この男と一緒にいると、目立って仕方ない。
開いたパンフレットから視線を上げた和彦は、隣を歩く秦を見遣る。薄い色のサングラスをかけた秦は、いかにもジムで鍛えていそうな体躯を白いシャツで包み、首元には派手めのスカーフを巻いている。しばらく会わない間に髪色は、金髪に近い薄茶色から落ち着いた濃い茶色へと変化しているが、髪色程度でこの男の持つ華やかさが陰ることはない。
春の陽射しをまるでスポットライトのように浴びながら、秦は端麗な美貌に機嫌よさそうな笑みを浮かべている。さきほどから、すれ違う女性たちから熱っぽい眼差しを向けられているが、一切頓着していない。和彦は、珍妙な生き物を観察するように、秦を見ていた。
外を歩くのでラフな服装のほうがいいですよとアドバイスされ、素直にTシャツの上からパーカーを羽織り、キャップを被ってきたのは和彦だ。駐車場で秦と相対したとき、文句の一つでも言ってやりたかったが、『ラフ』の基準が自分とは違うのだと、納得しておくことにした。
日曜日ということもあって、イベント施設の広い敷地内はどこも人で溢れかえっている。年に二回、春と秋に開催される大規模な蚤の市ということで、出店者も客も気合いが入っているのだろう。陽気のよさも加わり、熱気でのぼせてしまいそうだ。
大きなテントがいくつも設置され、ジャンルごとに区分けされた商品が店ごとに並べられている。パンフレットに描かれた地図を頼りに移動して、まず向かったのは食器を扱う一角だ。案の定、秦は北欧食器が並ぶテントの前で足をとめたが、和彦はさらに先にある、作家本人が出店している食器が気になる。ワインのつまみを並べるのにちょうどよさそうな長方形の皿を、腰を屈めて眺めていたが、せっかくだからと購入する。
気楽な買い物の和彦とは違い、秦は真剣な顔で食器を選んでいる。今回、蚤の市にわざわざ足を運んだのは、仕入れを兼ねているらしい。だったら店の従業員を同行させたほうがよかったのではないかと思わなくもないが、二人きりで会うとどうしても周囲が身構えるため、こういう開放的な形が秦にとっても都合がいいのだろう。
なんといっても――と、和彦はさりげなく少し離れたテントに目を向ける。アンティーク家具を、いかにも興味なさそうに眺めているのは長嶺組の組員だ。護衛として和彦にぴったりと張り付かない配慮はしてもらっているので、いまさら不満もない。総和会からの護衛は、いるのかいないのかよくわからないし、探す気もなかった。
ついでに小皿と箸置きを別の店で買ったところで、大きな袋を提げた秦がほくほく顔でやってくる。
「いい物が買えました。路面店があるというので、名刺ももらってきましたよ。日を改めて行ってみたいですね」
「……仕入れと言ってたけど、雑貨屋のほうに置くのか?」
「居抜き物件でいいところがありまして。こぢんまりとしたカフェができそうなんです。そこで使えないかと思いまして」」
「すごいな。ぼくなんて経営は全部人任せだから、物件を見てあれこれ計画を立てられる人間を尊敬する」
「まあ、若い頃はずっと、商売をやっている親戚たちを見てきましたからね。なんとなく、自分はそういうのに向いていると思う……思い込んでいるんですよ。現状、面倒なことになっても、後始末をしてくれる当てもありますし。気楽なものです」
サングラス越しに露骨な流し目を寄越され、和彦は乾いた笑い声を洩らす。秦の言う『当て』が誰かわかったからだ。
「その気楽さは、図太さの上に成り立ってるものだな」
秦と目的もなくふらふらと店を覗きながら歩いていると、ひときわにぎわう場所に出る。何かと思えば古着がずらりと並んでいる。あまり見かけないデザインのコートがまっさきに目に入り、和彦は反射的に秦を見る。
「おや、先生は古着は平気なんですか?」
「よほどひどい状態じゃないなら、特に抵抗はないな。……どうしてそう思ったんだ?」
「先生はよくても、周りの男性たちが嫌がるんじゃないかと。大事な人には、真新しいものを着てもらいたいと願いそうじゃないですか」
長嶺の男たちにその傾向はあるが、だからといって和彦が選んだものを否定はしないだろう。
秦から離れてハンガーラックにかかっている古着を眺めていて、一着のコートが目に留まる。古い映画の登場人物が着ていそうなトレンチコートで、くたびれた感じではあるが、かなりいいデザインだ。案の定、有名なブランドのものらしく、相応な値段が記されている。衝動買いはやめておこうと、やむなく元に戻した。
代わりに、もっと手ごろな値段のブルゾンを一着買ってから移動する。キッチンカーや売店がなどが並ぶ休憩スペースで、なんとか小さなテーブル席を確保すると、秦はフットワークも軽く食事を買いに行く。
待っている間、手持ち無沙汰となった和彦は、買ったばかりのブルゾンや食器をテーブルの上に広げ、スマートフォンで写真を撮る。少し悩んで、メッセージアプリをタップする。そろそろスマートフォンの扱いには慣れてきたが、気軽なやり取りには難ありと千尋に判断されてしまった。日記代わりにその日の出来事を共有してほしいと言われ、勝手にグループを作られたのだ。
蚤の市で買ったと画像と共に報告すると、さほど待つことなく賢吾と千尋から、おそろしく可愛らしいスタンプが返ってきた。噴き出したいところを懸命に堪えていると、秦が両手に飲み物と包みを持って戻ってくる。
「楽しそうですね」
「いいものを見せてやる」
テーブルに出したものを片付けた和彦は、スマートフォンの画面を秦に見せる。覗き込んだ秦は、数秒後に半笑いを浮かべた。
「わたし、長嶺組長と仕事の打ち合わせでメッセージのやり取りをしてますけど、一度もそんなスタンプをもらったことありませんよ」
「欲しいんなら、ぼくからことづけておくけど」
やめてくださいと、本気で拒否された。
野菜と肉がたっぷりの大きなサンドイッチを頬張る。けっこう歩き回ったことと、野外の陽気のよさも加わり、とても美味しい。機嫌よく食事を続ける和彦の目の前で、秦はフライドポテトを摘まみつつ、スマートフォンで素早く文字を打ち込んでいる。日曜日にまで仕事かと、やや呆れていると、和彦の視線に気づいた秦が視線を上げる。
「すみません。行儀が悪いですね」
「気にせず続けてくれ」
「――このメッセージの相手、鷹津さんですよ」
危うく身を乗り出しそうになった。和彦はアイスティーを一口飲むと、慎重に周囲を見回す。護衛たちは席が取れなかったらしく、少し離れた場所で立ったまま紙コップに口をつけている。
「たまたま、か?」
「たまたまです。買い物の最中にちょうど連絡があって。あの人も忙しいらしくて、手が足りないときはわたしを頼ってくるんですよ。急ぎだというので、こうして返事をしてるんです」
「忙しいって……、無事ということでいいのか?」
「今のところ誰もあの人に手を出せません。先生のお父さんが、各方面に釘を刺されたそうですね」
「……まだ使い道があるようだ。元悪徳刑事を駒にしようと考えるのは、ぼくの父親ぐらいだろうな」
「似ているんじゃないですか。父子で」
皮肉かと思いきや、こちらを見つめる秦の眼差しは優しい。差し出されたフライドポテトを和彦も一個摘まみ上げる。
「先生が、鷹津さんと一緒に姿を消したと聞いたとき、わたしが何を最初に考えたかわかりますか?」
「鷹津と友人なのを後悔した」
秦はあっさり首を横に振る。
「先生と鷹津さんの偽造パスポートを準備しようかと考えたんですよ。写真はどこで入手しようか。送り出す国はどこにしようか。どの業者に偽造を頼もうか――。まあ、あれこれと」
胡散臭いが、品のよさも感じさせる男は、和彦が想像もつかない修羅場を潜り抜けている。前に少しだけ生い立ちを聞いたことがあるが、生まれた国から逃げてきたらしく、他人に国を捨てさせることにも抵抗がないのかもしれない。
「鷹津さんから連絡があって、その計画はとめましたけどね」
「よかったよ……。ぼくは、何もかも捨てる覚悟なんてつかなかっただろうから」
「本当に?」
和彦は曖昧な返事をしておく。
「――鷹津さんからの伝言ですが、無茶はせずに待っていろ、とのことです」
「待っていろ……」
「あの人、各方面にケンカを売っておきながら、戻ってくる気満々ですよ。またわたしは、酒を集られるんでしょうね」
口ではそうぼやく秦だが、表情は楽しそうだ。
「……戻ってきても勝算はあるということか。どうせ組ちょ――賢吾とも、手打ちは済ませているんだろ。ぼくが君と、こうして会えているのが証拠だ」
賢吾からは本気か冗談か、新しい携帯番号は秦経由で鷹津に知らせてやれと言われている。和彦が頼むまでもなく、とっくに秦なら知らせていそうだが、確認する勇気はなかった。
秦と会ったとき、指が全部揃っているのか実は気にしていたのだが、杞憂で済んでほっとした。和彦が鷹津と一緒だと知ったとき、賢吾はまっさきに秦に心当たりを尋ねたはずだ。そのときの詳細なやり取りを知りたかったが、秦は笑うばかりで教えてくれない。なんにしても、秦の立場は変わっておらず、商売も順調のようだった。
順調という単語で大事なことを思い出す。和彦は単刀直入に尋ねた。
「そういえば、中嶋くんとはどうなんだ」
「どう、とは?」
軽く睨みつけると、秦は苦笑を洩らす。
「先生はずっと中嶋のことを心配していますね。あいつとは、連絡を取っているんでしょう?」
「戻ってきてから取ってはいるけど、なんだか業務報告めいたメッセージばかり届いている。だからこっちも、立ち入ったことが聞けないというか……」
「わたしに対してはいいんですか?」
この男も意地が悪い。和彦はテーブルにつくほど頭を下げた。
「わかった。もう聞かない。どうせぼくには関係ないことだし――」
「すみませんっ。わたしが悪かったです。少し意地悪が過ぎました。……頭を上げてください。向こうから、長嶺組の組員さんが睨みつけてくるんで」
イスに座り直した和彦に、秦はこう告げた。
同居状態は解消した、と。
「……一応、半同棲、じゃなかったか」
「そこはまあ、つまらないプライドということで、流してください」
和彦が労わるように見つめると、秦は困ったように頬を掻く。
「なんだか誤解されているみたいですが、別れたわけじゃないですよ。中嶋の仕事の都合です。今任されている仕事の関係で、あのビルから通うのが大変だそうです。休みの日には、一緒に過ごしてますよ」
「だったらいいんだが……」
こちらには何も報告してくれなかったなと、ふと寂しさを覚えたが、もちろんそんな義務は中嶋にはない。もしくは、和彦だから言えなかったのか――。
「今任されている仕事って――と、ヤクザがどんな仕事をしているかなんて、軽々に堅気に話すはずがないか」
「悲しいかな、わたしも一応カテゴリーとしては堅気ですからね。中嶋の仕事については何も。ただ、南郷さん直々に頼まれた仕事だとは言ってました」
それは別に不思議ではない。中嶋は第二遊撃隊の隊員なのだから。だが、引っかかる。
「……時間があるときに、中嶋くんに会いたいな。顔が見たい」
「いろいろあった先生に、あいつなりに気を使ってるんですよ。先生のほうから誘ってくれたら喜ぶと思います」
そうだといいけどと心の中で応じて、手早く昼食を済ませる。ゴミを片付けている最中に、何げなくと秦に問われた。
「先生は、クリニック再開まではのんびりとできるんですか?」
「そうもいかない。目を通しておきたい資料は溜まってるし、新しく雇うスタッフの研修もある。あとは、個人的事情で会っておきたい人がいて……」
ちらりと視線を向けると、不思議そうに秦が首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いや……。君とこうして会って話したのは、予行練習になったかもしれない」
「つまり、クセの強い人物なんですね」
秦が清々しい笑顔で言い切り、和彦は苦笑いで頷いた。
車の後部座席で和彦はぼんやりと、外を流れていく景色を眺める。いくらか散り始めている沿道の桜の花だが、それでもまだ目を細めて見入るほどには美しい。
今ごろ賢吾も、同じように桜の花を眺めているのだろうかと、ふと思う。
〈諸事情〉により日程がずれ込んだ総和会主催の花見会は、現在、無事に進行中のようだ。組員宛てに報告が入っており、車内は比較的安穏とした空気が漂っている。
例年、桜が見ごろを迎える前に開催される花見会が、今年は見ごろを過ぎかけた時期に開催される。そのことで何かと探りを入れられた賢吾はうんざりしており、原因のいくらかを負っている和彦としてはなかなか心苦しいところだ。とにかく花見会が無事に終了すれば、長嶺組や総和会に漂っていた緊迫感も薄れるはずだ。
留守番組の千尋は、本宅に来ないかと和彦を誘ってきたが、あいにく今日は予定が入っており、今まさに向かっている最中だった。
「――本当に、大丈夫ですか?」
助手席の組員が、ちらりと振り返る。今日の予定が決まってから、何度となく同じ質問を長嶺組の人間からかけられている。和彦は微苦笑で応じる。
「信用してほしいと、向こうからの要望だから。それに、どういう相手と場所なのか、組長自身が会って確かめたんだろう?」
「帰りの車でその組長が、『掴みどころがなさすぎて、ウナギみたいな男だ』と、珍しく困ったような声でおっしゃられてましたよ……」
「それは――」
本当に珍しい。
軽く咳払いをして和彦を気を取り直す。会う前に、不安を煽るようなことは言わないでほしいとは、口に出しては言えなかった。
初対面ではないのだからと自分に言い聞かせているうちに、目的地に着く。オフィス街にある十階建てのビルだった。平日の日中ということもあって通りを行き交う人の姿は多く、悪目立ちしたくない和彦の服装はスーツだ。
ブリーフケースと、手土産のクッキー入りの紙袋を手に車を降りようとすると、組員に念を押される。
「我々は近くのコインパーキングに車を停めていますから、何かあればすぐに連絡をください」
わかったと頷いて、ビルに入る。一階はガラス張りの見通しのいい空間が広がっており、住宅会社のショールームが入っている。厳重なセキュリティがあるわけでもなく、エントランスを通り抜けてまっすぐエレベーターホールに向かう。扉が開くのを待つ間に案内板を確認したが、一階以外に二階も住宅会社が入っており、他の階には弁護士事務所、NPO法人事務所、カルチャーセンタ―など、一目で業種の想像がつく名が並んでいる。ただ、和彦の目的の階に一つだけ、社名からでは判断のつかないものがある。
『S&A合同会社』。和彦がこれから向かうオフィスだ。
エレベーターで五階に上がり、壁の表示に従い廊下を歩く。同じデザインのドアが並んでいるため、うっかり社名のプレートを見逃すのではないかという心配は杞憂に終わる。あらかじめ連絡を入れておいたおかげか、和彦の訪問を廊下で待っている人物がいた。
「――おはようございます」
そう言って九鬼は大きくて薄い唇に笑みを刻んだ。反射的に和彦は腕時計に視線を落とす。時間は九時五十分。約束の時間は十時だったが、この反応は、来るのが早すぎたのだろうかと困惑する。
「和彦さんは見た目どおり、時間にきちんとしていますね」
「いえ、社会人としては当然のことで……」
応じてから、これは皮肉を言われたのだろうかと小首を傾げる。ヤクザの庇護を受けている人間が、一般人からはどう見られがちなのか、ついつい忘れそうになるのだ。
和彦の微妙な反応に気づいたのか、九鬼は声を上げて笑った。
「すみません。他意はないんです。普段わたしらが接するのは、驚くほど常識がない人間と、図々しい人間が多いもので、たまにきちんとした人にお会いすると、妙な感動があるんですよ」
「はあ……」
「人を待たせて、マウント取ろうとする輩、わたし大嫌いでしてねー。それなら、事前アポなしで押し掛けられたほうが、笑顔で迎えられます」
これは賢吾のことだなと、さすがに察した。
ここで九鬼が表情を改め、恭しく頭を下げた。
「改めまして、九鬼蓮巳(はすみ)です。本日はようこそお越しくださいました」
和泉家の〈身内〉である九鬼に礼を失した態度は取れないと、緊張気味に和彦も応じる。すると九鬼は破顔した。
「もっと気楽にいきましょう。なんといっても和泉家の関係者同士ですから」
九鬼が示したのは、ドアに記された『S&A合同会社』の名だ。速やかにそのドアを開けて、中に入るよう促された。
オフィスに入って正面に小さなカウンターがあり、そこに置かれた花の鉢に目を留める。艶やかなピンク色の花の名を、和彦は知っている。紗香が好きだったというベゴニアだ。左側に設けられた応接セットのテーブルの上にも、同じ鉢があった。
「この会社のS&Aの意味、総子さんから聞いてます?」
「いえ……」
「Sは紗香さん、Aは綾香さんだそうです。娘さんたちに苦労させないためにと、そういう目的で作った会社だったらしいんですけどね……」
九鬼に伴われて奥へと進むと、デスクが六つ並んでおり、その二つを中年の男女が使っている。和彦に気づいて、女性のほうからちらりと目礼されたが、それだけだ。九鬼に手招きされて、部屋を区切るパーティションの向こうへと移動する。こちらは、大きなテーブルが鎮座しており、そこに地図が何枚も広げて置いてある。壁には、使い込まれたファイルが隙間なく差し込まれたキャビネットが並んでいる。
実務特化の彩りのないスペースだと感じたが、地図の上にいくつか置かれた小さな文鎮が、どれも猫を模ったものだと気づいて、つい和彦の口元は緩む。
九鬼がいそいそとイスを引き寄せ、座るよう促される。和彦は腰掛ける前に、クッキー入りの紙袋を差し出した。
「甘いものは大丈夫だと思ったので……」
「よくわかりましたね」
「初めてお見かけしたとき、菓子パンを召し上がっていましたから」
紗香の墓参りをする直前の出来事だ。思い出したのか、九鬼はにんまりと笑った。
「堅苦しいですねー。この間も言いましたが、もっとフランクにいきましょう。気楽に話してください」
イスに座った和彦の前に、冷蔵庫から取り出した缶コーヒーが置かれる。
「給湯室がフロア共有なので、茶を淹れに部屋を出入りするのも面倒だし、そもそもここ、客も来ないですしね。買っておいて冷蔵庫に入れておくほうが効率的だし、経済的なんですよ。文句言う人もいませんし」
そう言いながら九鬼は、和彦の隣に座った。和泉の家で食卓を共にしたときはあまり不躾に見ることはできなかったが、今は違う。和彦は、体の向きを変え、しっかりと九鬼と向き合う。自分にとっての味方となりうるか確かめるために。
今日の九鬼は、冬に会ったときより伸びたウェーブがかった髪を一つにまとめていた。こちらが職場でのスタイルなのかもしれない。きちんと手入れされた顎ひげにノーネクタイの黒のシャツ姿は、一見フランクそうな雰囲気も相まって、クリエイターっぽさがある。だがおそらく、地金は賢吾とそう変わらない。
和彦に値踏みされていると感じたのか、唇の端をわずかに上げた九鬼はシャツの片袖のボタンを外し、肘まで袖を捲った。現れたのは、手首近くまで彫られた刺青だ。特に目を惹く艶やかな赤。よく見ればそれは、陰影すら緻密に彫られた瑞々しい花弁だ。葉や茎は墨一色で彫られているせいか、より花の艶やかさが増して見える。
「――牡丹の花ですよ。唐獅子とセットが定番なんですけど、若かった頃は、なんだかダサく思えたんですよね。そもそも刺青を入れるのを思いとどまれという話なんですけど」
九鬼はあっという間に袖を下ろしてしまい、結局牡丹の花の全容を見ることはできなかった。
「まあ、つまり、わたしはこういう人間です。足は洗ってはいますが、今でもけっこうズブズブです」
「ズブズブ……ですか」
「わたしの仕事はね、宝箱を守る番人のようなものだと思っています。宝箱にいいものが入っていると気取ると、いろんな悪党が寄ってきて、中身を暴こうとするどころか、盗もうとする。そうされないよう、あれこれ手を講じるんですよ。元悪党のわたしが」
この会社は、和泉家が所有する資産を管理し、運用を行っている資産管理会社だと聞いている。和彦は漠然と、粛々と機械的に一連の仕事が行われているイメージを持っていたが、目の前の九鬼の様子はそれを裏切るものだ。表面的は穏やかなのに、どこか好戦的で、ヒヤリとする鋭さがある。
こんな男がオフイスでおとなしく、事務仕事をしているのだろうか――。
和彦の顔の強張りに気づいたのか、九鬼は軽く頭を下げた。
「すみません。普段、熱心にわたしの話を聞いてくれる人間がいないもので、ちょっと興が乗り過ぎました。和彦さん、聞き上手ですね」
「……いままで縁遠い世界だったので、そういうものかと思いまして……」
「おや、佐伯家のほうでは資産管理は?」
「父が中心になって、親族たちで上手く管理しているようです。……ぼくは、佐伯家とはこれまで距離を置いていたので、詳しくは把握してないですし、この先関わることもないと思いますし……」
「それは大変けっこう」
ぎょっとするようなことを言って、九鬼は軽く手を叩いた。
「和泉家のほうでがっつり関わってもらいますから、負担は軽いに越したことはない。わたしは正直、和彦さんが裏の世界に免疫をつけてもらっていて、ありがたいと感じているんですよ。刃物を怖がる人間に、いきなり刃物を扱えとはいえない。それは刃物にとっても不幸ですから」
「つまり、あなたは刃物だと?」
「必要なときによく切れますよ」
どこを見ているのかわからない目をしながら、九鬼は手慰みのようにテーブルの上の文鎮に触れる。猫の丸い体を撫でる指先は男のものにしては細い。
「あの……、おばあ様の口ぶりから気にはなっていたんですが、〈何か〉あるんですか? 昔は紗香さんの件で揉め事はあったようですが、今は――警戒しなければいけないようなことがあると?」
「昔は、ではないんですよ。昔から今にかけてずっとあることです。ただ、和彦さんがいることで、脅威がより具体的になったと言いますか」
ここで九鬼がテーブルの上に広げた地図を示す。コピーして分割した地図を繋げただけなのかと思ったが、よくよく見れば、住宅地図を拡大コピーしたものだ。しかも、一枚一枚、場所がバラバラだ。
「赤ペンで囲っているのが、和泉家が所有している不動産の場所です。書類の上で住所を眺めてもピンとこなかったでしょうが、これなら多少はわかりやすいかと思います。わたしの普段の主な仕事は、この地図の場所に出向いての管理です。不動産屋に委託もしていますが、任せっきりというわけにもいきませんから」
和彦は立ち上がり、じっと地図に見入る。和泉家――というより祖父母が持つ影響力をこんな形で見せつけられて、ゾッとするような寒気を感じた。
「和泉家に厭われると、土地に厭われる……ですか」
「いわゆる大地主さんですからね。あそこには貸したくない、売りたくない、とか言われると、でかいビルや商業施設を手掛けているような不動産開発業者(デベロッパー)ですら、まあ逆らうのは難しいですよね。わたしもたまにとりなしてほしいと泣きつかれたり、脅されたりしますけど、なんにもできません」
そう言う九鬼はひどく楽しそうだ。
イスに座り直した和彦は、気を落ち着けるために缶コーヒーに口をつける。ある程度は、総子や弁護士から説明を受けており、数えきれないほどの資料や書類にも目を通してきたが、それでもどこか現実味が乏しかったのだ。負担になるようなことはしなくていいし、信頼できる人物たちによってお膳立ても処理も済ませると言われては、そうなのかと納得するしかなかった。
クリニック経営ですら身に過ぎたものだといまだに思っているのに、これ以上の精神的負荷を自分は耐えられるのだろうかと、ようやく新たな怖さを感じる。
和彦がぶるっと体を震わせたところで、九鬼が追い打ちをかけてくる。
「弁護士先生から説明を受けたでしょうが、近いうちに和彦さんにはS&A合同会社の社員となってもらいます。登記等の手続きがありますが、面倒なことはこちらで請け負いますから、心配はいりません。書類の記入ぐらいはしてもらいますが。ちなみに、隣にいる二人は従業員ということになります。そしてわたしと烏丸は、業務委託を受けているという立場で、ここにいます。状況によって人が増えたりしますが、この会社の社員として登記されているのは、和泉家の方のみです。とはいえわたしは、会社と和泉家の事情をよく把握していますから、気軽になんなりとご相談ください」
はあ、と気の抜けた返事をして和彦は途方に暮れる。今からでも断ってしまおうかと、山暮らしの中で決めた覚悟がぐらつく。和泉家で顔を合わせた、娘と孫を思う総子には親しみを覚えているが、和泉家の当主として総子が和彦に継がせようとしているものには、違和感しかないのだ。
ただの相続ではないと、確信めいたものがある。宝箱の番人を自負する九鬼の存在が、その証拠だ。
和彦に見せるためだけに準備したのか、九鬼はせっせと地図のコピーを片付ける。和彦の前には、役目を終えた猫の文鎮がなぜかずらりと並ぶ。誰が買い集めたのだろうかと思いつつ、ふと気になったことを尋ねた。
「業務委託ということは、九鬼さんたちの会社があるということですか?」
「一応名目上はセキュリティ会社とはなっていますが、和泉家専門の万事屋と考えてください。荒事、揉め事なんでもござれ。ややこしいかもしれませんが、すべてご夫妻が、和泉家の方と資産を守るために考えた仕組みです」
タイミングを見計らっていたように、パーティションの向こうからのっそりと烏丸が姿を現す。外から戻ってきたところなのか、Tシャツの首回りが汗で濡れて色が変わっている。こちらの髪型は、変わらず坊主頭だ。目が合い、互いに会釈を交わす。
九鬼と烏丸は立ったまま顔を寄せて打ち合わせを始め、あまりうかがうのも失礼かと、和彦は目の前に並ぶ猫の文鎮を眺める。どの猫も愛嬌があり、人慣れしていた和泉家の猫たちを思い出す。
「――では、出かけましょうか」
つい前のめりとなって文鎮の猫たちの表情を見比べていると、九鬼に声をかけられる。心なしか口元が緩んでいるように見えるのは、目の錯覚ではないだろう。
「えっ、どこに……」
慌てて和彦は立ち上がる。顎ひげをひと撫でして、九鬼はニヤリとした。
「この会社が管理する物件のいくつかを見に。他に軽く社会見学を。実感が湧くと思いますよ。ご自分が、和泉家から大事にされているのだと。あとはまあ――餌を撒きに」
和彦は急いで、外で待つ護衛の組員に連絡を取る。その間に烏丸の姿が見えなくなり、エレベーターホールの前で再び顔を合わせたときには、ド派手な柄の開襟シャツに着替えていた。目を白黒させる和彦に、九鬼は笑いながら言う。
「威嚇用ですよ。この強面と服見て、迂闊に近づいてくる人間はいないでしょう。今日は特に気合い入ってます」
なんだか楽しげな九鬼を横目に、賢吾の人物評の正しさをじわじわと実感する。烏丸はエレベーターに乗り込むときも黙ったままだが、和彦と目が合ったとき、軽く肩を竦めた。どこかおどけた仕種に、見た目ほど怖い男ではないのだろうかとほっとする。
もっともその認識は、数時間ほどのうちに覆されるわけだが――。
ぐったりとした和彦の様子を見るなり、長嶺の本宅の台所を取り仕切っている笠野は、開口一番にこう問いかけてきた。
「先生、おやつにゼリーはいかがですか?」
「……食べる」
ふらふらとダイニングに足を踏み入れようとして、思いとどまる。先に着替えてくると言い置いて、再びふらふらとした足取りで今度は客間に向かう。
スーツを脱いでハンガーにかけてから、あまり役に立たなかったブリーフケースは文机の下に押し込んでおく。洗面所で手と顔を洗ってダイニングに戻ると、テーブルにはすでにおやつと冷たいお茶が用意されていた。
ゼリーはゼリーでも、フルーツゼリーだ。ガラス瓶を取り上げ、照明の光にかざして眺める。マスカットの薄緑が美しく、美味しそうだ。
「手土産でいただいたんですよ。有名なパティシエのお店のものだとかで。先生がいらして、ちょうどよかったです」
「ふらっと立ち寄ったのに、なんだか申し訳ないな。こんないいもの……」
そう言いながらも、和彦は遠慮なく食べ始める。
「今日は朝から出かけられていたんですか?」
「朝から、ついさっきまで……」
「忙しかったみたいですね。お昼はきちんと食べられましたか?」
「鰻重をご馳走してもらった。いつもなら、まだ胃がいっぱいなんだけど、動き回ったから……」
おかげでこの美味しいフルーツゼリーも食べられる。
この時間、いつもであれば笠野は夕食の仕込みで忙しいはずだが、今日は比較的のんびりしている。コンロの掃除を始めたところで、和彦は声をかけた。
「もしかして今日はもう、キッチンは使わないのか?」
「あー、先生はご存知ないんでしたね。花見会の日は、本宅に残っている人間は、外に食べに行くか、弁当をとります。組長について参加している組員も多いですからね。だったらいっそ、厨も休めという昔からの方針です。先生が食べる分ぐらいでしたら、すぐに準備できますから遠慮なく――」
和彦は苦笑いで断る。夕食は、マンションに戻る途中で食べればいい話だ。
「そうか、花見会だった……」
九鬼の勢いに巻き込まれているうちに、すっかり頭から抜け落ちていた。
「本宅のこの雰囲気だと、トラブルは起きてないみたいだな。それでも組長は大変だろう。延期の件で何か言われるたびに、苦虫を噛み潰したような顔をしてないといいんだけど」
「むしろ、物騒な笑顔を浮かべていらっしゃるのではないかと」
そちらのほうが怖いなと、和彦が納得しかけたところで、廊下からにぎやかな足音が近づいてくる。案の定、姿を見せたのは千尋だった。
「留守番ご苦労様」
そう言って和彦が笑いかけると、千尋は唇を尖らせる。
「留守番じゃなくて、待機、って言ってほしいなあ。これでも、朝からずっとピリピリしてたんだよ。オヤジのことは少しも心配してないけど、和彦のことは気になって、気になって。花見会じゃなければ、俺もついて行きたかったぐらい。それで――」
ウナギ男はどうだったと問われて、危うくむせそうになる。
「……ウナギ男じゃなくて、九鬼さん。半日ほど一緒に行動したけど、特に問題はなかった。話しやすい人だったし」
和彦の隣のイスに腰掛けた千尋の前にも、フルーツゼリーが出される。
「いろいろ連れ回されたらしいじゃん。あちこちのビルに行ったり、街中にある駐車場を見学もしてたとかって。昼メシは、お高い鰻屋だっけ?」
思わずスプーンを置いた和彦は、嬉々とした顔でマスカットを口に入れる千尋をじっと見つめる。強い輝きを放つ目が、犬ころのような人懐こさをかなぐり捨て、ヤクザらしい冷徹さを覗かせる。
「今日はオヤジの代わりに、俺が和彦の行動の報告を受けてた。ついさっきまで」
「まあ……、そうなるか。お前、大変だったんだな、今日は。花見会の報告も受けてたのに」
「労わる気持ちがあるなら、晩メシ一緒に食べようよ。オヤジはどうせ夜中まで帰ってこないから、なんか配達頼んでさ」
千尋は、和彦が断るとは微塵も思っていない様子だ。帰宅途中でどこかの店に寄るのも、本宅に配達を頼むのも大差はない気がして、和彦は頷いた。
夕方までに少しでも胃を軽くしたくて、和彦は千尋と共に靴を履いて玄関を出る。このまま外に散歩に出かけたいところだが、二人の立場ではそういうわけにはいかず、味気ないことこのうえないが、本宅の敷地内をぐるぐると歩く。利点としては、護衛がいらず、他人の耳も気にしなくていいというところだ。
千尋はハーフパンツのポケットに指を引っ掛けながら、ひらひらと目の前を飛んでいくモンシロチョウを目で追う。和彦は、そんな千尋を眺める。見た目だけなら、まだ十分学生で通るのだが、この青年は大きな組の跡目で、しかも子持ちだと思うと、なんとも味わい深い。しかもTシャツで隠れた背には、立派な刺青を背負っている。
「虫取りって、子供好きだよね?」
突然の千尋からの問いかけに面食らいながらも、応じる。
「たぶん。あー、でも、最近の子はどうだろうな。虫を怖がる子も多いんじゃないか」
「うちの庭、けっこう昆虫が来るから、楽しめるかなと思って」
稜人のことかと、和彦は口元を綻ばせる。
「部屋に、昆虫図鑑を置いてやったらどうだ。虫取り網に虫かごも準備して、夏になったら、セミも来るだろう」
「ガキの頃、近所の公園でセミを採りまくって、それをオヤジの部屋に放ったことがある」
「……わかってたけど、命知らずだな、お前。――で、そのあとどうなったんだ」
千尋は意味深に笑ってから、いきなり話題を変えた。
「オヤジがウナギみたいだと言った男は、和彦を連れ回してどうしたかったの?」
戸惑ったのはほんの数瞬で、和彦は今日の出来事を思い返す。一応、九鬼と烏丸と出歩いている間中、つかず離れずの距離で護衛もついていたので、和彦の行動自体は長嶺組にも把握されている。ただし、あちこち足を運んだビルの中までは入ってこられなかったため、長嶺組がもどかしい思いをしていたと、千尋の表情から理解した。
「和泉家が所有している不動産を見て回ったんだ。実物を見ておいたほうがいいと言われて。それに法務局にも連れて行かれて、登記簿謄本の取り方も教わった。社会勉強だそうだ。そのうち、資産管理会社に社員としてぼくも加わることになるみたいだから、その下準備みたいなものだな。もっとも、名前だけのものだ。ぼくは管理や運用だとかさっぱりだし、口出しするつもりもない。ただ、受け入れることで、おばあ様とおじい様が安心するなら、それでいい」
「……それでいい、という顔じゃないよ、和彦」
父親によく似て千尋も鋭い。和彦は渋面を浮かべそうになり、自分の頬を撫でる。
「ぼくが相続するよう言われているビルも見てきたんだ。本来は母――ぼくを産んだ人に任せるはずだったものだけど、ぼくに、と。利用客の多い駅前にあるから、地価が高くて、相続税がエグいことに……」
千尋に何げなく住所を問われて答える。あいにく和彦には馴染みのない土地で、九鬼の運転で駅周辺を移動したとき、ビルやマンション、ショッピングモールが混在するにぎやかな街の様子に、ひたすら地価の高さに思いを馳せて気が遠くなりかけた。
いつ誰から連絡が入るかわからず手放せないスマートフォンを、千尋は素早く操作する。歩きながら和彦も覗き込むと、地図の検索サイトが表示されている。
「ビルの名前は?」
「えっと、キリエ和泉ビル」
和泉家所有の物件名は、だいたい住所の地名と和泉姓を合わせて、非常にわかりやすいものになっている。
「ビルの中に入ったんでしょう? どんな感じだった」
それが、と和彦は言葉を濁す。情報を出したくないということではなく、とにかく表現に困るのだ。悩む和彦に対して、千尋はニヤニヤとしている。その様子から察するものがあり、千尋の脇腹を肘で小突く。
「お前、おもしろがってるだろ」
「和彦って、波乱万丈な人生歩んでるなー、と思って。しかも予想外の方向で」
「……何割かは、お前も責任があるんだからな」
話しながら歩いているうちに、庭に入る。稜人のための小さな公園が整備されている中庭から、いくつかの樹木が植え替えられており、うまく根が張ってくれるか今は様子見のようだ。それに伴い、あまり使っている様子のないゴルフの練習ネットが隅に移動している。孫可愛さで、ここもそのうち遊具であふれるのかもしれないなと、つい想像してしまう。
「――……飲食店が多めの雑居ビルなんだ。最上階はオフィス専用で。五階建てだけど、この高さのビルにしては延床面積はかなりあると九鬼さんは言ってた。実際、ビルの中を歩いてみたけど、たくさんの店が入って迷路みたいに入り組んでて、ついて歩くのが精いっぱいだった。夜のほうがもっとにぎわってて人も多いと言われたけど、それでも、古いビルなのに活気があった」
活気がありすぎて、とんでもないトラブルに遭遇してしまったのだが。
昼間の出来事を思い出し、和彦は微妙に顔をしかめる。あの場に長嶺組の護衛がいなくて正解だったのだろう。そうでなければ、下手をすれば警察沙汰だ。
「和彦、なんかおもしろいことがあったような顔してる」
「別におもしろいことは……」
「でもなんかあったんでしょ」
千尋の勘が鋭いのか、自分がわかりやすすぎるのかと自問しつつ、隠すようなことでもないので正直に話す。
「部屋の又貸しというのかな。最初は〈健全な〉マッサージ屋として経営してた店が、今日行ったら――」
「エッチな店になってた?」
「事前にタレコミがあったとかで、ぼくの案内のついでに潰しますね、とか言って、もう大変なことに……」
ビルの管理をやっていると、契約内容とは違う店舗がしれっと経営をしていることが意外にあるらしい。立地のいい場所だけに、生き馬の目を抜くしたたかな商売人には魅力的なビルなのだろう。もしくは、田舎に引っ込んでいる地主という噂だけを聞いて、舐めていたのか。
見せしめとばかりに烏丸が、いかがわしい格好をした従業員や裸の客を店の外に追い立て、さらには店内を荒らしまくる一方で、九鬼は電話で契約者を速やかに呼びつけていた。和彦は、唖然として見守っていただけだ。
「九鬼さんの護衛の人、ヤクザのフロント企業の用心棒をやってたらしいけど、その経歴はここに活きているのかと、ちょっと感心した。効率的な暴力の使い方だった」
「ヤバイ。俺もその場にいたかった。楽しそう」
「……お前ならそうだろうな」
こちらは心臓に悪かったと、無表情で店内の備品を破壊し尽くす烏丸の姿を思い返し、少し遠い目をする。
庭を通り抜け、玄関前に戻ってきたところで、さらりと千尋に問われる。
「気に入った? いつか和彦のものになるというビル」
この問いに答えるのはおこがましいなと、曖昧に笑って返す。本来は、紗香のものであったビルなのだと、そんな思いがどうしても拭えない。それに、総子と正時の決断次第では、綾香のものとなっていたかもしれないのだ。言葉は悪いが、棚ボタだと他人から謗られても和彦は反論できない。
「何もかも急すぎて、本当に大丈夫なんだろうかと不安になる。……おばあ様が急ぐ気持ちもわかるんだけど」
先日実家に出向きながら、綾香の前から逃げ出した自分の行動を悔やむ。自分の口から、綾香に報告したいこと、相談したいことがありすぎる。そして綾香の口からは、自分を産んだ女性のことを聞いてみたい。
紗香のことを考えるとき、和彦の心は頼りなくふわふわと揺れる。思い出にもなりきれない、しかし記憶というほどはっきりとした輪郭を持たない〈母親〉の存在に、いまだにどう寄り添えばいいのか戸惑うのだ。
敷地内の散歩を続行しながら、千尋はまだスマートフォンで地図を眺めている。転ぶぞと窘めると、聞こえているのかいないのか、千尋は首を傾げている。
「千尋?」
「――ビルがある辺りの住所、聞いた記憶があるんだよなー。けっこう前に、じいちゃんが話してたような……」
「楽しい話題で出たと言ってくれ……」
「いや、じいちゃんが電話で誰かと話してるのをちらっと聞いたぐらいで、そんなのを覚えてた俺の記憶力をまず褒めてよ」
和彦はおざなりに千尋の頭を撫でてやる。
「……ここ、ヤクザの抗争とかある場所なのか?」
「聞いたことないなあ。昔、地域の洗浄化とか言ってヤクザが一掃されたらしいんだよね、そこからまた、いろんな組織が入り込んでぐっちゃぐちゃになって問題になったあと、大きい組同士が話し合って、いい感じに収まった、と」
「なんか適当だな」
「勘弁してよっ。俺が生まれるよりずっと前の話だよ。歴史の勉強じゃんっ」
千尋にそう言わしめる場所が、なぜ守光の口の端に上ったのか。
「じいちゃんに聞いてみる? それとも、長嶺組の生き字引的な、引退した組員をオヤジに紹介してもらうとか」
「……一応、和泉家のことだから、機会があれば九鬼さんにまず聞いてみるよ。何か問題があったわけでもないのに、大事にするのは気が引ける」
「こういうのって、問題が起きてから対処すると、たいていさらに大事になるんだよね」
したり顔で頷く千尋の頭を軽く指先で弾いたものの、和彦はふと、今日九鬼が何げなく洩らした言葉を思い出していた。
『――餌を撒きに』
一緒に移動している最中、動物に餌を与える場面などなかったし、九鬼もそれらしい素振りは見せなかった。
何かを暗喩した言葉だったのだとしたら、それは――。
「ウナギ男、か……」
ふと和彦が洩らした言葉に、千尋が不思議そうな顔をする。
「何?」
「お前の父親の、人を見る目の正確さに感心してたんだ」
確かに九鬼は、掴みどころのない男のようだ。
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