ここしかない場所 [Extra 05] Clap  




 一瞬、外が青白く輝き、窓に額を押し当てて眺めていた広己は首をすくめ、ぎゅっと目を閉じていた。そして、おそるおそる目を開くと、立て続けに夜空に閃光が走った。
 少し間を置いてから腹の底に響くような轟音も響き渡り、額を押し当てた窓ガラスがビリビリと震える。
 広己が思わず後ずさると、激しい雨が窓を叩き始めた。
「――すごい降りだな」
 突然、前触れもなく声をかけられ、その場で飛び上がりそうになりながら広己が振り返ると、腕組みした富樫が立っていた。ただ、雷に驚いている様子はなく、むしろ、楽しげに唇を綻ばせていた。
 その理由は、すぐにわかった。
 手招きされるまま富樫に歩み寄ると、大きな手が頭の上にのせられる。子供ではないのだが、富樫にこうされることが広己は嫌いではない。正確にいうなら、好きだった。
「お前、雷が怖いんだろ?」
 ふいに富樫に問われ、広己は恨みがましい目で見上げる。堪え切れなくなったように、富樫は短く噴き出した。
「雷が光ったり鳴るたびに、お前が驚いたように首をすくめたり、窓から離れたりしてるもんだからな。……なんだか動物っぽい動きだと思って――悪い、さっきから眺めていた」
 悪い、と言いながら、富樫はやはり楽しげだ。怒ったふりをしてみた広己だが、機嫌を取るように富樫にあごの下を撫でられただけで、首をすくめて笑ってしまう。
 富樫は低く笑い声を洩らしながら、雨戸を閉める。風も強いので念のためだろう。
 梅雨時、雨がよく降るのは当たり前だといえるが、こんなにひどい雷は、ここで住みだしてから初めてかもしれない。
 一人ならこんな天候のとき、耳を塞いで目を閉じて、ベッドで体を丸くしてひたすら雷が落ち着くのを待つだけだが、もちろん今は、一人ではない。
 広己は、最後の雨戸を閉めている富樫の後ろ姿に視線を向ける。そっと笑みをこぼそうとしたとき、一際大きな雷鳴が鳴り、続いて、空気の震えを感じた。
 咄嗟に頭を抱えた広己の視界が、フッと急に真っ暗になった。数秒の間、何が起こったのか理解できなかったが、富樫の言葉でやっとわかった。
「……停電か……」
 そう洩らした富樫が、少し慌てたように広己を呼ぶ。
「広己、大丈夫か?」
「はい」
 闇に目が慣れない中、富樫が手探りで側までやってきて、広己の体は片腕で抱き寄せられた。広己は停電よりも、外から聞こえてくる雷鳴に驚いて、富樫にしがみつく。
「これは、今夜はもうおとなしく寝ろってことだな」
「よかったですね。ご飯もお風呂も済ませておいて」
「まあ、あとはどうせ、テレビでも観て、ごろごろするだけだったから……」
 家内の静けさと、外の雷鳴を紛らわせるように二人は会話を交わしながら、慎重な足取りで歩く。そうはいっても、片手で壁に触れながら歩く富樫に、広己はただくっついているだけだ。
 当たり前のように、広己は富樫の部屋に連れてこられた。真っ暗で、雷も鳴っている中、自分の部屋に戻る勇気は広己にはない。
 なんとかベッドに腰掛けた広己の隣で、富樫は何かしている。手を伸ばして富樫に触れると、質問する前に教えてくれた。
「目覚ましだけはかけておかないと、朝困る」
 ベッドに入った富樫に促されるまま、広己も横になり、体にタオルケットがかけられると、富樫の胸元に顔を寄せた。
 本当はまだ眠くない。いつもなら、ダイニングで富樫と向き合ってお茶を飲んだりテレビを観たり、自分の部屋でパソコンを使っているはずだ。
「……さすがにまだ、眠くないな」
 ぼそりと富樫が洩らし、広己は笑ってしまう。
「そうですね」
「懐中電灯はあるから、ダイニングに戻るか? 今ならまだ、飲み物も冷たいだろうから、何か飲んで……。ああ、アイスクリームがあった。先にそっちを片付けるか」
「そうです――」
 広己が答えようとしたそのとき、再び大きな雷鳴が轟き、小さく悲鳴を上げて富樫にしがみつく。そんな広己を宥めるように、富樫が頭や背を撫でてくれた。
「本当に、怖いんだな」
 くっくと声を洩らして笑う富樫が、少しだけ憎らしい。
「怖いんじゃなくて、びっくりしただけです」
「子供の屁理屈みたいだぞ、それ。素直に怖いと言っておけ。甘やかしてやるから」
「……おもしろがってるでしょう」
 広己は怒ったような口調で言って富樫に背を向けようとしたが、その前にしっかり抱き締められ、痛いほどの抱擁に目を丸くした広己は、すぐに笑みをこぼす。
「こうやって雷が鳴っている中で抱き合っていると、寮でのことを思い出します」
 すかさず富樫に顔を覗き込まれた。さすがに闇に目も慣れ、富樫がどんな表情をしているのかわかる。
 なぜか富樫は――険しい顔をしていた。
「まさか誰かと、今みたいに抱き合っていたのか?」
 きょとんとして富樫の言葉を頭の中で反芻してから、今度は広己が声を洩らして笑う。
 富樫には悪いが、正直に話すしかないようだった。
「――抱き合っていたというより、しがみつかれていたんです」




 少しずつ雷の音が近づいてきている。
 そのことに気づいた広己は参考書から顔を上げ、窓の外に視線を向ける。さきほどから風が窓を揺らしていると思っていたが、いつの間にか雨も降り出したようだ。
 雷が気になり、窓のほうをちらちらと見ていた広己だが、いきなり外が明るくなったのでビクリと体を震わせる。稲妻が走ったのだ。
 学校から寮に戻るときから妙な天気だったが、大きく崩れたようだ。
 広己は雷が苦手だ。ただ、雷が好きな人間はそうそういないだろう。そう考えると、ある意味、人並みの感覚だといえるかもしれない。
 とりあえず広己はカーテンを閉めると、地響きのような雷鳴を紛らわせるため、ヘッドホンをする。勉強中は気が散るので音楽を聴かないのだが、この場合、やむをえないだろう。
 ミニコンポのスイッチを入れようとしたところで、広己は気配を感じてドアのほうを見る。開けたままのドアの向こうを、志摩が通り過ぎるところだった。
 いつもニコニコしている志摩には珍しく、広己に笑いかけてくることもなく、どこか思い詰めたような横顔をしている。それに、顔色も悪い気がする。
 気になった広己が声をかけようとしたときには、志摩の姿は見えなくなり、自分の部屋に入ったようだった。
 一応声をかけてみようかと、広己はヘッドホンを取ろうとしたが、さらに大きさを増した雷の音に、慌ててヘッドホンを押さえて音楽をかける。
 広己がやっとヘッドホンを外したのは、点呼をしている寮長が部屋に入ってきたことに気づいてからだった。
「ごめんっ、ノックに気づかなくて……」
 広己が立ち上がると、三年生の寮長は苦笑しながら首を横に振る。
「まあ、これだけ派手に雷が鳴ってると、ヘッドホンやイヤホンをしたくなるよな。……で、この部屋の『王子様』はどうしたんだ? 珍しく静かみたいだけど」
『王子様』とは、もちろん志摩のことだ。なぜこう呼ばれているのか、まだここに来て間がない広己にはわからないが、とにかく志摩が、寮で誰からも好かれているのは確かだ。
「部屋にはいるみたいだけど、なんだか調子が悪そうで……」
「アイスの食いすぎで、腹でも下したか。が、部屋にいるなら、それでいいんだ」
 志摩の部屋を覗くことなく寮長は出ていき、広己は気になって志摩の部屋を覗く。いつもならこの時間、まだ起きているはずの志摩は、思った通り、頭からタオルケットを被ってベッドの上で体を丸くしていた。
「……志摩、気分悪いの?」
 志摩くん、と呼ばれると落ち着かないということで、広己は早々に、呼び捨てにすることを志摩自身に命じられ、それに従っているのだが、問いかけると同時に、窓の外で青白い閃光が走る。少し間を置いてから、いかにも調子が悪そうな声が上がった。
「平気ぃ……。アイス食いすぎて、腹痛いだけ」
 志摩の言葉に、思わず笑ってしまった広己だが、なんとかまじめな声で返すことができた。
「薬、もらってこようか?」
 いらない、という意味か、タオルケットの中から片手だけが突き出され、ヒラヒラと振られる。寝ているところを邪魔してはいけないと思い、広己はすぐに引き下がった。
「何かあったら、声かけてね」
 そう言い置いて自分の部屋に戻った広己は、再びヘッドホンをして勉強を再開する。点呼後は就寝時間になるとはいっても、廊下に出なければ何時に寝ようが寮生の自由なのだ。
 ただ、いつもなら夜遅くまで勉強する広己だが、今夜に限っては外の様子が気になり集中できない。ヘッドホンをしているとはいっても、体は空気の震えを感じてしまうのだ。
 仕方なくノートと参考書を閉じると、デスクのライトを消す。今夜はもう勉強する気にもなれず、文庫を手にした場所をベッドの上に移す。
 そうやって一時間ほど過ごしてから、広己は部屋の電気を消して横になった。
 窓を叩く雨音以上に、低く響く雷の音が気に障る。湿気の高さもあり、なんとなく寝苦しい夜だった。
 ようやくウトウトしそうになっても、カーテンを通して青白い稲光が部屋を照らし、そのたびにハッと目が覚める。
 ふいに、パタパタという慌ただしい音が近づいてきて、部屋の前で止まった。志摩が、慌てて自分の部屋から飛び出してきたのだと、足音から推測できた。
 お腹が痛くてたまらなくなったのだろうかと思い、広己が体を起こそうとしたとき、突然、ドンッという大きな音が響き、それに重なるように、ドアの向こうで声が上がった。
「ひゃっ」
 可愛い悲鳴だな、と広己が思ったとき、勢いよくドアが開き、黒い影が部屋に――広己のベッドに飛び込んできた。
「うわっ……」
 広己が体にかけていたタオルケットは半ば強引にはぐられ、何かが必死にしがみついてくる。何が起こったのか、咄嗟に広己にも理解できなかった。
「えっ、ちょっ……と、志摩?」
 いくら部屋が暗いとはいっても、体つきや、聞こえた悲鳴の声で志摩だとわかる。
 戸惑う広己にかまわず、まるで怯えた猫のように志摩は必死にしがみついてきて、わけがわからないながらも広己は突き飛ばせない。相手が相手なら身構えたのかもしれないが、なんといっても、相手は志摩だ。
 暴れ猫を相手にしているような気分になりながら、広己は慎重に広己の体を揺さぶる。
「志摩、どうしたんだよ……」
「――停電した」
 やっと志摩がまともな言葉を発する。ただしその声は、絶望感に満ちていた。
「停電って……、そう、なんだ。ぼくもう、電気消してたから、わからなかった」
「竹内、これだけ雷が鳴ったり光っている中、よく寝られるな。もしかして、見かけによらず、神経図太いのか」
 ひどい言われ方だと苦笑した広己は、仕返しというわけではないが、こう言ってみた。
「さっき、志摩の悲鳴が聞こえたよ」
「……見た目によらず、可愛い悲鳴だったなんて言うなよ」
「言わないよ」
 思わず笑った広己だが、いきなり大きな雷鳴が響き、首をすくめる。それは、広己にしがみついたままの志摩も同じだ。
「なんなんだよ。さっさと通り過ぎりゃいいのに、さっきからドンドン、ピカピカ、騒々しい。おかげに、停電までさせて」
 志摩のぼやきを聞きながら、やっと広己は納得した。
「――志摩、もしかして雷が怖いから、ぼくの部屋に来た、とか?」
「違う。竹内が怯えているだろうかと思って、様子を見にきてやっただけだ」
「そういうことにしてほしいんだね」
「……竹内って、けっこう性格が……」
 ぼそぼそと志摩が何か言ったが、雷のせいで聞こえなかった。
 広己は、しっかりとしがみついている志摩のつむじを見つめる。しみじみと、志摩というキャラクターについて考えていた。おそらく志摩以外の人間がこうしてベッドに潜り込んできたら、広己は悲鳴を上げて逃げ出しているだろう。
 富樫や速水のおかげで、相手がたとえ同性でも、接触されることに意識する程度には、広己も成長したのだ。だけど相手が志摩だと、妙にくすぐったくて、しがみつかれる感触が心地いい。
 子供の頃、高己にじゃれつかれていた感触が唐突に蘇り、広己の中の人恋しさがじんわりと満たされていく。
「ねえ、志摩、ぼくが寮に入る前は、別に人に……」
「こんな外見してるのに、それで雷が怖くてプルプル震えてたら、おれはどれだけ愛玩動物かってんだよ。後々、他の奴らにからかわれるのは嫌だから、頭から布団被って耐えてた」
「だったら、ぼく相手なら、弱点を晒していいと思ったんだ」
「……いや、竹内も同じタイプかと思ってたから……。それなのに、平気そうってのが――」
 生意気、と言われて志摩に髪の先を引っ張られる。
「ぼくも雷は嫌いだけど」
「おれよりはマシだろ」
「比べようがないから、どうかなあ」
 どちらがより、雷嫌いかということを真剣に話し合っていると、ドンッという、これまでにない大きな音がする。少し間を置いてから、寮全体が騒々しくなった。
「これは……近くに落ちたな」
 そう呟いて志摩が身震いし、広己も首をすくめながら志摩のパジャマの裾を握り締める。
 どらちが雷嫌いかはひとまず置いて、二人はこう約束を交わした。
「――高校三年にもなって、雷が怖くて相方のベッドに潜り込んだなんて、絶対誰にも言うなよ」
「やっぱり志摩、雷怖かったんだ」
「竹内も怖いってことにしておけ」
「何その理屈……」
「怖いだろ」
 志摩が引きそうにないので、仕方なく広己は頷く。実際、雷が怖いのは事実だ。ただし、誰かのベッドに潜り込むほどではないが――。
 ようやく安心したように志摩が息をつき、広己の枕の半分に頭をのせる。それでいて、片手はしっかり広己のパジャマを握り締めているのだ。
「竹内、先に寝るなよ」
「……うん」
 返事をしながら広己は、本格的な台風の季節になったとき志摩はどうするのだろうかと、漠然と想像する。
 そのときのために、懐中電灯や耳栓を用意しておくべきかもしれない。




 広己が話し終えると、富樫は腕枕をしてくれながら声を洩らして笑っていた。
「意外だな。彼は、怖いものなんてないって感じに見えるのに」
 富樫は、広己の親友である志摩のことを知っている。別々の大学に進んだものの、広己と志摩は今でもときどき会っては遊んでおり、最近、ようやく富樫にも紹介できたのだ。
「なんでも頼りになる志摩の、唯一の弱点ですよ」
「……そういう言い方をされると、少し妬けるな……」
 ふいに囁くように呟いた富樫の顔が近づいてきて、その様子をじっと見つめていた広己だが、稲光がカーテンを通して部屋の中を青白く照らし、驚いて富樫の胸に顔を埋める。何秒か置いてから、低い雷鳴が響いた。
 すると、富樫がしっかり抱き締めてくれる。
「雷が鎮まるまでこうしていてやるから、安心して寝ろ。なんなら、両耳を塞いでいてやるぞ」
 広己は笑みをこぼしてから顔を上げる。広己の意図がわかったのか、富樫は黙って、両耳ではなく、唇を静かに塞いでくれた。










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