(2)
「……たかがケーキを食べるだけなのに、凝りすぎじゃないか」
困惑気味に槙瀬が洩らしたが、昭洋は気にしない。用意し
たロウソクに、次々とライターで火をつけていく。
「秋に台風が来たでしょう? あのあと、懐中電灯だけじゃ心もとないと
思って、買っておいたんですよ。思いがけないところで役に立ちました」
「いや、だから――……」
槙瀬がぼそぼそと
何か言ったが、昭洋は気にしない。いつも悠然としている槙瀬が、どこか居心地悪そうな顔をしているのは、けっこう見ものだ。
すべてのロウソクに火をつけてから、窓に目を向ける。すっかり外は暗くなり、どこかの家では子供を囲んでパーティーを
して、どこかの恋人はデートを楽しんでいるかもしれない。
水野は今頃、仕事をしているのだろうか。そう考えた昭洋は、
ほろ苦い気持ちになったが、すべて見透かしているようなタイミングで槙瀬に呼ばれた。
「昭洋?」
同時に髪をさらり
と撫でられる。我に返った昭洋は、じっとこちらを見ている槙瀬の眼差しに気づいた。
「なんでもありません。槙瀬さんには、
サンタクロースとトナカイ、どっちのマジパンをあげようかと思ってたんですよ」
二人の視線は、テーブルの上のケーキに
向けられる。一応それぞれの皿に切り分けはしたのだが、元のケーキはまだ半分以上残っていた。これは、明日の朝も食べなけれ
ば片付かないだろう。
「……これまで俺に食べろと言うのか……」
「そんな、憂鬱そうな声を出さないでください。冗談
ですよ」
カップに紅茶を注いでから、やっとささやかなクリスマスパーティーの準備が整う。とはいっても、ロウソクに火
を灯し、ケーキと紅茶を準備しただけだ。こうなるのなら、どこかでオードブルでも買ってくればよかったかもしれない。
事務所の電気を消すと、ロウソクの明かりだけがぼんやりと辺りを照らす。普段は殺風景な事務所を、これだけで雰囲気のある場
所に変えてしまうのだから、昭洋は自分の行動の正しさを確信する。
わざわざそうする必要もないのだが、槙瀬の隣に腰掛
ける。どちらともなくフォークを手にしてケーキを掬う。
「槙瀬さん、中条さんのところで見かけなかったら、ぼくにクリス
マスケーキを持って帰ろうなんて思わなかったでしょう?」
「今日はクリスマス・イブだってことすら忘れていた」
「だ
と思いましたよ」
「お前は――」
槙瀬は何か言いかけたが、不自然なところでやめてしまう。ケーキを一口食べた昭洋
は、イチゴの甘酸っぱい味を堪能してから促した。
「なんですか? 何か言いかけたでしょう」
「いや……、お前は今日
は、何か予定があったんじゃないかと思ったんだ。今朝は妙に機嫌がよさそう見えたから」
見てないようで、しっかり観察
されていたらしい。昭洋は舌先でフォークをちろっと舐めてから、口元に淡い苦笑を浮かべた。
「水野さんと食事する予定だ
ったんですが、急な仕事が入ったらしくて、ダメになりました」
「ああ、だから俺につき合ってくれているのか」
「拗ね
ないでくださいね」
「お前こそ、拗ねてるんじゃないか」
事実なので言い返せない昭洋は、槙瀬の肘を軽く小突く。槙
瀬は、小さく声を洩らして笑うだけだ。その横顔を、昭洋は複雑な心境で見つめていた。
槙瀬は口に出しては言わないが、
昭洋と水野の関係を知っている。別に、何か言ってもらいたいわけではないが、ときどき、槙瀬の気持ちを知りたくなるのだ。苦
々しい気持ちになっているのか、同性であれ昭洋が他人と関わりを持っていることに安堵しているのか、それとも――。
胸
の奥で、熱く甘い感情がドロリと蠢く。自分でも目を背けたくなる生々しい感情だが、これを意識するとき、どうしても官能を刺
激される。
熱を帯びた息を吐き出した昭洋は、ケーキの甘酸っぱい味で、内に生まれた妖しい衝動をなんとか散らそうとす
る。
これはもう、槙瀬に対して持ってはいけない衝動なのだ。
「甘いな……」
ぽつりと槙瀬が洩らし、ドキリと
しながらも昭洋は、なんでもないふうに装い応じる。
「ケーキなんだから、当然でしょう。ノルマは、半分ですからね。明日
の朝も食べますよ」
「甘いものは、お前の担当だろう」
「持って帰ってきたのはあなたですよ」
突然、槙瀬がフォ
ークを置く。ギブアップしたのだろうかと思わず心配したが、そうではなかった。
「……このケーキを助手席に置いて、車を
運転しながら考えたんだ。もしかすると俺は、ずっと昔にこういうことをするチャンスがあったんじゃないかと。センスのないク
リスマスのプレゼントも買って、お前に――」
「やめてくださいっ」
発作的に感情が高ぶった昭洋は声を荒らげ、次の
瞬間には冷静になった。
「正直……、そういうのはつらいんです。失った時間は取り戻せないし、〈あったかもしれない〉微
笑ましい思い出は、想像するだけ空しい。ぼくとあなたは、ただ生き別れた父と息子じゃないんです」
「そうだな……。こう
いう想像は、ムシがよすぎるな。俺はつい、自分が捨てた過去を都合よく想像しすぎるようだ。仮にお前と一緒にいたところで、
いい父親をやっていたとも限らんのに」
「――ごめんなさい」
昭洋が謝ると、手荒く髪を撫でられた。
「俺が無神
経すぎた。……らしくなく、俺もクリスマス・イブではしゃいでいるのかもな」
なんと答えればいいのかわからず、昭洋は
黙々とケーキを口に運ぶ。気まずい沈黙のせいで、せっかくのケーキの味もどうでもよくなっていた。
本当はケーキを食べ
ながら、今夜槙瀬の部屋に行っていいかと尋ねるはずだったのに、もうそんな雰囲気ではなくなる。
さきほど声を荒らげた
のは、別に怒ったからではない。槙瀬が、もし自分たちが普通の父子であったならと想像することを、責めるつもりもなかった。
ただ昭洋は、焦ったのだ。自分と槙瀬の間にあった〈重大な秘密〉を否定されたようで。
背負うにはあまりに重い過去だが、
なくしたくはないし、否定もしたくない。
この気持ちの根底にあるのは、昭洋が捨てきれない槙瀬に対する強い執着だ。こ
れが、父親に対する過剰な愛情と憎しみの裏返しによるものか、槙瀬という男そのものに対するものなのか、昭洋には判断がつか
ない。――つけたくない。
機械的に手を動かし続ける槙瀬の皿から、見る間にケーキがなくなる。昭洋はさらにケーキを切
り分けると、素早く皿にのせてやった。
「おい――」
「もう少し食べてください。ぼくも食べますから」
「……胸焼
けしそうなんだが」
「胃薬ならありますよ」
横目で槙瀬を一瞥して、昭洋はケーキをパクリと食べる。カップの紅茶を
飲み干し、新たに注ぎ足してから再び槙瀬に視線を向けると、膝に頬杖をついた姿勢でじっと昭洋を見つめていた。何を思ってい
るのか、口元には優しい笑みが刻まれている。
急に気恥ずかしさに襲われ、ポットを置いた昭洋はあえて素っ気ない口調で
尋ねた。
「なんですか」
「いや、何も」
そう言ってふいに槙瀬が片手を伸ばしてくる。咄嗟のことに動けない昭洋
の唇の端に槙瀬の指が触れ、軽く擦られた。
「クリームがついてるぞ」
笑いながら指摘され、顔が熱くなる。次の瞬間、
昭洋はそっと息を詰めた。槙瀬の指が唇に軽く触れた途端に、また胸の奥で、熱く甘い感情がドロリと蠢いたからだ。リンクする
ように官能も刺激される。
昭洋は、離れようとした槙瀬の片手を掴み、自分の口元に引き寄せる。人さし指の先についた生
クリームを舌先で舐め取ると、そのままゆっくりと指を口腔に含んだ。
「昭洋……」
槙瀬の手が頭にかかり押し退けら
れそうになったが、その前に昭洋は、槙瀬の指にそっと歯を立てる。わずかに目を細めた槙瀬の顔を見据えながら指を吸うと、頭
にかかった手に力が込められることはなく、それどころか髪を撫でられた。
昭洋はたまらなく切なくなり、槙瀬にしがみく。
「ぼくは、子供じゃないんですよ。あなたを、あなたと認識したときにはもう……。だからあなたに子供扱いされると、嬉し
いのと同時に、つらくなるんです。息子として見られたいのか、そうでないのか、わからなくなる。自分の中で気持ちの整理はつ
けています。でもときどき、乱れてしまうっ……」
感情の高ぶりに合わせて、昭洋は体を震わせる。すると、宥めるように
槙瀬に背をさすられる。
「……俺には、お前に背負わせた苦しみを取り除いてやることはできない。お前の記憶を、都合の悪
い部分だけ削り取ることができないからな。ただ、こうしてやることしかできない」
槙瀬の肩に額を擦りつけるようにして
首を横に振る。
「ぼくの、わがままなんです。子供扱いされたくないと言いながら、それでも結局、あなたに受け止めてもら
わないと、ぼくは苦しくてたまらない。その分、あなたに苦しみを与えているのに……」
「俺はいい。自業自得だ。――息子
を苦しめ続ける父親に、それ以上の苦しみは必要なんだ。それでも耐えられるのは、苦しみながらもお前が、こうして側にいてく
れるからだ」
昭洋は小さく微笑むと、両腕を槙瀬の背に回し、ぎゅっと力を込める。父親とわかったあとでも――わかった
からこそ、槙瀬の体温は心地よくてたまらない。
「槙瀬さん、ぼくにクリスマスプレゼントをください」
「俺に、やれる
ものなんてほとんどないぞ」
「少しの間、こうさせてください。それだけでいいです……」
槙瀬は何も言わなかった。
数秒の間を置いてから、手荒く後ろ髪を撫でられ、背を引き寄せられる。きつく抱き締められていた。
もう求めてはいけな
いものなのに、たまらなく欲しくなる。槙瀬の体温も抱擁も、激しさも――。
槙瀬の背に両腕をさまよわせ、まさぐり、何
度もしがみつく。昭洋の体は、抱擁の感触だけではなく、槙瀬のもっと生々しい熱さも知っている。それを受け入れることによっ
て生み出される快楽も。
これ以上は求めていけないと、昭洋の心の半分が警告する。もう、終わった想いだ。
顔を上
げた昭洋は、槙瀬と見つめ合う。言葉に出さなくても、求めればすべてに応じてくれる覚悟のある顔だと思った。応じることで、
昭洋の乱れた心が鎮まるとわかっているのだ。
昭洋は片手を槙瀬の頬に押し当てながら、もう片方の手で槙瀬の頭を引き寄
せた。
タクシーを降りた昭洋は、少し覚束ない足取りで自分のマンションに向かう。
アルコールを飲んだわけではないが、今夜
は自分で車を運転して無事に帰宅できる自信がなかった。まだ、体と心が動揺している。
クリスマス・イブになんというこ
とをしてしまったのかと、自分自身を罵倒したかった。最悪のクリスマス・イブだ。
さきほどまでの事務所での槙瀬とのや
り取りを思い返し、きつく唇を噛む。
「――昭洋」
突然、名を呼ばれてハッとする。昭洋は顔を上げて周囲を見回して
いた。
確かに、水野の声だった。
「こっちだ」
再び声がしたほうを見ると、マンションの陰から水野が姿を現す。
寒かったらしく、肩をすくめている。
「水野さん、ど、して……」
小走りで側にやってきた水野が、いつもより少しぎ
こちないながらも甘い笑みを浮かべた。思わず昭洋は片手を伸ばし、水野の頬に触れる。凍りそうなほど冷たくなっていた。
「もしかして、ずっと待っていたんですかっ?」
「車の中で待っているという手もあったんだが、お前をびっくりさせてやろ
うかと思ってな。俺もまさか、日付が変わる前にこっちに帰ってこられるとは思ってもなかったんだ」
話す水野の腕を取り、
急いでマンションの中に入る。
「だったら、電話してくれればよかったんです。こんなに寒いのに、外で待っているなんてど
うかしてます。風邪をひいたらどうするんですか」
「極限まで冷たくなってから味わうお前の温かさは、格別だと思ったんだ」
エレベーターのボタンを押したところで、一度動きを止めた昭洋はゆっくりと水野に目を向ける。途端に甘く笑いかけられ
、昭洋は眉をひそめてしまった。
「……おい、ここは笑ってくれよ。それか、照れてみせるとか」
「あんまりキザな台詞
だったんで、気絶するかと思いましたよ」
水野が楽しげに声を上げて笑う。寒い中、昭洋の帰りを待っていたというが、機
嫌はいいようだ。
そんな水野を見つめながら、一瞬の強い想いが昭洋の胸を駆け抜けた。
この人が好きだと思う。恥
ずかしげもなく表現するなら、恋している。酔ってしまいそうなほど甘美な想いだ。
かつて何も知らなかった頃、槙瀬に対
して抱いていたものと同じだ。
水野がこちらを見て、軽く首を傾げる。
「お前のほうこそ、大丈夫か? 顔が少し赤い
ぞ。タクシーで帰ってきてたが、酒でも飲んだか」
「いえ……。タクシーの暖房が利きすぎていただけです」
「なら、こ
れから飲むか。一応、シャンパンは用意してあったんだ。それと、プレゼントも」
「手ぶらでもよかったんですよ。こうして、
無理して会いに来てくれたんだから、それだけで……」
「無理して会いにきたのは、俺のためだ。俺が、お前に会いたくてた
まらなかった」
シャンパンなんて飲まなくても、この会話だけで十分に酔えそうだ。それでなくても今の昭洋には、槙瀬と
交わしたやり取りの余韻がまだ残っている。
今の自分はおかしいのだと、昭洋にはよくわかっている。水野に対して、罪悪
感よりも、もっと強い官能の疼きが上回っているのだ。
本当なら今夜は、自らに罰を与えるように、この疼きに煩悶しなが
ら一人で眠るはずだった。なのにこうして水野が現れてしまうと、抱えた欲望を押さえきれない。何より、自分勝手な要求を水野
にぶつけてしまう。
部屋の玄関に入り、ドアが閉まった途端、持っていた荷物を置いた水野に体をドアに押さえられるよう
にして唇を塞がれた。
きつく抱き合いながら、互いの唇と舌を貪る。玄関には、二人の激しい息遣いだけが響くが、かえっ
てそれが欲望を煽る。
引き出した昭洋の舌を痛いほど吸い上げた水野が、今度は口腔に強靭な舌を差し込んできて、濡れた
粘膜を舐め回してくる。ときおり唾液を交わしながら、昭洋は水野のキスに涙ぐむほど感じていた。
「……甘いもの、食った
か? キスが甘い」
キスの合間に水野に囁かれ、喘ぎながら昭洋は答える。
「事務所で、中条さんのところから引き取
ったケーキを……」
「今夜は大雪だな。お前が、あの中条からもらったケーキを食べるなんて」
水野が短く噴き出し、
昭洋の唇を吸い上げる。喉の奥で小さく呻き声を洩らした昭洋は、再び水野と舌を絡める。ようやく次の言葉が出せたのは、およ
そ一分後だ。
「違い、ます……。槙瀬が、中条さんの事務所から、余ったケーキを押し付けられたんです。お金も払ったそう
ですよ」
「で、槙瀬さんと二人仲良く食べたのか」
皮肉ではなく、水野は冗談交じりで言ったようだが、昭洋は反応せ
ずにはいられなかった。
体を強張らせ、頭を後ろに引く。
「昭洋?」
心配そうに顔を覗き込んできた水野を、す
がるように見つめる。昭洋の異変をすぐに水野は察したらしく、表情が見る間に険しくなる。
「どうした。何かあったか?」
「――……ぼくは、あなたが好きです。だから、恥知らずなお願いをしてもいいですか?」
震えを帯びた昭洋の言葉に、
水野は頬を強く撫でながら低く答えてくれた。
「ああ。なんでも言え」
「ぼくを……、奪い続けてください」
誰か
ら、と言わなくても、水野には通じている。その証拠に、甘い笑みでは隠すことのできない嫉妬の炎が、水野の目の中で一気に燃
え上がるのを昭洋は目の当たりにする。
「息苦しくなるぐらいの激しさを、与え続けてください。ぼくが絶対、惑うことがな
いように、あなたの想いをぼくの喉元に突きつけ続けてください」
事務所で昭洋は槙瀬と唇を重ねそうになったが、寸前で
思い留まったのは、水野の激しさに搦め捕られたからだ。惜しみなく与えられてきた水野の想いは、槙瀬に対する複雑な感情に勝
ったのだ。あのときは。
「……槙瀬に対する気持ちは、好きとか嫌いとか、そんな単純なものじゃないんです。だからこそぼ
くはいまだに翻弄されるし、苦しみもします。その中で救いなのは、ぼくがあなたを好きだという、シンプルな気持ちだけなんで
す」
もしかすると激怒するかもしれないと思われた水野だが、大きく深呼吸をすると、昭洋の頭を抱き寄せてくれた。
「熱烈な告白だな。俺みたいな嫉妬深い男に対して、よくそれだけ、正直に自分の気持ちを吐露してくれたよ。……俺は、見た目
よりずっと激しいぞ」
そう言って水野に、両腕でしっかりと抱き締められる。息苦しいほどの強い抱擁だ。
「嫉妬で狂
って、お前を抱き殺すかもしれないぐらいに」
「そうされたら、きっと本望ですよ。誰も好きにならないかもしれないと思っ
ていたぼくが、父親に対する複雑な気持ちを抱えて、好きな人の手にかかるなら、それもいい……」
顔を寄せてきた水野と、
唇を吸い合う。
「バカ……。抱き殺しそうなぐらい、お前に惚れてるんだ。お前にはずっと、側にいてもらわないと困る」
昭洋は頷き、そっと水野に笑いかける。すると水野に、もう一度きつく抱き締められた。
「――お前からのクリスマス
プレゼントは、確かに受け取った。お前の〈複雑な気持ち〉をな」
「そんなもので、いいんですか……」
「これが、いい
んだ」
胸が詰まり、泣き出しそうになりながら、昭洋は水野の背に思いきりしがみついた。
こんなにも印象深いクリ
スマスイブは、きっとこの先ないだろうと思いながら。
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