ふいに由希の目が輝いたので、紘臣は一瞬、何事かと思ってしまった。
「ちょっといい?」
ある方向を指さし、由希が紘臣を見上げてくる。茶色の瞳の威力に圧されたように、紘臣は頷いた。
日曜の昼下がり、デパートはどこのフロアも混み合っている。由希は小柄な体ながらも大胆に、
同じようなカップルを押し退け、あるショーケースの前に立った。
放っておけず、紘臣は苦笑しながら由希の背後に立つ。
「何?」
覗き込んでから、軽く目を見開く。
あるブランドのアクセサリーが、ショーケースの中で品良く輝いている。特に目を引いたのが指
輪だ。それは由希も同じらしく、視線は同じものを見つめている。
紘臣は周囲を見回す。あきらかに恋人同士に見える男女たちが、ショーケースから指輪などを出
してもらっている。
あらためて由希に視線を移す。つきあい始めて一年半ともなると、プレゼントのやりとりをした
ことはあるが、指輪はまだない。 紘臣は指輪の値札を見てから、深く考えず言ってみた。
「欲しいんなら、買ってやろうか?」
背の中ほどまである髪を揺らし、由希が顔を上げる。心底驚いた、という顔だ。
紘臣より一つ下の二十五才だが、イニシアティブを取るのが好きで、実年齢より大人に見られた
がる由希も、こんな表情をすると可愛く見える。
由希は笑みを浮かべ、そっと囁いてきた。
「――意味、わかってる?」
紘臣は首を傾げる。すると由希に手を取られ、その場を離れながら言われてしまった。
「わたし、紘臣が買ってくれた指輪、左手の薬指にするから。それでもいいんなら、買ってもら
う」
由希の言いたいことがようやく理解できた。紘臣は視線を泳がせ、やたら目につくカップルたち
を見る。 由希の発言の大胆さに、つい苦笑が洩れる。
「それ、おれに対するプロポーズ?」
「そう聞こえるんなら、ね。紘臣はイイ男だから、早いうちに約束を取り付けておかないと」
冗談めかして由希が言う。
「それは、おれが由希に言いたい言葉だな」
たまたま鏡に、二人の姿が映る。長身の部類に入り、派手ではないものの整った顔立ちの紘臣と、
きつい目許が印象的な由希の組み合わせは、似合っているといえるだろう。
この先、何年も、何十年も、由希と一緒に歩いていく――。
想像はしてみたが、現実感からは程遠かった。喜んで受け入れるものでも、嫌悪して拒絶するも
のでもないということだけは、はっきりしている。
結婚へ至る過程というのは、こんなにあっさりしているのかと紘臣は思う。
「……こんなときぐらい、おれにリード取らせてくれよ。由希が驚くようなタイミングで、プロポ
ーズさせてもらうから」
「あら、楽しみ。とか言って、逃げ出すんじゃないでしょうね」
「逃げない逃げない」
由希の手がごく自然に腕に絡みついてくる。二人で顔を見合わせ、穏やかな笑みを交わし
合った。
紘臣がいる商品管理部は、朝から慌ただしい雰囲気を漂わせていた。
出社してきた紘臣は、休みボケした頭を切り替え、今日がとんな日であるかを思い出す。
「あー、そうか。今日からか……」
「余裕の発言ですね。教育係の遊佐さん」
どこか芝居がかった、憂うつそうな声が背後からかかる。振り返ると、同期入社で同じ部の
上月ひかるが制服姿で立っていた。
紘臣が笑いかけると、ひかるは心底嫌そうな顔をする。
「朝から死にそうな顔してるな、上月」
タイトスカートのしわを伸ばしながら、ひかるは深々と頷く。同期入社ではあるが、年齢は紘臣
のほうが二つ上になる。そのためひかるは、形ばかりの敬語を紘臣に使う。
「イヤでイヤで仕方ないんですよ」
「アルバイトの教育係か?」
「あたしとそんなに歳が変わらない学生に、しかも男ですよ? 仕事を教えなきゃいけない
なんて」
ショートの髪を手荒くかき上げたひかるに、ファイルを手渡される。今日から約半月間、紘臣た
ちが面倒を見ることになる男子大学生たちの資料だ。 ぱらぱらとめくってから、自分のデスクの
上に置く。
紘臣が勤める会社は、照明器具を専門に扱っている。一階にショールームがあり一般客も訪れる
が、得意先は主に、住宅資材会社や住宅会社だ。
今回、会社の隣に借りている、商品を置いてある倉庫を建て替えるため、一時的に、倉庫を移転
することになったのだ。
倉庫の移転に伴い、大量の商品も移さなければならないのだが、その業務を社員でやるのは無理
があり、学生の何人かを、アルバイトとして雇い入れることにした。それが今日だ。
そしてなぜか、アルバイトの学生たちに仕事を教える役目が、紘臣とひかるにも与えられた。
紘臣はひかるほど悲観はしていない。紘臣とひかるが受け持つのは、棚卸の作業を教えることだ
けだ。配送などの力仕事を教える社員たちに比べれば楽なものだ。
デスクについた紘臣は、コンピュータの電源を入れ、フロッピーを差し込む。そんな紘臣の横顔
を眺めている様子だったひかるに、問いかけられた。
「会社来るまでに、何かありました?」
「どうしてだ」
「ちょっと眉をひそめてるあたり、てっきりあたし、遊佐さんも教育係がイヤなんだと思ってたん
ですけど、なんか違うみたいですね」
隣のひかるに視線を移す。異性として気をつかわなくて済むのは、性格のせいもあるが、ひかる
の中性的な容貌のせいもある。
「……眉、ひそめてたか……」
「おや、意識してなかったんです?」
「休みの間も、会社に来るまでも、不愉快な出来事にあった記憶はないんだが」
ただ唯一、記憶に残るような出来事といえば、由希との恋人としての関係に、結婚をほのめかす
という変化があったぐらいだ。
「――まあ、人生の岐路には立たされてるかな」
密やかな紘臣の呟きに、ひかるはわけがわからないといった顔をした。
始業時間から三十分ほどして、紘臣はひかると共に倉庫に行った。
アルバイトの学生たちを管理している総務の人間から簡単な説明を受けてから、紘臣たちは学生
たちを引き継ぐ。
任された学生たちは五人で、一見しての感想は、当たり前だが社会人とは違うな、というものだ
った。作業が作業だけに、学生たちがラフな格好をしているのが、その印象を強める。
紘臣はファイルで名を確認している間に、ひかるはコピーしてきた用紙を学生たちに配っている。
「すみません。筆記用具、忘れてきたんですけど」
ふいに上がったハスキーボイスに、ドキリとさせられる。紘臣がファイルから顔を上げると、ち
ょうど目の前に立った学生が、まっすぐ紘臣を見つめていた。
ファイルで確認した名は、河島暁人(あきと)。年齢は二十一と、今回のアルバイトの学生たち
の中では一番上だ。大学三年なら、冬休みの間はアルバイトではなく、就職活動をするべきではな
いかと思うのは、紘臣の余計なお世話かもしれない。
「……ああ、じゃあ、これを」
紘臣はジャケットの胸ポケットに入れておいたボールペンを差し出す。受け取った暁人と指先同
士が触れ、何でもないその感触に、なぜか意識させられた。
暁人は学生たちの中で、際立った顔立ちの良さを持っていた。
野性的といえるほど鋭い目をしているのに、全体の印象は怜悧といえる。そのアンバランスさが、
魅力といえるかもしれない。
妙に気にかかるものを感じながら、紘臣はファイルに再び視線を落とす。
仕事の説明といっても、簡単だった。倉庫内に大量にある商品の在庫数を、品番ごとに数えて用
紙に記入していくだけだ。あとは欠損品などのチェックをするぐらいだ。
この作業が終わらないことには、倉庫の移転はできない。学生たちの手際の良さに、すべてがか
かっているというわけだ。
倉庫の一階はひかるに任せ、紘臣は学生二人を連れて二階に上がる。その内の一人には、すでに
名を覚えた存在である暁人もいる。
雑然と商品が積まれている。頻繁に出入りしている紘臣などは、何がどこに置いてあるかわかる
が、初めて足を踏み入れた人間は戸惑うばかりだろう。
しばらくつきっきりで見ているしかないなと、紘臣は梱包された商品を眺めながら思う。
「遊佐さーん」
一階からひかるに呼ばれ、紘臣は顔を出す。吹き抜けになっているため、商品の出し入れは容易
なのだが、落ちたら大変だ。
「どうした?」
「説明終わりましたけど、どうします? あたし、もう少し残ってますけど」
「ああ、いいよ。おれが残って見てるから」
途端にひかるが嬉しそうな顔をする。よほど、学生相手というのが嫌だったのだろう。 軽く手
を振ってやると、走って行ってしまう。その後ろ姿を見送っていて、ふと視線を感じた。
振り返ると、商品に手をかけた格好の暁人が、じっと紘臣のことを見ていた。視線の鋭さに、な
ぜか落ち着かない気分となる。
この学生は苦手かもしれない――。
紘臣は心の中でそっと呟く。咄嗟に暁人に声をかけていた。
「軍手しておかないと、手を切るぞ」
応えるように、暁人が唇だけで笑った。
その笑みに心を食われそうだと、紘臣は一瞬、寒気を感じた。
帰宅した紘臣は、着替えを終えてすぐに、由希の自宅へと電話をかけた。携帯電話の留守電に、
帰ったら電話が欲しいと吹き込まれていたのだ。
電話に出たのは由希の母親だった。
『あら、遊佐さん』
由希とは対照的な、おっとりとした声が応じる。外見から気質までに似ていないのは当然のこと
で、由希とは血がつながっていない。由希の父親が再婚したため、二番目の母親となる。それでも、
由希との関係がうまくいっているのは、他人である紘臣の目から見てもよくわかる。
由希に代わってもらうよう告げると、受話器越しに話し声が聞こえ、すぐに由希が電話に
出た。
『いつもこんなに帰り遅かった?』
開口一番の由希の言葉に苦笑させられる。
「浮気でも疑ってるのか?」
『女として当然ね』
「……そんな体力も気力もないな。会社でバイト学生の指導してるから、どうしてもその分、残業
して自分の仕事を片づけるようになるから」
『まあ、信用してあげる』
「お前ねえ――……」
つきあいが長くなってくると、相手を疑うという部分で遠慮がなくなってくる。
仕方がないことかと、紘臣はクッションの上に座り込む。
「それで、何か用があったんじゃないのか」
『今週の土曜、うちに来ない? 紘臣とのこと、そろそろかもよって言ったら、うちの親が盛り上
がっちゃって……』
「おれとのことって……、結婚のことか」
由希が受話器の向こうで、軽やかな笑い声をたてる。
『先走りすぎた?』
「おれはプロポーズもしてないぞ。ついでに指輪も買ってない」
『でもいつかは、してくれるんでしょ?』
巧みに言葉を誘導されている。紘臣としては笑うしかなかった。
近い将来、由希とはそうなるであろうし、今のところ、二人が別れる原因となるものは何一つな
い。
「可愛いねえ、お前」
『いまさら、でしょ』
「はいはい。おれなんかに、そこまで本気になってくれるのは、由希ぐらいのものだよ」
その瞬間、由希の声が真剣なものとなった。
『紘臣、自分のこと過小評価するのはやめてね。わたしは、誰に対しても嫉妬してるの。紘臣が
会社で一緒に仕事してる人にも、ただ街ですれ違っただけの人にも。 ――冗談でプロポーズなん
かしないの、わたしは』
「由希……」
初めて知る由希の一面に、紘臣は戸惑う。それを由希は察したらしい。作ったような明るい声で
言った。
『嬉しいでしょ、こんなに愛されちゃって。冗談よ。来週の日曜、うちに弟が来るから、紘臣にも
会わせようと思っただけ。それだけ』
名までは知らないが、由希に四つ下の弟がいることは知っている。離婚時に、由希は父親に引き
取られたが、弟のほうは母親に引き取られたという話だ。
ほっとしている自分の心理に罪悪感を覚えながら、紘臣は相槌をうつ。
「珍しいんじゃないか、お前の弟が来るなんて」
『そうなのよ。わたしはよく誘ってるんだけどね。気をつかってるらしくて』
「まあ、行けるよう努力はしておく。仕事が入ってるんだ」
仕事とは、アルバイトの学生たちの監視役だ。一般社員は休みなのだが、アルバイトの学生だけ
で倉庫を任せておくわけにもいかず、紘臣やひかるは出社することにした。
もっとも平日に、代休はしっかり取るつもりだ。
「様子を見て、連絡する」
他愛ないことを話してから電話を切る。
何気なく、自分の指先を見つめていた。今になって、まだ暁人からボールペンを返してもらって
いないのを思い出した。
数日、学生たちの様子を見ているが、暁人の存在はやはり際立っている。
不真面目だとか、紘臣に反抗的だとか、そういうことではない。ただ、暁人の視線が追いかけて
くるのだ。目が合うと、悪びれることなく唇だけで笑いかけられる。
好意的――とは別の種のものだろう。さすがの紘臣にもそれぐらいは判断がつく。
無意識にため息を吐いた、慌てて口元を押さえる。
まるで、由希との結婚を望んでいないように、自分自身で感じてしまったからだ。
「うー、いやだあ。みんな休みなのに、あたしたちだけ仕事なんてえっ……」
いつものようにコンピュータの電源を入れ、フロッピーを差し込む紘臣の隣で、他に誰もいない
のをよいことにひかるが叫ぶ。
「……でっかい嘆き声だな、上月」
「大人ぶらないでくださいっ。遊佐さんだって、本当は彼女とデートの約束あったんでしょ」
「あったけど、まあいいじゃないか。今日仕事しておいたら、締日、少しは楽だぞ」
「あたしは今日、休みたかったあ」
嘆き続けるひかるは放っておき、紘臣は今日入荷されてくる商品の伝票を、手早く処理していく。
アルバイトの学生たちからは、今日は二人、欠勤届が出ている。きちんと届けが出ている分、マ
シだということだろう。
暁人は毎日、遅刻や早退をすることなく、黙々と仕事をしている。他の学生たちと親しくしてい
る様子はない。
ひかると二人でキーボードを叩いていると、アルバイトの学生の一人が、いくつかの商品がどこ
にあるのかわからないと言ってやって来た。
ちょうど伝票の処理が終わったこともあり、ひかると共に倉庫へと向かう。
「悪いね。営業の連中が、好き勝手に倉庫の中を荒らしていくから」
学生にそう声をかけてから紘臣は倉庫の奥へと入っていく。ひかるは他の商品を探している。
「すみません。忙しいとこ」
一緒に探しながら、学生の一人が言う。こちらは暁人とは対照的に、すっかり会社の空気に馴染
んでいる様子だ。
「いいよ。こんなときのために、おれたちも来てるんだから」
段ボールを動かし、その後ろに隠れるようにして置いてある商品を見つけ出した。
「上月、お前のほうあったか?」
「大丈夫。ありました」
用は片づいたと、ジャケットについた埃を払う。
暁人と目が合っていた。アルバイト中の学生の格好は、だいたいジーパン姿だ。それでも暁人だ
けは、見間違えることはない。
物言いたげな様子を見せていたわけではないが、紘臣は口を開かずにはいられなかった。
「君のほうは、わからない商品はないか?」
いつものように暁人が唇だけで笑う。
他人がこんな笑いかたをすれば、不快と取るかもしれないが、不思議と暁人には、この笑いかた
は似合っている。
「……いえ、今のところは……」
「だったらいいけど」
暁人が素手であることに気づき、注意しようとする。そのとき視界の隅に、こちらに小走りでや
ってくるひかるの姿が入った。
「上月、ここで走るな。危ないぞ」
ひかるのほうに顔を向けた瞬間だった。微かな呻き声が紘臣の耳に届く。
はっとして声のほうを見ると、暁人が左手を押さえている。ポタポタと血の雫がコンクリートの
地面に落ちていく。
「河島くんっ」
梱包から、破損した商品の一部が飛び出し、血がついている。気づかず暁人の手が掠めたらしい。
暁人は表情らしい表情も見せず、自分の傷口を眺めている。血に弱い紘臣は、赤い色彩に貧血を
起こしそうになる。
自分のハンカチを出し、暁人の掌の傷口をそっと押さえる。ひかるが駆け寄ってきた。
「遊佐さん……」
「上月、救急箱持ってきてくれ」
何か言いたげな顔をしたひかるだったが、ちらりと暁人を一瞥してから、頷いて救急箱を取りに
行く。
「……だから、軍手してろって言ったろ」
しっかり暁人の手を取って、紘臣はそっとハンカチを外してみる。大した傷ではないのだろうが、
見ているだけで痛々しい。
場所を近くの洗面所に移し、ハンカチを水で濡らして丁寧に血を拭ってやる。
「大丈夫か?」
「――遊佐さんのほうが、青い顔してますよ」
からかうような響きの声が、すぐ側でする。思いがけず近くに暁人の顔があり、ドキリとさせら
れた。いままでとは暁人の雰囲気が違っている。悠然とした笑みといい、鋭いだけではない、紘臣
の反応を楽しむような眼差しといい、何もかもが、まだ紘臣が見たことのないものだ。
ハンカチの上から傷口を押さえる手を、暁人に取られる。何が起こっているのか、まだ紘臣は把
握できない。
「遊佐さん、一つ聞いていいです?」
痛いほど強く手を握られ、紘臣は我に返る。
「な、んだ……」
「上月さんと遊佐さん、つきあってるんですか?」
この状況で、どんな質問だと思ったが、紘臣は真面目に答える。
「上月はただの同僚だ。だいたいおれには、つきあってる人がいる。――君に関係あるのか?」
暁人は唇だけの笑みを浮かべたまま、答えなかった。そこにひかるが、救急箱を抱えて戻ってく
る。
消毒をしてから、傷薬を塗ったガーゼを当てて包帯を巻いてやる。病院に行くよう、
きつく言っ
ておいた。
ワイシャツの袖が暁人の血で汚れていることに気づいたのは、昼食をとり終えたときだった。
給湯室で湯を使って洗い落とす。そこに、やはり昼食を終えたひかるがやってきた。
「どうかしたんですか?」
ひょこっとひかるが手元を覗き込む。そして軽く眉をひそめた。
「それって血じゃ……」
「さっきの河島の血がついたらしいな」
不可解な暁人の質問を思い出していた。紘臣とひかるがつきあっているなど、どうして思ったの
か――。
横目でひかるをちらりと見る。年上の女として、暁人の目にひかるが魅力的に映ったのかもしれ
ないと、無理矢理ながら納得しておく。
ひかるが難しい顔をして壁にもたれかかる。
「あたしどうも、あの河島っていう子が、気に食わないんですよね」
紘臣は湯を止め、ひかると並んで壁にもたれる。
「気に入らない、じゃなくて、気に食わない、か」
「気に食わない。特にあの子が、遊佐さんを見る目が」
「おれを?」
制服のジャケットのポケットに手を突っ込み、ひかるは頷く。
ひかるが意味もなく、他人を悪く言うなどありえないと、これまでのつきあいでよく理解してい
る。そのひかるがここまで言うということは、暁人に対する不信感はかなりのものなのだろう。
「観察するように、遊佐さんのこと見てるんですよ。冷たいって言うんじゃなくて、本当に、ただ
観察してるって感じ。バイト先の指導係を見る目じゃないと思うんですよね」
「……お前の気のせいってことはないのか?」
突然、ひかるが身を起こす。壁にもたれたままの紘臣を、正面から見据えてきた。
「もし、そうだったとしても、河島暁人が腹に何か抱えてるのは確かです」
「根拠は?」
「さっきの河島暁人のケガ、わざとですよ。自分から、掌を傷つけたんです」
ひかるは自分の左手を使って再現した。それはどう見ても、偶然の動作ではない。
「あたし、こいつ何やってんのかと思ったんですよ。普通じゃないでしょ? 自分を傷つけるなん
て。……何か、気味が悪い。他のバイトの子と、明らかにどこか違ってます」
唇だけの暁人の笑みが脳裏に浮かぶ。
給湯室の外で人の気配がしたので、急いでドアを開ける。立っていたのは、ついさきほどまでの
話題の主、暁人だった。急にドアが開けられたことに驚いたように、わずかに目を丸くしている。
ひかるとの会話を聞かれていたかどうか、その表情から推測することはできない。
「すみません。お茶もらおうと思って」
ハスキーボイスが臆することなく言う。
「給湯室なら倉庫のほうにも――」
ひかるを手で制する。
「どうぞ。おれたちなら出るから」
紘臣はそう言い置いて、ひかるの手を掴んで給湯室を出る。
振り返ると、暁人は無表情に紘臣のことを見つめていた。
会社を出たところで、紘臣の目の前にふいに人影が現れた。
体を硬くした次の瞬間、違った意味で緊張する。とっくに会社を出たと思っていた暁人だった。
言葉もなく、数秒ほど互いに見つめ合う。
「――……病院、行ったのか」
「行くほどのケガじゃないですよ」
「そうか……」
暁人は喉を鳴らして笑い、ゆっくりとした歩調で歩き出す。つられて紘臣も並んで歩く。ひかる
から言われたことを告げるべきかどうか、逡巡する。
ただ、暁人の行動はあまりに読めない。そこに踏み込むのは、ひどく危険な気がした。五つも年
下の男を、紘臣は警戒しているのだ。
「今日の俺の質問の意味、わかりましたか?」
斜め前を歩く暁人に問われる。口調はあくまで柔らかいが、紘臣が見る限り、暁人はやはり無表
情だ。
「……質問って」
「上月さんとつきあってるんですか、ってやつですよ」
「ああ……。驚いた。いきなり脈略のないこと聞かれるから」
「脈絡は――あるんですよ、これが」
暁人の流し目に、心を射貫かれる。ひかるが言っていた、紘臣を観察しているときの目とは、こ
んな目かもしれない。
無表情の中、感情を押し殺したような鋭い目だけが、際立っている。
身震いするほど寒いはずなのに、紘臣は自分の額に汗が浮かんでいるのを知る。
「どんな脈絡だ」
「今言ったら、おもしろくないでしょう。そのときが来たら、最高のタイミングで言いますよ」
「そんなもの、ないだろ。君のバイトももうすぐ終わる」
「何も顔合わせるのは、会社だけじゃないでしょう」
意味深な眼差しを向けられたので、すかさず紘臣は顔を背ける。眼差しに、捉えられそうな危惧
があった。
紘臣がいつも利用している駅に着くと、暁人が券売機に行こうとする。少しでも早く暁人から距
離を置きたかった紘臣は、軽く手を上げてみせた。
「デパートで買い物があるから。ここで」
暁人も手を上げて寄越してきた。
「ええ。来週」
足早に駅から離れる。
本当はデパートに用などなかったが、まだ背後に暁人の視線が張り付いている気がする。逃げ込
むようにデパートに入っていた。
土曜日ということや、夕方ということもあり混雑している。その中にあって紘臣はようやく満足
に息が吐ける。
引き寄せられるように足が、ある場所へと向く。アクセサリーが陳列されたショーケースの前に
立っていた。
由希の指のサイズはわかっているので、店員に声をかけて、指輪を出して見せてもらう。
選んだ指輪を包んでもらい、カードで支払いを済ませながら、紘臣はひどく複雑な心境にあった。
曖昧な、どこか宙に浮いたような気持ちだ。指輪を買ったのは、自責の念に駆られたからかもしれ
ない。
由希との結婚に、紘臣は揺らいでいる。
デパートを出ると、日はすでに落ちてしまっていた。紘臣はつい舌打ちしてしまう。
会社を出てすぐに由希に連絡するつもりだったのに、暁人と会ったことですっかりいままで忘れ
ていた。
今から由希に連絡して、買ったばかりの指輪を渡そうかと思う。だがすぐに、その考えをうち消
した。
紘臣にはまだ、そこまで思い切れるほどのものがなかった。暁人の存在が、少しずつ紘臣の中の
何かを変えてきているようだ。
考えすぎかと苦笑して、紘臣は指輪を無造作に、コートのポケットに突っ込んだ。
締日も近くなり、商品管理部は一気に忙しさを増す。それに週明けも重なると、目が回りそうだ。
売上を伸ばそうと、営業の人間が容赦なく発注伝票を持ってくるのだ。
別のフロアの営業部にかけていた内線を切り、紘臣は手早くキーボードを叩く。その隣でひかる
が大きく伸びをする。
「うー、倉庫に商品の確認行かなきゃ」
「行ってこい、行ってこい。ついでに気分転換してこい」
すぐにはひかるが返事をしない。視線を動かすと、ひかるは難しい顔をしていた。ひかるがこん
な顔をする心当たりは、一つしかなかった。
「――土曜の、河島のことか?」
「恐いんですよねえ。倉庫行くの。あの子、イイ男ではあるけど、何考えてるのか読ませないでし
ょ? 遊佐さんみたいな、ソフトなタイプなら平気なんですけど」
ひかるに腕を突かれてから拝まれる。倉庫までついて来てくれということだろう。
紘臣は頷いてジャケットを羽織る。暖房が利きすぎた部屋の空気に、ちょうど辟易していたとこ
ろだ。
下でコーヒーを飲もうなどと話しながら、倉庫まで行く。
日曜の間に、棚卸が済んだ商品については別の倉庫に移したらしく、一階のほうは半分ほどスペ
ースができている。
「ちょっと待っててくださいね」
ひかるが小走りで二階の階段を上っていく。
「上月、スカートで走るな。危ない」
こう言いながら、紘臣は視線を倉庫内に巡らせる。つい、暁人の姿を探してしまう。他のアルバ
イトの学生や、配送業務の社員の姿はあるが、暁人の姿はない。
上にいるのだろうかと思い、吹き抜けとなっている二階を見上げる。
そのとき、ひかるの鋭い悲鳴が倉庫内に響き渡った。それと何かが落ちてくるような物音も。
「上月っ」
ひかるが走って行った階段のほうに駆け寄る。
一階と二階の間の踊り場のところに、ひかるが倒れ、微かに身じろいでいた。紘臣は階段を上り、
ひかるの傍らに膝をつく。
「上月……」
ひかるがうっすら目を開く。体を起こそうとしたので、支えてやる。
「足を滑らせたみたいで、階段から落ちたんですよ」
声が降ってくる。顔を上げると、階段を上りきったところに無表情で暁人が立っていた。なぜか
紘臣は、ぞっとする。
暁人に不信感を持っていたひかるが、暁人のすぐ側で階段から落ちたということに、何も感じる
なというほうが無理かもしれない。
ひかるの悲鳴を聞きつけた他の社員たちがやって来る。
「上月、大丈夫か?」
紘臣が声をかけると、ひかるが小さく頷く。動かして大丈夫かと思ったが、ひかるが自分で立ち
上がろうとして危なっかしいので、紘臣はひかるを抱き上げて病院に連れて行くことにする。
視線を上げると、暁人は感情を読ませない目で、まっすぐ紘臣のことを見つめていた。
昼休みとなり、紘臣は自分のコートを取り上げる。
いつもは弁当を注文するのだが、今日は配達してくれる店が休みなので、外で昼食をとろうと思
ったのだ。
コートを片手に外に出ると、倉庫に暁人の姿があるのを見つける。目が合ったので、手招きした。
暁人が唇だけで笑い、左手を出して見せてくれた。新しい真っ白な包帯がきちんと巻かれていた。
昨夜あれから、病院に行ったらしい。
「縫われましたよ、掌」
「そんなケガを放っておくなよ。不便だっただろ」
ごく自然な会話が交わせたことに、心の中でほっとする。ついでなので、昼食にも誘ってみた。
一人で外食をするのは苦手だ。由希にこのことを言うと、女のようだと言われたが、苦手なもの
は仕方ない。
暁人はあっさり頷く。
「だけど学生なんで、ほどほどの値段の店にしてくださいね」
「安心しろよ。昨日のこともあるから、おごる」
会社の車で二人で昼食に出る。
行った店は、ときどき由希と訪れる家庭的なイタリア料理の店だ。昼で混み合ってはいたが、テ
ーブルはすぐに空いた。
コートを脱いで椅子の背もたれにかける。腰掛けた拍子に床に落ちたが、素早く暁人が拾い上げ
てくれた。
「ああ、悪い」
埃を払ってくれていた暁人の手が止まる。
「ポケットの中、何かけっこう大きなもの入ってますね」
紘臣は苦笑しながらコートを受け取り、背もたれにかけ直す。
「――指輪だ」
答えると、暁人の鋭い目が射貫くように紘臣を見た。直視できず、紘臣はメニューに視線を落と
す。
「指輪、って……、つきあってる人に渡すつもりなんですか?」
メニューを注文してから、暁人が淡々とした口調で問いかけてきた。
相手が学生ということや、今週中にはアルバイトが終わってしまうということ。それに、暁人自
身の落ち着いた雰囲気から、紘臣は心の中に溜まり続けていたものを、少しずつ言葉にして吐き出
す。
「そのつもりで買ったんだけどな……」
「渡さないんですか?」
「渡すさ。そのうち」
「――……プロポーズ、するんですよね。指輪を渡すつもりの人に」
紘臣は一瞬、間を置いてしまった。それを見逃すまいとするかのように、暁人は紘臣を見据えて
いる。
「するよ。するけど……」
「けど?」
いつの間にか暁人に会話の主導権を握られていたが、さほど気にならなかった。
コートのポケットをまさぐり、紘臣は指先で指輪のケースに触れる。
「なんとなく、流されてる気がしてる。そういう歳になったから、つきあってて当然のように結婚
を意識して、勢いで指輪まで買ってしまった」
「遊佐さん、本当にその人のこと好き?」
思わず紘臣は顔を強張らせる。暁人がわずかにテーブルに身を乗り出し、紘臣の顔を覗き込んで
くる。
「……好きだよ。好きでもない相手に、本気でプロポーズしようなんて思わないだろ」
「逃げられない状況だから、そう思うことにしてるとか――」
「ずいぶん、男女のことをわかったような言い方をするんだな」
「想像ですよ」
暁人が頬杖をつく。
「へえ、でも意外だな。男の人でも、マリッジブルーみたいなことってあるんですね」
「おれが?」
「そうですよ。戸惑ったような、憂えたような……。結婚を待ち望んでる人の表情ではないと思い
ますよ」
すべてを見透かされたような居心地の悪さを覚えた。
料理が運ばれてきて、テーブルの上に並べられる。
「遊佐さんがつきあってる女の人って、どんな人なんです」
食事をしながら、何でもないことのように暁人が言う。どういう意図からの質問なのか、落ち着
きをなくしていた紘臣は、考えもしなかった。
「どんなって……、気はけっこう強いな。華奢で小柄だけど、パワフル。いつもおれは振り回され
てるよ」
「美人?」
単刀直入な問いに、紘臣は軽く笑う。
「まあ、美人かな。いや、美人だな」
「遊佐さんとどっちが?」
「……妙な質問だな」
「そうかな。俺はけっこう、本気で聞いてるんですけど」
艶を含んだ眼差しが向けられ、紘臣は鼓動が乱れてきているのを自覚する。その症状を治めるた
めに、料理を口に運ぶことに専念する。
「もったいないですよ。遊佐さんが誰かのものになるなんて」
ちらりと視線を上げると、暁人の唇だけの笑みとぶつかる。
それ以降は、暁人は自分の大学生活をぽつりぽつりと話す。紘臣が尋ねるから、仕方なく話して
いるという様子だ。
互いのことを話すことで、釣り合いを取っているのかもしれない。
昼食を終えてから会社に戻ると、暁人は紘臣に礼を言ってから倉庫に向かう。その後ろ姿を見送
ってから、紘臣は中に入る。
商品管理部のフロアには、すでにひかるの姿があった。コートをかけてから紘臣は自分の席につ
く。
「おかえりなさい。一人で食べに行ったんですか?」
「いや…。河島と」
ひかるが露骨に顔をしかめる。
「そんな顔するなよ。そう悪い奴じゃないんだから」
「でも、気をつけておいたほうがいいと思います。やっぱりあの子、何か企んでそう」
プリンタに用紙をセットしながら、紘臣は心の中で半分否定し、半分肯定していた。
暁人は、掴めない存在だ。
紘臣は軽く首を横に振る。
「だいたい、企んだところで、おれなんか騙したって得にはならないだろ」
「それはまあ、そうですけど」
「そうピリピリするなよ。どうせ今週いっぱいで、もう二度と顔を見ることもなくなるんだから」
そのことを寂しいと感じてしまう自分の心境の変化に、紘臣は内心でひどくうろたえる。
暁人の言った言葉の一つ一つが、烙印されたようにしっかりと心に残っていた。
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