残酷な視線


2。 



 店を出た紘臣は、肌寒さに体を震わせる。
「さむっ……」
 飛び跳ねるようにして紘臣の隣に立った由希が、慣れた動作で紘臣の腕に手を絡めてきた。
 紘臣は白い息を吐き出してから、両手をコートのポケットに突っ込む。そのとき指先に、指輪の ケースが触れた。
 由希から携帯電話に連絡があり、会社帰りに待ち合わせて夕食を一緒にとったのだ。
 指先で指輪のケースを弄ぶ。渡すなら今だと、食事の間中思っていたが、結局渡せないままだ。
今日は由希との会話が弾まないと思うのは、紘臣自身の心理のせいかもしれない。
 人が行き交う歩道を歩く。ふいに由希に言われた。
「紘臣、今日は緊張してるでしょ」
「えっ?」
 茶色の目を細めて由希は笑う。そこにわずかな苛立ちを見てとったのは、決して気のせいではな い。
 由希はずっと、紘臣の口からプロポーズの言葉が出るのを待っているのだ。
「わたしが何を言い出すか、ずっと待ちかまえてる感じ」
「そんなことない」
「紘臣のいいところの一つはね、隠し事に向かないタイプってことよ」
 後ろめたさを感じ、ポケットから手を出す。今夜に限っては、指輪を渡しプロポーズするタイミ ングは完全に逃してしまった。
 逃げ道を見つけ出してしまったように、ほっとする自分の心理が、紘臣には理解しかねる。
「何かあった?」
 紘臣の前に回り込んできた由希が、ぐいっと顔を近づけてくる。
「仕事が忙しい。まあ、締日が近いから仕方ないんだけど」
「いつもボロボロになってるからね。紘臣はその頃になると」
「特に今月は、アルバイトの学生の面倒も一緒に見ないといけないからな」
「学生は冬休み入ってるもんねえ。うちの弟もそう。就職活動もしないで、バイトやってるみたい」
 その話を聞いて、ふと暁人の顔を思い浮かべる。鼓動が、不自然に乱れていた。
「ふうん、まあ、今晩は勘弁しておいてあげるわ」
「何を――」
 咄嗟に出た言葉だったが、由希に軽く頬を叩かれて応えられてしまった。女の口から言わせるな、 ということらしい。
由希が足を止める。紘臣を見上げた。
「タクシーで帰る」
「送るよ」
「今日はいい。タクシーの中で、紘臣に八つ当たりしそうだから。意気地なしって」
「痛烈な皮肉だな」
 紘臣が顔をしかめて見せると、由希は鮮やかな笑みを浮かべた。自分などよりよほど大人だと感 じさせられる表情だ。
 長い髪と、ベージュのコートの裾を揺らし、由希が紘臣のすぐ目の前に立つ。首にしなやかな両 腕が絡みついてきた次の瞬間、唇を塞がれていた。
 少し長めのキスを終えて体を離すと、由希が指先で紘臣の唇を指す。
「電車乗る前に、ちゃんとしておくのよ。名残り惜しいっていうなら、キスの跡、残しておいても いいけど」
「バカ」
 タクシーを止めた由希が乗り込む。窓越しに手を振られたので、紘臣も軽く返す。
 一人になって歩き出しながら、ハンカチで唇を擦る。いまだに、人目があるところで抱擁やキス を交わすのは気恥ずかしい。
 再びコートのポケットに手を入れ、指輪のケースを確認する。
 なぜ、渡せなかったのか――。
 考えたところで明確な答えなど、紘臣に出すことはできなかった。




 残業を終え、ため息混じりで会社を出た紘臣の目に、まだ電気のついている倉庫が入る。配送の ほうも、残業続きらしい。
 そう思いながら、紘臣は誘われるように倉庫へと向かう。
 一階に入っている事務所には、数人の人影が見える。紘臣は、その中に暁人がいないかと探して しまっていた。
「――俺のこと、探してます?」
 背後から声をかけられ、振り返る。二階へと続く階段の電気は消されていたが、その薄暗い場所 に暁人が腰掛けていた。
 暁人の唇だけの笑みを見た途端、紘臣は頭の芯が揺らぐ。
 上擦った声が出ていた。
「い、や……、そんなわけじゃ……」
「うそですね。探してましたよ。俺のこと」
 立ち上がった暁人がジーパンの埃を払い、紘臣に向けて手を差し出してきた。何も言えず紘臣は 暁人について行き、やはり電気が消されている二階へと上がっていく。
 一階からの明かりがあるとはいえ、奥へと行くに従い、足元が見えなくなってくる。ごく自然に 暁人に手を取られ引かれていた。
 二階には二人以外はおらず、また、人が上がってくる気配もない。
 それを十分承知しているのだろう。暁人は砕けた口調で言った。
「遊佐さん、落ち込んだ顔してる」
「……してないよ」
「何があったか、透視してみようか?」
 先を歩く暁人がちらりと振り返る。同時に、取られている手を強く握られていた。
 体温が上昇してくる。喉が渇く。暁人を意識してしまう。そして、恐い。なのに取られた手を振 り解いて逃げたいとは、思わない。
「できるのか?」
「できるよ、遊佐さんに関しては。――プロポーズをしようと思ったけど、できなかった。コート のポケットに、まだ指輪入ってるだろ? それで、美人の恋人に意気地なしとでも言われた?」
 当たりすぎて、何も言えなかった。
 暁人はさらに強く手を握ってくる。紘臣は、何も考えられなくなり、そっと暁人の手を握り返し ていた。
 窓の前に連れて行かれる。紘臣は窓の外の景色を見る間も与えられず、窓ガラスを背に暁人と向 き合う格好を取らされる。息もかかるほど間近に暁人が顔を寄せてきた。
「――遊佐さん本当は、結婚なんてしたくないんだよ」
「ちがっ……」
「だったらどうして、ギリギリのところで踏み止まるわけ? 相手がイエスって言うのはわかりき ってるのに、それでも言い出せない理由なんて、他にないだろ」
 低く囁かれ、暁人の息遣いが唇に触れる。握り合った手を一度解かれ、指を絡め合う形となる。 指先に包帯が触れた。
 どんどん、暁人の存在に心と体が絡め取られ、さらわれそうになる。こんなのはおかしいとわか っているのに、紘臣にはどうしようもない。
 決定的なことを暁人に言われた。
「――好きじゃないんだよ、その女のこと」
 目を見開き、紘臣は暁人を見つめる。観察するような鋭い眼差しが、紘臣を見つめ返していた。
「やめろよ。結婚なんて。もったいない。あんたが誰かのものになるなんて」
 紘臣は息苦しさに耐えかね、詰めていた息を吐き出す。それが暁人の唇をくすぐったらしく、 わずかに頭を引いてから、暁人はゆっくりと唇だけの笑みを浮かべた。
「俺だけのものになればいい。簡単なことだ」
「何言ってるんだ」
「あんたも意識してるんだろ。俺のこと。だからこんなに体を硬くしてる。五つも年下の学生相手 に。――好きになりそうで恐い、ってやつ?」
 それが真実なのかどうかもわからないまま、紘臣は必死になって暁人の顔を押し退けようとする。
 片手の指の骨が折れそうなほど強く握られ、もう片方の手を窓に押しつけられた。
「んうっ」
 強引に唇を塞がれる。その途端に紘臣は足元から崩れ込みそうになり、暁人に支えられる。好き 勝手に唇を貪られ、口腔で舌が蠢く。
 きつく舌を吸われたところで一度唇が離される。息を喘がす紘臣に暁人が淡々と囁いた。
「どうする、やめる? 俺としてはちょっと惜しいけど、それでもかまわないけど」
 捕えられていた両手を解放される。一人で立てなくなっていた紘臣は、咄嗟に暁人の胸にしがみ つく。
「積極的だね、遊佐さん」
 あごを掴み上げられ、再び唇を塞がれる。逃げようという気は、奪い尽くされていた。言われる まま目を閉じ、暁人と舌を絡める。紘臣が喉の奥で笑っている。
 捕まってはいけないものに捕まってしまったのだと、痺れ始めた頭で紘臣は思う。
 長いキスを終えると、当然のことのように暁人に頭を引き寄せられ、抱き締められる。
「これから、俺の部屋に来るだろ」
 嫌だとは言えなかった。
 暁人の肩に顔を埋めたまま、紘臣は浅く頷く。その答えに満足したように、暁人の指が髪を梳い た。


 暁人のあとをついて歩きながら、紘臣は自問を繰り返していた。
 なぜ、暁人についていっているのか――。
 暁人が住んでいるというアパートを前にしても、その答えを出すことはできなかった。
 人目がないのを良いことに、暁人に手を掴まれて部屋に入る。
 整然と片づけられたワンルームの室内を見回していると、暁人の手が肩にかかってビクリとする。 気にかけた様子もない暁人に、コートを脱がされ足元に落とされた。
 ぼんやりと自分の足元に視線を向ける。すると腕を掴まれ、朝起き出したままらしい、多少乱れ たベッドに腰掛けさせられた。
 いきなり目の前で、暁人が上半身裸となる。
「河島っ」
 反射的に紘臣は、悲鳴に近い声を上げていた。暁人は唇だけで笑いかけてくる。
「他人行儀だな。暁人でいいよ。それと遊佐さん、やるときは、電気消さないと落ち着かないタイ プ? 俺は明るいとこで全部見ておきたいけど」
 立ち上がろうとしたが肩を押され、簡単にベッドの上に転がされた。ゆったりとした動作で暁人 が馬乗りになってくる。
 片手で喉を軽く掴まれて、空いた手でネクタイを解かれる。そしてワイシャツのボタン を外されていく。
 淡々とした言葉が降ってきた。
「俺についてきた時点で、あんたに逃げ場所はないんだよ。プロポーズしたい相手がいる? ふん、 笑わせんなよ。あんたの中は、迷いだらけだ。だから年下の、しかも男の俺の誘いにものった」
 暁人の手は着実に、紘臣が身につけているものを脱がしていき、暁人の言葉は確実に、紘臣の心 を覆っているものを剥ぎ取っていく。
 確かに紘臣には、もう逃げ場所はなかった。
「自分がどんなことされるのか、わかったうえでな」
「いっ……」
 ズボンと下着を一気に引き下ろされる。腰をよじろうとすると、暁人が体全体を使って抵抗を封 じてくる。
 首筋に熱い唇が押し当てられ、両足の間を力づくで開かれると、手が差し込まれた。
「おとなしくてろよ。別にあんたを犯したいわけじゃないんだ。合意で、そうしてるんだ。そうだ ろ?」
 めまいがしそうなほど近くに、暁人の目がある。ただの欲望であれ何であれ、初めて感情らしい ものを湛えた目だった。
 紘臣は胸の内に微かな疼きを感じ、戸惑いながらも体から力を抜く。両手をベッドに投げ出すと、 唇にキスをしてきながら、暁人が紘臣の両手を肩にかけさせた。
 熱い吐息が耳や頬、喉元へと吹きかけられる。一方で、捉えられたものを執拗に刺激され、高め られていく。
「うっ、う……」
 敏感な部分を撫でられ、紘臣は声を洩らす。耳元に唇が押し当てられる。濡れ始めていることを 告げられて、羞恥のあまり唇を噛み締める。
 肌と肌が馴染むようになってくると、紘臣の体は簡単に快感を追い始めていた。それを暁人は巧 みに煽る。胸の突起を指で弾かれ、ビクンとのけ反る。
「遊佐さん、今すごく、誘う顔してるのわかってる?」
 笑いを含んだ声で言われ顔を背けようとしたが、舌を絡め取られてそれができない。
 いつの間にか紘臣は、懸命に暁人の肩にすがりついていた。それを引き離して、自ら開いていた 両足の間に暁人が顔を埋める。
 十分に反応したものが熱いもので包み込まれ吸引されるのを感じ、紘臣は甘く掠れた喘ぎ声を上 げていた。
「いっ、やだ――」
 あふれるものを指がすくい取り、暁人が奥へと擦りつける。腰を浮かせて逃れようとしたときに は、乱暴に指を中へと突き入れられていた。
 内部を擦り上げられ、指を出し入れされる。痛みで一度は萎えかけたものが再び熱くなり、紘臣 は爪先を突っ張らせる。その瞬間、暁人の口腔から解放され、掌で受けとめられた。
 下半身に力が入らなくなる。自分の体に起こっていることがあまりにショックで、短い間だが、 自失の状態となる。
 暁人が顔を覗き込んでくる。苦しげな息遣いをしていた。
「一方的に、あんたにだけ痛い思いさせるかと思ったけど、これなら、お互いイイ思いができそう だ」
「……言うなっ……」
 暁人の指が蠢き、紘臣の内部をかき回す。耳に届く淫猥な音にすら、正直、快感を引きずり出さ れる。
 指が引き抜かれ、顔を背けようとしたが強引に唇を吸われる。その間に、暁人の熱いものが押し 当てられた。
「んんっ。んーっ、んんっ」
 両足を抱えられる。ゆっくりと暁人が侵入してくる。
「あんまり大声出すなよ。防音はけっこうしっかりしてる部屋だけど、限度があるから」
 腰を抱えてから、暁人が指を三本、紘臣の口腔に含ませてきた。声を殺すため、紘臣は夢中で指 を呑み込む。
 痛みで気が遠くなりかける。それでも、暁人のものを深く受け入れていくのはわかる。敏感な場 所を、容赦なく暴き立てられていく。
 ときおり指を引き抜かれ、舌を絡め合う。そのときは必ず、暁人の欲望のままに突き上げられる。 それを繰り返されると、紘臣は無意識のうちに腰の動きを同調させていた。そうすることが一番楽 だと知ったのだ。
「すげー、締め付け」
 荒い息の下、暁人が言う。
「惚れちゃったらどうしようか? あんたの恋人と、あんたを取り合うのも、おもしろいかもな」
「いや、だ……。こんなこと、由希には、絶対知られたくない……」
 激しく突き上げられ、紘臣は口を手で塞がれて悲鳴を封じられる。
 暁人のものが一息に引き抜かれたかと思うと、紘臣の下腹部に生暖かなものが散った。それが何 かわかった紘臣は、きつく目を閉じる。
 紘臣自身、いつの間にか欲望を放っていたことに気づいたのは、その瞬間だった。


 長い間繋げ続けていた体を離すことを、ようやく暁人が許してくれる。紘臣は震える吐息を洩ら していた。
 背から暁人が離れると、うつぶせのまま体を伸ばす。一度は体を離した暁人だったが、気まぐれ のように、汗で濡れた紘臣のうなじや肩、背に唇と指先を這わせてくる。
 小さな舌打ちが紘臣の耳に届いた。わずかに頭を起こすと、暁人と目が合う。苦々しく言われた。
「――……血が出てる」
 ぼんやりした頭には、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。ただ、腰から下の鈍痛がひ どい。
「ああ……、かまわない……」
  枕に片頬を埋める。暁人は何も身につけないままベッドから出ていき、タオルを手にして戻って きた。
 濡れた感触が、さきほどまで暁人を受け入れていた部分に軽く押し当てられる。紘臣は力なく首 を左右に振る。
「い、い……。自分で、やる」
 身をよじろうとしたが、簡単に押さえつけられる。血と、暁人が放ったもので汚れた場所を暁人 自身に拭われるのは、耐え難いほど苦痛だ。
 暁人はそんな紘臣の心理がわかっていた。
「どんな気分だ。年下の男にいいように扱われて、後始末される気分は」
「聞きたいのか……?」
「経験がないから」
 タオルを払い退けて起き上がろうとしたが、力が入らなかった。暁人は気分を害した様子もなく、 紘臣の体に毛布をかけ、一緒に潜り込んでくる。
 体内で感じ続けていた体温を嫌でも毛布の中で意識させられる。
 暁人が手を伸ばしてきたので、身をすくめる。汗と涙を吸って湿った髪に、指を絡められる。聞 かずにはいられなかった。
「どうして、こんなこと――……」
 髪から指が退けられる。暁人は仰向けとなり、天井を見上げる。
 紘臣は暁人の横顔をじっと見つめる。行為のあとのせいか、暁人が持つ鋭さがいくぶん薄れてい る。
 きれいな顔立ちをしていたのだと、紘臣は状況に似合わないことを考える。
「……あんたが、不安そうな顔してたから。恋人だとかプロポーズだとか言ってるくせに、全然、 それらしい顔してないから、だな。こういう人間でも、人並の幸せを手に入れられるんだ、と思っ て――」
 めちゃくちゃにしてやりたかった、とぽつりと言葉が続けられる。それが暁人の本音なのかどう か、紘臣にはわからない。
 ただ、やはり心の中を見透かされていたのだと、納得だけはしていた。
「あんた、恋人が好きじゃないのか?」
「好きだ。だけど、一生一緒にいられる相手なのかどうかは、わからない。……こんなこと考える あたりは、不実なのかもしれないな」
「ふん。そんなこと言ってたら、世の中、誠実な人間なんてほとんどいなくなると思うけどな」
 急に体を起こした暁人が、のしかかってくる。押し退ける気力も体力も、今の紘臣にはなかった。
 両手首を押しつけられ、真上から暁人が顔を覗き込んでくる。紘臣は、暁人の眼差しに嫌悪と怒 りを見て取る。
「――誰にもわからない。好き合った相手とこのまま一生、一緒にいられるかなんて。あんたのは、 ただの言い訳だろ」
「学生のお前に何がわかるっ」
「自分の気持ちもわからないあんたには、わかるって言うのか?」
 明らかな嘲笑を向けられる。紘臣は言葉に詰まり、顔を背ける。暁人が低い笑い声を洩らす。
「気をつけろよ。あんたもう、女とはダメな体になったかもしれないから。恋人と試しといたほう がいいぜ」
 手を上げようとしたが、ぐっと力を込められ、動かすことができない。
「やめっ、ろ」
 耳朶を唇で挟まれてから、暁人の舌が首筋や喉元を舐めていく。
「いまさら、だろ。さっきまで俺に何されてたか思い出してみろよ」
 羞恥で体が熱くなる。紘臣の体温の変化を感じ取ったらしく、暁人の舌の動きが妖しさを増して くる。
 紘臣の中でゆっくりと、疼きのようなものが蠢く。そのことに対して、紘臣は自分自身に激しい 嫌悪を覚える。
 こんなことを、死んでも由希には知られたくはなかった。
「んっ……」
 手首が解放されたかと思うと、次の瞬間には、息もできないほど強くかき抱かれた。驚いて目を 見開く。苦しげな色を浮かべた暁人の目とぶつかった。はっとしたように暁人が体を離し、ベッド から出る。
 くそっ、と確かに低い呻き声が聞こえた。
 紘臣を振り返りもせず、暁人は着替えやバスタオルを手に、バスルームに入って行った。すぐに シャワーの音が聞こえてくる。
 紘臣はゆっくり体を起こすと、ベッドの下に落ちた自分の衣服をのろのろと身につけていく。
 引き裂かれるような罪悪感や自己嫌悪は、ネクタイを締めた瞬間に訪れた。足が小刻みに震える。
それでもジャケットを羽織り、コートなどを手に立ち上がる。一歩を踏み出す瞬間が、ひどく恐か った。
 世界が壊れそうだと、紘臣は心の中で表現する。
 足音を立てずにバスルームの前を通り過ぎると、背後でドアが開く音がした。振り返ると、髪か ら雫を滴らせた暁人が顔を出していた。数秒間、言葉もなく見つめ合う。
「――……なんだ……」
 暁人が唇だけで笑った。
「明日もよろしく。遊佐さん」
 踵をかえし、紘臣は足早に暁人の部屋をあとにする。




 翌日、正直紘臣は、会社を休みたくて仕方なかった。それでも出社したのは、忙しい時期だから だ。
 それに、万が一にでも、暁人が自分との間にあったことを誰かにほのめかすのではないかと、そ れが恐かった。
 朝のうちは暁人と顔合わせることもなく、いつものように仕事の準備をする。
 営業の人間が持ってくる伝票を処理しては、商品の手配のために、あちこちのメーカーや代理店 に連絡を入れる。
 受話器を置いてため息を吐く。ふと気がつくと、隣の席からひかるが身を乗り出してきてていた。
「どうした?」
「遊佐さん、顔色最悪ですよ。真っ青通り越して、真っ白。血の気ないです」
「……風邪ひいたかもしれない。お前にうつしても恨むなよ」
 処理した伝票をボックスに突っ込む。
 鈍痛を訴え続ける体での激務に、座っていても息が切れる。昨夜のこともあるが、一睡もできな かったのだ。
 くしゃりと、前髪をかき乱す。暁人との行為の映像が、感触を伴って生々しく蘇る。それを打ち 消すのにも、今日は必死だ。
「遊佐ぁ、これの発注、午前中に頼む」
 駆け込んできた営業の人間から、発注伝票を手渡される。前髪に指を突っ込んだまま紘臣は目を 通す。
「これの在庫なら、倉庫にまだある。二階だから、新しい倉庫に移してないはずだ」
 必要以上に素っ気無く答えると、大げさに拝まれる。
「悪いっ。時間がない。これから打ち合わせに出ないといけないから、探して出しておいてくれ。
業者に連絡して、引き取りに来てもらうようにするから」
「発注かけるつもりだったんなら、自分で探して出せよ」
 紘臣の言葉を最後まで聞かず、本人は出て行ってしまう。
「行っちゃいましたねえ」
「営業の横暴を、誰かどうにかしろよ」
 伝票を手に紘臣は立ち上がる。少し動くのも億劫だ。今日は倉庫には行きたくないが、仕事とな れば文句も言っていられない。
 フロアを出ようとした紘臣に、ひかるも駆け寄ってきた。目が合うと、にっこりと笑いかけられ る。
「倉庫漁りをさっさと終わらせて、一緒に熱いコーヒーでも飲みましょう。そしたらその顔色、少 しはマシになるかもしれませんよ」
「……同期の優しさに、涙が出そうだ」
 倉庫に行くと、商品の搬入と、棚卸の済んだ在庫商品が新しい倉庫に移される作業が同時に行な われている。一見すると、商品と人が混雑しているようにしか見えない。
 邪魔にならないよう、倉庫の二階に上がる。アルバイトの学生たちの姿がある。その中に暁人の 姿を見出し、紘臣の足は止まる。
「遊佐さん?」
 ひかるが紘臣の視線の先にあるものを追いかける。そっと眉がひそめられた。
「河島暁人、どうかしたんですか?」
「いや……。なんでもない。さっさと探そう」
 見当をつけ、梱包された商品の品番を見ていく。
 紘臣が商品を退けようとすると、横から伸びてきた手がその商品を持ち上げた。
「手伝いますよ。――遊佐さん」
 かけられたハスキーボイスに、飛び上がるほど驚く。体が勝手に硬くなる。すぐ隣に立っている のは、暁人だった。
 わかっているからこそ、恐くて紘臣は暁人のほうを見られない。
 見れば意識してしまう。何度も重ね合った唇も、容赦なく抱き締めてきた腕も胸も、何もかもを。
「い、い……。すぐに済む」
「俺がかわりにやります。遊佐さん、体調悪そうですよ。足元ふらついて、顔色も真っ白だ」
 かまわないでくれ、と叫びそうになったそのとき、ひかるが側にやって来た。
「遊佐さん、ばっちりです。ありました。さっそくコーヒー飲みましょう」
 商品を片手で抱えたひかるに腕を取られ、引っ張られていく。
「上月……」
「やっぱりあたし、気に食わないんです。まあ、今週いっぱいの我慢ですけどね」
 ひかるに救われたようなものだった。紘臣はぎこちなく息を吐き、髪をかき上げる。
 口中で礼を言うと、ひかるの手から商品を取り上げて自分で持つ。耐え難い罪悪感と自己嫌悪は、 紘臣に行動を起こすきっかけを与えた。
 ひかるに先に給湯室に行ってもらい、携帯電話を出す。
 体調は悪いままだったが、由希に連絡を取り、今晩会いたいと告げる。つい先日会ったばかりの ため、由希は驚いている様子だったが、すぐに提案してきた。
 どうせ会うのなら、自宅のほうに来てほしいと。
 由希は、切迫した紘臣の口調から、ようやくそのときが訪れたのだと察したらしい。華やいだ声 がそれを物語っている。
 携帯電話を切ると、仕事に戻る。なるべくなら、遅くまでの残業は今日は避けたかった。


定時を少し過ぎてから、紘臣は今日は用があることを告げて仕事を切り上げた。
 指輪のケースが入ったままのコートを羽織り、会社を出る。倉庫の前を通りすぎるとき、アルバ イトの学生たちの中に、暁人の姿がないことに、ほっと息を洩らす。
 ただそれだけのことだが、由希に対してプロポーズをすることに、背を押されたような気がした。
 暁人と関係を持ってしまったことで、紘臣は立ち止まることもためらうことも、自分に許さない ことにしたのだ。
 電車に乗る前に、もう一度由希の携帯電話に連絡を入れる。由希はすぐに電話に出た。
『会社終わったの?』
「終わらせた。やってたらキリがないから。これから行っても大丈夫か?」
『うん。わたしも戻ってきたところだし。母さんに怒られてるのよ。準備があるんだから、早く言 えって』
 由希の両親も待ちかねていた、ということだ。紘臣は小さく苦笑を洩らす。
「あんまり気をつかわないでくれって、言っておいてくれ。急に言い出したのはおれなんだし」
『楽しみにしてるわよ。母さんも、父さんを会社から急いで呼び戻したぐらいだし』
「会うのは初めてじゃないのにな」
 過去に一度、外で一緒に食事をしたことがある。悪い印象を与えるような態度を取った記憶はな かった。
『せっかくだから、弟にも会わせてあげる。あの子にはさんざんグチ聞かせてるから、こんなとき に呼んであげないと』
「大事だな。ただ、おれが行くだけだっていうのに」
『――紘臣が来るからよ』
 きっぱりと言い切られ、返す言葉もなかった。適当なことを言って電話を切る。
 電車に揺られていると、つい目を閉じてしまいそうになった。罪の意識を呼び覚ます鈍痛が少し だが和らぎ、代わって、遠ざかっていた眠気がヒタヒタとやってくる。
 アナウンスが流れ、慌てて電車から降りる。
 歩きながら、緊張しているのを自覚する。そのせいかわずかな吐き気が湧き起こる。
 由希の自宅の前に立った頃には、日は落ちてしまっていた。元々静かな住宅街には、歩いている 人の姿も少なく、家から洩れる明かりや街灯によって、道がぼんやりと照らし出されている。
 インターホンを押すと、すぐに由希の声で応答があった。仕事から戻ってきてまだ着替えていな いらしく、玄関から飛び出してきた由希はスーツ姿のままだ。
「いらっしゃい」
 笑いかけてきた由希に、途中の店で買ったケーキの箱を渡す。
 リビングに通されると、由希の父親がすでに帰宅していた。こちらもまだスーツ姿だ。穏和な笑 みと共に頭を下げられ、紘臣も頭を下げる。そのとき視界の隅に、ダイニングのほうから長身の人 影が入ってきたのが映った。
「――ようやく来てくれたんだ。姉貴の恋人の、遊佐さん、が」
 何度も耳元に囁かれたハスキーボイスだった。紘臣は頭を上げ、その人物の姿を確認する。
 声にならない悲鳴を上げる。
 目の前に立ち、唇だけの笑みを浮かべていたのは、誰でもない、暁人だった。鋭い目が、偽りの 親しみを込めて紘臣を見つめている。
 体中から血の気が失せ、意識が遠退きかける。それでも耳に、由希の声が届いた。
「お互い、会うのは初めてよね。これが、弟の暁人。暁人のほうにはよく紘臣のこと話してるの」
「そう。今日はデートしてどこに行ったとか、こんなこと話したとか」
 背筋が冷たくなるようなことを、暁人はさらりと口にした。
 つまり、由希との間にあることはすべて、知っているということだろう。なかなかプロポーズに まで踏み込んでくれない紘臣のことを、由希はどんなふうに暁人に話していたのか――。
「暁人が聞き上手なのよ。それでわたしもついつい、余計なこと言って……」
「ノロケだろ。いつも」
 暁人は由希の弟を演じていると、漠然と思った。そうでなければ、今目の前にいる暁人に対して 感じる違和感は、説明がつかない。鋭い目を和らげ、穏やかな口調で話す二十一才の学生など、紘 臣は知らない。
 体中が震えてくる。紘臣はぐっと口元を押さえる。
 恋人である由希の弟と、体を重ねてしまったという現実にようやく行き着き、心と体が拒絶反応 を示してくる。
「紘臣っ? ちょっと、顔真っ青。冷や汗までかいてるじゃない」
 伸ばされてきた由希の手から、身を避ける。懸命にこれだけを言っていた。
「気分が……。洗面所、借りていいか……」
「だったら――」
「俺が連れて行く」
 暁人に肩を支えられ、引きずられるようにしてリビングを出る。洗面所に連れ込まれると、蛇口 をひねった暁人に、頭を押さえつけられた。
「情けないな。これぐらいで音を上げるなんて」
 さきほどまでとは別人のように、淡々とした言葉が頭上から降ってくる。
 紘臣は背後から抱き締められるようにして支えられる。必死に逃れようとしたが、口元に這わさ れた暁人の指が三本、無遠慮に唇を割って口腔に突っ込まれる。
 反射的に紘臣は咳き込み、吐く。昨夜からほとんど食べ物を口にしていないので、出るのは胃液 ぐらいのものだ。
「――昨夜は夢中で、俺の指を吸ってたんだぜ、あんた」
 口腔から指が引き抜かれ、水を飲まされる。吐き気は治まったが、脱力感がひどく、支えられな がらもその場に座り込もうとする。暁人は許してはくれなかった。
 息苦しさに喘ぎながら視線を上げると、目の前に鏡がある。鏡越しに暁人と目が合う。
「あんたのことは、なんでも聞いてた。姉貴から。あの気の強い女に根気よくつきあう男はどんな 奴かと、ずっと気になってた」
「始めから……知ってたんだな……」
「姉貴から、本気で結婚を考えてるって聞かされて、ちょうどよく、うちの大学の学生課に、あん たんとこの会社がバイトの募集を出してた。近づくならこれだと思ったんだ」
 水を含まされ、口を濯ぐ。解放されるのかと思ったが、違った。
 暁人の指に、紘臣は唇をまさぐられる。鏡越しに見つめ合う。耳元で低く言われた。
「口開けろよ。昨夜のあんたは、言う前に自分から素直に開けてたぜ」
 暁人に逆らうということは、頭の中になかった。暁人と会社の倉庫でキスをした時点で、すべて の主導権は暁人に握られてしまった。唇を開き、暁人の指を含む。指先に舌を捉えられ、刺激され る。
 鏡に映る自分の姿を見たくなくて視線を伏せる。耳朶を暁人に噛まれ、ビクリと背を反らす。
「……姉貴はその気になってて、あんたは迷ってて。それで結婚だプロポーズだなんて聞いてると、 本当に笑えて、むかついた。こいつらは、恋人同士なのに、相手なんて見てないんだってな」
 紘臣自身の唾液で濡れた暁人の指先に、唇を擦るように撫でられる。
「――……目的はなんなんだ」
 震える声で問いかける。鏡の中で暁人は唇だけの笑みを浮かべ、紘臣と頬と頬を重ねる。
「潰してやりたかっただけだ。俺は昔から、無神経な姉貴が嫌いだったから、その婚約者になるか もしれないって男を、痛めつけてやろうかと思ったんだ。もっとも、あんた見て気が変わったけど」
 指で唇をこじ開けられる。
「昨夜のほうが効果的で、おもしろい。あんたみたいな男には。あれを知ったら、あの気が強い姉 貴がどんな顔するか――」
「由希には言わないでくれっ」
 静かにしろと言うように、暁人が口元に人差指を立てる。紘臣はあごを持ち上げられ、暁人が顔 を覗き込んでくる。鏡越しではない暁人の眼差しにさらされると、何も考えられなくなった。
 軽く唇を吸われて紘臣は微かに声を洩らしてしまう。体を向きを変えられ、引き寄せられると、 一気に深く唇が重なってくる。貪られ、舌を差し込まれる。無言で要求され、紘臣は暁人と舌を絡 め合う。
 蛇口からの激しい水音の中でも、二人の間から洩れる濡れた音や、乱れた息遣いは生々しく耳に 届く。
 洗面所の外で足音が聞こえる。紘臣は過剰に反応したが、暁人は悠然としていた。
 ドアが軽くノックされる。
「紘臣、大丈夫?」
 ゆっくりと唇が離され、紘臣は喘ぎながらズルズルとその場に座り込む。その様子を見下ろしな がら暁人が答えた。
「ちょっと吐いたから、もう少し待っててくれよ。今日は帰ってもらったほうがいいんじゃないか。 遊佐さん、本当に気分悪そうだから」
「……そうね……、じゃあタクシー呼んでおく」
 由希の失望が、声からも伝わってくる。足音が遠ざかると、暁人は低い笑い声を洩らし、膝を折 って紘臣の顔を覗き込んできた。
 濡れた唇を指先で拭われる。
「気持ち良くしてやったんだから、もう立てるだろ? 姉貴と結婚しようなんて、その気もないの に思わないんだな」
「お前に、そんなことを言う権利があるのか」
「姉貴には本当に幸せになってもらいたいから、あんたみたいな男には任せられない――、なんて 気持ちは毛頭ないね。派手にあんたたちの仲をぶち壊してやりたいんだ」
 暁人にコートのポケットをまさぐられる。
「ああ、やっぱりここに入れてた」
ケースごと暁人の手にあった。取り返そうと手を伸ばしたが、簡単に躱される。腕を掴まれて強 引に立たされた。
「これはしばらく、俺が預かっておいてやるよ。あんたの腹が決まるまでな」
 暁人は自分のポケットに入れてしまうと、紘臣を洗面所から押し出す。
 何も言うことができず、何も抵抗することができず、紘臣はリビングに顔を出し、由希の両親に 謝罪する。
 玄関で由希と向き合ったが、まともに目を見ることができない。
「悪い。せっかく集まってもらったのに……」
「いいけど、本当に大丈夫なの? 顔から血の気がなくなってるけど」
 由希の指先が頬に触れる。払い退けたのは暁人だった。
「タクシー、もう来てるんじゃないか」
 一度だけ暁人と目が合う。紘臣は顔を背けると、頭を下げて玄関を出る。
 二人の見送りを受けながら、家の前で待っているタクシーに乗り込む。行き先を告げると、紘臣 は洩れそうになった嗚咽を押し殺し、固く目を閉じた。




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