サーフェスの魚たち


−3−


『月刊釣りライフ』編集部の朝は、良くいえばのんびりと、悪くいえばたるんでいる。
 打ち合わせで使うソファで朝食をとっている者もいるし、デスクで新聞を読みながら、ラジオを聞いている者もいる。
 なんとも身の置き場がなく、居心地の悪い思いで和宏は自分の席につく。まだ仕事の手順を何も教えてもらっていないため、迂闊に編集部内をうろつくわけにもいかず、ひとまず持参した釣りの本を開く。
 突然、仮眠室のドアが開き、ぎょっとする。昨日と同じ服装をした染川が、ぬっと姿を現した。
「おは、よ……ございます」
 おそるおそる挨拶をすると、ようやく和宏の存在に気づいたように、染川が目を丸くした。寝起きの染川の顔は、いかつさに拍車がかかっている。機嫌が悪そうで、今にも怒鳴り出しそうな迫力だ。
 その染川の開口一番の言葉はこれだった。
「――来たのか」
「来ちゃ悪いんですか」
「いやいや。いいよ。うん、いい」
 まったく心のこもっていない返事をした染川は自分のデスクに向かおうとして、ふいに和宏を振り返る。
「吉見、コーヒー入れてくれ」
 わずかな間、呆気に取られた和宏だが、下っ端が雑用をするのは当然のことだと思い、立ち上がる。前にいた編集部では、飲みたい人が好き勝手に淹れて飲むという形式だったが、ここは『月刊釣りライフ』の編集部だ。
「他にコーヒーを飲む人はいませんか」
 染川と和宏を除いた四人全員が手を上げる。姿が見えないのは、佐々木だけだ。
「佐々木さん、仮眠室にいるんですか?」
「アホ。あの狭い場所で、あいつと抱き合って寝てたって言うのか」
 仮眠室のソファの狭さを思い出し、和宏は顔をしかめる。
「……失言でした」
「素直でけっこう」
 大あくびをしながら染川に手であしらわれる。
 和宏は編集部を出て、隣の給湯室に入る。カップはすぐに見つかったが、インストタントコーヒーはどこに仕舞ってあるのだろうかと、小さな食器棚を覗いて探す。ついでに、備え付けの収納棚の扉を開けると、意外なことにコーヒーメーカーがあった。
 もしかしてと思い、あちこちの棚や引き出しを開け、最後に冷蔵庫を開ける。思ったとおり、コーヒー豆も入っていた。賞味期限が問題ないことを確認して、和宏は首を傾げる。
 あの、いかにもガサツそうな面々が揃っている編集部で、一体誰が、コーヒーメーカーを使ってコーヒーを淹れていたのか気になったのだ。
 いやいや、人は見かけによらないしと、心の中で失礼なことを考えつつ、さっそく和宏はコーヒーメーカーをセットした。
 人数分用意したカップに、淹れたてのコーヒーを注ぐ。なんとも気持ちが和らぐ香りに、和宏は軽く鼻を鳴らす。
 トレーを持って編集部に戻ると、さきほどは姿がなかった佐々木がいた。スマートフォンを耳に当て、手元で何か書いている。ふと顔を上げた佐々木と目が合い、一応頭を下げた和宏だが、なぜか染川がしたように目を丸くされた。
 意味がわからず首を傾げていると、コーヒーの香りに誘われるように編集部員たちがわらわらとやってきて、トレーにのったカップを勝手に持っていった。
 編集長である染川には、恭しくデスクまで持っていったが、一口飲んで頷かれた。
「美味い。宇都宮のコーヒーだ」
「はあ、おれの前にいたって言う……」
「コーヒーメーカーが優秀なのか、豆がいいのか、なんにしても、あいつの淹れたコーヒーは美味かった。そしてお前の淹れたコーヒーは、同じ味だ」
 こういう褒められ方は、なんとも複雑な心境になる。
 和宏はカップを手に、自分のデスクにつく。染川に褒められただけあって、自分が淹れたとは思えない美味しいコーヒーを啜っていると、いつの間にか傍らに佐々木が立っていた。
「いい性格してるな。俺の分のコーヒーはなしか」
「さっきはいなかったじゃないですか。まだ来てないのかと思って――」
「そこは気をきかせろよ」
 無茶を言うなと思ったが、言い争うほどのことでもなく、和宏はため息交じりで応じた。
「……まだ残ってますから、持ってきます」
 立ち上がろうとしたが、肩に手がかかる。
「帰ってきてからでいい。――出るぞ」
「へっ?」
 思わず佐々木を見上げる。ずり落ちそうになる眼鏡をかけ直しながら、佐々木は和宏を指さした。
「お前は、俺と同行するの。しばらくは、そうなるだろうな。鬱陶しいけど」
 気にしてはいけないと自分に言い聞かせながらも、素直な表情に出てしまったらしい。
 佐々木が、バカにしたような笑みを見せた。
「お前は当分、ここでの人権なんてないぞ。何を言われてもされても、黙って耐える」
「耐えてるじゃないですか」
 和宏はぼそりと答えて、唇をへの字に曲げる。途端に佐々木に鼻で笑われた。
「可愛い顔して、けっこう気が強いね、お前」
「二十四になる男に、可愛いはないでしょう」
「俺は事実を口にしただけだ」
 ムキになってはいけないと、和宏はイスに引っかけていた自分のデイパックを手にして立ち上がる。
「――行くんならさっさと行きましょうよ」
 ニヤニヤと笑いながら佐々木が席に戻ったので、和宏はその間にカップを給湯室に持って行く。すぐに戻って編集部のドアを開けようとすると、笑い声が耳に届いた。
「あんまりいじめるなよ、佐々木。確かに、反応がいちいちおもしろい奴ではあるけど」
「いじめちゃいないですよ。先輩としての指導です」
「よく言うよ、お前」
 入るに入れないので、仕方がなく階段のところに立って佐々木を待つ。すぐに編集部のドアが開き、カバンを肩からかけた佐々木が出てきた。眼鏡越しに、人懐っこい笑みを向けられた。
 ここまで、言動と笑顔が一致しない人間も珍しいかもしれない。
「行こうか」
「……はい」
 和宏は佐々木のあとをついて歩く。階段を下りる二人分の足音が響き、その重苦しい音がなんとなく我慢できない。
「同行はいいんですけど、どこに行くかぐらい教えてもらえませんか」
「タウン誌のほうでもやっただろ。新人の挨拶回り。それ」
「へえ……。どんなところを回るんです」
「世話になってるライターや、いつも協力してもらってる釣りサークルの会長。あとはカメラマンに――……その他諸々」
「説明が面倒になったでしょ、今」
「お前相手に口数使うのが、急にバカらしくなったんだ」
 階段から蹴り落としてやろうかと、そんなことができるはずもないのに思ってしまう。
 駐車場に停めてある一台の車に促されて乗り込む。このとき、後部座席に釣り道具が積まれていることに気づいた。
 シートベルトを締めた和宏は助手席から首を出し、興味深く眺めていると、エンジンをかけながら佐々木が説明する。
「よくあるんだよ。飛び込みで情報が入ってきて、慌てて出て行くっていうのが。とりあえず自分で釣ってみないとな。道具はそれだけじゃないぞ。トランクにも入っている」
「……やっぱ釣り、しないとダメなんですね」
 佐々木の手が伸びてきて、頭を叩かれた。
「って」
「首締めたくなるようなこと、無邪気な声で言うなよ」
 自分の頭を撫でてから、和宏は視線をウインドーの外に向ける。いつもは自分で運転して移動しているため、助手席に座っていると気分が落ち着かない。
 気をつかっているわけではないだろうが、佐々木が再び話しかけてきた。
「――お前、釣りの道具買ったか?」
「いえ、まだまったく。どういうものを揃えればいいのかわからないし、下手に自分の考えで買わないほうがいいかなと思ったんで」
「賢明だな。まあ、人のを見ながら、良さそうなのを買い揃えろ。今日は、うちの編集部が世話になってる釣具屋にも挨拶に行くから、どういうのがあるかだけでも見とけよ」
「そうします」
 頷きながら、初めての仕事らしい仕事に出かけるのだと思うと、和宏はわずかながら緊張していくのを自覚する。頬を強く撫で、大きく息を吸ってみた。
「緊張するっていうのは、仕事をまじめにする気でいるっていう、証拠だな」
 ふいに隣からかけられた言葉に、和宏は横目で佐々木を睨みつける。
「おれはやる気がないなんて、一言も言ってないですよ」
「楽しみにしてるぜ。お前が大物を釣り上げる日を」
 言い返せないのが悔しくて、今に見ていろと心の中で答えておく。あくまで控えめに。
 和宏は思いきり顔を背けると、再びウインドーの外の景色に目を向ける。いちいちムキになる和宏の反応がよほどおもしろいのか、佐々木はしばらく声を押し殺しながらも笑い続けていた。








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