心地の良い場所 −ZERO− 
ZERO。 



 デスクに頬杖をついた昭洋は、開けた窓の外をぼんやりと見つめる。向かいに建ち並ぶビルぐらいしか見るべきものはないが、 それでも、天気が悪くて今にも雨が降りそうだということはわかる。さきほどから、空気が湿っぽかった。
 ここのところ、 初夏の訪れを感じさせる蒸し暑い日が続いていたが、今日はわずかばかり肌寒いようだ。
 昭洋が、自分の精神状態を立ち 直らせている間も、確実に季節は流れていたということだ。同時にそれは、世界が絶えず動き続けていたということでもある。 目まぐるしく。
 小さな覚悟を決めてから、昭洋はもう一度、デスクの上に広げた新聞に視線を落とす。一面の片隅に、見 覚えのある男の顔写真が掲載されていた。
 政治資金規正法で起訴された男が、第一審で言い渡された判決に対して控訴し なかったという内容で、それによって執行猶予つきの刑が確定した。この事件に関連して、ある政治家の会計担当者の裁判も 行われてはいるものの、有罪に持ち込むのは難しいという話だ。
 すべては、こうして新聞に顔写真が出ている男の計画通 りなのか、最低限の関係者の名しか表には出なかった。槙瀬の話では、地検による関係者への事情聴取も難航したのだという。
 そして昭洋は、何事もなかったように、槙瀬調査事務所にいる。しかも、事務員として。
 もっとも、事務員とはい っても、三日前からの話だ。つまり新人だ。
 少しの間、槙瀬とは一緒に暮らしていたが、今はまた別々に暮らしている。 どれだけ一緒に暮らしたところで、自然な形の父子には決してなれない。そのことを確認するための期間だったと昭洋は思っている。
 案外、別々の場所で暮らしているほうが気持ちは落ち着くし、槙瀬に対しての気持ちにも、余裕が持てるようだった。
 日々を重ねて、互いにとって心地いい関係を模索していくのは、つらくはないが、まだどこかぎこちなさが残る作業だっ た。そのぎこちなさすら、いつかは慣れてしまうものなのか。
 昭洋は何かを振り切るように新聞を畳むと、途中だった書類 仕事を再開する。今のところ、槙瀬に言われるままポツポツと事務を覚えている最中だが、そのうち、事務所に溜め込んである 書類を整理して、パソコンでデータベース化してしまおうと考えている。
 槙瀬にこのことを話すと、あまり張り切るなと、 この事務所の経営者らしからぬ忠告をしていた。
 その槙瀬は仕事のため出かけており、事務所には現在、昭洋一人だけだ。 できることなら他人と顔を合わせたくない昭洋としては、勤め始めて三日目だというのに、いまだに来客が一人もないこの職場 は、非常に気楽だった。
 こんな状態がずっと続けばいいのだが、と考えた矢先だった。この事務所が入っている雑居ビル の階段を上がってくる足音が聞こえてくる。
 一瞬、槙瀬が戻ってきたのだろうかとも思ったが、歩くテンポが違う。だと したら、上の階の出版社の社員かもしれないと、半ば願望のような昭洋の推測は、次の瞬間、外れた。
 事務所のドアが軽 やかにノックされたのだ。
「槙瀬さん、ちょっと相談が――」
 そんな声とともにドアが開けられる。昭洋が声を上げ る暇もなかった。
「あっ……」
 無礼な訪問者は短く声を上げ、ドアを開けた格好のまま動きを止める。槙瀬ではなく、 見知らぬ若い男が事務所にいることにひどく驚いたようだ。一方の昭洋は、驚きよりも警戒心のほうが先に立ち、身構えながら 男を観察する。
 三十歳ぐらいの長身のハンサムで、見るからに仕立てのいいスーツを着ている。どことなく甘い雰囲気が 漂い、恵まれた容貌もあって、女受けは抜群によさそうだった。ただ、普通のサラリーマンではないだろう。
 この事務所 が抱えている事情はまだよくわかっていないが、槙瀬と接していれば、ある程度の客筋は把握できる。
「……もしかして、 この事務所の所員、か?」
 所員というより、事務員というほうがしっくりくるのだろうが、とりあえず昭洋は頷いて、軽 く会釈する。
「へえ。そりゃすごい。あのオヤジに、一体どんな変化が起こったんだ。この事務所に所員を置くなんて、俺 が知っている限り初めてだぞ」
 初対面なのに、馴れ馴れしい男だなと思った昭洋だが、顔には出さない。すでに男の存在 など眼中にないとばかりに書類に意識を集中しようとする。しかし男のほうは、昭洋に興味津々らしい。
 向かいのデスク のイスを引き、図々しくも腰掛ける。まるで嫌味のようにデスクに身を乗り出し、昭洋の顔を見つめてきた。ちらりとそれを確 認した昭洋は、意地になって書類に視線を落とす。
「――無口だな。愛想もないし。だけど、どうして槙瀬さんが雇ったの か、わかる気もする。あの人は、よくしゃべる人間が嫌いだ。だから俺は、嫌われるギリギリのライン上にいる」
 ペラペ ラと話す男の前で、渋い顔をする槙瀬の姿を想像して、思わず昭洋は唇を微かに綻ばせる。
 ふと、いつの間にか男のおし ゃべりが止まっていることに気づき、仕方なくまたちらりと視線を上げる。男は、怖いほど真剣な眼差しで昭洋を見ていた。
 この瞬間、昭洋が感じたのは、男は陽気なふりをしているだけの食えない種類の人間だということだった。
 柔らか な物腰と甘い笑み。滑らかな語り口調に、どことなく人を見透かしたような眼差し。
 昭洋は、この男と似た人物を知って いた。
「ようやく、まともに俺を見てくれたな」
 男の言葉に我に返った昭洋は、自分が真正面から男を見つめている ことに気づく。男はさらに甘い笑みを向けてきた。
「俺は、水野だ。水野(みずの)潤一(じゅんいち)。一応、この事務所のお得意様だから、名前 を覚えておいて損はないぞ」
「……塚本です。三日前から、ここで働き始めました」
「できれば、名前も知りたい」
 昭洋はそっと息を吐き出すと、素直に答える。
 迷惑なことに、水野と名乗った男は本格的に昭洋と話し込む気にな ったのか、デスクに頬杖をつき、思いきり寛いだ姿勢であれこれと質問してくる。昭洋は、迷惑だという空気を露骨に振り撒き ながら、素っ気ない返事を繰り返していた。
 高畠とどこか似た雰囲気を持っているが、さらによく話す男。こうして顔を つき合わせているとよくわかるが、高畠と外見上似ているところなど、まったくないのだ。
 何より――。昭洋が冷めた視 線を向けても、水野のおしゃべりを止めることはできない。
 よくしゃべる男は、高畠よりいくらか優しげに見えた。ただ しこの場合、優しさは好意的な判断材料にはならない。
 優しさを表に出す人間は信用できなかった。だから昭洋が、水野 を信用することはないだろう。
 何度顔を合わせようが――。






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