていた冷たい缶コーヒーの一本を広己に差し出してくる。意図を察しておずおずと受け取った広己は口を開く。
「あの、お金――」
「おれの奢り。いいもの見させてもらったし」
 そう言って志摩はニヤリと笑いかけてくる。
 よく笑う人、というのが、広己の志摩に対する第一印象で、半月間、隣室の住人として顔をつき合わせているが、今もその印象は変わらない。
 同じ三年生である志摩は、何かと広己の面倒を見てくれる。慣れない寮生活をサポートしてくれるだけでなく、クラスが違うにもかかわらず、よく教室にも顔を出しては、声をかけてくる。その志摩を通じて、クラスメイトたちとなんとか会話を交わせるようになったぐらいだ。
 並んで手すりにもたれかかって缶コーヒーに口をつけながら、広己は控えめに隣の志摩を横目でうかがう。
 どちらかといえば、童顔の部類に入るだろう。目鼻立ちのはっきりした、華のある可愛いと表現できる顔立ちをしており、体つきは広己と似て、中背でほっそりとしている。ただ、決定的に広己と違うのは、志摩からは眩しいほどの快活さが滲み出ており、性格も物怖じしないという点だ。
 学校や寮で、同級生だけでなく、下級生とも親しげに話している姿をよく目にする。そこにいるだけで嫌でも目を惹く志摩の存在感に、ときおり広己は、高己を思い出す。
 ただ広己は、そういう強烈な存在に、どうしても臆してしまうのだ。だから志摩に話しかけられても、うまく対応できない。志摩を不快にさせるのではないかと焦れば焦るほど、言葉が出てこなくなり、悪循環となってしまう。
 黙っていると、他の部屋や廊下からのにぎやかな声がよく聞こえてくる。
「――竹内って、電話してるときは感情が表に出てるよね」
 いきなり志摩に話しかけられ、広己は目を丸くする。そんな広己を見て、志摩はまた笑った。
「たまに、今みたいにベランダで電話してたり、部屋のドアを開けて電話してるときがあるだろ? そんなとき、ちょっとだけ中の様子を見てたんだ。あっ、盗み聞きしてるとかじゃないから。……楽しそうな顔で電話してるなあと思ってさ」
「……楽しそう、かな」
「電話していて楽しくない?」
 楽しい、と顔を伏せながらぼそぼそと広己は答える。
 こちらは志摩の気配に気をつかっているつもりだったが、実は、気をつかわれていたのは自分のほうだったのだ。そう考えているうちに、広己の顔はどんどん熱くなっていく。
「竹内って、きれいな顔立ちしてるから、ちょっと冷たく見えるんだ。それで、実は怖い人なのかなって身構えてたんだよ、おれ。だけど、電話してるときの表情見てたら、もしかして、人見知りが激しい人なのかな、って」
 そう? と問いながら、志摩が顔を覗き込んでくる。広己は視線をさまよわせ、頷く。
「あまり、人づき合いがうまくないんだ……」
「まあ、普通なら、人見知りしない人間でも、この状況はちょっと臆するよな。三年になって、新しいクラスにみんな馴染んだ頃になって転入してくるなんて。おかげで、竹内は一体どんな奴なんだって、みんなして、おれに聞いてくるんだ」
「あっ、ごめん」
 反射的に広己が謝ると、志摩は声を上げて笑いながらヒラヒラと手を振る。
「違う、違う。迷惑とかって話じゃないんだ。気になってるんだよ、みんな。だけど、竹内に気安く声をかけられる度胸のある奴がいないわけ。さっき言っただろ? きれいな顔してるから冷たく見えるって」
 広己は自分の顔にてのひらを押し当て、ため息交じりに呟いた。
「ぼく……、そんなに冷たく見えるかな」
「えー、いいじゃん。おれなんて、能天気そうって言われるんだぜ。バカっぽく見られるぐらいなら、クールに見られるほうがいいって。――あー、でも、少しは笑ったほうがいいかな」
 そう言って志摩は、まるで広己に笑い方を教えてくれるように、にこっと笑いかけてくる。つられて広己も笑い返していた。
「笑ったほうがいい、っていうのは、おれの個人的意見ね。竹内は、笑ったほうがずっといいと思うんだ。クールを売りにしたいなら、無理にとは言わないけど」
 そんな『売り』はないよと応じながら、広己はとうとう我慢できず、くっくと声を洩らして笑っていた。
 なんとなく、志摩がどうして他の生徒たちと屈託なく接することができるのか、わかった気がする。難しいことではなく、志摩と話していると楽しいのだ。身構えていた広己の心をゆっくりと解していってくれる。
 少し前までの広己なら、こんな志摩ともうまく話せなかったかもしれないが、今の広己には、他人を受け入れる心の余裕がある。富樫だけでなく、速水や高己が作ってくれたものだ。
「さっき、電話してた人にも言われたんだ。笑ったほうがいいって」
「恋人?」
 さらりと言われた言葉に、一拍置いてから広己は慌てて首を横に振る。
「違うよっ。いろいろとお世話になっている人で……」
「――いい人だな、その人」
 真顔で志摩に言われ、広己はためらうことなく頷いた。次の瞬間には志摩は笑みを浮かべ、広己の肩を軽く叩いてくる。
「洗濯物干したら、一緒に下の階まで、おれの貸したゲームソフトの回収に行こう。竹内の顔見せもかねて。竹内に紹介したい変な奴が、たくさんいるんだ、この寮」
「変な奴……」
 広己が口中で反芻すると、顔を寄せてきた志摩が意味深な表情となる。
「大丈夫。急に噛みついてくるような奴はいないから」
 よほど広己が不安そうな顔をしたのか、爆笑しながら志摩が、ふざけたように抱きついてくる。
「反応がいちいち可愛いよな、竹内は」
 このとき突然、からかうように太い声がかけられた。
「志摩ー、竹内を口説いてんのか」
 パッと体を離した志摩が振り返り、つられて広己も同じほうを見ると、ベランダの仕切りの向こうから、反対隣の部屋の生徒が顔を突き出し、ニヤニヤと笑っていた。咄嗟に反応できない広己とは違い、志摩は威勢よく言い返す。
「バッカヤロウ。悔しかったら、竹内と仲良くなってみろっ」
「お前が、竹内と近づけさせなかったんだろうが。繊細そうな竹内が怖がるから、まだ近づくなとか言って。俺たちは野獣かって言うんだ。凶暴さなら、お前が一番だろうが」
「……おれ、そんなこと言ったか?」
 首を傾げた志摩に向けて、隣のベランダから丸めたシャツが投げつけられる。志摩の応酬は、履いていたサンダルの片方だ。
 ベランダの仕切りを通してのやり取りを、呆気に取られて眺めていた広己だが、気がつけば、涙が滲むほど笑っていた。あまりに、志摩と反対隣の生徒のやり取りがおかしかったからだ。
 ようやく、この寮と学校でやっていけるかもしれないと、確信のようなものが広己の中で芽生えた瞬間でもあった。
「――志摩くん」
 広己が声をかけると、もう片方のサンダルを手にして振り上げていた志摩が振り返る。
「何?」
「さっき、コーヒーをありがとう……」
 きょとんとした顔のあと、志摩はにんまりと笑いかけてきた。
「次は、竹内の奢りな」
「……うん」
 もう一つの確信が広己の中で芽生えていた。
 志摩と友人になれそうだ、と。










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