サーフェスの魚たち


−4−


 三十分ほど車は走り続け、まず最初に連れて行かれたのは、ごく普通のマンションだった。
 車を降りた和宏はデイパックを肩にかけて、マンションを見上げる。背を押され、慌てて佐々木のあとをついて行く。
「誰に会うんですか?」
 エントランスを通りながら尋ねる。
「んー、うちの雑誌の、表紙の写真を撮っているカメラマンだ。中身の写真は、俺たちやシロウトさんの投稿で十分だけど、さすがに表紙はそうもいかないからな」
「……中の写真、似たようなアングルばかりでしたもんね」
 ぽろりと率直な意見を述べると、再び佐々木に頭を叩かれた。
 マンションの一室を訪ねると、染川よりもさらに年配の、人の良さそうな小柄な男性が部屋に招き入れてくれた。
 リビングに通され、視界に飛び込んできた光景に和宏は小さく声を洩らす。人が釣りをしている光景や、釣り上げられた魚の写真が、パネルとなって壁一面に飾られていたからだ。
 物珍しさもあり、ふらふらと壁に歩み寄ると、パネルに見入ってしまう。
「おい、吉見」
 佐々木に呼ばれ、ハッとする。和宏は急いで二人の元に行くと、刷り上がったばかりの名刺を出してカメラマンと挨拶をする。
 すると佐々木は、和宏の用は済んだと言わんばかりに、カメラマンとソファに腰掛けて話し込む。和宏も新入りらしく、佐々木の横で神妙な顔で黙ってやり取りを聞いていたが、どうしても視線が、壁のパネルへと向いてしまう。
 別に、どの地域で今は何が釣れているかという話題が退屈なわけではない。――よくわからないだけで。
 そんな和宏の様子に気づいたのか、カメラマンがふいに話しかけてきた。
「飾ってあるパネルの中に、これまで雑誌の表紙に使われた写真もあるよ。染川さん、自分は写真撮るの下手なくせに、こちらにはダメ出しがすごくてね。魚鱗の反射が気に食わないとか。……一度、染川さんが撮った写真を表紙に使ったことあったよね?」
「ありましたねー。うちの雑誌、読者から表紙に関する要望ってほぼないんですけど、あのときだけは、今月の表紙はいまいちって、控えめな意見が来ましたね。編集部のサイトに届いたそのメールを読んで、染川さんがなんともいえない顔してましたよ」
「己の実力を知るというのは、いいことだよ」
 佐々木とカメラマンがニヤニヤと笑い合い、そんな二人を和宏は交互に眺める。
 順調に打ち合わせが終了し、佐々木がテーブルの上に出した資料を片づけている間、手持ち無沙汰となった和宏は改めて壁の前に立ってパネルを眺める。
 佐々木とカメラマンが交わす会話を、背で聞いていた。
「――彼……吉見くんだっけ、宇都宮さんの後任になるんだよね」
「まあ、そうですね。全然、使いもんにならないですけど」
 容赦ない佐々木の言葉に、ピクリと肩を震わせながらも、和宏は聞こえないふりをしてパネルを眺め続ける。
「それは心配ないだろう。宇都宮さんだって、初めて現場で会ったとき、こっちは驚いたよ。若い娘さんのうえに、ミニスカートに高いヒールだったんだから。今思い出しても、勇ましい姿だ。おもしろいから、写真を撮っておけばよかったよ」
 語るカメラマンの口調には親しみが込められ、和宏は漠然と、宇都宮という女性の姿をイメージしてみる。もっとも浮かんだイメージというのは、編集部の面々の女版という、貧相なものだ。
「こいつね、釣りしたことないんですよ」
「へえ、男の子じゃ珍しいかもね。――大丈夫だよ。釣りなんて、身構えてするもんじゃないから。楽しければ、それでいいよ」
 カメラマンのその言葉に、思わず振り返って和宏は笑みをこぼす。新しい編集部へと異動になって、初めてかけられた優しい言葉かもしれない。
「――……あれですよ。おれが求めてた言葉って」
 カメラマンの部屋をあとにして、エレベーターの中で和宏はため息混じりに洩らす。
「何が」
「……わからないなら、いいです」
 先にエレベーターを降りて駐車場に向かっていると、背後から佐々木が言った。
「趣味の範囲なら、あれでもいい。だけど俺たちは、伝えなきゃいけない。なんだってそうだ。お前だって、前の編集部でイベントの記事を書いてるとき、楽しむだけの観客としてイベントに行ってたか?」
 和宏は立ち止まり、振り返る。言っていることはごく真っ当だが、言っている本人は人を食ったような表情をしている。
 返事に窮すると、今度は佐々木が先を歩き出す。
「でもまあ、あんまり堅苦しく考えるな。俺は俺で、けっこう楽しんでる。そうでないと、お前みたいなのは仕事に潰されるぞ」
「……おれが潰れたら、原因の一端は佐々木さんにありますからね」
「潰れるほど仕事してねーだろ。さっさと来い。次行くぞ」
 和宏は心の中で舌を出しながら、助手席に乗り込む。
 その後、編集部が世話になっているという、様々な人たちに名刺を配って回る。その度に、宇都宮の名が出ることに、和宏もいい加減慣れてきた。誰も彼も、親しみと懐かしさを込めて話しているのだ。
 どれだけ察しが悪かろうが、おもしろくなかろうが、嫌でも認めざるをえない。宇都宮という女性編集者は、非常に愛されるキャラクターの持ち主で、何より有能だったという事実に。
 移動の途中で立ち寄ってコンビニで休憩を取ることになり、車の外で和宏は、思いきり体を伸ばす。普段とは勝手が違う仕事に、いささか疲れを感じる。これはきっと、気疲れというものだ。
「こんなに人と会ったの、久しぶりだな」
 缶コーヒーに口をつけてから、佐々木がぼやく。
「あー、やっぱり、普段は魚相手ですか」
「バカたれ」
 頭を叩かれそうになったので、すかさずかわす。舌打ちした佐々木は缶を捨ててくると、腕時計に視線を落とした。
「今日のところは、あと一件回って終わりだな。それ以外は、仕事で会ったときに挨拶すればいいだろ。――よし、休憩終わり。さっさと車に乗れ。俺はこのあと、まだ仕事があるんだ」
 素直に助手席に乗り込んだ和宏は、シートベルトを締める。
「次はもしかして、いよいよ――」
「釣具屋だ。編集部全員、道具はそこに世話になっている。新製品の情報とかも、うちみたいな地方誌だと、メーカーに頼るより確実だからな」
 これまで釣具屋とは無縁の生活を送っていたため、正直和宏は、楽しみにしていた。釣りに興味がなかったにせよ、目新しい道具を知るのは嫌いではない。
 車が走り続けているうちに、景色は街中から、海沿いのものへと変わる。
 一日にして、他人が運転する車に同乗する楽さに慣れきった和宏は、シートにゆったりと体を預けきっていたが、コンクリートの堤防の上に立つ人の姿が見えるようになり、身を乗り出すようにしてウインドーに顔を寄せていた。
 海が、夕陽を反射している。キラキラとしてきれいだが、強い光に目を細める。
「――なんだお前、起きてたのか」
 振り返ると、前を向いたまま佐々木は笑った。
「動かねーから、寝てんのかと思ってた」
「起きてましたよ。ずっと」
「うちの子供がな、車に乗せるとすぐにコトンと寝るんだよ。お前もそのタイプかと思った」
「……お子さん、何歳です」
「四歳。可愛い盛りだ」
「一緒にしないでください」
 からかっていたのを証明するように、佐々木が声を上げて笑う。
 海沿いには、釣具屋が何軒もあるが、その中で一際大きな店があった。すぐ隣にはスーパーも営業しており、そのため駐車場も広いが、夕飯の買い物客が多いのか混んでいるようだ。
「ここだ」
 ようやく見つけた駐車スペースに車を停めながら、佐々木が言う。
「大きいですね」
「ここのオヤジがやり手でな。隣のスーパーも経営している。最近はそのスーパーのほうにかかりっきりで、釣具屋のほうは息子に任せっ放しにしてる」
 車を降りると、強い風が吹きつけてきた。和宏は冷たい風に身を竦めて、『フィッシングセンター加納』という看板を見上げていたが、佐々木が小走りで店に向かうのを見て、あとを追いかける。
 店内に足を踏み入れた途端、想像を上回る広さにまず圧倒された。次に、視界に飛び込んでくる、細々と並んだ見慣れない商品の数に。
 ぽかんと口を開けて眺めていると、佐々木に腕を小突かれた。和宏は慌てて口を閉じる。また、小さな子ども扱いされるところだった。
「社長か息子がいるか聞いてくるから、お前この辺りにいろよ」
 佐々木が行ってしまい一人となった和宏は、最初はおとなしくその場に立っていたが、次第に好奇心の疼きを抑えられなくなり、少しのつもりでその場を離れる。
 どんな売り場があるのかと見て歩いていたが、眩暈がしそうなほど豊富に並んだ釣竿の前で足を止める。釣竿の中でもいくつかのコーナーに分かれている時点で、自分が最初に買うのはどの釣竿がいいか、生意気にも品定めしようとした己を恥じた。そもそも、釣竿の種類がわからない。
 再びぽかんと口を開けて、ディスプレイされた釣竿を見上げる。
「――邪魔だから、通路のど真ん中に立つな」
 けたたましいともいえる店内アナウンスが流れる中、ふいに声が耳に届いた。耳に心地いい低い声だが、致命的なほどぶっきらぼうな口調。
 和宏は一瞬、誰が誰に向けて放った言葉なのか理解できなかった。
 声がしたほうに顔を向けると、無造作にパーカーを羽織った男が、威圧的に和宏を見下ろしていた。思わず自分の顔を指さす。
「おれ?」
「ぼーっと突っ立った奴が、他にいるか」
 抑揚のない言葉の迫力に、考えるより先に体が動く。
「すみません」
 道を空け、改めて男の顔に視線をやる。和宏には到底醸し出せない落ち着きというものが、全身から漂っているが、どう見ても年齢は同じぐらいだ。
 何か釈然としないものを感じながら、再び釣竿を見上げる。男はすぐに通り過ぎるかと思ったが、立ち止まったまま、何か言いたげに和宏を見つめている。気づかないふりをしてやり過ごそうとした和宏だが、男のほうもなかなか粘り強い。
 結局、和宏が負けた。
「あの……、何か?」
「――どんなものが欲しいんだ」
 突然の質問に面食らう。
「へっ?」
「ロッド見てただろ。今までどんなのを使ってたんだ。新しく出たのが見たいなら――」
 男が先に立って歩き出したので、和宏もわけがわからないままついて行く。いきなり、釣竿の一本を持たされた。
「軽いのがいいなら、これだな。ガイドで何かこだわりはあるのか」
 とりあえず無難に首を横に振る。男はそれが地なのかどうか、男らしい顔に不機嫌そうな表情を浮かべつつ、次々に釣竿を手に取っては和宏に説明してくれる。もっとも、基本がまったくないため、どれだけ説明されようが、理解のしようがない。
 そのことを言い出すタイミングを、和宏はとっくに失っていた。








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