サーフェスの魚たち


−1−


 抱えた段ボールの重みが、ずしりと腕にかかる。吉見(よしみ)和宏(かずひろ)はため息をつきながら、段ボールを抱え直す。
 足を引きずるようにして横断歩道を渡ると、向かう先は新しい職場だ。
 我ながら未練がましいと思いながら和宏は、入社時から自分が過ごしていた職場を振り返る。五階建ての、白くきれいな本館ビルだ。
 許されるなら戻りたい――。
 視線を戻し、目の前の古い雑居ビルを見上げる。ここの四階が、これからの和宏の職場となる。
 なんのことはない。会社内でのただの人事異動だ。部署の異動に伴い、勤務場所が本館ビルから、道路を挟んだ向かいにある場所へと変わっただけだ。
 そうは思いながらも、雑居ビルに出ている看板を見る目が自分でも恨みがましいというのは、よく自覚していた。二十四にして左遷かと、今回の異動を告げられたときは、軽く絶望感を味わった。
 道路を隔てただけとはいえ、今から向かう部署――編集部だけ、古い賃貸ビルの一室に押し込められているというのが、境遇を物語っているような気がする。
 ようやく冬の寒さも和らぎ始めているというのに、和宏はそっと体を震わせる。
「……つらいよなあ……」
 狭く薄暗い階段が、ぽっかり口を開けたように、和宏を待ち受けていた。
 エレベーターがついていないのは、初めて挨拶に訪れたときに確認している。足腰が鍛えられてちょうどいいと、健気に自分に言い聞かせたが、すでにもう泣きそうだ。
 段ボールをもう一度抱え直し、よろめきながら階段を上る。
 和宏が勤める会社は、タウン誌や企画ものの本の編集、販売を行なっている。和宏は編集者として、タウン誌でイベント関係の記事を主に書いていたが、新しい編集部では当然、そんな仕事はさせてもらえないだろう。
 息が上がった頃、ようやく四階にたどりついたが、人が来ることを拒んでいるのか、廊下まで薄暗い。不気味だと思いながら和宏は、一旦段ボールを足元に置くと、ふうふうと肩で息をする。しかし、こんなみっともない姿を人に見られるわけにもいかず、すぐに段ボールを抱え上げた。
 ふらつく足取りでドアの前に立つ。人の気配を感じることができないのは無気味だが、この時間帯、誰もいないという状況はありえない。まじめに仕事をしているのなら。
『月刊釣りライフ』と素っ気ないプレートがかかっているドアを、控えめに和宏はノックする。ゆっくり五秒を数えてから、静かにノブをひねった。
「失礼します。吉見です――」
 ドアを開けると、雑然とした部屋が視界に飛び込んでくる。そして、男二人の姿も。確か、前に和宏が訪れたときは男ばかりあと数人いたはずだが、と疑問を持ったが、即座に、ここも編集部であることを思い出す。
 取材に出ているのだと勝手に判断して、 和宏はこわごわと中に入る。
「あの……」
 もう一度名乗ろうとしたとき、 のっそりという表現がしっくりくる動作で、窓際のデスクについた四十代半ばの男が顔を上げる。いかつい顔立ちながら、全体を覆う雰囲気は飄々としている。
 この男こそが『月刊釣りライフ』の編集長である染川(そめかわ)だった。
「よお、来たか」
 和宏はぺこりと頭を下げる。
「……どうも。お疲れ様です――って、来るのが、遅かったみたいですね……」
「他の連中は、もっと遅くなってから来る。夜釣りに行ってから、家で一眠りしてくる奴もいるからな」
 そう教えてくれたのは、背を丸めてパソコンを打っている、初めて見る男だ。
 こちらは三十歳をいくつか出ているといったところだろう。眼鏡越しに向けられた視線は明らかに、若い和宏を値踏みしている。しかし気分を害することはなかった。それというのも、拍子抜けするほど人懐っこい笑みを、次の瞬間には寄越されたからだ。
「佐々木(ささき)だ。ちなみに妻子あり。惚れるなよ」
「はあ……」
 佐々木と名乗った男は、なぜか小さく舌打ちした。
「冗談が通じん奴だ」
 だったら、なんと答えるのが正解だったのか、戸惑いながら首を傾げていると、口元を緩めた染川に手招きされる。
「その男は今は相手しなくていいから、こっち来い」
「はいっ」
 和宏は打ち合わせ用のソファの横を通り、あらかじめ指定されていた自分のデスクに荷物を置く。
「邪魔なものは、隣の仮眠室のロッカーに突っ込んでおけ。開いてるのがお前のだから」
 言われるまま、自分の背後にあるドアを開ける。ロッカーの他に窮屈そうにソファが置かれ、先程まで誰かが使っていたかのように、毛布が広げられていた。
 どれが自分のロッカーかと、試しに端から開けてみる。いきなり、釣竿が入っていた。
「――……さすが」
 和宏はがっくり肩を落とす。現実を目の前に突きつけられた気がする。
『月刊釣りライフ』は、その名の通り、釣り専門の地方誌だ。コアな読者に支えられ、ひたすら地元の釣り情報を掲載している、と異動が決まった直後に、誰かが教えてくれた。
 自分の想像以上の世界かもしれないと、頭を抱え込みたくなってくる。
 気を取り直した和宏が次のロッカーを開けると、こちらは中に何も入っていなかった。ありがたく自分のロッカーとして使うことにして、着替えの詰まった紙袋を仕舞う。締切間際など、家に帰れないことがときどきあるため、替えの服を準備しておくと便利なのだ。
 すでにもう一仕事を終えたような心境になり、ふっと息を吐いた和宏の耳に、染川と佐々木の話し声が届いた。
「……染川さん、宇都宮(うつのみや)の代わり、顔で選んだでしょう」
「人聞きの悪いこと言うな。ちゃんと編集長会議でだな――」
「賭けてもいい。あれは、長く続きませんよ」
 ムッとして和宏は眉をひそめる。この声は佐々木だと見当をつけ、自分の何を知っているのだと心の中で抗議していた。
 和宏が聞いていると承知しているはずだろうが、二人は会話を続ける。
「……宇都宮は、女でも八年持ったぞ」
「婚期が遅くなったって、さんざんグチられましたけどね。まあ、結婚退社でチャラだ。だけど、吉見も同じとは限らない」
「釣りをまったく知らんというのは理由にならん。そんな奴はいくらでもいた」
「だけどですねぇ……。まあ、やる気があるかないかでしょう。問題は」
 どことなくバカにしたような声の響きにカッとして、ロッカーの扉を思いきり閉める。そこで話し声は途切れた。
 和宏は足音も荒く仮眠室を出る。顔を強張らせた和宏とは対照的に、染川はこちらを見てニヤッと笑った。
「根性の見せどころだな、吉見。と、いうわけで、お前の面倒を見るのは佐々木だ」
「へっ……」
 面食らった和宏は間の抜けた声を発する。佐々木は眼鏡をかけ直しながら、しれっと言った。
「辞めるなら今のうちだぞ」
 ここに来るまでの弱気と逡巡を見透かされたようで、和宏はむきになって言い返した。
「――辞めませんよ」
 その言葉に、染川と佐々木は意味ありげな笑みを浮かべるだけで、何も答えてくれなかった。








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