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アイノコトノハ:ダンラン
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 大和が部屋に帰ったとき、明樹はちょうどスーツのジャケットを脱いでいるところだった。どうやら、帰宅時間はほぼ同じだったらしい。
 振り返った明樹に、大和は声をかける。
「よお」
「……バカ」
 よお、と声をかけて、なぜ返ってきた言葉がバカなのか、あまり深く考えてはいけない。明樹は冷たそうに見えて、実はとんでもなくシャイなのだ。素っ気ない言葉の裏に、雄弁な想いが込められている。――多分。
 サックスケースをテーブルの上に置いた大和は、すぐに明樹の側に寄り、ジャケットを脱がしてやる。明樹と暮らしていると、すっかり『従者』としての所作が身についてしまった。
「仕事復帰一日目、どうだった?」
 なるべく自然に問いかける。
 左耳の症状が悪化してから休職していた明樹だが、手術も成功し、生活が落ち着いたのを見計らって、仕事に復帰した。それが今日だったのだ。
 できるなら、そんな明樹の帰りを待っていてやりたかった大和だが、いつも間が悪いことに、こんなときに限ってレコーディングだなんだと、仕事が入ってしまう。明樹に言わせれば、わたしのことより自分の仕事を大事にしろ、ということだが、やはり『恋人』としては気になる。
 明樹の肩に手をかけ、体の正面をこちらに向かせる。面食らったような明樹にかまわず、大和はネクタイも解いてやった。
「久しぶりだから、疲れただろ?」
「……別に。大した仕事はしてないからな」
「でも、ここのところ人に囲まれることなんてなかったから、気疲れはあるだろ。肩にまだ力が入ってる」
 大和は明樹の肩に手をかけ、ワイシャツの上から軽く揉んでやる。明樹は不思議そうに大和を見ていたが、わずかに唇を綻ばせた。
「お前、『母さん』みたいだな」
「せめて『父さん』にしてくれよ……」
 明樹は顔を背け、苦しげに笑い声を洩らす。大和はそんな明樹を、優しい眼差しで見つめていた。
 明樹はずいぶん素直に感情を表に出すようになった。それが大和には嬉しくてたまらない。
「なんか美味いもの食いに行くか? 仕事復帰のお祝いで」
 大和の誘いに、明樹は首を横に振る。
「疲れたから動きたくない」
「……やっぱり疲れてるんじゃないか」
 しまった、と言いたげに明樹は顔をしかめ、大和に背を向ける。今度は大和がくっくと笑いながら、背後から明樹を抱き締めた。
「だったら俺が何か作ってやる。大したものは作れないけどな」
「期待してない」
 大和がさらに強く明樹を抱き締めようとしたところで、明樹が変な顔をして振り返った。
「どうした?」
「お前……汗臭い」
 これはなかなかショックな言葉だったが、よく考えてみればリハーサルでたっぷり汗をかいてから、シャワーも浴びずにまっすぐ帰ってきたのだ。確かに、汗臭いはずだ。
 大和はブルゾンを脱ぎ、自分の腕に顔を寄せて匂いを嗅ぐ。
「メシの前に、先に風呂に入るか。明樹に嫌われるからな」
「誰もそこまで言ってないだろう。汗臭い、と言っただけだ」
「似たようなもんだと思うけど」
 つい笑いそうになった大和だが、目の前の明樹を見てある考えが頭に浮かんだ。
「――明樹、一緒に風呂入ろぜ」
「なっ……」
 動揺した明樹の様子に満足して、大和は返事も聞かずに急いでバスルームに向かうと、勢いよく湯を出して温度を調整し、バスタブに張り始める。あとを追いかけてきた明樹が珍しくムキになって言った。
「わたしは嫌だからなっ。いい歳して、なんで男二人で風呂に入らないといけない」
「いいじゃねーか。初めての経験ってやつ?」
 そう言った途端、思いきり背を殴りつけられた。見ると、明樹は顔を赤くしている。どうやら照れているらしい。
 あまりからかうと、明樹は頭から布団を被って口をきいてくれなくなるので、仕方なく大和はこう言ってみた。
「……嫌なら別にいいんだ。無理強いする気はないしな」
 ムッとしたように明樹が唇を引き結び、怒ったような目で大和を睨みつけてくる。そしてぼそぼそと言われた。
「別に、無理強いされたとは、思ってない……」
 俺も明樹とのつき合いが上手くなってきたと、大和は心の中で苦笑を洩らす。明樹は扱いが難しい人間だが、決して頭が固いわけではない。単に照れ屋で、少しばかり素直でないだけだ。そこをフォローするのが、大和だ。
 明樹と向き合うと、顔を寄せて大和は優しい声で問いかけた。
「入浴剤は、何を入れる?」

 ちょうどよい温度の湯を軽く掻き混ぜて、大和は一声唸る。
「明樹の照れ屋ぶりを甘く見ていたかもな」
 いろんな種類の入浴剤を常備してある中、明樹が選んだのは湯が白く濁るタイプのものだった。おかげで湯に浸かってしまうと、湯の中の様子は何も見えない。照れ屋らしい明樹の選択だといえる。
「大和、早く洗え」
 そんな声をかけられ、大和は我に返る。ほんのり赤く染まった背を向けた明樹が、イスに座っておとなしく大和を待っていた。
 今の明樹には、何を話しかけても聞こえない。手術でよくなった耳だが、大事にしてやらなければならい存在であることに代わりはなく、風呂に入るときは必ず、左右の耳に耳栓をしている。耳に水が入ると、人より炎症を起こしやすいらしい。
 大和はシャンプーを手に取り泡立てると、優しい手つきで明樹の髪を洗い始める。するとときおり明樹の肩が揺れる。どうやらくすぐったいらしい。
 耳に泡がかからないよう気をつけながら丁寧に髪を泡立てると、シャワーヘッドを手にする。明樹はすぐに両耳を手で押さえ、その姿がどこか子供っぽくて、大和は思わず笑みをこぼしながら泡をきれいに洗い流す。続いて、体だ。
 肉付きの薄い背を洗い、明樹の体の正面に移動しようとしたが、すかさず明樹にスポンジを奪い取られ、睨みつけられながら言われた。
「前は自分で洗う。お前は自分を洗え」
 いまさら体を見られるのを恥ずかしがる間柄でもない――という気はなかった。二人は背を向け合うと、自分の体を洗う。
 大和が住んでいる場所は、部屋だけでなく風呂も広い。男二人ぐらい余裕で入れる。明樹と一緒に暮らす前までは、無駄に広いおかげで掃除が面倒だとか文句を言っていたが、こういう状況になってみるとありがたい。この広さでなければ、さすがの大和も一緒に風呂に入ろうとは明樹を誘えなかった。
 次に大和が振り返ったとき、すでに明樹は湯に浸かり、耳栓を外しているところだった。
「耳栓、外していいのか?」
「洗うところは全部洗ったからな」
 大和も、明樹に湯がかからないよう気をつけてバスタブに体を沈める。明樹がバスタブの端に身を寄せようとしたので、腕を掴んでゆっくりと引き寄せた。
「おい――」
「ガキじゃないんだから、体を洗うためだけに一緒に入ろうって誘ったわけじゃないぜ?」
 仕方ない、と言いたげに息を吐いて明樹が大和に身を任せる。大和は嬉々として明樹を背から抱き締めた。
「明樹、たまには、こうして一緒に風呂に入ろう」
「嫌だ。お前と入ると気忙しい」
「あとでゆっくり入り直せばいいだろ」
「……ますますお前と入る意味がないじゃないか」
「楽しくないか?」
 明樹から返事はなかった。この瞬間、どんな顔をしているのか見たい気もしたが、無理に顔を覗き込もうとすれば、明樹はさっさと風呂から上がってしまうだろう。
 大和はバスタブの体を預け、引き寄せた明樹の肩にあごをのせる。すると腕にそっと明樹の手がかかり、示し合わせたように二人は湯の中で両手を握り合った。それに明樹が、やっと力を抜いて大和の胸にもたれかかってくる。
 絡め合う指の感触がくすぐったい。大和は微笑むと、明樹の濡れたうなじにそっと唇を押し当てた。
「変なことをするな」
「してない。いつもしてることだろ」
「……そういうのを屁理屈と言うんだ」
 そう言いながらも明樹は体を大和に預けたままだ。
 何度も明樹のうなじや肩に唇を押し当てながら、大和は話しかける。
「今日は緊張したか? 久しぶりだろ、会社に行くの」
「緊張したというより、変な感じだった」
「変な感じ?」
「休職したときは、会社に戻れるなんて思ってなかったからな」
 柔らかな明樹の声に切なくなり、大和はほっそりとした体をきつく抱き締める。改めて、明樹の左耳が聞こえているという現実に感謝したくなった。
「だったら俺は、もっと変な感じだな。お前とまた会えて、しかもこうしていられるんだ」
「考えてみたら、耳のことがなければ、お前と会いたいなんて思わなかったはずだ。そう思うと、わたしをずっと苦しめていた耳の病気も、少しは役に立ったということか」
「そうかもな。少なくとも俺からは、お前に会いに行こうなんて勇気は持てなかった」
 湯の温かさが心を解きほぐしたのか、明樹が素直に気持ちを話してくれている。抱き締めていると、それがよくわかる。明樹は少しも身構えてはいない。
 それから二人は黙り込み、互いの体温を感じていたが、急に明樹が身じろいで立ち上がろうとする。
「明樹?」
「のぼせそうだから、先に上がる」
「まだ、もう少しぐらい大丈夫だろ」
 ちらりと振り返った明樹の顔は真っ赤だった。本当にのぼせそうなのか、自分たちの姿にいまさらながら気づき、照れているのか、もちろん大和には判断がつかない。だから、軽く手を振って明樹を見送る。
 扉の向こうに明樹の姿が消えると、大和は顔を洗ってから笑みをこぼす。これから明樹の本音を引き出すときは、一緒に風呂に入ろうと思いついたのだ。







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