サーフェスの魚たち


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 和宏はテーブルに肘をつきながら、編集部から借りて帰った『月刊釣りライフ』を開く。
 パラパラとページを捲っては軽く目を通し、そこで口を突いて出るのは、ため息か呻き声ばかりだ。さきほどからもう何度も、そんなことを繰り返していた。
 にぎわっているイタリア料理店では、一人で肩を落としている和宏の姿は多少、浮いているかもしれない。もっとも今は、そんなことを気にしている気力はなかった。これでも、テーブルに突っ伏したいところを、なんとか堪えているのだ。
 適当にオーダーしたワインを舐めるように飲みつつ、和宏は再び雑誌を捲る。
 異動の話を聞いてから、とりあえず釣り関係の本は集めてはいたのだが、最初の数ページを見ただけで本を閉じていた。改めてじっくりと読むのは、これが初めてかもしれない。
 当たり前のことだが、見事に釣りのことしか載っていない。編集後記にすら、まるで暗号のような意味不明の言葉が並んでいる。それに、釣り上げた魚を手に、嬉しげに微笑む人の写真が、やけに遠いもののように感じられる。
 和宏は髪に指を差し込み、無意識に顔をしかめる。佐々木のバカにしたような言動に、再び怒りが込み上げてきた。
「……悪かったな、シロウトで……。釣りなんかできなくても、この世の中、生きていけるんだからな」
「深刻な独り言だな」
 いきなり耳元で囁かれる。飛び上がるほど驚いた和宏は、すぐ傍らに立った人物を反射的に見上げる。唇に薄い笑みを浮かべたスーツ姿の男が、おもしろがるように和宏を見下ろしていた。
「出たな、人の不幸を喜ぶろくでなし」
「人聞きが悪いな。悩める友人を心配していると言ってくれ」
「……そんな、楽しそうな顔をしてか?」
「にやけ顔は生まれつきだ」
 そんなことを言ってスーツ姿の男――織田(おだ)が、和宏の正面の席に腰を下ろす。
 腹が減ったとぽつりと洩らして、織田はさっそくメニューを手にする。空腹なのは和宏も一緒で、先に食っていていいと言われてはいたのだが、空きっ腹をワインで宥めつつ待っていた。
 ワイングラスしか置いていない和宏の前のスペースを一瞥して、織田はわずかに目元を和らげる。
「吉見、何を注文すればいいんだ」
「んー、任せる」
「それじゃ――」
 ウエイターを呼び、織田はメニューを指さす。案の定、肉料理だ。和宏と同じグラスワインも頼んだあと、ごく自然な動作で織田はジャケットのポケットから煙草を取り出したが、すぐに、ここが店内禁煙であることを思い出したらしく、名残り惜しそうに煙草を引っ込めた。
 落ち着きなく、次にスマートフォンを取り出すと、ちらりと画面を眺めてから、電源を切る。何げない一連の動作なのだが、どうしてだか織田がやると嫌味なほど様になる。
 童顔で、悪意なく『可愛い』呼ばわりされる和宏とは違い、織田は落ち着いた物腰と、十人のうち九人はハンサムと認めそうな容貌の持ち主だ。つまり、かなりイイ男ということだ。
 皮肉っぽい物言いは周囲の人間から反感を買うこともあるが、和宏にしてみれば、恵まれた外見に非常に合っていると素直に感嘆していた。口が裂けても、本人には言えないが。
「――お前からメシを奢ってやると言われて、今夜は吹雪がやってくるんじゃないかと思った」
 和宏の憎まれ口に対して、織田は余裕たっぷり笑みを浮かべる。
「へえ。じゃあ吹雪は嫌だから、ワリカンにするか?」
「素直に奢られてやる。……奢ってもらう。……奢ってください」
「可愛いねー、お前は」
 テーブルの下で織田の向こう脛を蹴とばしてやろうかと迷っているうちに、織田が頼んだワインが運ばれてくる。形だけの乾杯をして、和宏は一口だけワインを飲んだ。
「冗談抜きで、今晩は、おれを励ます会でもしてくれるつもりなのか?」
 和宏の言葉に、織田は冷たい印象を与えがちな顔を綻ばせる。笑うと、ぐっと印象が柔らかくなり、イイ男っぷりが上がるのだ。これも、口が裂けても、本人には言えないが。
「何も今やらなくても、この先いくらでもできるだろ。いや、案外、送別会やる日も近いかもな」
「……沈んでるおれに、追い討ちをかけるなよ」
 恨みがましく上目遣いに織田を見ると、真剣な表情で身を乗り出された。
「やっぱ、きついか?」
「なんとも……」
 ため息交じりで応じた和宏が雑誌に視線を落とすと、それを織田に取り上げられる。パラパラとページを捲っている光景を、和宏はぼんやりと眺める。
「初心者がいきなり飛び込むには、ディープかもな。『月刊釣りライフ』は。タウン誌のほうは幅広い年齢層が楽しめるよう、誰でも読めてわかりやすい内容が主だからな。お前のところは……。美容院やパン屋は、釣り雑誌に広告は出してくれねーだろ。どうしたって、釣り関係に限られる。営業としては、扱いにくい商材だよ」
「……悪かったな。扱いにくくて」
 ムッとした和宏は、織田の手から雑誌をひったくる。
 同期で入社した織田とは、営業と編集ということで部署は違うが、親しくしている。二年ほどの短いつき合いだが、友人たちの中では、織田と過ごす時間が一番多いだろう。おかげで、言葉のやりとりにも遠慮がなくなっている。言いにくいことを、今回に限らずズバズバと言ってくるのだ。しかもそれが的確で、和宏としては、おもしろくないながらも受け入れざるをえない。
「地方出版社の、しかも釣り専門誌だもんな。買うとしたら、よっぽどの釣り好きの人しかいないよな。おれですら、異動を告げられるまで、正直雑誌をじっくり読んだこともなかった」
「定期購読が多いらしいぜ。まさに、コアなファンに支えられているってやつだ」
 もう一口ワインを飲んでから、和宏はぽつりと洩らした。
「――エレベーターがないんだよ」
 訝しむように織田が眉をひそめる。
「なんだって?」
「エレベーターがついてないんだ。『月刊釣りライフ』が入っているビル。四階まで行く間に、ヘロヘロになって……」
「つまりそれで、自分の置かれた状況がどんなものか、痛感したわけだな。きれいな本館ビルよ、さようなら――」
「未知の世界、だな。自分はどこに行くんだって、階段上りながら思った」
「で、辿り着いての感想は?」
「……辞めたい、と思った。でも辞めない」
 賞賛なのかからかっているのか、織田が軽く口笛を吹く。芝居がかった反応に、和宏は雑誌を丸めて頭をパコンと叩いてやる。すかさず織田は髪を撫でて直した。
「残念だな。こういうとき、釣りの初歩ぐらいなら教えてやるぜ、とかっこよく言いたいが、俺も釣りはしないからな。力になってやれない。せめて、がんばれよと励ますぐらいだ」
 織田を真似て、和宏は皮肉っぽく笑いかける。
「気色悪いぐらい、殊勝なことを言ってるって、自覚してるか?」
「俺も、今のお前を追い込むほど、鬼じゃないぜ」
 ウソを言えと、声に出さずに呟く。
 顔を横に向け、和宏はグラスに口をつける。視界の隅に、自分の横顔を見つめている織田の姿が入る。どうやら今夜の織田は、徹底的に和宏につき合ってくれるらしい。今夜の織田は妙に優しい――気がする。
 ひたすら愚痴をこぼすのも悪く思えたが、もう少しだけつき合ってもらうことにした。
 和宏は、テーブルの上に置いた雑誌を指先で叩く。
「――……何がおもしろいんだか、って思うんだよなあ。じーっと魚を待って」
「釣り雑誌の編集者の言葉とは思えんな。もっとも俺も、同感だが」
「お前こそ、営業だろうが。おれが編集した『月刊釣りライフ』、しっかり売れよ。それに、広告も取ってこいよ」
「さあな」
 さわやかな笑みを浮かべて答えた織田だが、さらにこう続けた。
「やるだけやってみろよ。励ます会なら毎日でもやってやるから。なんたって、同僚としての送別会は一回しかできないからな」
 和宏はもう一度雑誌を丸めて、織田の頭を叩いてやる。
 どいつもこいつも、と内心で毒づく。わけもわからず、未知の世界に放り出された人間を、少しは労ってもらいたい。
 自棄になって和宏はグラスのワインを飲み干すと、今度はボトルで注文する。
「おい、あんまり飲むと、明日つらいぞ」
「二日酔いぐらいがちょうどいいかもしれん。あの編集部にいるには」
「……人間関係のほうも難あり、か?」
 和宏は少し考えてから、大仰に顔をしかめて見せる。
「おれは長く持たないって言われた。やる気があるかないか……っていうことも」
 怒りで声が低くなる。見かけによらず負けん気が強いというのは、和宏自身、認めていることだ。とにかく、好き勝手言われっぱなしなのは、非常におもしろくない。
 ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した和宏は、目の前で悠然とワインを楽しむ男に指を突きつける。
「おれは絶対、釣りを覚えてやる。前任の女編集者と比べられるなんて冗談じゃない」
 一瞬、呆気に取られた様子の織田だったが、したり顔で頷いた。
「本音はそこなわけだな、吉見」
「……うるさい」
 織田の抑えた笑い声を聞きながら、和宏はムスッとした顔で、運ばれてきたワインボトルを掴む。
 明日からどんな日常が待っているのか、想像しようとしたがすぐに諦めた。和宏の想像力には、限界があるのだ。
 それに料理も運ばれてきたので、ひとまず空腹を満たすことにした。








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