テーブルについたまま、一時間以上が経った頃、乱暴にドアを叩かれた。
はっとした紘臣が立ち上がると、カギをかけていなかったこともあり、ドアを叩いた本人が
入っ
てきた。
「――……暁人……」
急いで来たらしく、外は寒いはずなのに額に汗が浮かんでいる。
「どうしたんだ」
いきなり腕を掴まれ、隣の部屋へと引きずられていく。突き飛ばされ、ベッドに腰掛ける。
「さっきまで姉貴と電話で話してたんだ。紘臣に別れ話を切り出されたけど、絶対に別れない、何
度もそう言ってた。本当か?」
暁人を見上げながら紘臣は頷く。暁人が顔色を変えたところなど、初めて見た。
「ああ。……別にお前に言われたからじゃない。自分で考えたことだ」
「――俺が好きだって気づいたからだろ」
「違うっ」
「違わない。あんたは、俺のことが姉貴より好きになったんだ」
勝ち誇った表情でも浮かべるようなことを、暁人はしなかった。むしろ苦しげに眉をひそめてい
る。紘臣はそっと息を吐く。
「秘密にしておいてくれ。由希には、おれとお前との間にあったことは。もう、必要もないだろ」
「わからない……」
「わからないことないだろっ。お前の望む通りに、おれと由希との関係は崩れた。何があっても、
おれは由希と結婚しない」
「だからわからないっ。あんまり簡単すぎて、自分でも――喜んでるのか、そうじゃないのか、わ
からない……」
暁人の由希に対する感情がいかに複雑か、紘臣は推測することができる。そして暁人の抱える感
情のすべてを知りたいと、思ってしまう。
「憎いと思うか、俺を?」
ふいに暁人が尋ねてきた。紘臣は肩を掴まれてベッドに押し倒される。抵抗はしなかった。
「あんたと姉貴の仲をめちゃくちゃにして、あんたの体も、めちゃくちゃにした。だから、憎いだ
ろ、俺のこと」
馬乗りになってきた暁人がズボンのポケットから何かを取り出し、紘臣の右手に握らせた。見る
と、刃を出した折り畳み式のナイフだ。小型だが、人を傷つけるのは簡単だ。
「これっ……」
「憎かったら、俺のこと刺せよ。そうしたら、少しはすっきりするかもしれない。あんたの気持ち
も、俺の気持ちも」
着ていた服を捲り上げられ、急かされるように暁人の掌が這わされる。首筋には熱い唇が押し当
てられた。
「……お前本当に、由希のこと嫌ってるのか」
顔を上げた暁人に唇を塞がれる。その間にも忙しく暁人の手が動き、紘臣の下肢が露わにされる。
暁人が目の前で裸となり、胸が重なる。最初から、体温にも、肌の感触にも違和感がなかった。
「ガキの頃から嫌いだ。要領が良くて、親のどちらからも可愛がられて。俺はお袋からは、扱い
づらいって言われてた。だから、親父になついてた。……離婚することになったとき、姉貴は真っ
先に選んだ。親父について行くってな。俺に選択の余地はなかった」
「んっ、う」
胸の突起をきつく吸われてから、歯を立てられる。思わずナイフを強く握り締める。
「ことあるごとに、電話してくるんだ。今日は親父と何をした、何を買ってもらったって。おれの
気持ちなんか、少しも考えてなかったよ、姉貴は。……俺は毎日、お袋から離婚の八つ当たりをさ
れてた」
子供じみた恨み言を、紘臣は体を貪られながら聞く。
「今も姉貴の電話のクセは治ってないな。おかげで、こんなことになった」
反応しかかったものを握られ、ゆっくりと扱かれる。息を乱すと暁人が唇を重ね、音を立てて舌
を吸われた。
「刺さないのか?」
囁かれ、頷く。与えられる快感に、たまらず、ナイフを持っていないほうの手を暁人の肩に回す。
敏感な部分をきつく撫でられ、声を上げてのけ反ると、喉に唇が押し当てられる。
「あっ、あ、う――……」
上り詰め、暁人の手の中で達してしまう。すぐに後ろの場所を、放ったものと唾液で湿らされ、
暁人が高ぶったものを性急に押し当ててきた。
「俺のことが、好きなんだろ?」
耳元で低く囁かれる。その瞬間、紘臣は握り締めたナイフの感触を強く感じる。
さらに暁人は言葉を続ける。
「姉貴よりも、俺のことが好きだろ」
ぐっと、暁人がわずかに内部に押し入ってくる。狂おしい痛みに耐えながら、紘臣は答えた。
「――好き、だ……」
手からナイフを離し、ベッドの下に落とす。両手で暁人の背にしがみついた。
「お前のことが好きだ」
「わかってる。そんなこと。あんたを抱いた瞬間から」
静かに笑った暁人がすぐに表情を引き締め、唇を引き結んだ。
「あっ、くううっ」
慣らされも、解されもしないまま、強引に暁人が侵入してくる。無意識に逃れようと腰を動かす
と、そこを深々と穿たれる。
内部を擦られ抉られながら、紘臣は大きく背を反らす。腰を掴まれ容赦なく打ち込まれる。声を
抑え切れなかった。
紘臣の上で動き続けながら、暁人が荒い呼吸を繰り返す。紘臣は暁人の頭を引き寄せ、自分から
唇を吸い、舌を差し込む。夢中で絡め合っていると、暁人の手が、いつの間にか再び反応して濡れ
た紘臣のものを包み込んだ。
歓喜の声があふれ出る。
先に紘臣が達して、内部の暁人をきつく締め付ける。低く呻いて、暁人の動きが止まる。
自分の内部で暁人のものが弾けるのを、紘臣は確かに感じた。
給湯室でコーヒーを飲んでいると、外から大きな音が聞こえてくる。紘臣は窓を少し開け、外を
見る。
これまで倉庫だった建物は取り壊され、瓦礫も運び出されて地面を均しているところだ。工事の
進行が早いのか、日が経ってしまうのが早いのかと、紘臣は漫然とそんなことを考えてみる。
「あっ、遊佐さん、いたんですね」
ひょっこりとひかるが顔を出す。そして給湯室に入ってきた。
「なんだ、また営業の奴が無茶言ってきたか」
「違いますよ。コーヒー飲もうと思って来ただけです」
ひかるが、置いてある自分のカップにコーヒーを注ぐ。イスには腰掛けず、紘臣の隣に立って同
じように外を見る。
「すっきりしましたね。見晴らしが良くなったって言うか……」
「もう少ししたら、また新しいのできるだろ。倉庫が離れてあると、不便で仕方ない」
冷たい風が入り込んでくるので、窓を閉める。
壁にもたれてコーヒーを啜っていると、ひかるがドキリとするような話題を振ってきた。
「遊佐さんと彼女、結婚はまだなんですか? 仲良いですよね。よく携帯で話してて」
「……なんだ、突然」
声がわずかに強張る。
確かにこれまでは、仕事中でも由希から携帯電話に連絡が入ることがあったが、最近はすべて暁
人からのものだ。
それに、由希から電話がかかってこない理由もある。
「あたしの友達、結婚決まったんですよ。それで披露宴に着ていく服を買わなきゃいけないでし
ょ? 遊佐さんの結婚の時期も重なってくれたら、それを着ていけるなと思って」
「倹約家だな。お前、いい奥さんになるよ」
「で、どうなんです?」
紘臣は苦々しい思いで唇を歪める。
「――別れるんだ。おれの一方的な理由で」
ひかるが目を丸くする。
「浮気でもしたんですか」
ここで変に口をつぐまないのが、ひかるらしい。紘臣は髪をかき上げ、小さく笑った。
「……そんな、いいものじゃない」
「つらいですね」
「違う違う。遊佐さんが、ですよ」
「どうして」
ひかるは首を傾げ、やはり同じように笑った。
「なんとなく、です。話してる遊佐さんの顔を見て」
気をつかってくれたのか、ひかるは話題を変える。
相槌をうちながら、紘臣は何も入れていない苦いコーヒーを飲み干した。
「――あんたと、深みにはまっていってる気がする……」
まだ呼吸が整わない紘臣の胸に、汗の浮いた額を擦りつけながら、ぼそりと暁人が言った。
すっかり見慣れてしまった暁人の部屋の天井を、目を細めて見上げていた紘臣だったが、それを
聞いて暁人に視線を移す。上目遣いの暁人の目とぶつかった。
「おれもそう思って、ときどき恐くなる」
「終わらせようか?」
「何を」
不安が胸をよこぎる。思いを伝え合ったわけでもなく暁人と体を重ねる度に、紘臣は恐さを覚え
た。
いつ、暁人という存在が目の前から消えてしまうかと。
暁人が声を洩らして笑う。紘臣は汗で湿った暁人の髪を指で何度も梳く。
「キスしようか」
ふいにそう言った暁人が顔を上げ、紘臣を見下ろしてくる。いまさら言うようなことではないだ
ろうと思いながら、引き締まった頬に手をかける。
軽く唇を吸われ、紘臣は喉の奥で微かな声を洩らす。次第に深くなるキスの合間に、暁人が囁く。
「俺のこと、好きだろ?」
「ああ、好きだ」
このやりとりを何度交わしたか、すでに紘臣は忘れてしまった。初めて告白してから一カ月の間、
体を重ねる度に問われ、答えている。
舌先が触れ合う。紘臣はせがまれるまま、暁人の背に両腕を回す。
「――……危なかったと思う」
間近で見る暁人の目が、複雑な感情を湛えている。前にもこんな目を、暁人はしていたはずだ。
「もう少しあんたと一緒にいたら、俺は絶対……」
「絶対?」
「あんたのこと、好きになってた。姉貴みたいに、誰に対しても嫉妬するぐらい、心底、惚れたと
思う」
告白を聞いて嬉しいと思えなかったのは、暁人の言葉の響きが、まるで別れを告げているようだ
ったからだ。
暁人は目許を和らげる。
「顔も性格も似てないけど、こんなところは姉貴と似てるかもな」
「暁人……」
きつく抱き締められ、首筋に顔を埋められる。
チャイムが鳴らされても、暁人は顔を上げなかった。
「暁人、誰か来た」
「放っておけよ」
頬を挟み込まれ、強引に唇が重ねられる。そのとき紘臣の耳に、信じられない声が届いた。
「暁人、友達来てるの? ちょっと入るからね」
咄嗟に反応することができなかった。
紘臣は目を見開き、息を詰め、間近にある暁人の顔を凝視する。
「由、希……」
何でもないことのように暁人は頷く。室内の空気は一瞬にして凍りついた。
ぎこちなく顔を動かす。ちょうど由希が部屋に足を踏み入れたところだった。表情をなくした由
希と目が合う。
ベッドの上で絡み合っている二人を見て、何をしているかわからない人間はいない。たとえそれ
が同性同士だとしてもだ。由希も例外ではなかった。
一番最初に動いたのは暁人だった。紘臣から体を離すと、由希の目から隠すように紘臣に毛布を
かける。暁人自身は悠然とすら思える態度で、下着とジーパンを身につけた。そして由希に視線を
やる。
「――なんの用」
由希が、持っていたバッグを暁人に投げつけた。それを暁人は簡単に躱す。
呪縛が解けたように紘臣は体を起こす。暁人の背に隠されるような形になっていた。
「どういうことよっ、これはっ。なんで……、なんで紘臣とあんたが――」
「裸でベッドにいるか、か? これ見てわかるだろ。俺と遊佐さんは、体の関係があるんだよ」
「暁人っ」
紘臣は暁人の肩に手をかける。その手を握り締められた。まるで、由希に見せつけるように。
「だいたい姉貴、この人から別れたいって言われたんだろ。姉貴が駄々こねようが、どうしようも
ないんだよ」
「……まさか暁人……、あんたのことがあって、別れるって……」
「そう。何もかもタイミングが悪すぎたんだ、姉貴。俺と会って、この人がぐらついてるときに結
婚ほのめかして悩ませて……」
「暁人、やめてくれっ」
必死に肩を揺さぶるが、それを振り払って暁人は立ち上がり、由希と対峙する。
「どうしてっ、どうしてなのよっ」
由希が叫び、長い髪が乱れる。紘臣は身じろごうとしたが、暁人に視線で制された。
痛いほど鼓動が乱れ、緊張のあまり指先が冷たくなってくる。小刻みに体が震えてきた。
淡々とした暁人が告げる。
「帰ってくれよ。遊佐さんは、もうあんたのものじゃない」
由希を傷つけるための言葉だと、わかった。暁人はわざと、由希を傷つけ、逆上させようとして
いた。嫌い、という感情だけでは、この行為は説明がつかない。
「それに、俺だけを責めるのはおかしいだろ。姉貴とつきあってるときに、俺と遊佐さんは体の関
係を持ったんだ」
「やめてよっ」
まばたきもせず、由希の目がデスクの上のある一点を見つめていた。暁人は視線を追い、由希が
何を見つめているのか知った。
憎ければ自分を刺せと言って、暁人が紘臣の部屋に持ってきたことのある折り畳み式の小型ナイ
フだ。刃は仕舞われているが、それでも紘臣はゾクリとするものを感じる。
「……由希……、何考えてる」
それより早く由希がデスクの上のナイフを掴んだ。刃を出したのを視界に捉えたとき、紘臣は声に
ならない叫びを発していた。
ナイフの刃は紘臣ではなく、まっすぐ暁人に向けられた。
「どうしてよぉっ」
暁人は躱し、ナイフの刃を掴んで由希から取り上げる。血が掌から床へと滴り落ちた。
「暁人っ」
「動くなっ」
暁人が一喝する。紘臣はベッドから出ることができず、由希も呆然としたようにその場に立ち尽
くしていた。
ナイフが床の上に落とされる。暁人は唇だけで笑った。
「こういう結末だと思ってたよ。……姉貴は、弟と寝た裏切り者の恋人じゃなく、恋人を寝取った
弟のほうを憎むって」
その言葉を聞いて、紘臣の体から一気に力が抜ける。
「……お前は、おれと由希を試してたんだな……」
「いまさらだろ。遊佐さん。あんたと姉貴の仲を、派手にぶち壊してやるって言ったはずだ」
「なんであんた、そんなことっ――」
由希が床に座り込み、肩を震わせて涙をこぼす。
「紘臣を取らないでよ……。大事なのよ。あんたなんかの遊びで、傷つけないでよ。わたしと、紘
臣を」
「でも姉貴は、捨てられた女だ。弟の俺に負けてな」
残酷な一言だった。
暁人は容赦なく由希の腕を取り、玄関まで引きずって行く。投げつけられたバッグも渡すと、外
に押し出しドアを閉めた。戻ってきた暁人と目が合う。
「……あんたも帰ってくれ。疲れた。何も話したくない」
紘臣は床に落ちた服を身につける。その間に暁人はキッチンで血を洗い流し始める。意識しての
ことか、またケガをしたのは左手だ。
服を着ても、わずかな間ぼんやりとベッドに腰掛けていた紘臣だが、はっとして立ち上がる。
部屋の中を探し、ガーゼと包帯を見つけ出す。
タオルで傷口を押さえた暁人を引っ張ってベッドに腰掛けさせると、自分も隣に腰掛け、左手を出させる。
「良かった。そんなに切れてない」
「聞いてるのか――」
「聞いてない。そんなに冷静じゃないんだ。だけど、手当てぐらいはできる」
滲む血を拭ってやっていると、視界がぼやけてきたことに気づく。
「……頼むから、あんたまで泣かないでくれ」
暁人に言われて初めて、自分の目から涙があふれ出ているのを知った。
「泣いてない……。涙が出てるだけだ」
悲しいとかつらいとか、そんな感情は湧いてこなかった。ただ本当に、涙が出てくるのだ。
受けた傷の痛みは由希の比ではないだろう。さきほどまでの空間で、紘臣は部外者だった。暁人
が狙い――追い続けていた存在は、由希だけだ。紘臣はただの、由希の付属品でしかない。
きれいごとでは済まない関係に、自ら浸ったのは紘臣自身だ。だが、これだけは思わずにはいら
れない。
暁人は、残酷だ。
包帯を巻いてやってから、病院に行くよう勧める。それから紘臣は帰る準備をする。
「わかっただろ。俺がどんな奴だったか」
靴を履いている背に淡々とした言葉がかかる。振り返るのが恐くて、紘臣は足元に視線を落とす。
「……終わった。あんたたちには、壊すほどのものが残ってないから、俺がやることはない」
「――ああ」
「だけど、姉貴を傷つけながら、俺はようやくわかったことがあるんだ……。それと俺は、一度でもあんたに対しては、うそは言ったつもりはな
い」
頷き、外に出ると、風の冷たさに身震いする。頬を伝い落ちていく涙だけが、やけに熱く感じら
れた。
由希から連絡があったのは、それから五日後だった。
状況を理解し、落ち着くまで、それだけの日数を要したということだ。ある意味では、たったそ
れだけの時間を置くことで紘臣と会う決心がついたということは、由希の強さを物語っているのか
もしれない。
定時に仕事を終えた紘臣は、会社前にとめられた由希の車を確認し、助手席のウインドーを軽く
叩く。すぐにロックは外された。
由希はアップにした髪と眼鏡姿、それに煙草を吸っていた。
意外そうな紘臣の視線に気づいたらしく、すぐに煙草をもみ消した。
「ごくたまに吸ってるのよ」
「知らなかった」
助手席に乗り込むと、すぐに車は走り出す。
「どこか入る?」
「いや……。できれば、車で適当に走ってもらえたら助かる」
由希と会うのは、もっと抵抗のあることかと思ったが、まったくそんなことはなかった。由希の
反応にしても、嫌悪感なりを表に出しているかと思ったが、表面上は普通だ。
義務として、紘臣のほうから切り出した。
「――暁人に連絡は?」
「取ってない。何話せって言うの」
紘臣も連絡を取っていない。あの状態のまま暁人を放っておいてはいけないとわかってはいるの
だ。だが、きっかけが掴めない。
窓の外の流れる景色に目を向ける。
「……仕返しをされたと思ったのよ」
ふいに由希が言った。
「えっ?」
由希の横顔に視線を向ける。由希は眼鏡の中央を持ち上げ、数瞬、目を伏せた。
「物心ついたときから、わたしはわかってた。暁人よりも、わたしのほうが可愛がられて、要領が
いいって。優越感の上に、暁人が弟として可愛いって気持ちが成り立ってたの。両親が離婚したと
き――」
「少し聞いたときがある。暁人は、母親より父親のほうが好きだったって」
「そう。わたし、暁人のそんな気持ち知ってたの。だから離婚を聞かされたとき、何より先に、
暁人に父親は渡さないと思った。そうしたら、ずっと暁人に対して優越感を持っていられると
思っ
て」
「どうしてそんなこと……」
「わからない。暁人が好きなのに、どこかでイライラさせられてたの。離婚したばかりの頃は、暁
人に電話して、父親とのことを話して聞かせた。あの子が傷ついてるのわかって、それでようやく、
大事な弟だって認識するの。残酷でしょ? 大人になってからは、そんなこと忘れて、ただ暁人にグ
チ聞いてもらってたけど……、忘れてなかったのね」
「ああ、覚えてた。だけど、ただの仕返しじゃないと思う」
「仕返しよ。わたしは、弟に恋人を寝取られたマヌケな女になったんだから」
紘臣は深いため息を吐き、今度は自分と暁人が知り合ったときの経緯から話す。
由希は、暁人が計算し尽くしていたことに、すぐには言葉が出ないようだった。
「……やっぱり、わたしのことが憎かったのね」
由希の目許がきつさを増す。思ってもみなかったことを言われた。
「あの日わたし、暁人に呼ばれたのよ。部屋に来てくれって。会わせたい人がいるからって」
あの日のことを、暁人はすべて仕組んだのだ。効果的に、自分と紘臣との関係を由希に知らせる
ために。
今の紘臣にはため息しか出ない。
夕方のラッシュに捕まり、すぐに車はスピードを落とすことになる。由希の指先は小刻みにハン
ドルを叩き続けていた。
「――二日、泣き続けたわ。最後には、なんで自分が泣いてるのか、わからなくなった。紘臣を取
られたからか、弟に裏切られたからか、そんな自分が哀れで惨めだったからか」
「よく、おれと会って話そうと思ったな」
「自分でもそう思う。会ったらひっぱたいてやろうとか、泣いてすがりつこうとか、いろいろ思っ
たんだけど……。そんなことしてどうなるんだろってね」
由希が唇だけで笑う。その笑いかたが暁人を思い起こさせ、紘臣の胸を締め付ける。
「壊れちゃったのよ、わたしたちは。見事に、粉々に。暁人が現れなくても、そうなったのかもし
れないなんて思わない。わたしたちは暁人の手で、きれいに壊れちゃった」
「おれも、加担した。お前との結婚のことで、おれは見ちゃいけない深い底を覗き込んだ」
「そこにいたのが、暁人ってわけ?」
紘臣は曖昧に首を横に振る。もしかすると、暁人にとって紘臣が、深い底にいた人間だったのか
もしれない。
そう思うと、これまで見えてこなかったものが、ようやくはっきりと姿を現し始める。
暁人を思って初めて、泣きたいという衝動に駆られた。紘臣は口元を手で覆う。
「由希……」
「うん?」
「暁人とお前の関係は、この先どうなる」
由希は少し考える顔をした。
「しばらく、距離を置く。まだわたしにもわからないのよ。わたしと暁人との関係も、粉々に壊れ
ちゃったのか。……見極める。他人ならそんなことはしないけど、暁人はわたしの弟よ。憎いけど。
これは、仕方ないでしょ」
「だったら、おれのことも憎んでくれ」
この言葉に込めた深い意味を、由希は読み取ったのかもしれない。
「――安心して。暁人を憎いと思い続ける限り、紘臣も同罪よ」
街中で降ろしてもらうよう言うと、由希はすぐに車道脇に車をとめてくれた。
車から降りる前に、紘臣はどうしても言いたかったことを由希に告げた。
「由希、暁人はお前のことを、おれに取られたくなかったのかもしれない」
由希は表情を浮かべなかった。正確には、押し殺したというべきかもしれない。
「……わたしたちは、どこにでもいる普通の姉と弟だったのよ」
最後の由希の言葉を聞いてから、紘臣は車から降りる。ドアを閉めてすぐに、逃げるように由希
の車は去ってしまった。
紘臣はその場に立ち尽くして見送った。
部屋の前に立っている紘臣を見て、暁人は心底驚いた様子だった。
「……あんた、何やってる」
紘臣はコートのポケットに突っ込んでいた両手を出す。
「見ての通り、お前を待ってた」
土曜日だからと、昼から暁人のアパートを訪れたのだが不在だったため、待ち続けているうちに
夜になってしまった。
暁人は唇を引き結ぶと、まっすぐ部屋の前までやってきて、カギを開け始める。
「かえれ。二度とここに来るなって言っただろ」
「だけどおれは、お前に会いたかった。聞きたいことがいくらでもある」
「俺は話したいことはない」
「由希とは会って話した。お前を憎いと思い続ける限り、おれも同罪だと言われた」
「当然だな。よりによって弟の俺と寝てたんだ」
「由希にとっておれは、一つの恋愛の相手だ。いつかは忘れてしまえる存在だ。だけどお前は違う。
死ぬまで、由希との繋がりは絶てないし、忘れることはできない」
言葉の深意を探るように、暁人が振り返る。紘臣は大きく息を吸い込んだ。
「おれは、お前と一緒にいるよ。たとえ試されただけで、由希の付属品でしかなくても、一緒にい
る。……だから、同罪だろ。お前が憎まれる限り、おれも憎まれる」
「詭弁だ――……」
笑いかけたつもりだが、失敗したかもしれない。震える声が出ていた。
「詭弁でもいい。……お前何度、おれに言わせたんだ。好きだ、って。心にもないこと、
脅されて
もないのに言うわけないだろ」
カギを開けようとして止まったままの暁人の手に、自分の手をかける。
「――中に入れてくれ」
閉ざされていたと思った扉は、紘臣の目の前でゆっくりと開いた。
暁人はドアを開けると、まず先に紘臣を玄関に入れ、あとから自分が入ってきた。ドアが閉めら
れ視界が急に暗くなると、背後から抱き締められた。
「……あんたが憎かったんだ」
苦しげにハスキーボイスが呻く。
「ああ、わかってる」
狭い玄関で足がもつれ合い、そのまま部屋のほうに倒れ込む。
暁人がしがみついてきたままなので、紘臣は両腕をそっと背に回してやる。
「最初は本当に、姉貴とあんたの仲を潰すだけのつもりだった。だけど、自分でもわけがわからな
くなった。姉貴のことを憎いと思ってるのに、その姉貴と結婚するかもしれないあんたも、たまら
なく憎かった」
だから暁人は、自分の気持ちをはっきりさせるため、由希に選ばせたのだ。
恋人か弟か――。
「……わかってたんだろ。由希が、お前を憎むことになるって」
「バカでもわかる。姉貴は本気で、あんたのことが好きだった。咄嗟に、俺が全部悪いって考える
ぐらいにな」
「由希のことが、好きなんだな」
「――姉貴として」
短く暁人は言い切った。
由希に対する暁人の思いを、深く追及したくはなかった。そこは、誰も触れてはいけない
部分だ。
暁人の頭を抱き締め、髪を何度も撫でてやる。愛しくて涙が出そうだという感覚を、この瞬間、
味わっていた。
暁人が動き、闇に慣れた視界で、紘臣の顔を覗き込んでいるのがわかる。
「キスしていいか……」
「いまさらだな」
そっと唇が重なってくる。互いに何を選んだのか、キスの感触が教えてくれ、心に刻みつけてく
る。
「もう、ダメだ」
キスの合間に暁人が囁く。今は暁人のほうが呼吸が乱れていた。
「何が」
尋ねてから、紘臣は暁人の唇を軽く吸ってやる。
「あんたの周りにいる人間全部に、嫉妬する」
「……分かりやすく言ってくれ」
「――好きだ、あんたのこと」
紘臣はキスで応え、強く暁人を抱き締める。
許されないだろうかと、頭のどこかで思う。あんな形で知り合い、そして結ばれてしまうのは、
許されないだろうか――。
深い底を覗き込もうとした紘臣は我に返る。同じ過ちは繰り返したくなかった。
「指輪、いい加減返さないとな」
紘臣はそっと首を横に振る。
「持っていてほしい。おれが不安定にならないように」
「ああ……」
吐息を洩らすように暁人が返事をする。
しばらく二人は、冷たい床の上で抱き合っていた。その間、紘臣は何度も暁人を呼んだ。
暁人が、
深い底を覗き込まないように。
------- END -------
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