ここしかない場所 [Extra 06] Clap  




 高己の中で、心療内科医・速水という人は、『変わり者』の『いい人』であり、人見知りの激しい兄の広己が懐いている数少ない相手、という認識がされているが、最近はそこに、もう一つ加わった。
 それは――『非常に気前のいい人』というものだ。
「今日はどんな美味しいものを食わせてくれるのかなー」
 そんなことを呟きながら、高己は軽い足取りで総合病院へと向かう。
 夏休みの現在、高己は毎日、予備校通いで忙しい。頭を使っていても腹は減る。おかげで、どれだけコンビニでパンや弁当を買って食べても、すぐにまた空腹に襲われる。まさに、食べ盛りというやつだ。
 そんな高己にとって、いろんな美味しい店に連れて行ってくれる速水は非常にありがたい存在だった。母親はあまりいい顔をしないが、知ったことではない。高己は、広己が信頼している人に対して、自分も無条件に信頼することにしたのだ。
 実際、速水は話がわかるし、秘密は守ってくれる。十分、信頼に値する大人だ。
 すでに今日の診察受付を終了している病院のロビーを通る。受付は終了しているとはいえ、まだ診察待ちの人や、見舞い客らしい姿もあり、混雑していた。
 高己はエレベーターに乗り込むと、心療内科のある階のボタンを押す。
 心療内科の待合室にはすでに患者らしき人の姿もなく、高己は心置きなくソファに腰掛ける。さほど待つことなく、速水が姿を見せた。
「――やあ、高己くん」
 ブルーのワイシャツが、速水の爽やかでハンサムな容貌を際立たせている。片手にはオフホワイトのジャケットを持っており、それを見た高己は、立ち上がってから自分の格好を見下ろす。一応駅で着替えてはきたのだが、それでもジーンズにTシャツという軽装だ。
 速水の隣に立つと、あまりにちぐはぐだなと思っていると、高己が何を考えたのかわかったのか、速水は笑いながら言った。
「服装は心配いらないよ。堅苦しいところじゃないから」
「……俺の格好を見て、行く店を替えたとか……」
「君が予備校から直行してくるのは織り込み済みだよ。今日は、鉄板焼き。いい肉使っていて、美味いんだ」
 肉大好き、と反射的に呟くと、にんまりと笑った速水に肩を叩かれた。
「素直でよろしい。じゃあ、行こうか。もう予約入れてあるから」
 高己は大きく頷く。速水に対しては、下手な遠慮は無用だと、これまでのつき合いでは把握した。年下の素直な人間を甘やかすのが好きなんだ、とは速水の言葉だ。
 つまり、高己の兄である広己を甘やかすことにも、無上の喜びを感じるらしい。
「でも、速水先生、俺なんて連れ歩いてていいんですか?」
 エレベーターに乗り込みながらの高己の言葉に、速水は首を傾げる。
「どういう意味?」
「それでなくても速水先生忙しいのに、休みの日にも仕事してたり、そうでないときは、富樫さんの家に遊びに行ってるでしょう。で、仕事が早めに終わったときは、こうして高校生をご飯食べに連れて行ってくれる。……恋人さん、文句言ったりして……」
 エレベーターのボタンを押してから、速水は真剣な顔をしてあごに手をやる。失礼なことを言っただろうかと高己は焦ったが、そうではなかった。
「恋人さんなんて、俺にいただろうかと考えてみたけど、該当するものはないね」
「……速水先生、それ、まじめに言ってます?」
 速水の返事は、キザなウィンクだった。それでも直撃されると、男の高己でも見惚れそうになる。将来は、ウィンクが上手くできる大人の男になりたい――かもしれない。
「俺はね、束縛されるのが嫌いなんだよ。相手を自由にさせる代わりに、俺も自由にさせる。それが俺とつき合う、最低限のルール。だから、浮気というものが存在しない。『自由』という言葉の中に、他の相手と楽しむことも含まれているからね」
 高己は、ちらりと速水の横顔を見つめる。なかなかすごいことを言っているわりに、速水の表情は楽しそうだ。むしろ、無邪気というべきかもしれない。
 一階に着いたエレベーターを降り、ロビーを歩きながら、高己は短く唸る。
「なんか、それはそれで難しいですね。俺なんて単純だから、自由、なんて言われると、かえって混乱しそう」
「俺の恋愛論。真似はするなよ。ロクな男にならないから」
 それは、速水自身がロクでもない男だと言っているようなものだが、おそらく速水なら許されるのだろうなと、高己は納得する。
 速水と一緒にいて楽しいのは、高己と一回り以上も年齢が離れていながら、ときおりこんな大人の話もしてくれるからだ。
 間違っても、広己が一緒に暮らしている富樫は、こんな話を高己にはしないだろう。
 富樫の、イイ男ではあるのだが、気難しげな顔を脳裏に描き、高己は小さく噴き出す。あの口下手な兄が、富樫と普段、どんなことを話しているのか考えたりするのだが、富樫の無口ぶりからして、バランスは取れているのかもしれない。
 不思議なのは、速水と富樫の組み合わせだ。剣呑な会話を交わしているようで、傍で聞いていると妙に笑えてくるのだ。
 病院の通用口から職員用の駐車場に出ると、高己は片手をひらひらと動かして自分の顔を扇ぐ。夕方とはいえ、気温の高さは昼間と変わらず、西日も強烈だ。
「あー、暑いなあ。こんなときは、冷たいビールで――」
 ジャケットを肩に引っ掛けながらの速水のぼやきに、高己は苦笑しながら指摘する。
「速水先生、自分の車で行くんでしょ?」
「……まあ、未成年と一緒だからな」
 速水の手が肩にかかり、ポンッと軽く叩かれる。早速速水の車に向かおうとしたが、ふいに速水が足を止め、正面を見据えた。何事かと思った高己も、同じほうを見る。
 二人の正面に立っていたのは、広己と同年齢ぐらいに見える青年だった。雰囲気は学生っぽく、整ってはいるが、少し神経質そうな印象を受ける顔立ちをしている。
 その青年から、なぜか敵意を含んだ眼差しを向けられ、高己はうろたえた。
 速水の知り合いだろうかと思って隣を見ると、当の速水は苦笑に近い表情を浮かべている。
「――暑いのに、外で待ってたのかい」
 気軽に速水が声をかけた途端、青年の表情が険しさを増す。あまりの迫力に、思わず高己は一歩後ずさったほどだ。すると、安心させるかのように肩に速水の腕が回された。
「速水先生……」
「大丈夫」
 速水はそう言ったが、足早に青年が歩み寄ってきたかと思うと、いきなり片手を振り上げる。自分が殴られると思った高己は咄嗟に目を閉じていた。
 しかし、バシッという痛々しい音はしたものの、高己はなんともない。目を開けたときには、青年はすぐ目の前に立っており、速水は自分の片頬を撫でていた。殴られたのは、速水のほうだったのだ。
 全然、大丈夫じゃない――。
 今の状況に混乱しながらも、速水と青年の間にただならぬ事情があることぐらいは、高己も理解できる。
 あまりのことに呆然として立ち尽くす高己に向けて、速水は何事もなかったように笑いかけてきた。
「高己くん、先に車に乗っていてくれるかな。ちょっと彼と、込み入った話があるから」
「……は、あ」
 渡された車のキーを、反射的に高己は受け取る。
「心配しなくても、すぐに済むから」
 そんな言葉を背に受けて、高己は速水の車に歩いて行くが、実はこっそり苦い表情となっていた。
 速水は、自分の発言の矛盾に気づいているのだろうかと思った。『込み入った話』があるのに、『すぐに済む』と言ったのだ。わかって言ったのだとしたら――。
「キツイよなあ」
 暑いのを我慢して車の助手席に乗り込んだ高己は、ふうっと息を吐いてウインドーを下ろすと、遠慮がちに外の様子をうかがう。
 少し離れた場所で、速水と青年は何か話しているが、速水は相変わらず笑っており、一方の青年はきつい表情でそんな速水に詰め寄っている。
 どう控えめに表現しても、修羅場にしか見えない。
 まさかなあ、と思いつつも、高己は自分の中の推論を否定することができない。ついでに、これまでの速水の際どい言動も思い返す。
 何度も首を傾げて考え込んでいると、速水が颯爽とした足取りでやってきた。ハッとして車の外を見たが、すでに青年の姿はない。
「待たせたね」
 高己から車のキーを受け取った速水は、エンジンをかけながら軽い口調で言う。このとき高己は、速水が決して甘くて優しいだけの大人ではないのだと肌で感じていた。高己や広己にも見せない部分があるのだ。
 むしろ、大人の男として、それが当然なのかもしれない。
 クーラーが効き始めたのでウインドーを閉めた高己は、車を走らせる速水の横顔をちらちらと見てから、おずおずと口を開く。正直に尋ねていいものか迷うところだが、車中が微妙な空気に支配されたままなのもつらい。もっとも、気にしているのは高己だけで、速水はいたって平気そうだが。
「――……あの、速水先生、さっきの人……、兄貴と同い年ぐらい?」
 切り出し方としては、最悪かもしれない。ここで、広己を絡める意味はまったくないのだ。
 速水はクスッと笑ってから、あっさりと話し始める。
「彼は大学二年だから、そうだね。将来は、ピカピカのお医者さんだ」
「はあ……」
 高己はくしゃくしゃと自分の髪を掻き上げてから、控えめに言った。
「あの人、なんだか怒ってたみたいですね」
「俺が『浮気』したと思ったらしい。しかも、可愛い高校生と」
 車のスピードを落とした速水が、意味深な眼差しをこちらに向けてくる。最初はピンとこなかった高己だが、すぐに目を見開くことになる。
「……もっ、もしかして浮気相手って、俺のことっ?」
「俺が連れ歩いている可愛い高校生は、高己くんしかいないんだよね。とにかく、誤解されたらしい」
 膝の上でぎゅっと拳を握り締めた高己は、一心に正面を見据える。必死に頭の中で、状況を整理していた。頭は悪いほうではないと自負しているが、さすがに速水の話は、そういうレベルの話ではない。
 ようは、『大人の話』なのだ。高校生には刺激が強すぎる。
「――浮気、ということは、さっきの人は、速水先生の恋人さん?」
「元、恋人さん。俺はね、可愛い男の子が好きなんだ」
「男の、子……」
 口中で反芻した高己は次の瞬間、自分も『男の子』の分類に入っていることを思い出し、ぎょっとして速水を見る。すると、速水は楽しげに口元を綻ばせた。
「大丈夫。高己くんは可愛いけど、俺がつき合えるタイプとは違うんだよ。どちらかというと、弟みたいに可愛い、というやつかな」
 速水はよく、高己に対して『可愛い』という言葉をかけてくる。もちろん、それは速水なりの冗談の類だと思い、高己は笑って聞き流していた。今の話を聞く限り、その反応は間違っていなかったと考えていいのだろうが――。
 ここで高己は、あることに気づいた。
 おそるおそる速水を見て、慎重に問いかける。
「あの、速水先生って確か、兄貴のこともよく……可愛いって、言ってますよね」
 しかもすごく、楽しそうに。
 どういう意味か、突然速水は声を上げて笑い始め、高己は半ば呆気に取られながら、速水の笑いが止まるのを待つ。
「……俺、変なこと言いました?」
「いや。むしろ、感心したんだ」
 速水がニヤリと笑いかけてきたので、高己は唇を微かに引きつらせながら笑い返す。
 なんだか速水の笑みが、共犯者を得た、という満足げなものに見えてしまったが、気のせいだろう。多分。
「普通の男子高校生なら、何回も一緒に食事した男から、同性の恋人がいたなんて知らされたら、引くもんだろ。そして、自分の貞操を心配する」
「でも速水先生、俺はつき合うタイプじゃないって――……」
「つき合うタイプと性欲が一致したら、世の男たちは苦労しないよなあ」
 さらりと大胆なことを言われ、高己の顔は熱くなってくる。クーラーはかかったままなのだが、思わずウインドーを下ろしていた。
「と、いっても、俺はケダモノじゃないので、見境はある。それに、俺にとって大事な人の『弟くん』だから、君は」
 高己は目を丸くしながら、じっと速水の横顔を凝視する。
 はっきり聞くまでもなく、確信していた。自分の兄が、速水にとって『つき合うタイプ』であるのだと。
「兄貴、知ってるんですか? 速水先生が、そういう人だってこと」
「ああ。だけど広己くんの態度については、君も知ってるだろ?」
 広己は、同居している富樫に対するのと同じぐらいの信頼を、速水に寄せている。速水の性癖も知ったうえで、だ。
 自分の兄の懐の深さというか、寛容さ――天然が入っているというべきか――について、改めて高己は実感する。
 同じ血は、確かに高己の中にも流れているのだ。
 高己は大きく息を吐き出して、ウインドーを閉める。
「実は俺、そんなにショック受けてないんですよ。速水先生は、普通の大人の男とはちょっと匂いが違うなって思ってたんで、むしろ納得しました。……俺とは友達のままでいてくれそうだし」
 速水は再び声を上げて笑っていたが、あることを思い出したように、ふいに真剣な口調で言った。
「――ところで今日の出来事は、広己くんと富樫には秘密にしておいてくれないか? あっ、富樫も俺の趣味については知ってるから」
「それはかまいませんけど……」
「いたいけな未成年に妙な場面を見せるなと、怒られたくない。君も富樫に言われるかもしれないぞ。速水とは関わりを持つな、って」
 高己は腕組みして一声唸っていた。
「それは、困るなあ。もう速水先生に、美味しいもの食べに連れて行ってもらえなくなる」
「だったら、決まりだ」
 高己と速水は同じ種類の笑みを交わし合い、ついでに軽く握手する。これで二人は共犯だ。
 隠し事が一つ解消されたところで、速水は世間話でもするかのように、こんな質問をぶつけてきた。
「さっきの俺の『元恋人さん』を見て、どう思った?」
 数瞬きょとんとしてから、高己は率直に答えた。
「速水先生、面食いだなあ、とか」
「他には?」
 明らかに、速水は高己の答えをおもしろがっている。しかし、期待に応えられるような言葉など咄嗟に思いつくはずもなく、感じたままを告げた。
「――……兄貴のほうが可愛い……」
 速水は急に車道脇に車を停めると、腹を抱えて、派手に爆笑する。どうやら、速水の満足いく答えだったらしい。
 楽しいのはいいが、早く美味しい肉を食べに連れて行ってくれないだろうかと思いながら、高己は、速水が笑いを止めるのを辛抱強く待った。










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