心地の良い場所 −ZERO− 
17。 



 昭洋はゆっくりと目を閉じ、アルコール臭い息を吐き出す。顔を背けようとしたが、それを阻むように槙瀬の大きく厚みのある 手に頬を撫でられた。
「……想像したくないな。ぼくと寝た男二人が、この部屋で顔を合わせたなんて……」
 わ ざと下卑た言い方をしてみるが、気分が悪くてあとが続かない。黙り込んで体を横に向けると、槙瀬がベッドから離れた気配がし て、すぐに眼前にペットボトルが突き出された。
 昭洋はため息をつき、槙瀬の腕に支えられながら体を起こす。このとき気 づいたが、いつの間にか外は暗くなっていた。
「何がどうなっているか、教えて……」
 水を飲んでからそう言うと、槙 瀬は再びベッドに腰掛ける。昭洋は誘われるように槙瀬にもたれかかった。
「――事務所に、高畠から電話があった。お前と 一緒にいるとな。そして、引き取りにきてくれと言われた」
 即座に昭洋は、高畠に見捨てられたのだと思った。昭洋の存在 を厄介だと感じ、そうと悟られないよう優しい言葉をかけ、酔わせて、槙瀬を迎えにこさせて立ち去ってしまったのだ。
 ペ ットボトルを握り締め、唇を噛むと、昭洋が何を考えたのか察したらしく、槙瀬に再び頬を撫でられた。
「ロビーでこの部屋 のキーを渡されたが、そのとき高畠は、こう言っていた。……できることならお前を連れて逃げたいところだと。俺に渡すのが癪 で堪らんともな」
「高畠、さんが……?」
「できないのは、高畠には大事な用があるからだ。――正直俺は、お前は何が あっても高畠にはもう近づかないと確信して、安心していた。お前は、高畠を嫌っていると思い込んでいた」
「……ぼくは、 高畠さんが……」
 好きも嫌いもない。そういう感情を抱く相手ではない――と思っていたが、よくわからなかった。槙瀬以 前に深く関係を持ち、昭洋から怒りや嫌悪や苛立ちといった負の感情を引き出した男だ。そして、生きているという実感を肉体に 教えてくれた。
「お前には黙っていたが、俺は今も、お前がいた会社の動きを調べている。またお前に何かしでかすんじゃな いかと、それが心配だからな。ただしこれは俺の一存じゃない。藤島氏からの依頼を受けてのものだ。あの人も、お前をひどく心 配しているからな」
 昭洋が目を見開くと、槙瀬に頷いて返された。
「お前は、お前本人が思っているよりも、周囲の人 間に大事にされている。ありがたく感じろと言う気はない。ただ、心には留めておいてくれ。それが、お前をこの世に繋ぎ止める 方法の一つになるはずだからな」
「でも……、ずっとぼくの側にはいてくれないじゃないか。どれだけ大事に思っていたとし ても、ぼくが側にいてほしいときに、いてくれない……」
 ベッドに腰掛けたまま前屈みとなった昭洋は、自分の足元に視線 を落とす。脱力感がひどく、このまま崩れ込みたかった。今の自分には、立っているための芯がないのだと思った。だからこそ自 分の心を支えきれないという、危うい確信めいたものがある。
 槙瀬とこうして話していても、心だけがどこにいってしまい そうだ。
「だから、高畠を頼ったのか」
 槙瀬の声は、少し怖かった。怒っているようでもあるが、ちらりと見た横顔は、 いつもと変わらない。
 短く息を吐き出した昭洋は、水をもう一口飲む。思考が散漫で、集中力もなくなりかけているため、 何も考えたくなかった。この部屋には昭洋一人が残され、そこに槙瀬がやってきたというだけで、事実としては十分なはずだ。
「わからない……。ただ、この間、あの人から電話があったとき、会ってほしいとも言われたんだ。そのことが頭にあって… …。どうせぼくには、他に頼れる人はいないし、自棄になっていたのかも」
「わからない、か。本当は、わかっているんじゃ ないのか」
 口調は変わらないが、槙瀬の追及は厳しかった。まるで、昭洋が目を背けようとしているものを、直視しろと言 わんばかりだ。
 数度水を口に含みながら押し黙っていた昭洋だが、とうとう心の内を吐露する。
「――……あの人なら、 ぼくの孤独をわかってくれると思ったのかもしれない。嫌な人だけど、あの人もずっと孤独……独りだった。野心家で独善的で執 念深くて……、心の中には誰も立ち入らせなかった。ぼくのように」
「似たもの同士か」
 新鮮な言葉の響きに目を丸くした 昭洋は、ゆっくりと淡い苦笑を浮かべる。やっと、受け止める覚悟がついた。
「そうかも、しれない……。でも、あの人はど う感じていたんだろう。結局ぼくは、高畠九美彦という男の、具合のいいおもちゃだったのかもしれない。だからこうして、厄介 払いするように置いていかれた」
「――それは違う」
 ペットボトルを持つ手を、槙瀬にぐっと掴まれた。さらに 顔を覗き込まれる。向けられる厳しい眼差しに、一瞬息を呑んでいた。
「さっき言っただろう。高 畠はロビーで俺に、お前を連れて逃げたいと言ったと。あれは、本気だった。本気で言って、本気で俺を憎んでいた。それでも高 畠は……、お前を俺に託したんだ」
「ど、して……」
「そうしないと、お前が騒動の渦中に引き戻されるとわかっている からだ」
 槙瀬が何を言おうとしているのか、昭洋にはよくわからなかった。なのに、ひどく胸がざわつくき、苦しくなる。 このとき昭洋は、初めて高畠を本気で心配していた。
 意識しないまま、震える声が出ていた。
「……高畠さんに何があ ったのか、知ってるんだね……」
「言ってもいいが、一つ約束しろ」
 何も考えられないまま、半ば条件反射で昭洋は頷 く。槙瀬の迫力に圧されたということもある。
「どんなにつらくなっても、俺の前からいなくなるな。お前の心が壊れそうで も、俺を苦しめると思っても」
「でも――」
「覚悟を決めろと言ってるんだ。もう逃げ出さないと」
 見えない刃を 喉元に突きつけられたようだった。昭洋は一心に槙瀬を見つめ、不安定に揺れる心を少しずつ落ち着ける。心なしか、頭の芯を覆 っていたアルコールがいくらか抜けたようだ。
「わかった……。教えて」
 そう言った昭洋の頬に、槙瀬の手がかかる。 燃えそうに熱い手に気を取られそうになったが、すぐに槙瀬の唇の動きに意識を向ける。
「高畠は――」
 昭洋は、槙瀬 の話を聞き終えると同時に、ペットボトルを足元に落として、ベッドに倒れ込んだ。




 こうして横になっていると、元の状態に戻ってしまったようだ。
 布団に横になった昭洋は、顔を大きく仰のかせて窓を見 上げる。カーテンが開けられ、真っ青な空がいくらか見えた。部屋に閉じこもり、横になったままなのがもったいなくなるような 天気のよさだ。
 少し前の昭洋なら、病院で処方された薬を飲み、何をするわけでもなく、ただ槙瀬から体温を与えられるの を待っていただろう。
 でも今の昭洋には、もうそんなふうに過ごせる日々が終わったことがわかっていた。停滞し、澱み続 けることは許されない。
 窓から見える空の青さに目を細めて、昭洋は心の中で呟く。外に出てみたくなるほど、天気がいい と。
 こんな気持ちになったのはずいぶん久しぶりだった。
 ほっと息を吐き出し、ようやく体を起こすと、ダイニング にいた槙瀬はその気配を感じ取ったのか、開いたままにしてあるドアから顔を覗かせた。
「起きたのか」
「うん……。朝 だからね。そろそろ、生活のリズムを元に戻さないと困る」
 昭洋の言葉に、槙瀬は驚いたように目を丸くする。その反応の 意味を、昭洋は痛いほどわかっていた。
 唇を歪めるようにして笑うと、槙瀬が傍らにまで来て畳に膝をついた。
「昭洋、 お前……」
「ぼくが、高畠さんのことでショックを受けて、また寝込んでひどい状態になると思った?」
「……正直な」
「聞いた瞬間はショックだったけど、今は、『ああ、そうなのか』という感想しか湧かない。というか、そう思えるまでには、 落ち着いたつもりだよ」
 槙瀬は、昭洋の言葉の真意を測るように見つめていたが、ふっと視線を緩めると、手荒く頭を撫で てきた。
「コーヒー飲むか? 淹れてきてやる」
「うん」
 槙瀬が部屋を出ていき、昭洋はため息をついてから窓の ほうに顔を向ける。当然のように高畠のことを考えていた。
 今頃、何度目かの事情聴取を受けているのだろうか、と。
 ホテルの部屋で槙瀬から聞かされたのは、高畠が、地検から任意による事情聴取を受けに向かったというものだった。これまで 再三にわたって求められていたが、昭洋と会った日、とうとう応じたのだという。
 槙瀬からこのことを告げられても、昭洋 は最初、なんのことかさっぱり意味がわからなかった。ただ、順を追って丁寧に説明されれば、どうしてこんなに大切なことを自 分は意識の外に置いていられたのかと、愕然とするしかなかった。
 会社の内情に興味を持っているのは、公取委だけではな かったのだ。むしろ、そちらは見せかけで、本命は地検の特捜部だったのだと、今だからいえる。
 高畠は、昭洋が扱ってい た経費委員会名義の予算を、流用していた。単なる私的流用ではない。委員会のメンバーである何名かの政治家に、帳簿上に出せ ない献金をしていたのだ。これは明らかに政治資金を定めた法律に違反しており、高畠ほどの男がそのことを認識していないはず がなかった。
 高畠は、誰のために――もしくは自分のためだとして、なんの目的があってそんなことをしたのか、昭洋には わからない。強烈な上昇志向を持っていた男だ。なんの利益もなしに、リスクの大きなことをするとは思えなかった。
 はっ きりしているのは、すでに刑事告発をされており、関係者の事情聴取の内容と証拠によって、高畠は逮捕される立場にあるという ことだった。だから高畠は、事件の当事者として任意の事情聴取を拒み続けていたのだ。昭洋と会ったあの日まで。
 槙瀬か らこのことを聞かされたとき、昭洋はそのまま気を失ってしまったが、目が覚めてからは、槙瀬にまた話を聞かせてもらい、自分 なりに気持ちの整理はつけたつもりだった。
「――高畠は、お前を守ったんだ」
 ふいに声をかけられ、昭洋は振り返る。 カップを手にした槙瀬が側にやってくるところだった。慎重な手つきで渡されたカップを受け取ると、槙瀬は傍らにあぐらをかい て座り込む。昭洋はちらりと笑いかけた。
「まだぼくに、隠し事をしてたんだ」
「……昨夜、ある筋から情報が入っただ けだ。すぐにお前に言うつもりだったが、昨夜は帰りが遅くて、お前はもう寝ていたからな」
「冗談だよ」
 昭洋は熱い コーヒーに息を吹きかけ、一口啜る。感情の揺れを見透かされたくなくて、あえて槙瀬のほうを見ないよう、コーヒーに視線を落 とし続ける。昭洋の意図を察したのか、槙瀬は話し始めた。
「地検の特捜部が動いていると知って、会社はすべてを隠し通そ うとする方針を決めたそうだ。あくまで被害は最小限に、ということで社長派と専務派が手を組んだ。そこで必要になるのは、生 贄として地検に差し出しても、大して抵抗もできないような、従順な羊だ。そして、その羊を追い立てる番犬も必要」
 羊と は、昭洋のことだ。番犬はもちろん、高畠以外いない。
「会社と自分の立場を守るために、当然のように高畠は双方からの提 案に頷くと思われたが、実際は違った。高畠は反対に、二つの派閥を脅した。……狡猾な男だ、高畠は。流用していた資金を、社 長派の重役や、そこと繋がりのある政治家にも流していた。自分で会社内の対立を演出して、どちらの派閥が力を増してもいいよ う、保険をかけておいたんだ」
 あの人らしいと、驚きよりも苦笑が洩れる。会社の裏側を知っているつもりになっていた昭 洋だが、高畠はそれ以上の裏側を知るどころか、自ら深みを作り上げて身を潜ませていたのだ。
「上の人間は大騒ぎだ。会社 の上層部や政治家、関係者を含めたら、百人以上の人間が事情聴取で引っ張られる事態になりかねない。――高畠の言動次第でな」
「……誰よりも野心的に見えた男は、実はもう、会社を支配する力を持っていたというわけか」
「そう。そんな男が、 お前を守るために動いた」
 コーヒーをもう一口啜ろうとした昭洋だが、唇が震えてそれができなかった。畳の上にカップを 置くと、膝を抱えて顔を埋める。槙瀬が何を言おうとしているか、ようやく理解できた。
「――どんな従順な羊でも選べるは ずなのに、高畠さんは……、自分を差し出したんだね。ぼくを、会社からも地検からも、それ以外の人間からも守るために」
 槙瀬の大きな手が頭にのせられる。温かな感触に、涙が出そうになった。
「守ったというのは、本来違うのかもな……。お 前を特別な仕事に引き込んだのは、高畠だ。ある意味、責任を取ったともいえる。どう感じるかは、お前次第だ」
 どう感じ ているのか、正直なところ、今の昭洋にはよくわからなかった。高畠に感謝したいような、反発したいような、どうしてそこまで するのかと尋ねたいような、不思議な気持ちになっていた。
 ただ、高畠と二人で飲んだときの情景が思い出され、むしょう に切なかった。おそらくもう、高畠とあんなふうに向き合うことはないはずだと思うと、なおさらだ。
「今話したことは、俺 が推測で補った部分もある。どの部分を、とは聞くなよ。俺も考え続けているうちに、わからなくなった。高畠が油断ならない嫌 な男なのは事実だ。その男が、なんの見返りもなしにすべての矢面に立つとも思えない。俺の知らないところで、誰かと裏取引を しているかもしれない。あいつは、何人かの政治家の命運も握っているんだからな」
 槙瀬の言葉は、決して高畠を誹謗する ためのものではなかった。昭洋が感じるであろうつらさを和らげるための痛み止めのようなものだ。
 それがわかる程度には、 昭洋は大人のつもりだった。
 抱えた膝に顔を埋め続ける昭洋の頭を、槙瀬は何度も撫でてくれる。素直に、その感触を嬉し いと思った。槙瀬から離れたくないとも、率直に思った。多分昭洋は、一人では生きていけない。自分が苦しくても、槙瀬を苦し めたとしても、もう、一人は嫌なのだ。
 それはきっと、槙瀬も――。
 ぎこちなく頭を上げた昭洋は、わずかに滲んで いた涙を手の甲で拭ってから槙瀬を見る。
「槙瀬さん――」
 昭洋が口を開こうとしたとき、頭を撫でていた槙瀬の手が 移動し、強く頬を撫でられた。そして、思い詰めた顔でこう言った。
「お前がこの部屋からいなくなったとき、俺は動揺して、 ただうろたえるだけだった。お前がこの世からいなくなったのかもしれないと、それだけが怖かった」
 首の後ろに手がかか り、昭洋は引き寄せられる。槙瀬にきつく抱き締められ、半ば条件反射のように昭洋も槙瀬の背に両腕を回してしがみついた。
「頼むから、どこにもいかないでくれ。俺を……父さんを一人にしないでくれ」
 呻くような槙瀬の言葉に胸が詰まる。 昭洋は拭ったばかりの涙が、今度こそ溢れ出るのを感じた。
「――……と、さん……、父さん……」
 槙瀬のぬくもりと 力強さが全身に染み渡る。自分をこの世に繋ぎ止めてくれている感触だった。憎くても、拒絶しようとも、絶対に切り離すことが できないのは、同じぐらい、愛しくてたまらないからだ。
 涙を流す昭洋の背を、まるで子供をあやすように槙瀬はさすり続 ける。そうしながら、静かな口調で言った。
「勝手だと言うだろうが、俺はもう、お前と離れ離れにはなりたくない。……俺 と一緒にいないか? いや……、一緒にいてくれ」
 昭洋がゆっくりと体を離すと、槙瀬は片手を差し出してくる。その手と 槙瀬の顔を交互に見てから、さほど葛藤を覚えることなく昭洋は結論を出した。
 槙瀬の大きく硬い手を、ぎゅっと握り締め る。
「ぼくとあなたはもう、普通の父子にも、他人同士にもなれない。逃げ場がないんだ。それでも一緒にいたら、少しはマ シな関係になれるのかな……」
「二人で努力しよう。お前と俺にとって一番心地いい関係を作るんだ。そうすることが、一緒 にいる理由になる」
 そうだね、と口中で呟いた昭洋は、もう一度槙瀬にしがみつく。安堵よりも高揚を覚える抱擁は、槙瀬 が昭洋にとって、特別な〈男〉だからだ。この抱擁もいつかは形を変え、素直に安心できるものになるのだろうかと想像してみる が、頭に何も浮かばなかった。
 この先、槙瀬とどうなるか、昭洋には何もわからない。ただ、一緒にいるだけだ。
「― ―……少し時間をください。ぼくは必ず、立ち直ります。今はまだ不安定だけど、必ず、この世に繋ぎ止められているなんて感じ なくなるぐらい、普通に生きられるようになりますから」
 槙瀬と話すときは、やはり敬語がしっくりくる。そんなどうでも いいことに気づき、昭洋はそっと笑みをこぼした。






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