残酷な視線


3。 



 ずいぶんすっきりしたなと、倉庫に立った紘臣は思った。
 在庫商品はすべて別の倉庫に移され、入り口付近に、今日入荷してきた商品が置かれているだけ だ。それに伴い、倉庫で働く人間の姿もほんの数人だ。
 先週、学生たちのバイトは終了した。もう少しすれば、この倉庫は建て直しのため、取り壊され る。
 暁人ともっとも顔を合わせた場所が、なくなるということだ。だが、その場所がなくなったから といって、暁人との関係が切れるはずもない。
 暁人が由希の弟であるという事実を思い出し、知らず知らずのうちに身震いする。
 指輪を暁人に取られてしまったのは、決定的だ。
 新たに買い直せば済むという問題ではない。指輪は、由希との関係の証明ではなく、暁人との関 係の証明となってしまった。
 深いため息を吐いた紘臣は、自分が倉庫にやって来た目的を果たすため、商品を探しだす。
 そのとき、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴った。取り出し表示を見た紘臣は、背筋に ゾクリとするものを感じる。
『――どうも、遊佐さん』
 耳元で囁かれているような錯覚を覚えるハスキーボイスが、淡々と言う。
 もっとも効果的に、自分が由希の弟である事実を紘臣に突きつけた暁人は、何かの歯止めをなく したように、朝も夜もなく紘臣の携帯電話に連絡を入れてくる。その回数は、つきあい始めたとき の由希よりも多いぐらいだ。
 紘臣は周囲に人がいないのを確認する。
「……何か、用か」
『一日一回は、あんたの声聞かないと落ち着かないんだ』
「心配しなくても、おれから由希に連絡は取ってない」
『ふ…ん。俺は一度だって、姉貴と会うなとも、連絡を取り合うなとも言ってないと思うけど。そ れとも、そんなこと言ったところで、二人の愛は変わらないってわけ?』
 暁人の言葉は、紘臣を傷つけるためというより、自虐的な響きを帯びている。はっきりとした敵意 や憎悪を暁人に持てないのは、この男のこんなところに気づいたせいだ。
 会話は結局、いつも同じことを繰り返す。
「――……いい加減、指輪を返してくれ。お前が持っていても仕方ないものだろ」
『本気で姉貴にプロポーズするなら、諦めて新しいのを買ったらいい』
 紘臣自身がぶつかっている矛盾を、暁人も突いてくる。
「……おれには、お前の考えてることがわからない」
『言ったろ。あんたたちの仲をぶち壊したいだけだって』
「どうしてだ」
『嫌いなんだ。姉貴も、あんたも』
「――どうして」
 初めて暁人が言葉に詰まった。だからといって紘臣の中に、優越感が生じることはない。
 何かが、見えてきそうな気がした。
「言いたいことがあったら言えばいい」
『あんたには関係ない』
「暁人っ……」
 紘臣がそう呼んだ次の瞬間、暁人のほうから電話が切られた。これも初めてのことだ。いつも紘 臣が一方的に言葉で追いつめられ、逃げ出すように電話を切るのだ。
 不思議な気持ちで電話を切る。
 紘臣は、暁人に会ってみようかという気になっていた。暁人の行動に、何か深い理由が隠されて いるのではないかと、このときになって思い至ったのだ。
 由希への罪悪感や自己嫌悪からではなく、暁人に向き合いたかった。
 だから、不思議な気持ち、なのだ。


 締日の忙しい時期が終わると、商品管理部の人間の大半は、定時で帰宅する。それは紘臣も例外 ではない。
急いで会社を出たところで、車のクラクションが鳴らされた。紘臣は会社前の車道脇にとめられ た車に視線をとめる。見覚えがあると思えば、そのはずだ。由希の車であり、運転席にいるのは由 希だった。
「どうかしたのか?」
 紘臣は車に乗り込むわけにはいかず、助手席のウインドーを下ろさせて声をかける。
 長い髪を今日はまとめ上げ、由希は眼鏡をかけていた。車を運転するときしか、由希は眼鏡をか けない。普段以上に理知的に見える。同時に、これからの自分の行動を見透かされそうで、少し恐 い。
 由希が小さく笑いかけてくる。
「仕事が早く終わったの」
「奇遇だな。おれもだ」
「だったらどこかで、ご飯でも――」
 紘臣は首を横に振る。
 当然なのかもしれないが、由希は不信感を顔中に露わにした。
 紘臣から由希に連絡は取っていないが、由希からは毎日連絡がある。一緒に食事でも、と誘われ て断る度に、受話器の向こうで由希はこんな顔をしているのかもしれない。
 そしてそんなやりとりを、由希はきっと、弟である暁人にグチ混じりで話している。紘臣は由希 との会話に、ひどく気をつかってしまう。
 すぐに笑みを造った由希が言った。
「だったら、近くまで送っていくけど」
「ああ、いい。電車で行くから」
「友達のとこ?」
 ぎこちなく紘臣は頷く。
「そう」
 助手席のウインドーを上げて、由希の車が走り去る。
 恋人同士の会話ではないなと、紘臣は苦々しく思う。由希の不安感がわかるだけになおさら、会 話などに気をつかわなければならない状況がつらい。
 紘臣は、あの夜の記憶を頼りに、暁人のアパートへと向かった。
 アパートから少し離れたところで立ち止まり、由希の車がとまっていないか確認したのは、どう しようもない本能だ。
 暁人が帰って来ているかわからなかったが、通路に面した小さな窓からは、電気がついているの が見える。
 チャイムを鳴らすと、誰何されることなくドアが開いた。
 立っている紘臣を見て、さすがの暁人もわずかに目を見開く。だが、それだけだ。すぐにいつも の、唇だけの笑みを浮かべた。
「へえ、まさか、あんたから来るとは思わなかった」
「おれが来なかったら、どうするつもりだった?」
「したくなったときに、呼び出すつもりだった。別にあんたの部屋でもいいか。することは同じな んだし――」
 言いながら腕を掴まれて中に引きずり込まれる。急いで靴を脱ぐと、突き飛ばされるようにして 部屋の中央まで行く。
「座れよ」
 促され、紘臣はコートを脱いで床に座る。ベッドに背を向けたのは、まだ生々しさが体に残って いるからだ。
 缶ビールを渡してこようとしたので首を横に振る。暁人は自分の分だけを手に、ベッドに腰掛け た。
 自分の背後に暁人がいるということで、無意識に体が強張る。
「――それで今日は、指輪を返してもらいに直訴に来たってとこか?」
「ああ……。それと、今日の電話の続きを話したかった」
「電話の続き?」
「……おれはともかく、由希のことまで嫌いだというのが、わからない」
「嫌いに、理屈はないだろ」
「実の姉だろ」
「だからこそ、嫌い――許せないって部分があるんだ」
 背後から暁人の片腕が伸びてきて、体を引き寄せられる。暁人が肩にあごをのせた。
「あんたへの嫌いって感情は、姉貴のついでだ」
 その言葉に、なぜかズキリと胸が痛んだ。
「……イライラする。姉貴、あんたに電話したあと、必ず俺のところに電話してくるんだ。紘臣の 様子がおかしい、自分以外に誰かいるのかもしれないって。その度に俺は答える」
「なんて」
「仕事が忙しいんだろって。あんまり追いかけると、逃げるだけだって。さすがに気が強いだけ はあるよ。そんなのは許せない、だ。あんた愛されてるよ」
 耳元で抑えた笑い声がする。鼓膜が刺激され、疼きに似たものを感じたときには、暁人の唇が耳 に押し当てられた。
「や、めっ……」
「そのつもりで来たんだろ?」
 咄嗟に振り返り、不自由な姿勢で暁人の頬を殴る。さほど痛くなかったらしく、暁人は軽く眉を ひそめただけだ。
 暁人が立ち上がり、デスクの上に置いた封筒を手に取る。何かと思って見ていると、目の前に封 筒から出したものを突き出された。由希に渡すはずだった指輪だ。
 紘臣は手を伸ばしたが、暁人は手の中に包み込んで隠してしまう。
「頼むから返してくれ……」
「あっさり返されてもつまらないだろ。俺と会う大義名分がなくなるぜ」
「何を言って――」
「あんた、姉貴のことより、俺のことのほうが気になってるだろ? もう姉貴のことも、ただの大 義名分になってるかもな、あんたの中じゃ」
 暁人が紘臣の目線に合わせて床に座る。鋭い目で見据えられ、身動きが取れなくなる。捕まって いるのだと、改めて思い知らされる。
「俺にとっても予想外だよ。まさか姉貴の男と、こういうことになるなんて。……あんた本当に、 不安定すぎるんだよ」
 暁人の左手が頬に触れてくる。思わず紘臣は尋ねていた。
「――……ケガは?」
 掌が、思いがけず優しく頬を撫でてくれる。そして暁人は、目許を和らげる。
「見る度に、あんたのこと思い出す。この間のでわかったろ? 多少ムリをしたって平気だってこと」
 近づいてきた暁人の唇を、自分でも驚くほど自然に受け入れていた。
 紘臣に聞かせるように、音を立てて唇や舌を吸われる。嫌いだと言われているのに、なぜこんな キスができるのか、そんなことは考えられなかった。
 首の後ろを引き寄せられ、深く唇が重なる。絡みついてくる舌に、快感を覚える。
 静かな室内に、急に電話の音が鳴り響いた。はっとした紘臣が体を引こうとしたが、暁人に片腕 で抱き締められる。受話器を取った暁人の横顔が険しくなった。
「悪い。今、友達来てるんだ。グチならあとでいくらでも聞いてやるよ」
 暁人が話す内容から、薄々、電話の相手が誰なのか察することができる。
 暁人の腕の中で紘臣は体を硬くする。ふと視線を、自分の肩に回されている腕に向ける。しっか り手は握られたままだ。ムダだと思いながら、紘臣は握られた暁人の手を開こうとする。
 衝撃が腹部にあった。拳を叩き込まれたのだ。
 体を折った紘臣は咳き込もうとしたが、腕を回されて口を塞がれる。暁人は何事もなかったよう に、薄笑いで電話を続けている。
「ちゃんとやってる。姉貴のほうこそ――大丈夫なのか、遊佐さんと」
 口を塞がれたまま、紘臣は暁人を睨みつける。肩で受話器を押さえた暁人の手の中から、指輪を取り返そうともみ合い、そのまま床の上に二人で倒れ込む。
『暁人、あんた何かしてるの?』
 受話器から由希の声が聞こえた。
「カップひっくり返して、大騒ぎしてる」
『バカねえ』
 床に仰向けで転がった暁人が紘臣を見上げてくる。口を塞がれていた手を外され、その手に指輪 が持ち替えられた。
 ぐいっと頭を引き寄せられ、唇を荒っぽく貪られる。拒むことができなかった。与えられる感覚 と、信じられないような状況に、なぜか理性が溶けてくる。
『――聞いてるの、暁人っ』
 唇が離され、紘臣は微かな声を洩らして喘ぐ。そんな自分の声に、これ以上なく羞恥を刺激され る。
「あとでこっちから電話する。じゃあ」
 電話が切られる。この先どうするかと、暁人の目が問いかけていた。紘臣は再び指輪を取り返そ うとする。
「大人も大変だな。体面を取り繕わなきゃいけないから」
「いいから、返せ」
「姉貴と完全に切れたら、な」
 紘臣は暁人の頬を平手で叩く。
「返せ……」
「姉貴と本気で、結婚する気もないくせに。もう、好きでもないんだろ」
「なんでそんなことがわかるっ」
 叫んだ瞬間に、紘臣には暁人が何と答えるか予測できた。そして予測した通りの答えを、暁人は 低く口にする。
「あんたはもう、俺のことを好きになったから。姉貴じゃなく、弟の俺を取るよ、あんたは。
――透視じゃなく、これは予知だな。だけど、当てる自信はある」
 紘臣は体を起こす。髪に指を突っ込む。
「……由希は、お前の姉だろ……。どうしてそんなこと、平気で口にできる」
「言ったろ。嫌いだって」
 紘臣から視線を逸らし、暁人は天井を見上げる。
「姉貴は、正直で素直だろ? 思ったことがすぐ顔に出るし、口に出る」
「ああ」
「言い方を変えたら、無神経なんだ。そういう人間は、自分が気づかないうちに、周りの人間を傷 つける」
「……傷つけられたのか?」
「どうだろうな。とにかく俺は、姉貴を傷つけたいんだ」
 行動と言葉が矛盾しているとは、紘臣は告げられなかった。
 紘臣が暁人と体を重ねた時点で、由希に告げてしまえば、それで済むはずだ。なのに暁人は、ま だそれを実行していない。
「――お前は何に、傷ついたんだ」
 紘臣はためらってから、暁人に手を伸ばす。暁人は指輪を取り返されるとでも思ったのか、ビク リと体を緊張させたが、紘臣はかまわず引き締まった頬に指先を這わせる。
 少しして、暁人はゆっくり目を閉じた。紘臣は掌で頬を撫でてやる。
「……あまり似てないんだな、由希と」
「俺ははっきり母親似。姉貴はばあちゃんだな、父親のほうの」
 手首を掴まれ、掌に熱い唇を押し当てられる。
「離婚したのは俺が八つ。姉貴が十二のとき。父親のほうはさっさと再婚して、母親のほうは今で も独身だ」
「両親、好きなのか?」
「微妙だな。一方とは仲がいいけど、一方からは、嫌われてる気がする。俺はどう足掻いたって、 姉貴のように誰とでもうまくやれる性格にはなれない」
 指先をぺろりと舐められた。
 背筋に熱いものが駆け抜けていき、大きくうろたえた紘臣は手を抜き取り、慌てて立ち上がった。 鼓動が激しく脈打っている。
「どうかしたのか?」
 暁人が体を起こす。
「帰るっ」
 コートなどを手にして、紘臣は急いで暁人の部屋をあとにする。
 アパートから少し離れてから、暁人に舐められた自分の指先を見つめる。
「‥‥おか、しい……、こんなの……」
 紘臣の中で目まぐるしい変化が起こっている。細胞が作り替えられているといってもいいぐらい の、変化だ。
 指輪の存在の重要性が、どんどんなくなっている。
 何が大事で、そうではないか、その判断が紘臣にはつかなくなっていた。




 日曜日、紘臣は掃除や洗濯を済ませてしまうと、昼前にして再びベッドに横になった。 何かを していなければ暁人のことを考えしまう。だが結局は、体を動かしていても結果は同じだ。
 由希ではなく、暁人を取る――。
 何度もこの言葉を思い返しているうちに、否定できなくなっている。
 インターホンが鳴らされたのでベッドから起き上がる。訪れたのは、意外な人物だった。
「由希っ……」
 スーパーの袋を抱えた由希が笑いかけてくる。どこか無理を感じさせる笑みだ。
「紘臣、お昼済んだ?」
「……まだだけど……。作りに来てくれたのか……」
 驚き、すぐに複雑な心境になりながらも、紘臣は由希を部屋に入れる。
 さっそくキッチンに立った由希が、準備を始める。テーブルについた紘臣は、その後ろ姿を眺め る。
「――……ごめんね。電話もしないで来たりして」
「らしくないな。お前がそんなこと言うなんて。いつも思ったように、おれのこと振り回すだろ」
 悪意を込めて言ったつもりはなかった。だが由希はうなだれる。
「由希?」
「やっぱり、疲れる? わたしわからないの。どこまで自分の意思を通したら、相手を振り回して ることになるのか、全然わからない」
 背を向けたままなので、由希がどんな顔をしているのかわからない。ただ声は、由希の気丈さを 物語るように、普段と変わりがない。
「お前がそんな性格だって、最初からわかってる。そのうえでつきあってるんだ」
「でも、ときどき疲れるでしょ」
 返事に詰まったのは、図星だったからではない。なぜ由希がこんなことを言い始めたのかと、胸 騒ぎがあったからだ。
「……由希、誰かに相談したのか? それで言われたのか? 振り回してるって」
「他人には誰にも――。話すのは暁人だけ。振り回して、疲れさせてるんじゃないかって言われた」
 紘臣にだけではなく、暁人は由希にも毒を吹き込んでいたのだ。
 捕まったのは紘臣だけではない、由希も一緒だ。
「そう、か……」
 脱力して、イスの背もたれに体を預ける。けじめをつけるのは今、この瞬間しかないと思った。 この先も順調にいく恋人同士だったはずなのだが、暁人の言動でこんなにも簡単に揺さぶられてし まっている。
 これ以上、由希との関係を続けるのは不可能だった。
「――おれたちは、きちんとお互いを見てるんだろうかって、最近思い出してる」
 はっとしたように由希が振り返る。茶色の瞳が強張りながら、紘臣を凝視している。
「何、言ってるの……。ちゃんと見てるじゃない。わたしの目の前にいるのは、紘臣でしょっ」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「だったら――」
「このまま結婚してもいいのかと、おれは不安になったんだ。指輪もちゃんと準備してた。プロポ ーズするつもりでお前の家にも行った。だけど、できなかった。思い切れるものがなかった」
 気づかないふりをすることはできた。だが、暁人によって気づかされてしまった。
「流されてるような気がしてた。不安定な場所に立っているような、そんな気持ちだ。由希が悪い んじゃない。悪いのは、おれだ」
 許してくれと、由希を見つめて静かに告げる。泣くかと思われた由希だが、怒ったような顔をし て、すぐにまた紘臣に背を向けた。
「わかった。結婚とかプロポーズとか、そんな話はまだ先でいいから」
「……由希……、そういうことを言ってるんじゃない。おれたちの、もっと根本的な関係から考え 直したいんだ」
 由希は答えなかった。ただ黙々と昼食の準備を続ける。向けられた背を、紘臣は見つめる。
 華奢で小柄な由希を傷つけているというのは、嫌というほど自覚していた。同時に、後戻りがで きないということも。
 テーブルに料理が並べられ、正面のイスに由希が腰掛ける。表情がなかった。
 ぎこちなく食事を始める。
「つきあってほしいって、わたしから言ったの覚えてる?」
 ふいに言われて紘臣は頷く。
 会社の取引先にいる友人から紹介され、何度かグループで会ったあと、由希に誘われ二人きりで 会うようになったのだ。
「一目惚れだったの。かっこいいなあとは、会った瞬間に思ったけど、物腰が好きだった。男の人 にもこんな人がいるんだ、っていうぐらい物腰がきれいで優しくて。わたしの隣にいてほしいと思 ったのよ」
 由希がフォークを皿の上に置く。
「わたしをずっと見ていてほしかった。それだけよ。わたしは、そのことに必死だったの。わかる? 本当に紘臣のこと好きなの。だから、半端な理由じゃ、別れたりしない」
 そこで一呼吸置かれる。
「――紘臣が誰かを好きになったって、奪い返す」
「由希……」
「弱くないわよ、わたしは」
 苦笑めいた表情で由希がテーブルに身を乗り出してきて、紘臣の顔をじっと覗き込んできた。
 茶色の瞳の迫力に直視できず、視線を逸らす。それで由希は確信したらしい。
「好きな人、できたんでしょう、紘臣」
「いない」
「うそ。顔に出てる。好きになって、困ってるって」
 思わず自分の顔に触れそうになり、誤魔化すように前髪をかき上げる。
「……いないよ、そんな人は」
「わたし言ったでしょう。紘臣は隠し事に向かないタイプだって」
 由希は立ち上がり、コートを羽織って帰る準備を始める。食事は半分も手をつけていない。
「わたしが傷ついた分、相手にも傷ついてもらうから。それぐらい、相手にも覚悟を決めてもらわ ないと」
 言い置いて、由希が部屋を出て行く。ドアが閉まる音を聞いても、紘臣はすぐには動けなかった。
 プロポーズをするつもりだったときは、何度も思い悩んだ挙げ句できなかったというのに、別れ 話を切り出すのは即決だった。
 きれいごとが入り込む余地は、もうどこにもない。





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