祖父母の墓の前で立ち止まった塚本昭洋は、きれいに供えられた花と、まだ細く煙が立ち上って
いる線香を見て、奇妙な安堵感を味わっていた。
また今年も来てくれた――。
祖父母が揃って事故で亡くなってから、もう四年が経つ。昭洋が大学二年のときだ。そのときか
ら毎年、命日の日には誰かが昭洋よりも一足先に墓参りに訪れているのだ。
ほとんどつき合いのない親戚たちではない。海外で再婚生活を送っている母親のはずも、もちろ
んない。父親は――と考える必要すらなかった。
昭洋が生まれてすぐに離婚したという父親だ。別れた妻の両親を気づかうどころか、子である昭
洋のことすら思い出すこともないだろう。
自分が持ってきた花を供えながら、昭洋は唇に苦い笑みを浮かべる。
改めて自分は、家族や家庭というものに縁のない人間だと思った。寂しいという感傷は、二十四
年の人生の中で、どこかに置き忘れてきたようだ。
それでいて、毎年律儀に祖父母の墓参りに訪れている会ったこともない人物に対しては、
人恋し
さを刺激されるのだ。
墓に向かって手を合わせてから、祖父母に対して心の中で、自分の生活の報告をする。
とりあえず、ギリギリのところで人間らしさを保っていると。
立ち上がった昭洋は、すでに真夏を思わせる陽射しのまぶしさに軽く目を細めた。
感情とは煩わしいものである。
自分がいっそのこと、出来の良し悪しは別として、機械にでもなってしまえば、生きるのはずい
ぶん楽なのかもしれない。
昭洋は一人黙々と歩きながら、朝からそんなことを考えていた。その傍らを、同じビルに向かっ
ている人間たちが足早に通り過ぎていく。
「――おっす」
突然、背後から肩を叩かれて、昭洋はハッとして振り返る。強烈な太陽の陽射しを跳ね返してし
まいそうな明るい表情で、布施勇二が立っていた。
「布施……」
前方に回り込んできた布施が、まじまじと昭洋の顔を覗き込んでくる。
「塚本、お前大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「そうかな」
思わず自分の頬に触れる。すでに暑気あたり気味で、そのうえ不眠症が深刻なところにきている。
他人にも悟られるようなら考えものだ。
布施は人好きのする顔に、心配そうな表情を浮かべる。
「……昨日、墓参りだったんだろ。一人で大丈夫だったのか?」
並んで歩きながら、布施がためらいがちに切り出す。部署は違うが同期である布施は、昭洋にと
っては今のところ、唯一の友人だ。昨日休む理由だけは話しておいた。
昭洋はちらりと笑みを浮かべる。
「大丈夫も何も、親戚を呼んで法事をするわけじゃないしな。一人でただ墓参りするだけだから、
問題の起こりようもないし、気疲れもない」
幼い頃に離婚した両親に見捨てられて、昭洋は母方の祖父母の籍に入れられた。母親はときおり、
思い出したようにハガキをくれるが、父親に関しては、顔はおろかな名前すら知らない。どうやら
忌むべき存在だったらしく、誰も昭洋の父親のことは教えてくれなかったのだ。
もっとも、いまさら知りたいとも思わないが。
布施は納得したように頷く。
「だったら、仕事のほうか。……最近、露骨になってきてるからな。うちの会社の内部対立」
らしくない皮肉っぽい視線を、布施は前方へと向ける。視線の先には、出社してくる人間たちを
どんどん呑み込んでいく保険会社の本社ビルがある。そこが、昭洋たちの職場だ。
日本では、歴史の古さと規模では三指に入る損害保険会社だが、ここ数年は外資系に押されて苦
戦している。だが、社員たちが切実に直面している問題は、実は社内にあった。
「お前も因果な課に配属されたもんだよな。俺たちぐらいの若手なら、本当なら上の権力抗争なん
て対岸の火事みたいなものなのに」
「……ぼくは、違う、か?」
「違うな。あの高畠次長のお気に入りってだけで、お前は社長派から目をつけられてる。営
業の俺の耳にも入ってくるぐらいだからな。その真っ只中、最前線ともなると、風当たりはかなり
のもんだろ?」
ややうつむいた昭洋は、唇に苦い笑みを刻んでから、軽く前髪をかき上げる。
「――仕事は仕事だ。誰がトップに立とうが関係ない。ぼくは言われた仕事をやるだけだ」
布施は深刻そうなため息を吐く。
「高畠次長は、お前のその、熱のなさが気に入ってんのかもな」
初めて言われた言葉だった。昭洋は視線で意味を問いかける。
「……欲とか野心とか、感じさせないだろ、お前。多分、上昇志向の強い人間にとっては、そうい
うタイプが安全なんじゃないか。側に置いてても。実力はあるが手駒が少ない専務派は、どんな若
手でもどんどん取り込んでるって話だしな」
「買い被ってるな。ぼくはただの、秘書課の人間だというだけだ」
三階までの吹き抜けとなっている、開放感に溢れたロビーに足を踏み入れると、昭洋はエレベー
ターのほうに向かおうとする布施に軽く手を上げて別れようとする。
「おいっ……」
「二階に用があるから、階段を使う。――グチ聞いてくれてありがとう」
背を向けて行こうとしたが、追いついた布施に腕を掴まれてとめられた。見ると布施は、怒った
ような顔をしている。
「あれのどこがグチだ。グチってのは、もっと可愛げがあるもんだ」
一瞬呆気に取られた昭洋だが、次の瞬間には声を洩らして笑う。うろたえたように布施は慌て、
昭洋は掴まれていた腕を離された。
「……この頃のお前を見てると不安になる。必要以上に自分を殺してるように見えて。俺なんて頼
りにならないだろうけど、グチぐらい聞いてやる。俺なら、会長・社長派も、専務派も関係ないだ
ろ?」
友人の、自分に対する過分にすぎる優しさに対して、昭洋は心の底から感謝する。
「ありがとう。布施」
二階での所用を済ませてから、昭洋は第二秘書課があるフロアへとエレベーターで向かう。
他のフロアに比べて、出社時間だというのに人の姿がまばらなフロアだった。それだけここが、
特殊な場所だということを物語ってもいる。
足音を殺してしまう絨毯を踏みしめてから、物々しさと寒々しさを漂わせた扉の前で立ち止まる。
出入りする人間をチェックするため欠かせないセキュリティーカードを機械に差し込み、すぐに
引き抜く。昭洋は重い扉を押し開いた。
そこにはいつものように、整然としながらも慌しい空気があった。
挨拶をする昭洋の傍らを、重そうなファイルを抱えた女性秘書が、小走りに駆け抜けて部屋を出
て行く。この時間、デスクにじっくりと腰を落ち着けていられるような人間はいないのだ。
一日会社を休んだだけなのに、昭洋はこの第二秘書課の感覚を取り戻すため、立ち尽くしたまま
わずかな時間が必要だった。二年もここに所属していながら、いまだ浸りきれていない証拠かもし
れない。
静かに深呼吸をしてから、昭洋は自分のデスクへと歩み寄った。
長い一日は、始まったばかりだ。
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