富樫の家はどこにいても風通しがよく、家中の窓を開けていると、昼間でもうだるような暑さとは無縁でいられた。
おかげで、部屋を閉め切ってエアコンをつけなくても、快適に昼寝ができる。
富樫の広いベッドに横になった広己は、ドアから窓へと通り抜けていく風に優しく頬を撫でられながら、昼寝を堪能していた。
体内時計がそういうふうに調節されてしまったのか知らないが、日曜日は、昼食を食べたあとは必ずといっていいほど強烈な眠気に襲われる。それは傍で見ていてもわかるらしく、富樫に笑いながら、昼寝してこいと言われるのだ。
熟睡とはいえない、意識が緩やかな浮沈を繰り返す状態が心地よくて、広己はそっと吐息を洩らす。
トロトロとまどろみ、少しだけ深く意識が沈み込みそうになった瞬間、部屋に誰かが入ってくる気配を感じた。
「あー、よく寝てるよ、兄貴」
声の主は、高己だった。続いて聞こえてきた声は、速水だ。
「……富樫、昼メシを食べたら昼寝しろって、広己くんに言ってるのか?」
「言うか。広己は幼稚園児か」
ヒソヒソとした声で富樫と速水、高己の三人が会話を交わし、半分眠っていても、その会話は広己の耳に届く。
「起こしましょうか?」
「こんな無防備な寝姿を見せられると、それも忍びないな」
「二人して、突然来るからだ。せめて朝にでも電話一本寄越しておけば、広己だって起きて待ってただろ」
歳の離れた友人同士である速水と高己は、ときどきこの家にドライブがてら遊びに来ることがある。いつもなら昼食前に来るので、広己も起きているのだが、今日は少し遅い到着だったようだ。
起きようと思いつつも、広己の体は指先まで眠気に浸っているため、なかなか動かない。意識も、一応周囲の状況は把握できているのだが、覚醒からは程遠い。少し油断すると、意識がふわふわと飛んでいきそうだ。
それに、三人が見ている前で、どんな顔をして起きればいいのかもわからない。
「広己くんが美味しそうに食べる姿が見たくて、ケーキ買ってきたんだけどなあ。……仕方ない。色気も可愛げもないが、男三人で顔突き合わせながら、先に食べるか」
「えー、俺を、速水先生や富樫さんと一緒にしてほしくないなあ」
「……速水なんかとつるんでいるせいで、高己くんは少し口が悪くなったな。広己に申し訳なくなってくる」
三人の会話に、広己は目を閉じたまま口元を綻ばせる。
足音を抑えた三人の気配が遠ざかり、部屋は再び静かになった。三人がいなくなってから起きようと思っていた広己だが、やはり意識と体は眠気に搦め捕られたままで、目を開くこともできない。
だったら、もう少しだけ寝ていようと思った。優しい三人のことだから、きっと自分が起きるまで、待っていてくれるはずだ。
そう自分に言い聞かせながら広己は、変わらず流れ込んでくる風の心地よさと、ダイニングにいるはずの三人の存在を気にかけながら、まどろむ。
十分か、それ以上か、夢心地で過ごしていると、ふいに広己は、傍らに人の気配を感じた。どうやら気配を押し殺して、誰かが再び部屋にやってきたらしい。
誰だろうかと思いはするものの、相変わらず瞼は開けられない。
部屋にやってきた『誰か』はベッドの端に腰掛けたのか、静かに揺れたあと、微かにスプリングが軋む音がする。
次の瞬間、広己はドキリとした。さきほどまで優しい風に撫でられていた頬に、今度は確かな感触を持つ、温かな手が触れてきたからだ。
慈しむように頬を撫でられ、あごの輪郭をなぞられる。手の感触で誰であるかわかってもいいようなものだが、実は広己は、混乱していた。
富樫も速水も指が長くて、男性としてはきれいな手をしている。それに高己も、広己と手の形が似ており、ほっそりとしている。つまり、三人とも手の印象が似ているのだ。目を開ければすぐにわかるのだろうが、なぜか広己は目が開けられない。
富樫の手の感触に似ているとは思うが、速水や高己の手ではないと確信は持てなかった。
広己が、混乱しながらもドキドキしている間に、両頬を包み込むように撫でられたあと、少し硬い指先に唇を軽く擦られる。微かに吐息を洩らすと、片手が額に押し当てられてから、自然な流れで両目の上にその手が移動してきた。
誰かが広己の上に体重をかけないように覆い被さってきたと感じたときには、広己の唇は柔らかな感触で塞がれる。
丹念に上唇と下唇を交互に吸われながら、広己は素直に受け入れてしまう。本当ならはっきり目が覚めてもいいのだろうが、あまりに与えられるキスが心地よくて、酔っていた。
それに、両目をてのひらで覆われているとはいえ、相手が富樫だという安心感もある。
そう、思っていた――。
歯列をくすぐられてから、侵入してきた舌に口腔をまさぐられるときになって、その舌が甘いことに広己は気づく。
「んうっ……」
思わず声を洩らして顔を背けようとしたが、その前に口腔深くに差し込まれた舌が、広己の舌に絡みついてきた。
舌に感じる甘酸っぱい味は、普段、煙草の苦さを残す富樫の舌のものとは思えなかった。その混乱が、広己を不安にさせると同時に、奇妙な高ぶりを生む。何より、両目を覆われて、相手を確認できないままだというのが大きい。
怖いのに、抗えないのだ。
舌を引き出され、甘噛みされて背筋が熱く痺れる。優しく舌を吸われているうちに、無言の求めに応じるように広己も甘い舌をぎこちなく吸い返していた。
このとき広己の意識は完全に覚醒し、本能的に周囲の気配を探っていた。二人きりならともかく、今はこの家に、他の人間もいるのだ。しかも、ドアは開けたままだ。
もしキスしているところを見られたらと思うと、想像するだけで広己の体は羞恥で熱くなってくる。
さすがに身じろごうとしたが、その気配を察したように、広己が体にかけていたタオルケットが引っ張られ、頭からかけられた。
パッと目を開いたとき、広己の視界は青いタオルケットに覆われていた。
「えっ……」
思わず声を洩らした広己はすぐには動けず、呆然として眼前のタオルケットを眺める。
ようやく我に返って顔からタオルケットを除けたとき、部屋には広己以外、誰もいなかった。
広己はなんとか体を起こしたが、キスされただけなのに、心地よい疼きが胸の奥で息づいている。妖しい感覚が落ち着くまで、ベッドの上から動けなかった。
さきほどまでのキスは夢だったのだろうかと思いながら、唇に手の甲を押し当てる。熱くなって濡れており、明らかに、キスされた唇だ。
どんどん顔が熱くなってきて、広己は慌てて強く頬を撫でると、富樫の部屋を出る。
話し声が聞こえてくるダイニングへと行き、廊下からそっと中を覗くと、速水と高己がテーブルについてコーヒーを飲んでおり、二人の前の皿の上には、空になったケーキカップがあった。どうやらケーキは食べ終えたらしい。
自分が食べたわけでもないのに、ケーキの味がわかった気がした。広己は口元に手をやり、まだ舌に残る甘酸っぱさに羞恥する。
すると、広己に気づいた高己が笑いかけてきた。
「起きたんだ、兄貴」
速水もこちらを見て、手招きしてくる。
「おいで、君の分のケーキもあるから」
おずおずとテーブルに歩み寄った広己は、まともに速水と高己の顔を見ることができない。さきほどまでの富樫の部屋でのやり取りを、二人は知っているのではないかと考えてしまったのだ。
「どうかした? 顔赤いけど」
一度はイスに腰掛けた広己だが、高己に突然顔を覗き込まれて動揺し、思わず立ち上がっていた。不思議そうな顔をする二人に向けて、顔を伏せながら、言い訳のようにこう言った。
「……コーヒー、入れてくる」
逃げるようにキッチンに行き、洗い物をしている富樫の陰に隠れる。
皿を洗いながら、富樫が笑いかけてきた。
「よく寝てたから、まだしばらく、起きてこないのかと思っていた」
「そんなに、よく寝てましたか?」
「俺たち三人が部屋で話してたの、わからなかっただろ?」
どう返事をするべきかと迷ってから、結局広己はコクリと頷く。
「お前の分のケーキなら、冷蔵庫に入っている。速水の奴がたくさん買い込んできたから、好きなだけ食べていいぞ」
広己は、ダイニングの速水と高己に視線を向けてから、小声で尋ねた。
「富樫先生は……食べたんですか?」
「速水が、食え食えとうるさいからな」
富樫のその言葉に、内心ほっとする。広己は冷蔵庫からケーキの箱を取り出すと、ワークトップに置き、どのケーキにしようかと選ぶ。その間に、手を拭いた富樫が皿とフォークを出してくれた。
「……ぼくが昼寝している間、ずっと速水さんや高己と話してたんですか?」
照れながら問いかけると、富樫の返事は思いがけないものだった。
「ああ――いや、途中で客が来たから、五分ぐらい、玄関で話していたかな」
「えっ」
声を洩らした広己は、ダイニングの速水と高己を見てから、富樫に視線を戻す。
ぼくが昼寝しているとき、部屋に一人で来ましたか? という質問が、なぜか広己はできなかった。
おろおろしながら三人の姿を何度も見ていると、富樫の手がぽんっと頭にのせられる。上目遣いで見上げると、心底申し訳なさそうな表情で言われた。
「――悪かったな。お前の昼寝を邪魔して」
富樫の言葉の意味は、数秒置いてから理解した。つまり、さきほどキスしてきたのは、富樫だということだ。
広己は顔を伏せると、首を横に振る。
「ぼくも、すみません……」
自分にキスしてくれる相手は富樫しかいないのに、どうして確信できなかったのか、そのことが広己は申し訳なくて仕方なかった。
富樫は低く声を洩らして笑い、頭を撫でてくる。
「なんでお前が謝るんだ」
「……昼寝していて、富樫先生が――してくれたのに、起きなかったから……」
とてもではないが、謝った本当の理由など言えない。
どんどん顔が赤くなっているであろう広己を見て、富樫は何を感じたのか、優しい声でこう言ってくれた。
「俺は、昼寝するお前に、イタズラするのが好きなんだ」
冷静に考えれば、かなり大胆な発言だ。
自分が昼寝するたびに、富樫は気づかないまま目覚めのキスをしてくれていたのだろうかと思ったら、広己はやはり、申し訳ない気持ちにならずにはいられなかった。
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