と束縛と


- 第48話(2) -


 総和会内で文書室筆頭という肩書きを持つ藤倉は、久しぶりに顔を合わせた和彦に対して、相変わらず折り目正しいビジネスマンのような物腰だった。
 やはり久しぶりである総本部を訪れた和彦は、応接室に通されてすぐに、藤倉に頭を下げつつ手土産を差し出す。
「いろいろとご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。これはつまらないものですが――」
 藤倉の好物だという佃煮の詰め合わせだ。もちろん情報元は賢吾だ。とりあえず藤倉がニコニコとして受け取ってくれたことにほっとする。
「――大変だったようですね」
 ソファに腰掛け、お茶が運ばれてきてからさっそく藤倉が口火を切る。和彦は微苦笑を洩らしつつ、どこまで説明すべきかと迷ったが、藤倉は軽く片手をあげてこう言った。
「佐伯先生の個人的な事情に立ち入ることになりますから、説明はけっこうです。わたしとしては、長嶺会長が決定されたことに沿って、事務処理をさせていただくだけです」
「……ぼくは今日は何をすればいいのでしょうか? とにかく行けばいいとしか言われなかったものですから」
 今の和彦は予定などあってないようなものなので、常に長嶺の男たちの都合に振り回される。今日も、朝になって突然賢吾に呼ばれて本宅に出向いたところで、さきほど藤倉に渡した手土産を押し付けられたのだ。
「そう構えないでください、佐伯先生。今わたしが言ったように、事務処理の一環です」
 言いながら藤倉は、書類ケースから書類の束を取り出す。
「これは……」
「総和会が主導する病院経営について、前に佐伯先生にご署名いただいたものです。計画が中止となりましたので、これらは廃棄ということになります」
 その確認のためにわざわざ呼んだのかと、きょとんとした和彦だが、本題はここからだった。
 和彦が不在の間、クリニックは休診となり、当然患者を受け入れていなかったのだが、そこは長嶺組という組織が実質的に切り盛りしているクリニックだ。診ていない患者を診たことになっていたり、処方箋も出ている。さらには新たな機材や備品・薬品も購入していた。何件かについては、長嶺の本宅のパソコンの画面上で確認したが、今、藤倉が見せてくれている帳票は、半数ほど記憶にないものが記載されている。
 総和会が必要とし、クリニックを通して長嶺組が融通し、またはその逆の取引も行ってきたのだろう。問題なく。
 自分の存在など、手軽に人間の皮膚が縫える程度の価値しかないのかもしれないと、つい自虐に陥りそうになる。
「佐伯先生? 何か気になることが……」
 和彦はハッと我に返る。必要書類に確認のサインをしているうちに、いつの間にか手が止まっていた。
「あっ、いえ、きちんと処理をしてもらっていたようで、ありがたいと思いまして」
「それについては、うちの組織は手慣れていますから。書面と物品の行き来で、いわば流れ作業でできることです。実際に患者を診るとなると、やはり、佐伯先生がおられないと」
 総和会が手駒としている医者は何も和彦一人ではなく、誰かに仕事は回っていく。それを和彦が知っていると承知のうえで、藤倉があえてこんな言い方をする意図は、一つだ。
 気を使わせてしまったと、和彦は申し訳なさを上回る気恥ずかしさを覚える。
「同じ仕事をこなせる人間はいますが、佐伯先生だからこそ、と感じることが、この数か月の間いくらでもありました。我々はずいぶんと、あなたに助けられていたと実感できました」
「……いえ、そんな……」
「あんなに激しい〈父子ゲンカ〉は久しぶりでしたよ」
 下世話な気持ちから言っているのではないと、藤倉の行儀のいい笑みからわかる。丸く収まってよかったという言葉に、和彦は深く賛同した。一筋縄ではいかない守光と賢吾の父子関係に、ささやかながら歯止めとして自分が役立っているというなら、素直にその役割を甘受しようと、藤倉と笑みを交わし合う。
 応接室の外からにぎやかな声が聞こえてきた。そういえばと、総本部のビルを訪れてから目にした光景を思い出す。
「今日はずいぶん、人が多いですね。ロビーに入ってびっくりしました」
「ああ、花見会がもうすぐですからね。準備も大詰めで、人の出入りが激しいんですよ」
 また花見会かと、微妙な表情となった和彦だが、藤倉には気づかれなかったようだ。
「いつもより開催が遅くなったせいで、大変なことに、とかですか……?」
「それはまったく関係ありません。花見会などの大きな行事のときは、総本部はこういう感じなんですよ。必要なものをここから運び出したりもしますから、普段は出入りできない組の若い子らも、物見遊山で手伝いに来ています。別の階では今頃、当日会場に入る者に、立ち居振る舞いについてレクチャーも行われているはずですよ」
「そうなんですか。ぼくは滅多に総本部には足を運ばないものですから、事情がよくわからなくて」
「文書室は、挨拶状などの手配で早い時期に慌ただしくなりますが、今はご覧の通りです。一方で、警備部や遊撃隊の方たちは大忙しですね。当日だけではなく、何日も前から会場に入って警備の準備をしますから。南郷隊長は何か言ってませんでしたか?」
 思いがけず出た南郷の名に、内心で激しく動揺する。なぜ自分に南郷のことを問うのかと戸惑ったが、なんのことはない。南郷は、総和会での和彦の後見人だからだ。数日前に本人から念を押されたばかりではないかと、和彦は自分に呆れる。いまいちまだ、ピンときていないのだ。
「……花見会のことについては、特に……」
「あの人も、普段は総本部には寄り付かない人なんですが、最近はよく見かけますよ。第二遊撃隊が格上げされるという話もありますから、いろいろと準備があるのかもしれませんね」
 隊の格上げの話は初耳だが、まっさきに和彦が気にしたのは、御堂が隊長を務める第一遊撃隊の存在だ。今でも微妙な立場なようだが、第二との明確な差をつけられることで、どんな変化が起こるのか。守光が何も考えずに決断を下すはずがない。
 化け狐の尾に頬を撫でられたような怖気に襲われ、大きく身震いをする。藤倉が首を傾げた。
「どうかしましたか?」
? 「寒暖差にやられたのか、少し寒気がして……。大したことじゃないです」
 今日の用事は済んだからと、真剣に心配してくれた藤倉に促され、和彦は応接室を出る。エレベーターホールまで見送ってくれた藤倉と別れて、一人でエレベーターに乗り込む。
 総本部のロビーは二階にあり、今日はそこで長嶺組の組員に待ってもらっている。藤倉の用事にどれだけ時間がかかるかわからず、応接室の外で立って待ってもらうのも申し訳ないと思ったのだ。総本部で荒事が起こる可能性は限りなく低く、万が一に何かあっても、そこら辺にいる男たちがなんとかしてくれるはずだ。
 初めて総本部を訪れたときの自分の緊張具合を思い出し、なんだか図太くなってしまったと、エレベーターの中で和彦はひっそりと苦笑を洩らす。
 二階でエレベーターを降り、軽く辺りを見回す。総本部では二階でエレベーターを乗り換えなければ一階に降りられない構造となっている。上階に上がる人と一階に降りる人とが交差し、受付カウンターでの身体検査を待つ人などで混雑している。藤倉の話では、特に今は花見会の準備のため来訪者もひときわ増えているのだろう。
 似合っているかどうかはともかくスーツ姿の男たちが多い中、ハイネックTシャツの上から、丈の長いスプリングコートを羽織った和彦は妙に視線を浴びる。組員の同行者がいないと浮いて見えるのだろうかと、今になって心配しつつ、待合スペースに逃げるように移動する。
 強面ながら和やかな雰囲気で会話をしているグループが二組、小さなテーブルに身を乗り出して密談中なのは一組。そして人待ち顔をしている男が三人。その三人のうちの一人が、長嶺組の組員だ。和彦に気づいて立ち上がる。
 ふと和彦の視線は、壁際に置かれたイスに間隔を開けて座っている、残りの男二人に吸い寄せられる。地味な紺色のスーツがまったく体に馴染んでいないなと、まず思ったあと、顔を見て声を洩らす。咄嗟に体ごと向きを変えたのは、関わりたくなかったからだ。
 速やかにこの場を立ち去ろうとしたが、長嶺組の組員が申し訳なさそうに、壁際の男二人を示した。
「佐伯先生、あの二人が挨拶をしたいと、さっきからずっと待っているんですが……」
 追い払いたくても追い払えないと、組員の表情が訴えている。和彦は、はあっと大きくため息をつくと、男――青年二人を手招きした。
 素早く側までやってきた二人が口を開きかけたが、それを制してテーブルを示す。とりあえず座ってもらったのは、でかい男たちが立ち話をしていると、目立って仕方ない。
「――何か用かな。加藤くんと小野寺くん」
 加藤は表情をぴくりとも動かさなかったが、一方の小野寺はわずかな不快感を目元に漂わせた。
「五十音順じゃないんですか」
 何かと思えば、名を呼んだ順番のことらしい。そこにこだわるのかと、和彦が苦笑を洩らした隣で、組員は剣呑とした視線を小野寺に向けている。
 南郷率いる第二遊撃隊の隊員である加藤と小野寺を、もちろん和彦は覚えている。南郷自ら紹介してきたということもあるが、加藤は特に印象深い。野暮ったいスーツのせいで、精悍な体つきも黒々とした影のような左腕のタトゥーも隠れてはいるものの、加藤の個性を損なうには至っていない。切れ長の目と高い位置にある頬骨の、人によっては惹きつけられそうな顔立ちは、以前会ったときに比べてさらに大人びてきている。荒んだ雰囲気が落ち着いたようにも見え、少なくとも隊員となったあとも南郷の下でひどい扱いは受けていないようだ。
 加藤と再会してどうしても脳裏を過るのは、中嶋の顔だ。いまだ関係は続いているのだろうかと余計なことを考え、慌てて思考の外に追い払い、視線を加藤の隣に移す。
 小野寺は、華のある甘い顔立ちも、美容室で手入れしていそうなおしゃれな若者らしい髪型も変わっていないが、前に会ったときにはなかった銀色のアクセサリーを右耳にしている。一瞬ピアスかと思ったが、凝った彫金が施されたイヤーカフだ。遊び慣れた学生のような風情だが、それでも軽んじる気持ちを抱かせないのは、油断ならない目つきのせいだ。計算高さと冷静さが同居している。
「……それで、挨拶って?」
 和彦から水を向けると、加藤と小野寺が互いに軽く目配せし合う。口を開いたのは小野寺だった。
「佐伯先生の護衛を任されることになりました」
「はあっ?」
 声を上げたのは、隣の組員だ。一拍遅れて和彦も、えっ、と小さく声を洩らす。
「そんな話、聞いてないんだけど……」
「南郷さんは、前に佐伯先生に話してあると言ってましたけど」
 やけに小野寺の言葉は刺々しい。どうやら嫌われているようだと薄々感じながら、和彦は頭の中で、過去の南郷との会話を思い返し、口元に手をやっていた。二人を南郷から紹介されたとき、護衛云々とさらりとだが確かに言われていたのだ。ただ、本気にはしていなかったというのが正直なところだ。
 あの時点で、南郷は状況の変化をどこまで予測していたのかと、少し不気味だった。
 渋々、小野寺の発言の正しさを認めながらも、和彦は説明の続きを加藤に求める。
「南郷さん、君たちにはなんと言ったんだ?」
 不愛想でとっつきにくい印象がある加藤だが、生まじめで素直な性格だと知っている。今も、こちらの問いかけに対して、訥々と説明してくれた。
「研修、のようなものだと言われました。そのうち、護衛の仕事も任せるようになるから、まずは対象との距離感を覚えろと。ただ、俺らみたいなガキだと、無礼を働いて相手を怒らせたら面倒だから……」
 何かと甘い和彦が選ばれたというわけだ。
 舐めてるのか、と洩らしたのは、やはり組員だ。いかにも南郷が言いそうなことだと、和彦は苦笑いをするしかない。
「ぼくが都合がいいということか。――そういえば、君のほうは痛い教訓があったな」
 和彦の言葉に、加藤は気まずそうに視線を伏せる。仕事熱心な加藤はひっそりと和彦を見守るつもりで尾行して、それが長嶺組の組員たちにバレて騒動になったことがある。ここで思い出したのが、自分の隣に座っている組員が、そのとき加藤を取り押さえた一人だということだ。
「仮に君らが護衛につくとして、ぼくは出かける用事のたびに連絡しないといけないのか? まさか二人で交代して、ぼくの部屋の近くで張り込むのも無理があるだろう」
 今はもう護衛がついての移動に慣れたとはいえ、やはり窮屈ではある。それなのに、自分につく人数がさらに増えるのかと思うと、部屋に引きこもっていたくなる。
「……守ってもらわないといけないほど、ぼくに何かあるとも思えないし……」
「でも、尾行されたんですよね。何日か前」
 和彦は、反射的に小野寺を睨みつける。
「南郷さんから、そんなことまで聞いたのか」
「自分を犬だと思って、佐伯先生の敵だとみなしたらとにかく食らいつけと言われました。尾行してきた連中のガラを押さえたいそうです」
 物騒な猟犬を連れ歩く自分の姿を想像して、頭が痛くなってくる。和彦を尾行した相手が誰なのか把握したうえで、こんな命令を下したであろう南郷は――というより総和会は、事を荒立てる気があるということだ。
「俺たちは佐伯先生の視界になるべく入らないよう、気をつけます。あくまで護衛見習いということで、仮にトラブルがあっても、俺たちのことは捨て置いてください。佐伯先生が逃げる間の壁代わりぐらいにはなりますから」
 そんなものが必要になる事態は考えにくいと、和彦はもごもごと小声で反論してみるが、当然のように受け流された。
「はあ……。どうせぼくに決定権はないだろうし、詳細は総和会と長嶺組で詰めてくれ。研修というなら、いつかは終了するんだろうし……」
「先生、迂闊なことを言うと、本格的に派遣される事態になりますよ」
 組員から苦言を呈された。
 厄介な話はすべて賢吾に丸投げすることにして、用は済んだと席を立ちかけた和彦は、ふと気になって二人に尋ねた。
「そういえば君たちは、〈寮〉に入ったのか?」
「……俺だけです」
 片手を挙げたのは小野寺だ。なんとなく納得できたのは、守光の側には南郷がいて、その南郷の側に、小野寺ならついていそうな印象があったからだ。加藤に視線を向けると、和彦が言いたいことを察したのか、頷いて返される。
「俺は、本部の外で寝起きしているほうが都合がいいので。ただ、南郷隊長に呼ばれて、寮の庭の整備を手伝っています」
 そういう名目で、南郷は若い隊員も堂々と本部に出入りさせられるわけだ。
 挨拶が済んだということで四人は席を立ったものの、行き先は同じで、一階に降りるエレベーターだ。一応、和彦の護衛という意気込みの表れか、両隣を歩く加藤と小野寺に、なんとも落ち着かない。
 エレベーターに乗り込んだ和彦は、傍らに立つ加藤をうかがう。中嶋との関係は続いているのだろうかと、性質のよろしくない好奇心がわずかに疼く。一応、中嶋本人とはメッセージのやり取りはしたが、無事に戻ってきたことを報告するのに頭がいっぱいで、探りを入れようなどと思いつきもしなかった。
「あっ」
 加藤と小野寺に見守られながら、駐車場で待機していた車に乗り込もうとしたところで、和彦は声を洩らす。和彦の側に立っていた組員が、パッとこちらを見た。ついでに、運転席の組員も。
「どうかしましたか、先生」
「いや……、ちょっと、思い出したことがあって……。大したことじゃないんだ」
 いそいそと車に乗り込んでシートベルトをしてから、スマートフォンを手にする。
 中嶋のことが気になったのをきっかけに、いまだ秦に連絡していなかったことを思い出した。賢吾にはとっくにバレているが、鷹津の共犯者である秦との連絡を、今は控えておこうかとためらっているうちに、うっかり日にちが経ってしまった。薄情ですねと、あの男なら甘く苦笑いしながら許してくれそうだが。
 秦と連絡を取れば、鷹津の様子が知りたくなるのは必然だ。和彦がそうなるであろうことを当然賢吾は予測しているはずだが、秦と連絡を取るなとは言われていない。それどころか――。
 スマートフォンのアドレス帳を開くと、しっかりと秦の名がある。このスマートフォンを渡されたときにはすでに登録されていたのだ。
 秦宛てにメッセージを送信すると、すぐに返事が返ってきた。やり取りを数回繰り返して、あっという間に予定が決まる。やれやれと一息ついてシートに体を預けようとして、念のため背後を振り返る。素人の和彦では、尾行がついているのか判断がつかなかったが、助手席の組員が苦笑いを含んだ声で教えてくれた。
「大丈夫ですよ、先生。〈護衛〉の車はついてきていません」
「……さすがに、総和会絡みの用事のときだけにしてほしいなあ。護衛の追加は」
「組に戻ったら、すぐに組長に確認しておきます」
 次から次へと、と密かに嘆息した和彦は、外の景色に目を向ける。
 さらに面倒が増えたという思いの一方で、さきほどの加藤と小野寺の組み合わせに、笑いが込み上げてきそうになる。対照的な見た目と、微妙な距離感から、あの二人の相性の悪さが伝わってきたのだ。それが南郷の下にいて、とりあえず行儀良くしている様子に、微笑ましさすら抱いてしまう。大部分は、加藤のおかげだ。
 加藤とはときどき食事に行っていると、前に三田村が教えてくれたことがある。加藤に親しみを覚えるのは、その情報もあったからだ。
 気の張る用事が終わったからといって、まっすぐマンションに帰るわけにはいかない。和彦には、もう一つ済ませておく用事があった。


 久しぶりにクリニックの入るビルを見上げ、ほっと息を吐き出す。感慨深さから出たものだが、何度目かとなる、自分の日常に戻ってこられたのだという実感を噛み締めていた。
 和彦がいない間に済ませたという改装部分を、クリニックの再開前に自分の目で確認しておきたかったのだ。定期的に機器のメンテナンスや、清掃業者も入れていたということで、ずいぶん気を配っていたもらっていたようだ。いつ戻ってくるかどうかわからない和彦を待ちながら、クリニックを維持するのは、賢吾にとってずいぶん負担だっただろう。
 室内に足を踏み入れると、電気をつけてざっと見て回る。一番気になっていた仮眠室にも入ってみたが、ドアと窓ガラスが明らかに厚みが増しており、鍵も厳重になっているが、変化はそれぐらいだともいえ、ひとまず安心した。もっとも、見えないところで防犯システムのレベルを上げていたとしても、和彦にはわからないのだが。
 なんとなくベッドの下を覗き込むと、見覚えのないゴルフクラブが転がっていた。ずいぶん前に千尋とゴルフレッスンを受けに行こうと話に出ていたが、慌ただしさからすっかり流れてしまった。改めて誘うつもりなのだろうかと、首を捻る。
 非常階段に通じるドアも同様に頑丈なものになっていたが、他人から見て奇異に映るほどではない。あくまでここは、どこにでもある美容外科クリニックだ。
 清掃が行き届いているのはもちろんのこと、受付カウンターなどに飾られていた小物もさりげなく季節に合わせたものとなっている。
「ぼくの出番はなしだなー……」
 特に注文をつけたいこともなく、和彦は待合室に戻ってソファに腰掛け天井を仰ぎ見る。組員を駐車場に待たせているため、あまりのんびりもできないのだが、クリニックを再開したときのことをあれこれと考えていると、スマートフォンが鳴った。
『――子犬にじゃれつかれたそうだな』
 開口一番の賢吾の言葉に、なんのことかと眉をひそめたあと、顔を綻ばせる。仕事熱心な組員は、和彦が車を降りてすぐに賢吾に連絡を取ったようだ。
「あんたにかかると、若い子はみんな子犬なんだろうな」
『子犬は子犬でも、闘犬として育つか、猟犬として育つかの違いはあるがな。うちの千尋ですら、見てくれは可愛いが愛玩犬じゃないからな。お前ならよくわかってると思うが』
「……親バカ」
 電話越しに聞こえてきた低い笑い声にゾクリとする。
『クリニックで気になるところは? 今ならまだ、手を加えるにしても再開までには間に合うはずだ』
「いや、これで注文をつけたらバチが当たる。細かいところまで気にかけてくれたみたいで、感謝してる」
『だったらあとは、スタッフの補充だけだな』
 そちらも長嶺組に任せておくだけだ。
 いよいよクリニックの再開が見えてきて、また忙しい日々が始まることに、重圧と同じぐらい高揚感を覚える。美容外科医として立ち働く自分が、和彦は嫌いではないのだ。医者となるよう使命づけられた経緯を知ったあとでも。
「休んでいた分、バリバリ稼がないと」
『仕事にのめり込み過ぎて、俺たちをほったらかしにされるのも困るんだが』
「何、言ってるんだっ……」
 いまさら賢吾の軽口に動揺して、反射的にソファから立ち上がる。急に暑くなり、わざわざ空調を入れるまでもないので、通りに面した窓を開ける。
 見下ろすと、いつもは車で待機している組員が、通りに立って慎重に辺りを見渡している。
「――……ぼくが動くと、周りがピリピリするな」
『お前のせいじゃなく、お前を口実にして動きたがる連中がいるということだ。好き勝手やらせて、高みの見物を決め込んだらどうだ』
「ぼくの神経を舐めないでほしいな。普通の人間より柔なつもりだ」
 賢吾は意味ありげに、ふっと短く息を吐いた。
『今日、総本部で会った二人は、前からの顔見知りなんだろう。一人は、三田村がたまに面倒見てると話していたが』
「どちらも千尋とほぼ歳は変わらないはずだ。三田村が気にかけている子は、加藤というんだ。見た目は強面だけど、言われたことは一生懸命やるタイプかな。まあ、三田村がよく知ってるから、気になるなら聞いてくれ。もう一人は……生意気。あと多分、ぼくは嫌われてる。小野寺というんだけど。今時の遊んでる大学生風」
『南郷がお前につかせたんなら、見た目通りのガキじゃねーということか』
「どういう形で護衛につくのかは、あんたのほうで総和会と相談してくれ。ものすごくありがた迷惑だけど、断るわけにもいかないんだろ」
『適当にじゃれつかせておけ。千尋にバレたら、キャンキャンとうるさいかもしれないが』
 それはそれで面倒だと、和彦は顔をしかめる。南郷が後見人になった以上、総和会が日常生活にさらに関わってくるというなら、許容できる範囲を、男たちを使ってすり合わせていくしかない。
『――総和会を甘く見るなよ』
 突然声音を変え、賢吾が囁いてくる。ざわりと肌が粟立った。
「えっ……」
『オヤジは、伊勢崎組を警戒している。組長である伊勢崎龍造は、北辰連合会というでかい組織で顧問にも就いてる。そんな重職についてる人物が、組員数人を引き連れてこちらに出張ってきているんだ。新しい商売を始めるとか秋慈には言ったらしいが、本当のところはわからない。面と向かって目的を問えれば楽だが、そういうわけにもいかない。で、伊勢崎組の連中が、うちの大事な〈オンナ〉をつけ回してるとなりゃ――』
「堂々と捕まえられるわけだな。ぼくは餌か」
『お前が若造二人を気にかけるのをいいことに、ちゃっかり別動隊が離れた位置で、網を張っているかもな』
 怪しい風体の男たちをぞろぞろと引き連れて歩く自分の姿を想像して、和彦はうんざりとして呟く。
「コントか」
『尾行の件から感じるのは、伊勢崎組からお前に対して、敵意も害意も乏しいということだ。だからこそ、薄気味悪い。できれば俺は、直接は手を出したくない。総和会が進んで厄介事を引き受けるというなら、ありがたく押し付ける』
「……ぼくも、勝手に片付いてくれるなら、それで……」
 そうは言っても、伊勢崎組や伊勢崎龍造は忌避したい存在であっても、彼の息子について考えるときは、胸が妖しくざわつくのだ。尾行については、和彦が〈変な虫〉扱いされ、息子に近づくなと牽制されているという可能性もありうる。口が裂けても賢吾には言えないが。
 すべて終わったことだと自分に言い聞かせながら、窓を閉める。用は済んだので、再び施錠してあとは帰宅するだけだ。
「あっ、そういえば――」
『どうした?』
「仮眠室のベッドの下に、ゴルフクラブがあったけど、あれ、なんだ?」
『野球バットのほうがよかったか? お前が振り回しやすそうな重さを選んだつもりだ。万が一の準備というやつだ。使わないに越したことはないが、いざとなったときに武器が必要だろ。スタンガンやナイフだと、お前自身が怪我する危険があるからな』
 絶句したあと、和彦は大きくため息をつく。過保護すぎると指摘したかったが、たった今、尾行だ護衛だと話したばかりで説得力もない。ありがたく賢吾と長嶺組の心遣いを受け取っておくことにした。




 半月近く前に恋人にめった刺しにされたホストの青年は、傷が塞がる間、禁酒と安静を忠実に実行していたらしく、いくらか毒気が抜けた顔つきとなっていた。
 そろそろ抜糸の頃合いかと気にかけていると、タイミングよく総和会から連絡が入り、高層マンションの一室に連れてこられたのだ。青年が暮らしている部屋なのかもしれないが、治療さえできるならどこでもいい。
 和彦が傷口を一つ一つ確認していると、間がもたないと感じたのか青年はホストを辞めると語り始めた。水商売から足を洗うのかと思いきや、話を聞き続けていると、なんと自分でボーイズバーを始めるのだという。ホストクラブとは違うのかという和彦の問いかけに、ホストの青年――元ホストの青年は、丁寧に違いを教えてくれる。あくまでバーであり、カウンター越しでの接客となるうえに、価格帯もホストクラブに比べて低めな設定だそうだ。
 男性客も歓迎なので、オープンしたら先生も遊びに来てくださいと言われ、逞しさに和彦は笑ってしまった。しかも店の資金は、彼をめった刺しにした恋人が出すという。つまり、組のヒモつきだ。語る本人に悲愴感はないため、嫌々というわけではないようだ。
 偉そうに語れる立場でもない和彦は、さっそく抜糸に取り掛かる。それが終わると、傷口が開かないようケアテープを貼っていき、このとき、自宅でもできるようやり方を説明しておく。まだ当分禁酒を続けるよう告げると、悲しげな顔で頷かれた。
「思いがけないところで、知見を得てしまった……」
 治療を終え、エレベーターで下りながら小声で洩らす。今度賢吾に、ホストクラブとボーイズバーの違いを話してやろうと思ったが、水商売も手広く手掛けている組なので、案外もう経営しているかもしれないと考え直す。
 一仕事終えた和彦は、まだ昼食という気分ではないため、時間つぶしのために書店に立ち寄る。一階に並ぶ新刊をざっと確認してから、エスカレーターで階を上がりながら、背後を振り返る。護衛の組員がついてきているのはいつものことで、気になるのはさらにその後ろだ。今日は総和会から回ってきた仕事ではあるものの、加藤と小野寺の姿は見えない。
 総和会と長嶺組の間でどんな取り決めになったのか、またはまだ相談の最中なのか、何も知らされていないのだ。和彦の視界に入らないところで護衛――というより監視がついていたとしても驚きはないが。
 野鳥に関する本を眺めていると、スマートフォンがメッセージの着信を知らせて短く鳴る。何げなく表示を確認して、次の瞬間和彦は、本を置いて売り場を離れた。文章でやり取りするのがもどかしくて、メッセージを送ってきた相手に電話をかける。
 手短に会話を交わし、電話を切ると即座に組員のもとに歩み寄る。本を眺めている場合ではなくなって車に戻ると、次に向かうのはデパートだ。昼時ということもあって混雑しており、並んでいる花見弁当を横目に、手の込んだ総菜を何品か買い込む。さらにアルコール類売り場では、自分のワインの他に缶ビールも選ぶ。
 慌ただしく買い物を終えて向かったのは――。


 驚かせるつもりで、あえてインターホンは鳴らさずに合鍵を使う。そっとドアを開けると、スウェットパンツにTシャツ姿の男が、床に這いつくばっていた。ぎょっとした和彦はおそるおそる声をかける。
「……三田村?」
 Tシャツ越しにわかる引き締まった体をビクリと震わせ、三田村が顔を上げた。驚いたように目を見開いていたが、すぐに苦笑いを浮かべる。
「護衛失格だな。先生の気配に気づかなかった」
「それは珍しいな。で、何を一心不乱にやってたんだ?」
 立ち上がった三田村の片手には、雑巾が握られていた。忘れず施錠をして靴を脱いだ和彦は、首を傾げる。
「何かこぼしたのか?」
「あー、いや……。手持ち無沙汰だったから、床を拭いていた。先生がいない間もときどき来て、空気を入れ替えたり、掃除はしていたんだが、気になったらじっとしていられなくなった」
「若頭補佐はマメだなー」
「そんなことはない」
 照れたのか三田村は、雑巾とバケツを持って一旦洗面所に引っ込んでしまった。
 買ってきたものをテーブルに置き、改めて室内を見回す。まず思ったのは、三田村がこの部屋を借りたままにしておいてくれたことへの、感謝だった。寝るところにはこだわらないと言っていた男なので、和彦との逢瀬でもない限り、本来この部屋は必要なかったはずだ。
「いつ先生が戻ってくるかわからないから、一旦解約したらどうだと、組長に言われたことがあるんだ。荷物は、長嶺組が持つ物件に移していいからと」
 洗面所から聞こえてきた三田村を言葉に、大蛇の化身のような男の食えない笑みが脳裏を過る。賢吾は、三田村を試したのだとすぐにわかった。
「――……何も持たない俺が、先生に関することでは諦めたくなかった。そうでないと、先生との繋がりが完全に切れそうで」
 どんな顔をして言っているのか、洗面所を覗きたかったが、その前に三田村は戻ってくる。残念ながら、いつもの感情が読みにくいポーカーフェイスを保っている。
「さっきの言葉、ぼくの前で言ってほしかったな」
「勘弁してくれ……。あとで俺がのたうち回ることになる」
 その姿を想像して、和彦は腹を抱えて爆笑する。
 なんとか笑いが収まったところで両腕を広げると、意図を察したらしい三田村は、自分が着ているTシャツの袖に顔を近づけてから、眉をひそめた。
「悪いが先生、俺は今、とてつもなく汗臭い……」
「大まじめな顔で何を言うかと思ったら、そんなことか。あんたの汗の匂いを、いままでどれだけ嗅いできたと思って――」
 言い終わる前に、三田村にきつく抱き締められた。和彦は目を丸くしたあと、ふっと笑みをこぼして自らも三田村の背に両腕を回す。
「ああ……、三田村の感触だ」
 感じたことが、そのまま声になって出る。体に回された腕にさらに力が加わった。
「……本当は、桜も咲き始めたし、外で会おうかとも思ったんだが、尾行の件があったばかりだから」
「うん」
「護衛も増えたとかいう話も聞いて、先生が後ろばかり気にして歩くのもかわいそうで」
「そうだな。こうして部屋で会うほうが落ち着く」
 和彦の後頭部を撫でた三田村が大きく息を吐き出した。
「もっともらしい理由を言ったが、ただ俺が、先生と二人きりになりたかっただけだ」
「……ぼくも」
 三田村とはほんの何日か前にも会って、尾行騒動で水を差されてしまったとはいえ、わずかでも二人きりの時間を楽しむことはできた。それでも今、明け透けに気持ちを打ち明けられるのは、誰の目も気にしなくていいからだ。
 三田村のてのひらがうなじにかかり、身の内でゾロリと欲望が蠢く。
「三田村――」
 和彦が切ない声でそう呼びかけた瞬間、腹が鳴る。しっかり三田村の耳にも届いて笑われた。
「悪かった、先生。一仕事してきたあとだったな。腹が減っただろう」
 あっという間に体を離した三田村が、和彦が買ってきた総菜を袋から出していく。和彦も昼食の準備を手伝うが、そうはいっても総菜を皿に出して温める程度のことだ。
 準備を済ませてテーブルにつくと、まずは互いのグラスにビールを注ぎ合った。一息にグラスを空けて、和彦は大きくため息をつく。
「今日はもう、呼び出しがあっても仕事はしない」
 買ってきた総菜は中華が中心で、なんとなく味の濃いものが食べたかったのだ。あんかけチャーハンを一口食べて目を細める。
「普通のチャーハンにしなくてよかった……」
「美味い。麻婆豆腐もしっかり辛くていいな」
「花見シーズンだからオードブルもいろいろ並んでたけど、やっぱり中華で正解だった」
 他愛ないことを話しながら食事をしていると、ふと思い出したように三田村が洩らした。
「……加藤と、中華を食いに行ったことがある。馴染みの店だと言って、案内してくれたんだ」
「懐かれてるな」
「そう、可愛げがあるもんじゃないと思うが……。長嶺組の人間とツテを持っておくことは、若いあいつにとって悪いことじゃない」
「でもあの子、そういう打算的なことを考えて、他人に近づけるタイプじゃない気がする」
「――先生は、そう思っていればいい。加藤が先生にとって不快な存在じゃないなら、それでいいんだ」
 三田村も過保護だと、和彦はひっそりと苦笑を洩らす。
 三田村も当然、加藤が総和会からつけられた護衛の一人だと聞かされているだろう。極道らしくない優しさを持つ男としては、目をかけている若者が意外な任務について、気になっているはずだ。
「収まるところで収まってほしいな。あまり……強面の男ばかり引き連れて歩きたくないんだ、ぼくは。面倒をかけるのも悪いし」
「直接、伊勢崎組に目的を聞ければ話は早いんだが、組長も手を出しあぐねているようだ。長嶺組どころか、総和会ですらほぼ接点がないようなところだから」
 和彦は伊勢崎組という組織について尋ねてみるが、あっさり首を横に振られた。三田村は大きな肉団子を箸で半分に割りながら、わずかに眉をひそめる。
「俺が知っていることは、たぶん先生と大差ない。伊勢崎龍造のヤクザとしての経歴……のようなものは知ってはいるが、人となりとなるとほとんど伝わってこない。そもそも根を張っている地域が遠すぎる」
「じゃあ、北辰連合会は?」
「血の気が多い、とはうちの若頭が言っていた」
 宮森の顔を思い描いたついでに、彼の甥である優也の顔もポッと脳裏に浮かぶ。
「総和会のように機能的に組織化されているというより、なんというか、言葉は悪いが寄り合い所帯という感じに近い。思想も方針もてんでバラバラな組がいくつもくっついたり分裂したり、それを繰り返してでかくなった組織だ。だからこそのノウノウがあるんだろう。ときどきでかい内紛を引き起こしたりもしながらも、北辰連合会という看板はしっかり守っている。要所を締めているのは、〈顧問〉だという話だ」
「三人いるらしいな」
 意外そうに三田村が目を丸くする。和彦は小皿にエビチリを取り分けながら、上目遣いにニヤリとする。
「ぼくも組関係者らしく、情報を小耳にはさむことがあるんだ。――清道会の綾瀬さんから、前に教えてもらっただけなんだけど」
「ああ、顔を合わせたことがあったんだな、先生は。……そうか、だったら北辰連合会のことも聞いたんじゃないか」
「だいたい同じようなことを。知ってる情報にそう差異はないみたいだな」
「普段かち合うことがない組織の情報は、そんなものかもしれない。ただ長嶺会長は今頃、本腰を入れて調べさせているだろうな。伊勢崎組と北辰連合会のことを」
 肯定の意味で、ため息をつく。もしかすると今話題が出た清道会の綾瀬は、総和会から呼び出されて、あれこれ聞かれているかもしれない。情報は武器だ。秘匿すべきところは秘匿しながら、男たちは腹の探り合いをしているのだろうか。
 伊勢崎組に繋がる人の糸を丹念にたどりながら、面倒なことだと守光は忌々しげに唇を歪めているのかと、和彦は想像する。しかしすぐにその想像を否定する。実の息子にすら化け狐と言われる男は、見えない九尾を揺らしつつおそらく淡々と指示を出しているはずだ。
 賢吾の将来の障害となると判断したときは、違う面相を見せるかもしれないが――。
 無意識に顔をしかめると、三田村が心配そうに身を乗り出してくる。
「もしかして、エビチリが辛かったのか?」
「……子供向けかも。ちょっと甘い」
 ほっとしたように三田村が微笑む。和彦はその表情を見て、せっかく二人きりなのだから、今はあれこれ考えるのはやめておくことにした。


 昼食後、さすがに自分の汗臭さが申し訳ないと、三田村は着替えを抱えてシャワーを浴びに行ってしまう。残された和彦は、スマートフォンを取り出し、誰からも連絡が来ていないことを確認してから、電源を切る。
 なんとなくソワソワとして落ち着かず、特に観たい番組があるわけでもないがテレビをつける。ワイドショーには興味がなく、適当にチャンネルを切り替えたあと、結局すぐに消してしまった。窓に近づき、カーテンの陰から外の様子をうかがっていると、三田村が戻ってくる。
「外が気になるなら、近所を散歩してみるか、先生」
「あー、いや、外に出たくて見てたんじゃないんだ。誰かいるかと思って」
 和彦が言いたいことを察したのか、三田村はいきなり窓を開けて外を見渡す。
「ここに先生がいる間は、組の護衛はつかないことになってる。が、総和会については――」
 三田村の隣に並んで和彦も外を眺める。穏やかな昼下がりの光景らしく、この辺りの住人たちがときおり行き交うぐらいで、変わった様子はない。それは当然といえば当然だった。
「そもそも今日、ここに行くと総和会には連絡してないんだ。いるはずがないな」
「……でも気になると?」
「こういう生活に慣れてたはずなんだけど、しばらく自然に囲まれてたせいか、人の気配というか、視線に過敏になってるかもしれない」
 急に室内に引っ張り戻され、窓が閉められる。驚いて目を丸くする和彦の目の前で、三田村は怖いほど真剣な顔となっていた。
「三田村……?」
 頬を温かなてのひらで包み込まれる。愛しげに何度も撫でられ、最初は戸惑っていた和彦も三田村の顔に手を這わせる。あごにうっすらと残る傷跡を指先でなぞると、身震いした三田村が顔を近づけてきた。
 ゆっくりと唇が重なり、今度は和彦が身震いをする。優しく唇を吸われながら背を引き寄せられ、足元が乱れる。目が合うと、なんとなく笑いかけていた。久しぶりの三田村との口づけに、照れていた。
 ベッドに腰掛けさせられた和彦は、シャツのボタンを外してくれる三田村に対して、無遠慮な質問をぶつける。
「さっき、鷹津のことを考えたんじゃないか?」
「……先生に隠し事はできないな」
「自分で言ったあとに、鷹津の顔が浮かんだんだ。だからきっと、あんたもそうだろうなと」
 あえて話題に出さなくてもいいのかもしれないが、避けるのは不自然だ。三田村は一瞬複雑そうに唇を引き結んだが、すぐにふっと息を吐き出した。
「俺は、あの男に腹を立ててもないし、恨んでもいない。この間も言ったが、先生は戻ってきてくれたんだ。それで十分だ。――……先生がいなくなったと聞かされたとき、もう二度と会えないんじゃないかと思って、頭がどうにかなりそうだった。だけど、何もできなかった。待機だと組長に言われたら、逆らえない」
 情けない、とぽつりと三田村がこぼす。和彦は慌てて三田村にしがみついた。
「そんなこと言わないでくれっ。……ぼくは、三田村が本宅で出迎えてくれたときに、嬉しかったのと同じぐらい、ほっとしたんだ。見捨てられてなかったんだって」
「俺は――」
 何か言いかけた三田村が呼吸を整えたあと、優しく和彦の背をさすってくる。
「理屈はいいんだ。今こうして、俺と先生は一緒にいる。そのことだけが大事だ」
「ぼくにだけ……、都合がいい気がする」
「そうか? 口下手な俺が、これ以上あれこれしゃべらなくて済むというのは、俺にとっても都合がいいんだが」
「それはちょっと惜しいな」
 くすりと笑った和彦が顔を上げると、再び唇が重なる。あとは夢中だった。
 激しい口づけを交わしながら互いの服を脱がしていき、ベッドに転がる。久しぶりに味わう三田村の素肌の感触と重みに、意識しないまま和彦は深く吐息を洩らしていた。触れ合えなきった空白の期間が、瞬く間に埋まる。
「三田、村、三田村――」
 切ない声で呼びかけると、間近から三田村に顔を覗き込まれた。優しいだけではない、激情も滲ませた瞳を見つめ返しながら、和彦は両手を背に這わせる。てのひらでじっくりと虎の刺青を撫でると、三田村の筋肉がぐっと引き締まる。
「まだ、まだだ、三田村。もう少し撫でたい」
 猛る虎を宥めるように語りかけながら、和彦は思う存分刺青を撫で回す。その間、三田村は熱っぽい吐息を洩らし、ときには小さく呻きながら、和彦の好きにさせてくれる。
 そんな男を煽りたかったわけではないが、ささやかな悪戯心を抑えきれなかった。背に軽く爪を立て、滑るように動かす。ビクリと身を震わせた三田村の理性は、簡単に崩れた。
「あっ」
 大きく両足を広げられ、何も言わないまま三田村がその中心に顔を埋める。興奮のため緩く勃ち上がっていた和彦の欲望は、あっという間に熱い口腔に含まれていた。
 きつく吸引された次の瞬間には、濡れた舌が絡みついてくる。和彦は上擦った声を洩らしながら、ビクビクと腰を震わせる。無意識に片手を伸ばして三田村の髪をまさぐると、より深く欲望を呑み込まれる。口腔全体で締め付けられ、包み込まれて、一方的に快感を与えられる。さらに柔らかな膨らみを優しく揉みしだかれると、下肢から力が抜けてしまう。
 すでに透明な涙を滲ませている先端を、愛しげに三田村に吸われる。羞恥もあるが、それを上回る期待に逆らえない和彦は、おずおずと自ら足を抱え上げ、すべてを自分の〈オトコ〉に晒す。
 柔らかな膨らみに舌を這わせながら、三田村が唾液で濡らした指で内奥の入り口をくすぐる。ささやかな刺激でも和彦は声を洩らし、腰の辺りから痺れるような疼きが広がっていくのを感じる。
「はっ、あぁぁ――……」
 内奥に指が挿入されてくると、食い千切らんばかりに締め付ける。三田村は和彦の反応を確かめながら、もどかしいほど慎重に指の数を増やし、内奥を広げていく。
「三田村っ……」
 焦れた和彦が堪らず呼びかけると、顔を上げた三田村がわずかに首を傾げる。
「痛むか、先生?」
「……痛いことを、まだしてないだろ」
 和彦が拗ねた口調で答えると、微苦笑で返される。
「それは……よかった」
 ぐうっと三本の指が付け根まで押し込まれてきて、息を詰める。和彦の感触を堪能するように、内奥を撫で回された。そのたびに襞と粘膜を刺激され、官能を呼び起こされる。内奥全体が淫らに収縮し、体温が上昇していく。
 喘ぐ和彦に誘われるように三田村が顔を寄せてきたので、和彦から頭を引き寄せ、口腔に舌を差し込む。濃厚な口づけの間に、内奥から指が引き抜かれていた。
「先生――」
 ひくつく内奥の入り口に熱く硬い感触が擦りつけられる。三田村を受け入れた瞬間、和彦は細い悲鳴を上げていた。
「あっ、あっ、い、い……。三田村、もっと、奥に……」
 三田村の背にすがりつき、虎ごと抱き締める。耳元に注ぎ込まれたのは、獣じみた唸り声だった。
 眩暈にも似た陶酔感に襲われる。じわじわと体の内から溶かされてしまいそうな欲望の熱さと、充溢した逞しさに、普段は見せない三田村の激しさを感じ取る。
 侵入が深くなるたびに和彦は間欠的に声を上げ、腰をくねらせては、三田村の下腹部に自らの欲望を擦りつける。
 深々とこれ以上なく繋がったところで、三田村に熱っぽく唇を吸われ、舌を絡ませ合う。緩く内奥深くを突かれ、そのたびに喉を震わせる。
 一度目の交歓は穏やかともいえた。三田村はさほど動くことなく和彦の中で果て、和彦もまた、予兆を察して自らの手で素早く処理して果てる。互いに呼吸を身だしながら顔を見合わせ、照れた笑みを交わしていた。
「……久しぶりだから、抑えきれなかった」
 ため息交じりの三田村の告白に、自分のオトコをいとおしいと思う気持ちに胸を衝かれる。それは微笑ましいものではなく、明け透けでドロドロとした欲情を伴っていた。
 三田村、と小さな声で呼びかけながら、三田村の耳朶に柔らかく噛みつく。耳の形に沿って舌を這わせ、ふっと息を吹きかけると、三田村がゆっくりと体を前後に動かし始めた。
「んうっ、んっ、あっ、はあぁっ――。くぅっ……」
 三田村の欲望が逞しさを取り戻し、強く襞と粘膜を擦り上げてくる。そのたびに、先に注ぎ込まれていた精が淫靡な音を立て、内奥からこぼれ出る。
 一旦繋がりを解き、うつ伏せの姿勢を取られる。すぐに三田村は背後から押し入ってきて、和彦は腰から背筋へと這い上がってくる快感に、放埓に声を上げていた。
 伸ばした手に、三田村の汗ばんだ手が重なってくる。きつく握り締められて、三田村がここまで味わってきたであろう不安や恐れといった感情が、わずかながら伝わってきたようだった。
「――……ありがとう、三田村」
 ふっとその言葉が口をついて出た。謝るのは、違う気がしたのだ。
 三田村の唇がうなじに押し当てられ、心底安堵したように、穏やかな掠れた声が応じた。
「いいんだ、先生……」









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