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アイノコトノハ:タダイマ
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 久しぶりに大和の部屋に戻った明樹は、込み上げてくるものがあり、すぐには言葉が出なかった。ボストンバッグを手にしたまま、その場に立ち尽くしてゆっくりと部屋を見回す。
 するとあとから、スーツケース二つを引いてやってきた佳樹が、派手な音を立てながら床の上に転がった。
「疲れたっ……。日本ってこんなに暑かったかなあ」
 明樹は、弟を冷ややかな眼差しで見下ろす。
「一人で帰れると言ったのに、わざわざアメリカまで迎えにくるからだ。お前の場合、疲れ損だろう」
「まあ、そう言わないでよ。俺の場合、新婚旅行の下見も兼ねてたんだ」
 そういうことか、と口中で呟いてから、明樹はボストンバッグを床に置くと、窓という窓を開けて回る。すると、床に転がったまま佳樹が問いかけてきた。
「大和は待ってるんじゃなかったの?」
「さあな。あいつのことだから、どうせ急な仕事で飛び出していったんだろう。別に……待っていられても、見慣れた顔だしな」
 ふうん、と意味深に佳樹が洩らし、反射的に明樹は振り返って睨みつける。しかし、なかなか打たれ強い弟は、にやにや笑うだけだ。
「……なんだ」
「何も」
「だったらさっさと帰れ。彼女が、お前の下見の報告と土産を待っているぞ」
 明樹の言葉に、佳樹は勢いよく体を起こす。スーツケースの一つを開け、包みをいくつか取り出した。
「これ、俺からの土産だって大和に渡しといてよ。あと、兄さんが気に入ってた紅茶も何缶か買って入れておいた――」
「人のスーツケースに、勝手にそんなもの詰め込んでいたのか」
 だいたい、大和も見舞いのためにアメリカに来たことがあるのだから、土産は必要ないだろうと、呆れながら明樹は思う。佳樹はこういうところがマメというか、余計な気ばかり回すのだ。
 おかげで、まるで自分が大和に対して冷たいように感じる。大和に土産など、考えもしなかった。
 佳樹が慌ただしく帰り、無駄に広い大和の部屋に、明樹は一人残される。
 このときになったようやく、明樹の中で一つの感情が芽生えた。
 大和のことだから、きっと自分を満面の笑顔で迎えてくれると思っていた。だから空港に着いても、大和の携帯電話に連絡を入れなかったのだ。なのに現実はというと、大和は出かけており、いない。
 猛烈に腹が立ってきたが、明樹は感情を表に出すのは苦手だ。それにどんな感情であれ、たいていは自分の中で処理してしまえる自信があった。
 大和が関わっていなければ、の話だが。
「……暑い」
 ぽつりと呟いた明樹は、窓枠に手をかけて外を眺めた。


 時差や疲れもあり、明樹はシャワーを浴びると、まだ外が明るい中、大和のベッドに潜り込んだ。
 タオルケットも必要ないほど、室内は暑い。イライラは募るばかりで、窓を閉めてエアコンをつければいいのだが、部屋を涼しくしてスヤスヤと昼寝できる気分でもない。
 寝苦しさに何度も寝返りをうち、やっとまどろみ始めた頃、すぐ側で誰かの気配を感じる。明樹は目を閉じたまま言った。
「体温の高い奴が側に寄るな。暑い」
「クーラーつけろよ。寝苦しいだろ」
 笑いを含んだ声で返され、渋々明樹は目を開く。そこには、優しい目をした大和の顔があった。
「――明樹、お帰り」
 たったその一言で、明樹の胸にあった不快な感情の塊がスッと溶けてしまう。暑さゆえの忌々しさすら気にならなくなった。
 現金すぎる自分の気持ちの変化が面映くて、まともに大和の顔が見られない。明樹は怒っているふりをしながら、枕に右頬を埋めた。これでも、なるべく自然に顔を背けたつもりなのだ。なのに大和は、明樹の行動の意味がわかったように、くっくっと声を洩らして笑っている。
「飛行機に乗って耳はなんともなかったか?」
 そう言いながら大和の指先が左耳に這わされる。背筋に甘い疼きが駆け抜け、明樹はわずかに肩を震わせた。
「……平気だ」
「でも疲れただろ?」
「疲れてない」
「昼寝してるくせにか?」
 明樹は顔の正面を大和に向けると、両手で大和の頬をつねり上げる。
「うるさいっ」
 それでも大和は嬉しそうな顔をしており、明樹の感触を確かめるように髪や頬を撫でてくる。なんだかバカらしくなり、つねっていた頬を放してやった。
 大和が顔を寄せてきて、額と額を合わせてくる。ごく自然に明樹は、両腕を大和の背に回してしがみついていた。大和のほうも明樹を抱き締めてくる。
 帰ってきたのだと心底実感できる、温かくしっかりとした感触が明樹を包んでくれた。
 明樹はゆっくり目を閉じ、笑みをこぼしながら言った。
「――……ただいま」







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