ここしかない場所 [5月期間限定/Extra 08]   



(1)

「――鈍臭いなー、広己は」
 親友の容赦ない言葉に、イスに腰掛けた広己はただ苦笑を洩らすしかない。自分でもそう思う のだから、反論のしようがなかった。
「ごめんね、志摩。わざわざ来てもらって」
 広己が謝ると、よほど申し訳なさそ うな顔をしていたらしく、志摩晶はヒラヒラと手を振った。
「あー、気にするな。おれも連休中は、一日ぐらいはのんびりし ようと思ってたし、広己とも、顔つき合わせてゆっくり話したかったし。この家、ごろごろするにはちょうどよくてさ。他人様の 家だけど」
 志摩の言いように、広己ではなく、コーヒーを淹れている富樫が短く噴き出す。富樫のその反応がおかしくて、 広己は笑みをこぼした。
「その口ぶりだと、ゴールデンウィーク中はずっと遊び回ってるんだね」
「あちこちから誘われ てさ、断るのも悪いし。その中でも、高校時代の友人連中と、ちょっとした同窓会を兼ねて会うのは楽しみにしてたんだ。おれは まあ、顔出せたからいいけど、他の奴らは残念がってたぞ。広己と会えなくて」
「ぼくも行きたかったんだけど……」
  ため息をついて広己は自分の足元に視線を落とし、スウェットパンツの右の裾を少し上げる。足首には分厚く包帯が巻かれていた。 志摩も足元を覗き込み、大げさに声を上げる。
「まだ痛いんだろう?」
「松葉杖がないと、歩くのがつらいかな」
「――ひどい捻挫なんだ」
 広己と志摩の会話に、それぞれの前にカップを置いた富樫が加わる。広己が見上げた先で富樫は、 医者としての難しい顔をしていた。
「庭で、俺の目の前で、ぽてんっと転んだと思ったら、足を押さえて動かなくなって……。 見ていたこっちの心臓がどうにかなると思った」
「……ぽてんっ……?」
 首を傾げた志摩が、改めて広己に視線を向け てくる。広己は顔を熱くしながら、富樫のトレーナーの裾を引っ張った。
 富樫なりに、広己が庭で転んだときの様子を正確 に表現していると思っているらしく、近所の住人たちに広己の足をことを聞かれるたびに、この言い方をしているのだ。そして聞 いた皆が、一斉に爆笑するのだ。
 ――今の志摩のように。
「富樫さんの目には、広己がどんなふうに見えているのか、 よくわかる表現だなー。そうか、ぽてんっ、か。可愛らしさが伝わってくるよな。ぽてんっ……」
「……何度も言わなくてい いよ、志摩」
 さんざん腹を抱えて笑った志摩が、好奇心で目を輝かせながら身を乗り出してきた。
「それで、庭で何し てたんだ」
 志摩の視線が、広己が掴んでいる富樫のトレーナーの裾に向けられたので、さりげなく手を離す。薄々、広己と 富樫の関係を察しているようにも感じられる志摩だが、そのことで質問をぶつけてきたことはない。だから広己も、あくまで富樫 との間のことは、なんでもないふうに装っている。
 これは遠慮というより、広己と志摩の友人関係における配慮だ。
  せっかくのゴールデンウィークを、広己のために費やしてくれる友人を、大事にしたかった。だからこそ、広己と富樫の特別な関 係を知らせて、複雑な気持ちにしたくはない。
 本来なら広己は、足がこんな状態になっていなければ今頃、志摩と一緒に遊 びに出かけているはずだった。それが三日前に、富樫の言葉通りに庭で転んで捻挫をしてしまい、身動きが取れない状態だった。
 昨日は、一年間だけ過ごした高校の友人たちと、少数で同窓会をするつもりだったのだ。大学はみんなバラバラになってし まったため、高校を卒業してから初めて集まるのを楽しみにしていたのだが――。
 この足で出かけることができず、急遽、 今日になって志摩が泊まりに来てくれた。
 広己が足を見下ろしているので気になったのか、富樫が腰を屈めて顔を覗き込ん できた。
「どうした、足が痛いのか?」
「あっ……、違います」
 慌てて首を横に振った広己は、テーブルに立てか けた松葉杖を手に取る。
「庭で何をしていたか、見てもらったほうが早いと思うんです」
「俺たち二人の労作だからな。 内一人は名誉の負傷だ」
 富樫に腕を掴んでもらって立ち上がると、志摩と三人で縁側へと移動する。
 庭に干したシー ツの向こうにあるものを見た志摩は、すぐに声を上げた。
「へー、鯉のぼりだ。シーツに隠れて、おれが座っている場所から は見えなかったんだな」
 庭では、五匹の鯉のぼりと吹流しが風に吹かれて、気持ちよさそうに泳いでいる。広己も初めて見 たときは目を輝かせた光景だが、今は志摩が、まったく同じ反応をしていた。
「いいよなー、うちなんてずっとマンションだ ったから、こんなのしたくてもできなかったぜ」
「ぼくの家も。庭がそんなに広くなかったから」
 富樫を見ると、優し い顔で見つめ返される。
 この鯉のぼりは富樫の発案ではなく、この診療所を開いた富樫の伯父が、子供たちを喜ばせるため に購入して、子供の日の前に設置するのが習慣になっていたのだという。富樫は、その習慣を受け継いだのだ。
 去年はたま たま実家に戻っていたため、設置を手伝えなかっただけに、今年は手伝うつもりで広己は張り切っていた。しかし、結果は――。
 広己はため息をついて、右足を見下ろす。
「あっ、落ち込んでる」
 そう言って志摩に、からかうように頬をつつ かれた。
「……杭に張った補助ロープに足を引っ掛けて転ぶなんて、子供みたいだ……」
「ぽてんっ、と転んだんだよな」
 広己が必死に睨みつけると、志摩は顔を背けて肩を震わせる。爆笑したいところを堪えているらしい。
「感じ悪いから、 素直に笑っていいよ。志摩にバカにされるのは、慣れた」
「バカにしてない。素直に、おもしろい、と思ってるんだ」
  今度は広己が志摩の頬を突いてやろうとしていると、二人のやり取りを眺めていた富樫が、笑いながらこう言った。
「お前た ち二人を見ていると、飽きんな」
 広己一人が顔を熱くしていると、来客を告げるチャイムが鳴った。富樫が組んでいた腕を 解き、自然な動作で広己の頭を撫でてくる。
「にぎやかなのが来たぞ」
 富樫が玄関に向かうと、残された志摩が尋ねて きた。
「おれ以外に、誰か来ることになってたのか?」
「すぐにわかるよ」
 広己の言葉通り、すぐに来訪者は姿を 見せ、にぎやかな声を上げた。
「あっ、志摩さん来てたんだ」
 バッグを肩にかけて、高己が二人に駆け寄ってくる。志 摩はにんまりと笑い、高己の肩を叩いた。
「よお、受験生。ふらふら遊び歩いて大丈夫なのか」
 志摩の言葉に、高己は 露骨に顔をしかめて肩を落とす。
「来る早々、嫌なこと言わないでよ」
「いやいや、大事なことだぞ」
 高己と志摩 はすでに何度も顔を合わせ、広己も含めて一緒に遊んだこともあるので、すっかり打ち解けている。やんちゃ同士、気が合うのか もしれない。
 やっとバッグを足元に置いた高己が、表情を一変させ、顔をしかめて広己の足元を覗き込んできた。
「足、 どうなんだ。ひどい捻挫なんだろ。松葉杖使ってるし」
「ああ……、まだ痛くて」
「転んだって話だけど、よっぽどひど い転び方したのか?」
 高己の言葉を聞いて、志摩の目が輝く。何を言い出すのか察した広己は、慌てて志摩の口を塞ごうと したが、松葉杖を使っている身では素早く動けるはずもなく、よろめいている間に言われてしまった。
「ぽてんっ、と転んだ らしい。鯉のぼりを設置したときに」
 きょとんとした顔をして、高己が声に出して反芻する。
「――……ぽてんっ……」
 もう一度広己の足元を見た高己は、次の瞬間、腹を抱えて爆笑した。


 昼食を終え、テーブルの上の空になった食器を富樫がキッチンへと運んでいく。今日は、高己と志摩もいるため、食器は普段の 倍だ。
 本当なら手伝いたいところだが、この足で動いたところで、邪魔するようなものだ。実際富樫には、座っていろと言 われている。
 庭のほうからは、高己と志摩の楽しげな会話がときおり聞こえてくる。これから近くの防波堤まで釣りに出か けるため、その道具を倉庫から引っ張り出している最中だ。
 一応、広己もつき合うことになっている。富樫が、防波堤に直 接座るのはつらいからと、わざわざディレクターズ・チェアを出してくれたので、あとは、腰掛けて釣竿を垂らしていればいい。 何より、釣りをしなくても、高己と志摩の三人でいることが楽しいのだ。この二人相手なら、気をつかわなくて済む。
 自分 の前に置かれた空の食器も取り上げた富樫に、つい広己はこう言っていた。
「すみません、富樫先生。ぼくの足がこんな状態 で何もできないのに、ぼくの客が二人もお世話になって」
 食器を一度置いた富樫に、少し乱暴に頭を撫でられる。
「俺 はむしろ、高己くんと志摩くんが来て助かってるぞ」
「富樫先生……」
「連休とはいっても、診療所があるから、お前を いろんなところに遊びに連れて行けないしな。しかも、その足だ。俺の仏頂面とずっとつき合わせるのも悪いと思ってたんだ。だ から――」
 富樫の手が頬にかかり、頭を撫でたときとは打って変わった優しさで、包み込まれる。その感触だけで広己は幸 せな気持ちになる。
 微笑みかけると、富樫は目を細めた。
「だから、余計なことは考えるな。お前は目一杯楽しめばい い」
 はい、と声に出さずに返事をしたところで、広己はある気配を感じる。庭に高己が立っており、しかも不自然にこちら に背を向けている。どうやら、広己と富樫が話している場面を見て、気をつかったらしい。
 富樫は苦笑しながら、広己の頬 にかけた手を退ける。
「待ってろ。キャップを取ってくる。しっかり被っていけよ」
 自分たちの姿を見た高己が何を思 ったのか想像して、広己は羞恥で体を熱くする。
 声をかけてこなかったということは、そういうことなのだ。


 釣竿を垂らしながら、防波堤にあぐらをかいて座り込んだ志摩は、楽しげな口調で言った。
「富樫さんてさ、広己にベタ甘 だよな。あんな渋い見た目で、ちょっと怖そうなのに」
 富樫に被せられたキャップのひさしをちょっと動かして、広己は隣 の志摩に視線を向ける。ディレクターズ・チェアに、捻挫した右足だけを投げ出す姿勢で腰掛けている広己は、志摩や高己より、 視線の位置がいくらか高くなっており、話すときには少々不便だ。
「そう、かな……」
「そこで言い淀むのは、自覚はあ るって白状してるようなもんだぜ」
「あの家に来る人は、みんな兄貴に甘いんだよ。俺も含めて」
 余計なことを言うな と、広己は軽く睨む。すると志摩が身を乗り出し、高己に向けて堂々と言い放った。
「おれは、高校の寮にいる頃から、お前 の兄貴にベタ甘だったぞ。それはもう、大事にしてやった――」
「よく、志摩の使い走りをさせられたよね、ぼく」
「愛 情表現の裏返しだ」
 悪びれない志摩の言葉に、広己は声を洩らして笑ったあと、真っ青な空を見上げる。時間がゆっくりと 穏やかに流れていく感覚を実感していた。ここのところ大学も忙しくて、なかなかこんなふうに時間を過ごすことができなかった のだ。
 足を捻挫したのは情けないが、こんな時間が持てるのなら、そう悪くはない。ただ、富樫に手間をかけさせるのは心 苦しいが。
「……富樫先生にも、大事にしてもらっているよ」
 小声でぽそぽそと広己が洩らすと、しっかり二人に耳に 届いたらしく、なぜか同時に背を軽く叩かれた。
「くそっ、おれだって大事にしてきてやったのに、今みたいな、ぽやぽやん とした顔で、大事にしてもらってる、なんて言われたことないぞ」
「志摩さんて、無理にでもその言葉を、兄貴からもぎ取り そうだよね」
「兄貴は可愛いのに、弟はくそ生意気でいかんな」
 笑いながら二人のやり取りを聞いていた広己の釣竿が、 突然しなる。ここまで一度もピクリともしなかっただけに、驚いた広己は素っ頓狂な声を上げた。
「うわあっ」
 思わず 海のほうに身を乗り出しそうになったが、すかさず立ち上がった志摩に肩を掴まれて背もたれに押さえつけられる。
「お前今、 捻挫したほうの足に力を入れようとしただろう。じっとしてろ」
 高己と志摩の二人が立ち上がり、海を覗き込む。一方の広 己は力強くしなり続ける釣竿をしっかりと持ち、片足に力が入れられない状態でなんとか踏ん張る。
「広己、リールしっかり 巻けよ。見ていてやるから」
「タイミングがわからないよ」
 広己は必死に高己のほうを見る。高己は、そんな広己の様 子がおかしいらしく、表情を綻ばせていた。
「兄貴、すごい顔」
「笑ってないで、代わってよ」
「えー、今日の初釣 果の栄誉は、兄貴にあげるよ」
 広己が重そうに釣竿を抱え持つと、高己は片手でさりげなくその釣竿を支えてくれる。それ でなんとかリールを巻くことができ、ようやく魚を釣り上げる。
 さっそく高己が針を外し、魚をクーラーボックスに放り込 む。大物――とは言いがたい。
「……これ、なんの魚だ」
 志摩が怪訝そうな顔をしてクーラーボックスを覗き込む。
「メバルだよ。夕飯にするなら、もっと釣らないとね」
「よし、タイ釣ってやる」
 勢いよく釣り糸を飛ばす志摩を 見ながら広己は笑う。一方の高己は、タオルで手を拭いてから、ある方向を指さした。
「喉渇いたから、なんか買ってくる。 兄貴と志摩さんは適当でいい?」
「ぼくはお茶」
「おれは炭酸入りなら、なんでもいい」
 了解、と片手を上げて高 己が歩いていく。その背を見送っている広己に、高己がさらりと言った。
「――兄貴に似て、可愛い弟だ」
「志摩も可愛 いよ」
 真顔で広己が返すと、数秒の間を置いてから志摩は顔をしかめる。
「うああ、広己に可愛いなんて言われてしま ったっ……。超ショック」
「なんだよ、それ」
「ぽてんっ、と転ぶような子に、可愛いなんて言われたくないってこと」
 言い返そうとしたところで、鼻先を突かれる。それだけで反論を封じられた広己は、小声でぼやいた。
「……富樫先生 のせいで、当分これでからかわれるんだろうなあ……」
「おれは記憶力がいいからな。一生かもしれないぞ」
 ここで、 高校時代はどちらの記憶力が上だったかという議論に入り、釣りよりも白熱してしまうが、あっ、と志摩が声を洩らしたことで中 断する。何事かと、広己は首を傾げた。
「志摩?」
「広己のことが可愛くてたまらない人が来た……」
 志摩が指さ したほうを見ると、飲み物を抱えた高己ともう一人、長身の人物がのんびりとした足取りで防波堤のほうに向かってくる。富樫だ。
「広己が海に落ちないか、心配になって見に来たのかな」
「ぼくはそこまで、鈍臭くないよ」
「冗談だって。――ま あ、あの人が、一時も広己から目を離せないのは確かだろうけどさ」
 広己は、さりげなく志摩に視線を向ける。意味深にち らりと笑いかけてきた志摩だが、次の瞬間、目を丸くして慌てて釣竿を握り直す。
「かかったっ」
 志摩の釣竿が大きく しなり、すぐに立ち上げられない広己はおろおろとする。二人の様子に気づいた高己が駆け寄ってきて、志摩の傍らに立った。
「大物なら手伝おうか、志摩さん」
「釣り上げる前にわかるかっ」
 高己と志摩のやり取りにクスッと笑った広己だ が、すぐに、熱くなりかけた頬を撫でる。さきほどの、志摩の意味深な笑みが蘇ったのだ。
 多分、『そういう意味』を込め ての笑みだろう。
 高己もそれとなく感じているので、高己以上に聡いところがある志摩が相手なら、なおさらだ。
 一 人でうろたえ、ドキドキしている広己の頭に、キャップの上から富樫の手がのせられた。顔を上げると、優しい眼差しで見下ろさ れた。
「何か釣れたか?」
 広己がぎこちなく頷くと、何かを言おうと富樫が口を開きかけたが、そこに志摩の声が割っ て入る。
「重いっ。高己、手伝え。多分、大物だ」
 二人の慌てぶりに、富樫は呆れたように言った。
「……お前ら、 仲良く海に落ちるなよ」




 高己と志摩が一緒にいると、まるでちょっとした合宿だ。些細なことで笑い転げ、じゃれ合い、ふざけ合う。
 足の怪我で 思うように動けない広己でも、始終声を上げて笑い続けていると、さすがに体力を消耗した。それは高己や志摩も同じらしく、夜 も十時を過ぎた頃には、広己が自室として使っている客間とは別の、広いほうの客間に三人分の布団を並べて仲良く転がっていた。
 話し合ったわけでもないのに、必然的に広己は真ん中の布団で寝ることに決まってしまった。志摩に言わせると、寝相が悪 い二人をくっつけると、寝たまま殴り合いを始める恐れがある、とのことだ。確かに高己と志摩の寝相は、いいとは言いがたい。
 寝転がったまま、高己が持ってきた携帯ゲーム機を交互に遊んでいたが、意外なことに、先に志摩がギブアップしてしまい、 気がつくと、枕を抱えるようにして眠っていた。
 志摩の体に布団をかけてやると、高己がゲーム機の画面に視線を落とした まま言う。
「さすがの志摩さんも、疲れたみたいだな。今日の釣りで、大活躍だったし」
 広己も再び布団に横になると、 頷いた。昼間のことを思い出すと、つい表情が綻ぶ。
「志摩って、釣りの才能あるのかな。あれだけの時間で、たくさんイカ を釣るなんて」
「本人はタイを釣るって張り切ってたから、不本意そうだったけど」
「イカの刺身を食べて、機嫌は直っ たみたいだよ」
「単純だよなー」
 高己も人のことは言えないが、兄として広己は黙っておく。高己も志摩も単純という より、素直なのだ。
 広己はごそごそと身じろいで布団に包まる。
「高己、寝るときは電気消してね」
「うん、わか った」
 寝入るまで、ゲームを続ける高己の横顔をなんとなく眺めていたが、眠気が限界にきて目を閉じる。そうなると、意 識がなくなるのは早かった。
 スウッと意識が深い眠りに引きずり込まれ、広己は何もわからなくなった。


 心地よい眠りに浸りきっていたはずが、微かな不快感がじわじわと押し寄せてくる。最初はほんのわずかな違和感だったものが、 次第に広己の意識を侵食してきて、とうとう無視できなくなっていた。
 ゆっくり浮上してくる意識の中、嫌でも認識せざる をえなかった。
 捻挫した右足首が、痛み始めている――。
 昼間、釣りをしているとき、気をつけているつもりだった が、無意識のうちに右足首に負担をかけていたのかもしれない。痛み止めを飲んでいたため感覚が鈍くなっていたものが、薬が切 れた今になって、痛みがぶり返したのだろう。
 熱を持った右足首が、鼓動に合わせてズキッ、ズキッと痛む。さすがに、何 事もなかったようにまた眠ることは不可能だった。
 目を開けた広己は、月明かりに照らされる室内をうかがう。左右からは、 テンポの違う寝息が聞こえてきた。慎重に体を起こして両隣を見ると、高己も志摩も、見事な寝相を披露している。なんとか 手を伸ばして、二人の体に布団をかけ直した広己は、さて、と考える。
 松葉杖は廊下に置いてある。何かあったときは、高 己か志摩に遠慮なく言え、ということになっているためだ。しかし、こんなに熟睡している二人のどちらかを起こすのは忍びなか った。
 結局、物音を立てないよう気をつけながら、布団の上を這って客間を出る。
 広己は壁に手をついて立ち上がる と、片足で軽く飛び跳ねるようにして、痛み止めが置いてあるダイニングへと向かう。
 驚いたことに、ダイニングには電気 がついていた。富樫がテーブルにつき、本を開いている。傍らには、ウィスキーらしきものが入ったグラスが置いてある。
「――お子様組は、もうとっくに寝たと思ったが、まだ起きてたのか」
 柔らかな表情を浮かべながらそんなことを言った富 樫が、本を置いて立ち上がる。側まで来て腕を出されたので、広己は遠慮なくその腕に掴まって、支えられながらイスに腰掛ける。
「だったら、この家で大人組は、富樫先生だけですよ」
「今は、お前も俺の仲間だ」
 富樫に頭を撫でられ、広己は 首をすくめる。この手つきは、どう考えても広己を子供扱いしているものだが、富樫からこんなふうに触れられるのは好きだった。
 壁にかかった時計を見上げると、もう数分で日付が変わる。あまり意識はしていなかったが、高己と志摩と一緒に、普段に 比べてずいぶん早い時間から寝てしまったことになる。
「それで、起き出してきてどうしたんだ?」
「あっ、足が痛くな ってきたから、痛み止めを飲もうと思って……」
 待っていろ、と言って富樫はすぐにキッチンに向かい、グラスに水を汲ん で持ってくる。テーブルの上に置いてある痛み止めを一粒取り出し、広己は水とともに喉に流し込んだ。
 その間に富樫が床 に片膝をつき、広己の右足はそっと持ち上げられた。
「富樫先生?」
「包帯が緩んでるな。爪先まで熱を持っているし。 ――ついでだから、湿布を貼り替えて、包帯も巻き直してやる」
「……お医者さんの言う通りにします。ぼくは今は、富樫先 生の患者ですから」
 富樫が楽しそうに笑い、広己の頭をもう一度撫でてから立ち上がる。次の瞬間、広己は驚きで目を見開 くことになる。富樫に抱き上げられたからだ。
「富樫先生っ」
「大きな声を出すと、二人が起きてくるぞ」
 慌てて 唇を引き結んだ広己は、診療所へと通じる廊下を歩く富樫に小声で話しかけた。
「ぼく、歩けますよ?」
「あんなにびょ こぴょこ飛んで動くのは、歩くとは言わん。それに――夜ぐらい、お前を甘やかさせてくれ」
 切実な声で言った富樫には悪 いが、広己は心の中でこう指摘せずにはいられなかった。
 富樫先生は一日中、ぼくを甘やかしています、と。
 広己は 富樫の顔を見つめると、首に回した腕に力を込める。富樫から注がれる愛情が心地よくて、このまま溺れそうで、たまらなく幸 せだと実感できる瞬間だった。


>> (2) *Hシーン注意





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