自分の部屋を出た広己は、空のカップをキッチンで洗ったあと、ダイニングから薄暗い廊下を見る。
十一月に入り、海の
すぐ側にあるこの一帯に吹き付けてくる風はどんどん冷たくなってきて、日が落ちると、真冬の寒さを一足先に体感できる。夜遅
くともなるとなおさらだ。
厚手のカーディガンを羽織った広己は、足元から這い上がってくる冷気にブルッと大きく身を震
わせながら、診療所へと通じる廊下に出た。
この時間、いつもなら閉まっているはずの診療所から、微かに明かりが漏れて
いた。ドアの前まで行くと、人の話し声が聞こえてくる。
富樫は、誰かと電話で話しているようだ。おそらく、街の総合病
院の医者だろう。
昼過ぎに診療所を閉めてすぐに連絡が入り、急患が運び込まれてきたのだが、診察を終えた富樫は、ここ
にある機材では詳しく検査ができないと判断し、救急車を呼んだ。そして、患者やその家族と一緒に病院まで行ったのだ。
数時間ほどして富樫は一人でタクシーで戻ってきたが、患者の容態について連絡を診療所で待っており、向こうの医者と連絡を取
り合っているところまでは、広己も把握していた。
実習もまだまともにこなしていない看護学部の学生の広己は、診療所に
入って何かをすることはできないし、自分にはまだその資格がないとも思っている。同じ場にいても、富樫の煩わせるだけだった。
何時に落ち着くかわからないため、気にせず先に休めと言われるのは、いつものことだ。広己にできるのは、富樫のその言
葉を素直に受け入れることぐらいだ。
「――おやすみなさい」
小さくドアの向こうに声をかけてから、広己は自分の部
屋に戻ろうとしたが、暗いダイニングを振り返って、逡巡する。
結局、自分の枕だけを抱えて富樫の部屋に行く。ベッドの
枕元のライトを、仄かに辺りを照らす程度に絞ってから、ひんやりと冷たいベッドに潜り込んだ。
ときどき広己は、富樫の
ベッドにお邪魔して一緒に寝ている。夜中、急に不安感に襲われたことがあり、そのとき富樫のベッドに潜り込んだことがきっか
けで始まった行為だ。不安を覚えたり、人恋しさに駆られても、富樫と一緒に寝るだけでそんな気持ちは溶けてしまう。
た
とえ、富樫本人がいなくても、富樫の匂いが残るベッドに横になっているだけでも――。
広己はベッドの隅に身を寄せ、体
を丸くする。取り留めないことをぼんやりと考えながら、目を閉じていると、意外に早く眠気に意識が搦め捕られる。
ウト
ウトとしながらも、ときおりふっと意識が浮上して、またすぐに沈み込んでいく。そんなことを繰り返しながら、次第に深い眠り
の底に引きずり込まれていると、ベッドの側で微かな人の気配を感じた。
どれぐらい時間が経ったのか広己にはわからない
が、とにかく富樫もようやく眠れるらしい。
遠慮がちな衣擦れの音は、着替えているのだろう。イスに腰掛ける軋む音に続
いて、ライターの音がしたあと、ゆっくりと煙草の匂いが広己の鼻先に漂ってきた。煙草の煙は苦手だが、煙草の匂いは嫌いでは
ない。これは、富樫の匂いの一つだ。
富樫はいつもより早く煙草を吸い終えたあと、ベッドにやってきた。体を横向きにし
て眠っている広己の髪をさらりと撫でたあと、枕元のライトを消した気配がした。目を開ければ確認できることだが、眠気に意識
と体の大半を支配されていると、それすら億劫だった。
ようやくベッドに入ってきた富樫が、笑いを含んだ密やかな声で洩
らす。
「そんな端っこで寝ていると、ベッドから落ちるぞ」
そんな言葉とともに、広己の体は力強い腕で丁寧に引き寄
せられ、あっという間に富樫の腕の中にすっぽりと収まる。包み込むような腕の優しさと同時に、背では、温かく逞しい胸の感触
を感じていた。
広己を抱き締めて安堵したように富樫が吐息を洩らし、その息遣いが髪に触れて、胸が疼く。広己の眠りを
妨げないようにと気遣っている様子で、ときおり控えめに、富樫が髪に唇を押し当ててくる。
半分寝ぼけたような状態にな
りながら、広己は腰に回された富樫の腕に手をかける。すると、その手を握り締められた。
「……起きているのか、寝ている
のか、どっちなんだ」
やはり笑いを含んだ柔らかな声で問われ、さらに深く富樫の胸に取り込まれる。ぬいぐるみ状態とも
いえるが、広己は、こうやって富樫にしっかりと抱き締められるのが好きだった。何よりも雄弁に、富樫が自分に向けてくれる気
持ちを感じ取れる。
富樫の深くゆっくりとした息遣いが耳にかかる。自分以外のもう一つの鼓動を感じながら、広己は富樫
にすべてを委ねる。誰かに守られていると実感しながら眠りにつくのは、例えようもなく幸せだった。
髪や耳を掠めた富樫
の唇が首筋に当てられたときには、広己はほとんど眠りについていた。ただ、おぼろな意識で富樫の呟きは聞き取ることができた。
「チョコレートの匂い、か……?」
広己も、自分の口元から漂う甘いチョコレートの香りは認識していた。
「――
寝る前に、きちんと歯は磨けよ」
違うんです、と言いたかった広己だが、限界まできた眠気には勝てなかった。
昨日の急患の容態は落ち着いているという連絡を受け、ようやく診療所は普段通りの日曜日の午前を迎えることとなった。
二人で一週間分の食料などの買い出しに出かけるのは、習慣になっている。富樫は医者として、診療所にほぼ詰めているし、広
己は学生なので平日は慌ただしい。そうなると、二人がともにのんびりと過ごせるのは日曜日ぐらいなのだ。
だからこそ、
買い出しに出かけるだけだとしても、大事な時間だった。
富樫だけが車で出かけても差し支えはないが、いつも広己は同行
することにしている。助手席に座り、ささやかなドライブを楽しんでいる。
ショッピングセンターの駐車場に降り立った広
己は、羽織ったパーカーの前を直してから、髪を掻き上げる。陽射しがある分、凍えるほど寒くはないのだが、風が強い。
富樫に手招きされて駆け寄ると、まずはショッピングセンター内のドラッグストアに立ち寄る。まとめ買いするのは、何も食料だ
けでない。日用品は、家だけでなく診療所でも使うため、普通の家庭以上に買い溜めておかないといけないのだ。
富樫が持
つカゴに次々と洗剤などを入れていき、シャンプーや歯ブラシなども選んだところで、広己は富樫に声をかけた。
「あっ、テ
ィッシュペーパーを取ってきますね」
踵を返して、ティッシュペーパーを置いてあるコーナーに向かおうとしたが、クンッ
と引っ張られて前に進めない。何事かと思って広己が振り返ると、淡い笑みを浮かべた富樫に、パーカーのフードを掴まれていた。
「それは最後でいい。先に、入浴剤を選んでくれ」
「……富樫先生が選んでも――」
「俺は、香りとか疎いからな。
お前がいつも、いろんな種類を選んでくるのがいいんだ」
そこまで言われると、なんでもいいとは言えない。実は、入浴剤
選びをけっこう広己は楽しんでいるのだ。
コーナーを移動して、富樫と並んで入浴剤を選び始めるが、なんだか緊張してし
まう。いつもは一人でやってきて、自分好みのものを自由に手に取っているだけに、隣で富樫が生まじめな顔で入浴剤を眺めてい
ると、ひどく意識してしまうのだ。
「富樫先生、もしかして、温泉の入浴剤がいいとかあります? ぼくはけっこう、花の香
りのものを選んで買ってるんですけど。香りが甘すぎるとか思っているなら――」
「あー、だからか。風呂上がりのお前から
はいつも、シャンプーとは別にもう一つ、いい匂いがしていたんだ。俺も同じ湯に入っているのに、自分の体からどんな匂いがしているかなんて、
意識したこともないのにな」
真顔でそんなことを言われ、数秒の間を置いてから広己の顔は熱くなってくる。恥ずかしくて
たまらなくなり、とにかく顔の熱さをどうにかしようと、広己は急いで入浴剤のボトルを選んで富樫に押し付けると、今度こそテ
ィッシュペーパーの置いてある場所へと一人で向かう。
広己の様子がおかしかったらしく、背後からは富樫の抑えた笑い声
が聞こえてきた。
その後二人は一旦車に戻り、ドラッグストアで買い込んだものを後部座席に積んでから、ここからが本番
だと言わんばかりに、今度はスーパーへと向かう。
食料に関しては、広己は完全に門外漢だ。広己がほとんど料理が作れな
いのとは対照的に、富樫は学生時代から自炊をしていたというだけあって、なんでも器用に作ってしまう。いままでは自分一人で
食べていたから味に自信はないと言っているが、広己にしてみれば、富樫の作った料理はどれも美味しいと思う。
広己がそ
う言うと、お前が来てくれてからは作り甲斐があると、富樫は笑いながら頭を撫でてくれた。
一見、武骨で怖そうにも見え
る富樫だが、本当は、心が溶かされてしまいそうなほど優しい――。
真剣に野菜を選んでいる富樫の横顔に、つい広己は見
入ってしまう。それに気づいた富樫が、ふっとこちらを見た。
「どうした? 何か食べたいものがあるか」
「いえ……」
富樫の横顔に見惚れていたことを気づかれただろうかと、照れて視線を逸らした広己の頭に、ポンッと富樫の手がのせられ
る。
「お前がもう少し、食べたいものを言ってくれるようになったら、俺も献立を考えるのが楽になるんだけどな。言ってく
れたら、オムライスにケチャップで絵だって描いてやるぞ」
きょとんと目を丸くした広己だが、それが富樫の冗談だとわか
り、笑みをこぼす。
「……じゃあ、今日の夕飯はそれでお願いします」
「大作を描いてやるからな」
ついでに昼食
にはおにぎりを買って、海を眺めながら食べようということになる。これも、買い出しに出たときの定番のコースだ。
買い
物を済ませると、富樫はスーパーの袋を三つ、広己は軽い袋を一つ持って車に戻る。後部座席は見事に、買い込んだもので占めら
れた。
「じゃあ、帰るか」
富樫の言葉に頷いて、広己は助手席に乗り込む。
車を走らせてすぐ、富樫が話しかけ
てきた。
「――香りで思い出したが……」
「はい?」
「昨夜、チョコレートを食べたのか? 俺が寝ようとしたとき、
お前からチョコレートの匂いがしていたんだ。まさか寝る前に、チョコレートの入浴剤が入った風呂に浸かったわけじゃないだろ
う」
自分が入る風呂にどんな入浴剤を使っているのか無頓着ながら、広己から漂う匂いには敏感な富樫に、つい笑みをこぼ
してしまう。
広己は、膝に置いたショルダーバッグの中から小さな容器を取り出すと、信号で車が停まったときに富樫に見
せた。
「チョコレートの匂いって、これだと思います」
蓋を開け、中身を少しだけ指先に取る。それだけで車内にはふ
んわりと甘いチョコレートの香りが漂っていた。
「それはなんだ?」
「一応、リップクリームです。でも、こんなふうに
指先に取るタイプは、リップバームとも言うらしいですけど、男のぼくには、あまりよく違いがわからなくて……。実習の同
じグループの女の子が、安売りしていたのをまとめ買いしたからって、くれたんです。ぼくも、唇が少し荒れているのは気になっ
ていたから、ちょうどいいかなって」
唇の荒れは、どうやら海辺の冷たい風のせいらしい。彼女がどうして、男の広己にま
でこんなものをくれたのかは気になるところだが、唇を気にかけるいいきっかけにはなった。最近、唇が切れて血が出たばかりな
のだ。
「昨夜初めてつけてみたんですけど、本当に効果があるんですね。かさついていたのが、今朝は気にならなかったんで
す。あっ、でも、甘い香りが鼻につくなら――」
広己が慌てて容器に蓋をしようとすると、富樫の片手が頭にのせられた。
「近くに寄らないとわからないぐらいなんだから、そう気にするな。それに、美味そうな匂いだ」
「……富樫先生、甘い
ものはそんなに得意じゃないでしょう」
広己の指摘に、不自然な咳払いをした富樫だが、口元には楽しそうな笑みが浮かん
でいる。
「お前から甘い匂いがしたら、ふらふらと俺が寄っていくかもな」
思いがけず大胆な発言にうろたえた広己だ
が、言った当人である富樫までもが照れ臭そうに唇を引き結び、正面を向いてしまう。不自然な沈黙が車内を支配するが、決して
居心地は悪くない。
リップクリームの香り以上に甘い会話を交わしたことに、慣れない二人は互いにフォローできないのだ。
富樫になんと声をかけたらいいかわからない広己は、車が再び走り始めると、指に取ったままのリップクリームをそっと唇
に塗る。
「――大学では、香りのないリップクリームをつけようと思います。これは最初から、家でつけるつもりだったんで
す」
「そうしろ……。いや、そうしてくれ。俺みたいに、ふらふらと誰が寄ってくるかわからないからな」
一応、富樫
なりの冗談だと受け止め、広己は声を洩らして笑った。
富樫の患者に紹介状を届けて戻ったとき、広己の全身はすでにずぶ濡れだった。
「もう少しもつと思ったんだけど……」
玄関先に立った広己は、片腕を上げて濡れたパーカーを眺める。
買い出しから戻ってきたとき、少し天候が怪しくな
ってきたとは感じていたのだ。だが、まさか今日のうちに雨が降り出すとは思ってもみなかった。しかもよりによって、届け物を
した帰り道に。自分の間の悪さにため息をついてから、広己は大きく体を震わせる。
冷たい風と雨の中、いつまでも外で立
ち尽くしていたら風邪をひいてしまう。簡単に頭を振って水滴を散らしてから広己が玄関に入ると、待ちかねていたように、富樫
がすぐに部屋から出てきた。広己の姿を見るなり、申し訳なさそうに顔をしかめる。
「……悪かったな。のんびりしていると
ころを、使いを頼んだうえに、こんなにずぶ濡れにさせて」
「いえ、ぼくが面倒くさがって、傘を持っていかなかっただけで
すから」
促されるままダイニングに行くと、頭からすっぽりとタオルをかけられる。富樫にくしゃくしゃと髪を拭かれるの
に任せて、広己は濡れたパーカーを脱ぐ。
「今、風呂に湯を溜めているところだから、入ればいい」
「はい」
少し
手荒く髪を拭かれるが、かえってその感触が気持ちいい。広己は目を閉じて、富樫の手の動きを感じていたが、ふいに動きが止ま
る。
何事かと目を開けると、富樫がじっと広己を見つめていた。乱れた髪を、今度は優しく指で梳かれる。
あまりに
熱心に見つめられるので、間がもたなくなった広己は口を開く。
「どうかしましたか、富樫先生」
「――広己、一緒に風
呂に入るか」
唐突にこんなことを言われ、数瞬、広己の思考は停止する。
「あっ、あのっ……」
激しく動揺しな
がら何か言おうとするが、肝心の言葉が出てこない。
男同士なのだから恥ずかしがることはない――というのは建前で、広
己が誰よりも意識してしまう相手は、その同性の富樫なのだ。もちろんいままで、一緒に風呂に入ったことはない。行為のあと、
ぐったりとした広己の体を、富樫が洗ってくれたことはあるが、そのときの富樫は服を着ていた。
おろおろとして返事がで
きない広己とは対照的に、富樫は楽しげに言った。
「今日、お前が選んだ入浴剤を入れてみるか。――ほら、着替えを取って
こい」
富樫に背を押されながら促され、何も言えないまま広己は従うしかなかった。
決して嫌ではないのだ。嫌では
――。
一緒に風呂に入るという行為を、ものすごく意識してしまった自分がバカみたいだと、入浴剤とシャンプーの柔らかな香りに包
まれながら広己は苦笑を洩らす。
富樫の家の浴室は、普通の家庭よりも少々広い造りになっている。そのため、男二人が一
緒に入ったところで、そう窮屈さは感じない。もっともいままで、その広さを実感することはなかった。今日までは。
髪を
洗ってくれる富樫の指の感触が気持ちよかった。最初は緊張していた広己も、頭から思いきり湯をかけられ、こうして髪を洗われ
ているうちに、体から力が抜けてしまう。
少し強い力で、だけど丁寧にシャンプーを泡立てていき、髪に馴染ませていく富
樫の指先の動き一つ一つが、優しさに満ちているようで、ついうっとりする。
「お湯をかけるぞ。目と耳を閉じていろよ」
まるで子供に対するような富樫の物言いに、素直に広己は従う。目を閉じ、耳も手でしっかり押さえる。すると頭から、勢
いよく洗面器で湯がかけられた。プルッと頭を振ったところで、もう一度。
しっかりとシャンプーの泡を落としてから、コ
ンディショナーまでしてもらって洗い流すと、富樫は今度は泡立てたタオルを片手に、広己の手を取ろうとする。意図を察した広
己は慌てる。
「体ぐらい、自分で洗いますっ」
「おとなしくしてろ」
「でもっ……」
有無を言わさず手首を掴
まれ、腕から肩にかけて洗われ始めると、広己はビクビクと首をすくめる。そんな広己の様子がおかしいのか、富樫はもう片方の
腕も洗いながら表情を綻ばせた。
「前に、うちに迷い込んできた子猫を、飼ってやるつもりで体を洗ってやったんだが、今の
お前みたいな感じだった。びっくりしたように目を丸くしたまま、硬直してるんだ。ビクビク体を震わせながら。……俺が怖かっ
たんだろうな。次の日に逃げられた」
富樫の指先にあごをくいっと持ち上げられ、顔を仰向かせた広己は、しずくが落ちて
いる天井を見上げながら言った。
「それ、もしかすると、富樫先生が怖かったんじゃなくて、その子猫の親が迎えに来ていた
のかもしれませんよ」
「……考えたことがなかった」
首や喉元を優しく洗いながら、ぼそりと富樫が洩らす。耳には慎
重に指が這わされ、くすぐったさにまた広己は首をすくめながら、富樫を見つめて笑いかける。
「ぼくも、富樫先生に拾われ
たんですよね」
驚いたように軽く目を見開いた富樫だが、口元に淡い苦笑を浮かべた。
「俺は、親猫から子猫を取り上
げるようなまねをしたのかもしれないと、ときどき考えることがある」
「そんなことないですっ。ぼくは――……、ここに住
めて楽しいです。富樫先生に会わなかったら、ぼくは壊れていたかもしれない」
広己の言葉には答えず、富樫は何事もなか
ったようにこう言った。
「ほら、背中も洗ってやるから、体の向きを変えろ」
言われた通り富樫に背を向けると、すぐ
にタオルが押し当てられる。その瞬間、広己はビクリと体を震わせていた。
「ひゃっ……」
浴室内に、広己の上げた声
が反響する。慌てて口を閉じた広己だが、全身が燃えそうに熱くなるのは抑えられなかった。しかも背後で、富樫が噴き出した声
が聞こえる。
「……くすぐったかったか?」
「大丈夫、です」
「本当か?」
タオルで軽く背を擦られると、や
はり広己は声を上げ、腰を浮かせて逃げそうになる。とうとう富樫が、声を上げて笑いだした。
「お前は本当に、背中が敏感
だな。腋をくすぐるより反応がいい」
「ぼくで遊ばないでくださいっ」
なんとか富樫の手からタオルをもぎ取った広己
は、仕返しではないが、当然のように提案した。
「今度は、ぼくが富樫先生を洗ってあげます」
富樫がニヤリと笑う。
「言っておくが、俺はくすぐられるのには強いぞ」
「わかりませんよ。自分が知らないだけかもしれません。ぼくが、探
してあげます」
広己が目を輝かせると、急に真剣な顔になって富樫は頷いた。
「それはいいが――、見た目によらず大
胆なことを言うな」
ハッと我に返ってうろたえる広己を楽しげに眺めて、富樫は広い背を向ける。
「存分に洗ってくれ」
そう言った富樫の声は、微かに震えていた。思いきり笑いたいところを、懸命に堪えているのかもしれない。
「……富
樫先生、ぼくをからかって楽しそうですね」
「ああ、楽しくてたまらんな」
素直に背を洗おうかと思っていた広己だが、
気が変わる。洗面器にたっぷり湯を取ると、富樫の頭の上からいきなりかけてやった。
もちろん、心が広い富樫はこんなこ
とで怒るはずもなく、むしろ、本格的に広己をからかって楽しむ気になったようだった。
バスタオルを敷いたカーペットの上に転がった広己は吐息を洩らす。富樫と一緒に入ったこともあり、いつもとは比較にならな
いほど長風呂をしたせいで、のぼせてしまった。
体を洗いながら富樫とじゃれ合い、湯に浸かってからも富樫とじゃれ合い
――。
「俺にも責任の半分はあるな」
広己の傍らに座り込んだ富樫が、ややぐったりした顔で洩らす。そんな富樫を見
上げながら、広己は笑みをこぼす。
「でも、楽しかったですよ。先生に髪と体を洗ってもらって、気持ちよかったし」
「うちの風呂が大きくてよかったな。こういう楽しみ方があるとは、何年も住んでいて、今日まで気がつかなかった」
また
一緒に入るかと問われ、広己は頷く。すると、ふいに富樫が覆い被さってきて、広己の首筋に顔を寄せてきた。一瞬、キスされる
のかと思い、それでなくても速くなっていた広己の鼓動は、さらに速くなる。
「富樫、先生……?」
「ミルクの匂いだな、
甘い」
「えっ、あっ、もしかして、この香りは苦手ですか? 初めて見た入浴剤だったから、咄嗟にカゴに入れたんです」
「いや……。いい匂いだ」
ぎゅっと抱き締められ、湯あたりもどこかにいきそうだ。広己は照れながらも、両腕を富樫
の背に回す。さきほど、自分が洗ってあげた広い背だ。
広己が富樫の肩に顔をすり寄せると、優しく髪を撫でられる。促さ
れるように顔を上げた途端、待ちかねていたように唇が重ねられ、軽く吸われる。すぐに広己も応じ、そっと唇を啄ばみ合ってい
たが、ふと何かに気づいたように富樫が顔を上げた。
「……広己」
「はい?」
「お前のあのリップクリームを持って
こい」
強い力で引っ張り起こされた広己は、わけがわからないまま自分の部屋に行き、ショルダーバッグに入れたままのリ
ップクリームの容器を持って戻る。
富樫に手招きされて座ると、容器を取り上げられた。富樫の意図はすぐにわかった。
容器の蓋を開けた富樫がリップクリームを掬い、広己は片手であごを持ち上げられる。優しく唇を撫でるようにして、リッ
プクリームが塗られていく。
羽毛でくすぐられるような感触に、つい広己は目を閉じていた。室内に、外から聞こえる雨音
が響く。
ここはひどく静かで、温かい。何より、唇に触れる富樫の指の感触が、心地よくてたまらなかった。
「――終
わったぞ」
富樫の言葉に目を開けた広己は、にっこりと笑いかける。
「せっかくだから、富樫先生も塗ってあげますよ」
「いや、俺は……。俺みたいなのが、口元からチョコレートの香りをプンプンさせていたら、おかしいだろ」
「ここに来
る子供や女の人に、もっと好かれるかもしれませんよ。先生美味しそうって」
広己の言葉に、富樫は奇妙な顔をする。
「…
…お前はときどき、天然だとわかっていても、際どいことを言うよな。聞いていて、ドキリとすることがある」
どういう意
味かと尋ねようとしたが、富樫の引き寄せられて両腕の中に捉えられる。まだ湿っている髪に口づけられ、広己の胸はズキリと疼
いた。
「お前と、日曜日にこんなふうにのんびりとできるのはいつまでだろうな。大学が今より忙しくなって、実習も増えた
ら、お前は日曜日でも出かけることが多くなるだろうし、友達とのつき合いもあるだろう」
広己は、少し寂しく感じる富樫
の言葉を聞いてから、自分を抱き締めている逞しい腕に手をかける。
「でも――、ぼくが一緒にお風呂に入るのは、富樫先生
だけです。それに、お風呂は毎日入るから、平日も日曜日も関係ないですよ」
「それはつまり、毎日でも俺と一緒に風呂に入
るということか」
「ち、違っ――……」
慌てて広己が振り返ると、富樫は笑いを噛み殺した顔をしていた。からかわれ
たのだ。
「まあ、のんびりできなくても、こうして一緒の家に暮らしているんだ。ゆっくり話せる時間が取れないほど忙しく
なったとしても――」
富樫の指先に、軽く唇を擦られた。
「疲れて眠り込んでいるお前の唇に、こうしてリップクリー
ムを塗ってやるぐらいはできるしな」
広己は笑みをこぼすと、富樫の肩に頭を預ける。ここで、急に思い出したように富樫
に釘を刺された。
「広己、大学ではこのリップクリームはつけるなよ。……本当に、誰がこの甘い香りにふらふらと誘われる
か、わかったものじゃない……」
意外に本気で言っている節がある富樫に、悪いと思いつつも広己は笑ってしまった。
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